言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

スーパーハイファンクショニング

【閲覧注意】以下の内容には知的障害・IQ値への言及が出現します。文脈がどうあれそのような言及を不快に感じるとか、PTSDのある方はご注意下さい。

 

 発達障害の人を見ていてつくづく感じることは、高機能なほど困らない、逆もまた真ということだ。それぞれの能力にはバラつきがあり、ある程度の傾向はあっても人によって得意・不得意が違う。同じ物事への処理能力は個人差が大きすぎて一括りにできないのが発達障害だ。

 高機能広汎性発達障害で言う高機能とは「知的障害がない」の意味で、IQが今ならグレーゾーンを含んで85以上とか、そういう数値を目安にしている。(知的障害は高機能ではない発達障害だ。)
 IQなんてアテにならないのだが(実際に雑な目安でしかない)、グレーゾーンに近ければ近いほど生きにくさは増すし、できないことも増える。あまり根拠のない自分の目算では、得意なこと以外は能力7~8割くらいのパフォーマンスしか出せない気がする。数値上の試算に過ぎないが、IQ120の人がある項目でパフォーマンス70%しか出せないと、その処理能力は84だ。80%でも96。100に満たない。
 もちろん発達だから突出して高い能力を持っている部分もあるのだが、凹んでいる能力が何かによって物事に対する対処能力が低くなってしまい、本人の不便・困り度は大きくなるのではないか。ただでさえ自閉症スペクトラムがあると変化に弱く、臨機応変な対応力が低いとされる。

 

 一般に発達障害と言った場合、高機能広汎性発達障害(High Functioning Pervasive Developmental Disorder:HF-PDD)を指していて、上に書いた通りHFは「知的障害がない」という意味でしかない。そこで「Super High Functioning」という呼び方を考えてみた。IQが115以上、広範囲の学習障害がない場合だ。ここに入る人達は高学歴者も沢山いて(アスペルガー学習障害が出にくいとされているので学力に問題を抱える人は少ない)、この人達は自分を障害者と思わない。実際、障害は「ない」のだ。AS(自閉症スペクトラム)やADHDがあっても壮絶に困ることがない。勿論やってることはしばしばおかしいのだが、周囲もそれを問題行動とまでは思わない。本人はよくよく考えて精一杯やっているとしても、他人からは内部の動きは見えない。理屈で補った一定の社会性を持って行動していたりもするから、ド外れたことはしない。周囲から変人と見なされはするものの、劣っているとは思われない。

 こういった処理能力の生まれつきの高さは生活や仕事全般を楽にする。それだけに落ち込んだ箇所とのメリハリが出過ぎてきついが(人間というのは能力が平均していると捉えがちだ)、能力が均一な人など定型者でも存在しない。誰だって多少のムラはある。その「多少のムラ」として受容される程度と見なされた場合、その人は子供の頃に発達障害が発見されないまま成長する。

 子供の頃、特に問題がなかったのに社会人になってから追い込まれ、精神科を回った挙げ句に発達障害と診断される人が結構いる。仕事や社会生活では処理する情報が多すぎて、几帳面に1つ1つ精査しないと判断できない発達障害者は処理能力がオーバーフローしてショートしてしまうのだろう。

 

 「精査しないと判断できない」のが発達障害の1つの特徴かも知れない。空気を読むことができず、雰囲気を掴むこともできない。通念も刷り込まれにくいから、良く考えないと何のことやらまったく分からない。一定以上の知識(情報)を得て、やっと動き出せる。他の方はどうか分からないのだが、自分(AS)は常にそうで、考えないと何も分からないし、分からないことはまったく分からない。何となくというのがない。

 例えば(サンプル:自分)、腹が空いてない時に「何食べたい?」と聞かれるとまったく判断がつかない。定型者は今食べたいわけじゃなくても何となく食べたい物を思い浮かべられるらしいが、それがまったくできない。それどころか頭が真っ白になるような衝撃さえ受ける。食べ物にまったく興味が持てない状態なのだ。興味のないことは考えられないし、頭に入らないし、記憶もできない。またそのうち腹が空くだろうと予想したとしても無理。先のことを考えられないのだ。それが「アスペルガーは計画性がない」とされる理由だろう。

 あれこれ考えた挙げ句、「今、腹減ってないのに聞くな!」と怒り出したり、「何も食べたくない」と馬鹿正直に答える。定型者なら「何でもいい」と答えるところだろうが、「何でもいい」は嘘になるから言えない。全然何でも良くない。いざ食べるとなったらこだわりが強いから、食べたくない物を食べるのは苦痛だ。でも、いくら考えても食べたい物は思い浮かばない。

 こんな些細なやりとりでも、ここまで頭を悩ませ、でも聞かれたのだから答えなければと必死になり、その結果疲れ果ててしまう。「適当」が苦手。「いい加減」ができない。ASの人が生真面目に見えるのはこのせいだろう。(冗談が通じにくいせいもあるが。)

 

 こんなことを考えるに至ったのは自分のことだけではなく、自分の周囲の人々を観察した結果だ。自分の周辺には昔から発達を疑うような変わった人間が集まるのだが(類は友を呼ぶ?)、SHFと思しき人は他人から見たときの困り度が低い。そう見えるだけで内面は違うかも知れないが、子供の頃に問題が発現しない人もいる。一定の年齢になった時、二次障害がジワジワ出たり急激に処理能力が落ちる。

 その理由の1つ。(定型者も苦手な人は多いだろうが、)発達の人は概してセルフマネージメント能力が低い。しかし、SHFはそれに対してもHFより対処能力が高めだ。理屈で対処してしまう。それは知識なのかも知れないし、合理性なのかも知れないし、論理性なのかも知れない。本人が困らないことは障害とは言わない。だから全体に能力の高いSHFに発達障害があっても、障害として顕現しないことになる。能力の凹凸の程度が酷いと障害として顕れる。一方、軽めの症状でも対処能力の低い人にはきつい障害になり、生活上で実害も出る。
 考えてみて欲しい。高校生くらいの非常に成績優秀な生徒が授業をサボったり、授業中に勝手に教室を出て行ってしまうとしても、周囲はたいして問題視しない。何故なら成績が良いからだ。同じことを勉強のできない生徒がやったら、すぐに落ちこぼれだ、出来損ないだ、不良だと言われる。成績優秀者は大目に見られる。これはランクの高い高校には校則が殆どないのに、ランクの低い高校ではくだらない校則が山のようにあるのに似ている。本人に対する信頼の差が、扱いの差を生み出す。

 

 人の能力には個人差があって、その幅もバリエーションも無限にある。能力の差を責める人がたまにいるが、怠けてやらないのではなくてできない、伸ばそうにも現時点での伸びしろがない、努力をする才能がない、といった人もいる。能力の不均衡が大きい発達は、「それくらいできるでしょう」という言葉に殺されてしまう。できるならやっている。できないからやらない。他の人は知らないが、自分はいつだってギリギリ精一杯で生きていて、手抜きなんか全然していない。それでこの程度なのだから、これ以上は無理と理解して欲しい。

 子供の頃に大人が問題視するほどの問題が顕現しなかったとしても、今困っていないわけではない。他人から見て困っているように見えないからと言って、本人が困っていないわけではない。いつも能力の100%で動いているから、動きすぎな部分も多々ある。が、セルフマネージメントできないからコントロールできない。ノーコントローラブルなのが発達の人だ。それが「大人の社会」では奇異に見えるし、本人も処理が追いつかなくて追い込まれる原因かも知れない。

 

 何が言いたかったかと言うと、「大人の発達障害はインチキ」とか、「子供の頃に何でもなかったのなら発達ではない」と言った酷い言説が世の中にある。が、決してそうではない。自分は酷い忘れ物と遅刻癖があって問題児だったが、発達障害という概念が知られていなかった時代だから健常の子供として育てられた。今なら確実に問題になるほど酷かったのだが、学習障害がなかったおかげで放っておかれた。

 自分の中では違和感は強烈にあるし、色々上手くいかないと感じていた。食べる、寝る、起きる、風呂に入る、人と目を合わせる、イベントではしゃぐといった他の子供が平然と、むしろ楽しそうにやっていることが苦痛を伴った。が、当時はセルフモニタリング能力も低いし、他人の感覚や内面などまったく分からないから、「他の子も本当は自分と同じ気持ちだろう」くらいに考えていた。

 結果、理由は分からないがいつでも崖っぷち感があり、ギリギリで余裕がなく、社会性が上がるまではかなり危ないこともやった。「危ない」とは犯罪スレスレ、もしくは軽犯罪を意味する。たまたま問題にならなかっただけで、今から思うとヒヤリとすることは多々ある。そして一定の年齢になったとき精神症状が一気に出て、どうにもならなくなった。神経症なのか精神なのか心身症なのかさえ分からない状態だった。

 どれほど能力が高そうに見えても内実は分からない。処理能力がどこで追いつかなくなるかは個人差が大きい。それが20歳かも知れないし、30歳かも知れない。年齢ではなく、結婚や転職などで環境が変わった時かも知れない。発達障害の潜伏期間というのは実際あるのだ。

トランス・ヴェスタイトのこと

 子供の頃、農閑期に店を手伝いに来るおっさんがいた。農閑期以外も、農業は日が暮れるとやることがあまりないので、毎日のように一杯ひっかけに親の店に来る。親が近場の配達を頼む。(彼は車の運転はできず、原付だけ運転できた。)報酬は酒とつまみ。物々交換の古き良き田舎の景色だ。
 このおっさんが少々トランス・ヴェスタイトな人で、女物のスカーフをいつも首に巻いている。時々、妻の物と思われるスカートや女物のブラウスを着ていた。興が乗ると部分的に化粧をしていた。祭となれば女物の派手な着物を着て、顔全体しっかり化粧をして着飾る。変わった人と周囲も思っていたが、実害のあることじゃないから誰も何も言わない。我が家でもそれを話題にするのはタブー感があり、それについて親と話したこともない。彼は既婚で子供がいた。

 

 大人になって、あれは軽度のトランス・ヴェスタイトではないかと気づいた。トランス・ヴェスタイトとは衣装倒錯者のことだ。倒錯と言ってしまうと変態みたいに聞こえるが、そうではなくて、単に女性服を好む嗜好の持ち主。反対の性別の衣服を着ると変態扱いされた時代があったが、今それを変態と言う人がいたら、その人の見識が疑われるだろう。何故なら「女の服を着てはいけない」には女の服への見下し・軽蔑が根底にあり、それは女という性別への見下しを源としているからだ。有り体に言うと性差別・男尊女卑思想である。
 もちろん子供心に少々気持ち悪いと思っていた。我が家の子供同士ではコッソリそれについて話をしていて、姉達も露骨な嫌悪は示さないが軽い軽蔑を表現した。子供は無知故に差別的、そして無知故に残酷だ。しかし内心はどうであれ態度にそれを出すことはなかった。商売人の子供は他人と接する機会が多く、対人様式において大人びる。でないと客商売はできない。下手に素直な態度など取れば親から叱責される。そんな感じで彼も何も気にせず、居心地良さそうに我が家に通ってきた。

 彼を我々が気持ち悪がったのは女の服を着るからではない。それがメチャメチャ似合わないからだ。農作業で真っ黒に日焼けした顔、紫外線で年齢以上に老化した皮膚、太ってはおらずむしろやせ形で当時の男性としては高めの身長。お気に入りの小物以外は、特にオシャレ感もセンスも感じさせないダサい服。そういうアンバランスさが無知で残酷な子供には気持ち悪いと映った。

 こういう事を一番貶しそうな母親は何故か一切言わなかった。彼女は歌舞伎役者で女形の玉三郎の大ファンで、女装の悪口は言わない。あれだけブーメランが何が分からない言動を繰り返した彼女も、さすがにこの点は分かっていたのだろう。女装を貶したら大好きな玉三郎の悪口を言われる。

 しかし、見慣れてくるとそれが当たり前になり、気持ち悪いとも感じなくなった。似合う・似合わないなど日常の中でたいした問題にはならない。服装なんて習慣の問題でしかない。そういうものだと思い込めば、かなりおかしな格好でも気にならないのだ。

 

 これが異性装者を見た最初の経験だ。当時の自分が馬鹿なりに自重して何も言わなかったことにホッとするし、内心にあった軽蔑の理由を分析すれば、自分の中にある性差別の大きさにガッカリもする。彼に学がなく、お世辞にも利口と言える大人ではなかったことが軽蔑の大きな原因なのだが、そんな有様なのに時々偉そうに短い説教をされるのが不快だった。それと彼の服装や好みは何か関係があっただろうか、と思い出してみると、あまり関係がないのも本当。物を知らない、学がない、みすぼらしいが自分の軽蔑の主な理由。

 我が家には当時とんでもない職業差別があった。農業従事者を馬鹿にする言葉を使っていた。母親は農家の出身で、それ故に商家育ちの父親とは価値観が色々ズレていて、やることもトンチンカンなことがあった。それを我々は口を揃えて「百姓!」と罵っていた。この言葉を最初に使ったのはおそらく父親なのだが、良くない習慣を子供に教えてしまっている。だが、我が家の「百姓」が何を指していたのかと言えば、今で言えば「田舎者」のことだ。文化的に洗練されておらず、近視眼的で無知蒙昧な行動を取ること。それを職業差別な言葉で罵っていた。父親は学がなかったが、職業柄なのか文化的洗練にはこだわりがあったのだろう。

 父親が彼について何か言ったことがあるかはハッキリ覚えていないが、一度くらい貶したような気はする。それはボソっとした、ただの感想として漏れた、「変人だ」とかそんなような一言だった。父は父で自分の美学が凄くある人で、男らしさへのこだわりもとてもあった。我々子供は姉も含め、男らしいと喜ばれ、女々しいことをすると叱られた。特に嫌ったのが泣くことだ。子供が泣くと凄く怒るから、我々は横隔膜が痙攣しても必死に泣くのを我慢したものだった。

 だから肯定的に捉えているわけではないのは感じたが、父の彼に対する態度は非常にフレンドリーで馬鹿にするような事も直接は一切言わなかった。それを自分は「タブー感」と感じ取ったのだろうし、姉達も同じかも知れない。内心を態度に出すような事は一切しなかった。自分は大人一般に不信感と軽蔑があり、誰に何を言われても素直に聞かなかった。ひねくれた態度で一貫していたので、他の大人に対する時と同じようにそういう態度を取った。

 

 日常空間に彼は普通にいて、「あの人はああいうもの」という無関心をもって受け入れられていた。そう、無関心だ。無関心が表面上、差別を消し去っていた。内心の差別心がどれほどあったのかは分からない。自分の価値観と合わない人がいても、実害がない限りスルーする、という態度が商売人だった父親は徹底していた。客などでそれを口にする人がいると、露骨に嫌な顔をした。そういう思ったことをダダ漏れてしまう感じが、父には「文化的に洗練されていない態度」、つまり百姓と映っていたのだろう。だからTVの彼は非常に居心地良さそうに、何年も我が家に入り浸っていられたのだろう。

性別違和について

 日本はFTMの割合が高いという指摘を見た。理由は(その方が書いていたこと)女性を好きな女性は男性にならなければいけないと思い込むからだそうだ。ジェンダーアイデンティティーとセクシャルオリエンテーションはまったくの別物なのに、それが連結されている日本の状況は男性同性愛者のイメージがオネエである事が象徴している。

 自分が考える理由として、女性の行動規範が異常に厳しい事が違和感を覚えやすい原因ではないか。日本が特別厳しいと感じない人も多いかも知れないが、偏見・ステレオタイプ・決めつけ・思い込みの多さは欧米とは比較にならないのではないだろうか。アジアは全体にそうかも知れないが、全体主義同調圧力・横並びが強い日本では個人が感じる圧力は強まる。
 女性はこういうものという偏見が強ければ、それに自分を当てはめられない人は性別違和を覚える。もっとおおらかな性別規範なら違和感を感じない人まで違和感に追い込まれる。そういう空気が日本にはあるのではないか。

 

 某所で女性物の服を着たいという男性に寄せられたコメントの大半は賛同だったが、「変態と見られて当然」「女性物はおかしい」「性同一性障害か」など書く人もいて、見ていて非常に苦しくなった。あまりに苦しいので見続けることが困難なほどだ。それほどまでに性別規範が厳しい。(しかし当の本人はまるで意に介していないかのように、職場に着て行きますと元気いっぱいに書いていた。人が本当にやりたい事を止めることは誰にも出来ない。)

 逆に言えばこれは、女性がスカートをはかない、化粧をしない、女らしくしないことへの否定でもあるのだ。会社で「女なら化粧をしろ」「女ならきれいな格好をして職場の華となれ」とはさすがに昨今言う人がいないだろうと思っていたが、そうでもないのかも知れない。社会規範としての性別が日本では非常に強い。その保守性にうんざりするし、心が折れる感じを受ける。自由に生きることが否定される。保守的社会とはそういうもの。キリスト教国の性別規範も厳しいとは思うのだが、日本は独特の保守性・厳しさがあるように感じる。

 

 自分は男だと思っているが、男であろう・男でありたいと思ってそうなったのではないのではないか、と感じる時がある。あらゆる機会を捉えて女として足りてない、不完全である、出来損ないであると思い知らされた。それが日本の性別規範の厳しさなのだ。人形遊びが好きじゃない。スカートが好きじゃない。赤い服が好きじゃない。それは「おかしなこと」とされてきた。だから自分は「女じゃない」と感じて来たし、何かがいびつだと感じてきた。

 一方で、車のオモチャが大好きだったかと言えば、そんなことはない。子供の頃のオモチャといえばピストル(銀球鉄砲)、塩ビの刀、怪獣フィギュア、ぬいぐるみだった。もう少し大きくなるとプラモデルを作るようになる。それでも車はそんなに興味がなくて、怪獣とか鯉とか船とかを作っていた。鯉と船は池に沈めてしまった。(浮くと思っていたのだ。子供は馬鹿だね。)

 車が好きじゃなかったのは、音が苦手だったからだ。大型車両が横を通り過ぎるとき、怖くて道沿いの民家の庭に逃げ込んではやり過ごしていた。今になって思えば怖いのじゃなく、大きな音が嫌だったのだ。しかも車酔いが酷くて、乗れば必ずのようにゲロを吐いた。車を好きになる要素は皆無だった。

 

 しかし、自分が単独で部屋にいるとき、自分の性別などないに等しい。肉体はあるし、それが示す性別は生物学的にハッキリとあるが、それに苦しさは感じない。(胸は邪魔で仕方がないし、チンコがないのも何だか悔しい気はするのだが。)性別が問題になるのは他者がいるとき。相手が自分をどのように見てどのように扱うか。それが問題となる。つまり性別は極めて社会的なものだと言える。

 生物学的性別は個人的なものだが、もう1つ社会的性別というものがある。それは社会から要請される役割分担だったり、服飾や好みだったり、言葉遣いや仕草だったりする。それらはすべて文化的なもので、文化的故に獲得されたものだ。自分にとって性別とは極めて社会的なものであり、それ故に規範に満ちている。もしそれがなければ、自分の性別などどっちでも良いのだ。

視線恐怖について

 子供の頃から人と視線を合わせられない。人と視線を合わせないで話すのは失礼という社会の押しつけがあるから無理してチラチラと合わせるのだが、相手が自分をガン見していると怖くて固まる。高じて他人の視線が怖くなり、症状が酷いときは部屋の中で毛布を被っていることもあった。

 自分の視線恐怖は本態性振戦と連結されていて、これは小学校時代のイジメと関係がある。小6のとき、クラス全員からイジメられていた子がいたのだが(当時2クラスで、どちらのクラスにも全員からイジメられる子供が1人ずついた)、その子が本態性振戦だった。イジメの原因はその子が嘘つきだからだが、かなり酷い振戦を持っていて、それをからかった子が一部いた。
 自分の本態性振戦は父親からの遺伝だろうと思うのだが(父親の振戦を子供の頃はアル中の影響・中気だと思っていた)、自分も少し手が震えるので一緒にされたら嫌だなと怖くなった。それ以来、振戦を他人に見られることが恐怖になった。このイジメ自体を酷いとは言わないし、そこには子供なりの事情があったのだと言いたい。イジメと言ったって無視だけで暴力は振るっていない。言葉の暴力はあっただろうが、子供なんて無神経で馬鹿な生き物だから、それぞれが暴言を投げつけられて傷ついていただろう。自分だってそれはあった。

 しかし振戦に関する恐怖は強く、向精神薬の副作用で振戦が再び悪化したとき外出できなくなった。社会不安障害という診断がついたが、本来的なSADとはかなり違う。強度の視線恐怖と軽度の対人恐怖。あのイジメさえなければこんなことにはならなかったとは思わない。おそらくどこかでは躓いて、同じ結果になっていたと思う。ただ、あれは強烈なトリガーとして埋め込まれてしまい、体調によって振戦が出ると今でも発動する。振戦が出ないように体調管理をするのが唯一の対処法だ。 自分は発達障害の確定診断は受けていないが、定型標準の社会でその基準を押しつけて育てると、こんな要らぬ障害を作り出してしまう。そうかといって、やたらに障害者扱いして本人の自尊心を削ってしまうのも問題がある。自分は健常の子供として育てられて良かったと思う部分もあるし、標準を押しつけられて苦しかった部分もある。どっちが良かったかは分からないが、自尊心的には健常で良かったのだろう。

 人が生きるのに最も重要なものは自尊心だ。それがなければ肉体は生きていても精神が死ぬ。どんな状況にある人でも、どんな障害を持つ人でも自尊心は空気と同じくらい大切なのだ。だから相手を潰す目的でない限り、可哀想だの哀れだの言わないで欲しい。不幸とか悲惨とかは本人が決めることで、見ている人が感想として持つことはあるが、それはそれぞれの主観であり相対的なものに過ぎないのだ。

LGBTとか

 苦手なんですよ、これが。自分はこんなだからこの属性に入るわけだけど、何とも言えずしっくり来ない。とはいえ差別されるのは嫌いだから興味は示すし、賛同も一応するんですけどね。

 まず1つにLGBTという文字列。レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーなわけだが、LGBとTは意味合いが違う。セクシャル・マイノリティー(性的少数派)という括りなのだろうが、前3つと最後の1つはセクシャルオリエンテーション性的志向)とジェンダーアイデンティティー(性自認)という違いがある。

 これに昨今は他のセクマイをくっつけて5文字もしくは6文字にする表現もある。つけられるので多いのはQ(クィアまたはクエスチョニング)、A(アセクシャル=無性愛者)、I(インターセックス性分化疾患)。インターセックスがセクマイなのかには議論がある。多くの当事者は性別違和がないそうだし、生殖能力はともかく見た目はどちらかの性別だったりするからだ。だから自分はLGBTQAという書き方を使うのだが、このうち性自認の記号はTだけだ。(Q=クエスチョニングにした場合は、TとQが性自認となる。)

 日本ではXジェンダーという言い方をするが、英語ではジェンダークィアと呼ぶ。性別未定もしくは不定という意味らしいのだが、TだってXな部分はある。いくら本人の性自認が男女どちらかと主張しても世間はそうは見てくれないし、扱いは見た目で決定される。だから見た目を性自認と一致させようと必死になる人も多い。

 最近では性同一性障害の治療は知られていて、若い頃からホルモン治療を受ける人もいる。しかし、若くもないおっさんとしては今更どうしたら良いのか、と思ってしまう。背が低いしなとか、チンコ生やせるわけでもないしなとか、これ以上いびつになると外を歩けないんじゃないかとか。だから性自認としてではなく結果的にXであることを認めざるを得なくなる。

 

 その上、自分は性的志向が男性というのも大きい。もし女性が性的対象だったら、女性から男と認めてもらうために必死になっただろう。が、自分は中学では好きな女子がいたが(少年っぽい中性的な子)、高校からがっつり男が好きだ。むしろ自分の女性性を否定する気持ちから女性蔑視的な部分もあった。今でいうマッチョ感というのか、肉体的には無理なので精神的にマッチョでいようとした。昔ながらの男尊女卑的なセンスは自分にもある。が、自分が客体となったら差別されるのは自分になる。だから性差別については若い頃から非常に敏感。純男に対するひがみもあり男には厳しい。

 男性同性愛者が自分の好みに非常にこだわるように、自分も好みにはうるさい。だから好みじゃない男には冷淡だし、男としての水準(強さ・逞しさ・知性・理性)を厳しく要求する。一方、女には昔から甘いのだが、それは性的対象だからではなく、女に多くを求めても無駄だという女性蔑視があったからだ。近年これが薄れて、女性にも厳しい態度が取れるようになったのは我ながら進歩だと思う。

 こう書くととんでもない性差別主義者に見えるが、この考えを堂々と認めたら蔑視されるのは自分である。だから内心ひっそりとそう思っているだけで、表面上は女性を差別はしない。男というものは女に優しくしなければいけない、という考えもある。だから多くの男が、本心は「女に寛容で優しい俺って格好良い」という自画自賛でやってるのを良く知っている。自分がそうだからだ。自分の場合、それで女に好かれても嬉しいことは全然ないのだが、ヘテロの男性ならそりゃ嬉しいでしょうとも。スケベ心全開ですよ。

 そういうわけでLGBTのうちGでTな自分としては異性愛がいまいち理解できない。異性間セックスはよく知っている。そりゃあね、好きですからね、セックスは。が、恋愛というのが何かいまいちよくわかっていないし、恋愛=セックスだと思っていたりする。こういうところは感覚がモロ男ですね。

 だから正直、まともな恋愛というのはしたことがない。つきあっている相手はセフレくらいにしか思っていないし、つきあっているという認識もないからセックスしかしない、というのが若い頃の行動パターンだった。デートだとか面倒臭くて全然駄目なのだ。自分が行きたい所以外行きたくない。自分がしたい事以外したくない。友達同士ならつきあいで買い物もする。でもセックス相手とは無理。自分にとってセックスの相手は友達以下の存在だった。今でもそうかも知れない。

 それだけ深入りしないでつきあうから自分がこれだけおかしな人間でも何とかなったのだな、と今では思う。しかし、30からこっち自分の社会的性別を演じ続けることがどんどん苦しくなった。そのため、できるだけ社会との接点を減らして暮らしている。年を取れば性別違和が薄れるということはない。制服以外は学生時代までのほうがずっとマシだった。社会的役割に無頓着でいられたからだ。結果、これだけ長く生きてきて慣れないのだから、もうこれは一生慣れないのだと思うことにした。それで戸籍変更を目論むに至った。

 

 自分も人並みにリベラルだから、人権とか反差別とかもちろん支持する。でも、何とも言えずLGBTという言葉には抵抗がある。1つにはアライという存在が怖い。そして、押しつけられることが嫌い。こうせいああせいと指図されるのは苦手だし、変に同情もされたくないし、ありもしない共感をでっち上げられるのも嫌だ。それでも社会性はあるから、彼らに文句は言わないし大人しくしている。結婚主義ではないし結婚の意味など全然わからないが、同性婚には賛成するし、反対する人がいれば差別だと怒りもする。でも、昨今の大きなうねりを見ていると時代は変わったなと嬉しくなる一方で、どこか釈然としないものも感じる。

 その1つの理由。モノガミー思想が自分には弱いからだ。モノガミーとは一夫一婦制、1対1の結婚形態のこと。自分はポリアモリー(複数恋愛、お互いに複数の相手とつきあう状態)ではない。面倒臭いから一時に相手は一人いれば十分だ。浮気心が動いたことがないわけではないが、なかなか機会もないし、色々考えると面倒になって結局しない。平行して二人以上とつきあったことがないわけではないが、一点集中タイプの自分はその状態を長くは維持できない。でもそれはモノガミーだからではない。単に無精だからだ。

 だから不倫だ浮気だと怒っている人を見るとキョトンとする。自分だって交際相手にそう言って責めたことがないわけではないのだが、それは言わば戦略的な何かで本気とも言えない。相手の弱みをつけば勝てる、という戦術に過ぎない。もちろん他の相手と関係されて不快じゃないわけでもない。独占欲はあまりないが、あれと一緒かよと考えるとプライドが傷つくこともある。だからポリアモリーでもない。過去につきあった相手がポリアモリーだったこともあったが、それ自体はあまり気にしたことがない。そいつはそういう人間だと思っていたし、それで自分に不利益がなければどうでも良い。

 こんな人間だから結婚がどれほど良いものかなど永久に理解できない。他人にあまり興味がないのは発達障害の故かも知れないが、実理(名前じゃなくて)しか気にならない。もちろん情緒的なものが必用ないわけではない。尊敬と友愛、十分な理解の上で対等な関係を欲する。しかし自分はどこか、一人の人間にすべてを要求するのは無理だと思っているところがある。だから友達とセックス相手は分けて考えてきたし、それぞれに要求するものもきっちり区別してきた。

 結婚の価値がいまいちわからない理由は、純粋な関係を保つのに邪魔だと思うからだ。結婚していなければ関係を継続できないほど弱い結びつきなら別れたら良いと思っている。ロマンティックなのかも知れないが、何の縛りもなく一緒にいるという状態を評価するし憧れもする。結婚は契約であり生活だ。契約も生活もきっと嫌いなんだと思う。

 

 上で説明してない用語が1つある。クィアだ。これは説明が非常に難しい。自分も十分に把握しているわけではない。元々は英語圏で男性同性愛者を罵る言葉だった。英語の意味は「奇妙な・不思議な・風変わりな」で、言うほど罵倒ではないように見えるが、差別語として強い罵りである。使用自粛されてきたが、これを逆手にとって同性愛者側がクィア理論というのを組み上げたらしい。それ以来、この言葉は再解釈され、当事者が使うようになった。クィア・スタディーズという知識があるらしい等々。が、これも一部の話で、当事者でもいまだに嫌う人のいる表現だから、部外者は迂闊に使ってはいけない。

  しかしLGBTQとして使われる場合はQ=クィアとなる。LGBTに当てはまらない、その他すべての、という意味らしい。昨今ではクィア=同性愛者ではなくクィア性を持つ者とされているようだが、ここまで来ると自分には理解が追いつかない。言えることは自分はクィアを自認していないということだけだ。が、他人から見たらクィアに入れられてしまう、というのも認めざるを得ない。

 ついでだから書いておくと、性的志向に関する差別語・侮蔑語はクィア以外にもホモ、レズ、オカマなどがある。オカマは最初から侮蔑的に作られた言葉だが(だからオカマさんなどと敬称をつけてでも使ってはいけない)、ホモ・レズは短縮することで侮蔑的なニュアンスになる。というのも使用例がそうなっているからだ。英語圏では絶対使ってはいけないというくらいの禁忌であり、日本語でも十分失礼なので避けたほうが良い。これらの意味の強さをどうしたら表現できるかと考えると、どうしても差別語を出さないと説明できないので躊躇されるが、日本で言えばシナチョンくらいだと思うと間違いない。

 じゃあ何て呼べばいいんだよ、と思われるだろう。省略しなければ問題はない。ホモセクシャルレズビアンには侮蔑的なニュアンスはない。オカマは通常、女性の服装をしたり仕草などで女性的な雰囲気を漂わす人々を指すことが多い。現在はオネエという表現が一般化している。が、トランス女性に向かってオネエと言ってはいけない。彼女らは女性であってオネエではないからだ。同じくトランス男性はオナベではない。女性が性的対象の人も多いが(そっちのほうが多いのかもしれない)当然レズビアンではない。

 

 まとまりがないな、と思いつつ、長くなったからこの辺で。次は一般論的なことを書きたいと思うけど、まだ当分、自分の話が続きそうな予感もする。

自分のこと

 開設したてでジャンルもよく分からないので、日記ー属性にしてみた。関心の多くが自分の属性だからだ。誰も読んでいないだろうから、自分の属性について書いてみる。書いてみたらえらい長文になってしまったが、人生を振り返っているようなものだから仕方がない。

 

◎精神科加療歴

 初診はかなり前。きっかけは慢性の頭痛が自殺したいほどつらかったからだ。頭痛が苦になり始めたのは中学の頃。逆立ちしたりして何とかやり過ごした。他に物心ついた頃からの入眠障害摂食障害(拒食)があり、幼稚園時代から弁当の時間が苦痛だった。小さな小さな弁当箱にほんの少し詰められた弁当さえ食べきるのが困難だった。夜も寝付けないくらいだから昼寝も苦手。寝れたことは殆どなかった。夜、全員が寝静まった真っ暗な家の中で一人寝付けず、柱時計の音が脅迫的に響き続ける。あの時間が最も苦痛だった。

 当時、精神面については自覚症状がなく、医者は仮面うつという診断名をつけた。抑うつ症状はなかったが身体自覚症状が複数あったからだ。大量の投薬を受けて副作用が出て、このままでは死ぬと思い、減薬を提案するも拒否され医者と決裂。勝手に断薬し、2ヶ月間離脱症状で苦しんだ。この経験は精神医療への不信感となる。

 離脱が終わると本来の症状がきつくなり、別のクリニックに。まだ残っていた体調不良に対し、自律神経調整薬を出してもらった。うつ病の治療は最初は拒否した。そのうちに気分障害の自覚が強くなり、結局はうつ病として治療を受ける。といっても抑うつ症状は相変わらずない。あるのは希死念廬、極端に切れやすい性格、数々の体調不良だ。特に慢性の下痢と頭痛、子供の頃から続く神経性の胃痛と吐き気。

 当時行っていたクリニックは心療内科と内科が併設で、32条の医療費公助で内科も受診できた。うつ病の専門医だった担当医は頑固な患者にサジを投げ、内科医に押しつけた。これが幸いした。東大・九大的な意味での心療内科に興味のあった内科医と一緒に処方を考えた。患者が処方を考えるなどと書くと批判もあろうかと思うが、治療薬マニュアルや精神医療の本を読みまくり、自分自身に人体実験を繰り返した。知的好奇心が刺激されたのだろう、それを内科医も許した。それくらい頑固で、他人の言うことを聞かない人間なのだ。

 更に幸いなことに、退職した担当医(精神科)の穴埋めに赴任してきたのが、九州大学心療内科医だった。九大の心療内科は日本初で、東大はその真似。当時、日本で希少種だった本物の心療内科医に診て貰えることとなり、担当して貰えたのは半年ほどだったが状態は格段に改善した。ただこの研修医は生真面目過ぎて、非常に心配性だった。

 心療内科の担当医が九大に帰ると、また担当が変わった。経験の浅い医師の研修場所という位置づけのクリニックだったから、入れ替わりが激しいのは仕方がない。次の担当はまた精神科で、なかなか際どいファッションの女医だったが、そこそこ上手くつきあえたと自分では思う。(最終的には切られるのだが。)

 この医者が最初に境界型人格障害という診断をつけた。それまで何とも名付けようがなく、手帳申請のために適当な病名をつけられていたのが、初めてまともな病名がついた。(最初のクリニックの仮面うつは診断名としてはインチキなのは知られている。)が、ここでも頑固な自分は当時の自分の境界型のイメージで「自分は違う」と言い張り、開業するからと退職したこの医者の次に院長に担当して貰い、半年かけて説得、取り消させた。その結果、ついた診断名が身体表現性障害。あまりに数の多い身体症状と不定愁訴に院長がひねり出したのがこの診断だが、どう考えたって違う。とりあえず当時は診断名をつけないと手帳の更新ができないので、こちらも飲み込んだ。

 院長は待ち時間が長いからと、新しく赴任してくる元内科医についてみないかと提案され了承。次の医者は境界型を専門にしたいらしく、程なく再び境界型と言われる。これも断固拒否。医者は諦め、半ば投げやりに治療を続けた。こうまで境界型の診断を嫌がった理由は、当時、周囲にいた境界型の人々と自分の状態があまりにかけ離れているように感じたからだった。今から思えば知識不足。

 色々言うとこちらが怒るので(内心は境界型だと思っていたのだろう)、担当医は事なかれに処方を続けるが、医療不信の強い自分は新しい薬を提案されても拒否することが多かった。そのくせ自分が試してみたいと思う薬があると出させる。相変わらず自分に自分で処方している状態が続いた。それができたのも自分の経験と知識に自信があったからだろうが、何より他人の言う通りにするのが嫌でたまらない性格のせいだった。よく担当医は我慢したものだと思うが、当時はそんなことにも気づかず、俺様に処方しようなんざ百年早いんだよ的な思い上がりで中二病真っ盛りだった。

 そのうち、いくらやっても治るでもなし通院が面倒になり、手帳の更新も面倒になり加療を一方的に中止。近所の内科で欲しい薬を出して貰いながら(この内科医もこちらの言う通りに薬をくれる)、去年判明した慢性頭痛の原因であるストレートネックからくる首や肩の痛みを抑え、慢性的な吐き気・下痢・胃痛の薬を貰っている。

 

発達障害疑惑

 精神医療を放棄した理由は、ここ数年気になっている発達障害疑惑。数多い不定愁訴のいくつもが発達障害で説明できることに気づいた。前からコミュニケーション方法の独特さから冗談でアスペルガーだろうと言う人はいたが、自分が子供の頃は発達障害なんて概念は日本で知られていなかった。最近急激に情報が増えたから調べみて、コミュニケーションや社会性以上に体感のズレや感覚過敏が当てはまると感じた。

 子供の頃から太陽は異常に眩しかった。だから外で遊ぶのはあまり好きではなかった。聴覚も過敏で子供の泣き声・犬の吠える声・パチンコ店・工事現場が大の苦手だ。言葉は悪いが発狂しそうになる。その一方で言語の聞き取りはかなり悪い。聞こえにくいキーがあって、その音域の人だと近くで話していても聞き取れないことが多い。小学校に入る前、一度耳鼻科に連れて行かれたことがある。耳に何か差し込まれる感じが不快で、腕を振り回し医療器具の乗った台をひっくり返したのを覚えている。あれは何だったのだろうと考えていて、中耳炎にでもなったのかと思っていたが、そんな記憶もない。聴覚検査も受け、聴覚にはまったく問題がない結果となったが、もしかしたら言葉の聞き取りが弱かったのかも知れない。当時、連れて行ってくれた人は亡くなっているので確認できないのが残念だ。

 その他、異常なまでに食べ物の好き嫌いが激しく、食べられる物のほうが少ない。感触が嫌いで服を着るのを嫌がり、裸で走り回っていた。小さい頃だけじゃない。高校生になっても大人になっても夏だとマッパで過ごすことが多い。他にも思い当たることは色々ある。学生時代や働き出してからも黒いサングラスを室内や地下道でもかけっぱなしで(あれで職場で文句言われなかったのだから凄い)、視覚障害者と間違えられたりもした。そして、話し出すと止まらない一方的な弾丸トーク。過集中が酷く、しかも長時間持続する。つきあわされる相手はたまったものではない。

 たまったものではないと言えば、本当申し訳なかったのだが、中学になっても色々と分かっていなかった自分は、友達を階段の上で突き飛ばしたことがある。その子は運動神経が良かったから大股でピョーンピョーンと下までバランスを取って、最後に壁にぶち当たって転んだ。結果、捻挫。捻挫で済んで本当に良かった。当然、学校で問題になり、「どうしてあんなことをしたのか」と聞かれ、「どうなるか見てみたかったから」と答えた。もちろん、その子とはケンカもしていなかったし、腹を立ててもいなかった。急に好奇心がおさえられなくなっただけだ。この返答は教師にも親にも信じて貰えず、仕方がないから「何故か分からない」ことにした。とりあえず母親と菓子折を持って謝りに行き、その後も特に関係はこじれなかったのは怪我が軽かったことに次いで幸いだった。

 あれこれやらかして、小学1年から一貫して問題児であったが、周囲があまり心配していなかったのは、ひとえに「頭は普通っぽかった」からだろう。成績は中の上から上の下くらいだが理屈が上手く、大人にも言い負けることはなかった。(今から思えば勝ちを譲って貰っていたのだろうが。)難しい言葉をよく知っていて、何かにつけて基本的人権の侵害とか見解の相違だとか言っていたが、今から思えば意味はよく判っていなかった。協調性には著しく欠けるが、問題行動は少なかった。つまり騒ぎをあまり起こさなかった。そうなったのは色々と運の良さでしかなく、巡り合わせさえ悪ければとんでもないことになっていたのは先の階段突き落とし事件でよく分かる。

 小1から問題児という原因の1つは当時の担任にある。自分は左利きで、何でも左手でしかやれなかった。これを極端に問題視した定年間際の老教師が、何故か責任感に燃えて矯正しようとした。その他、ほぼ毎日のような遅刻と忘れ物の異常な多さも問題にされた。給食は常に残し、当時は居残り給食指導があったから放課後まで給食と睨めっこしていた。この老教師には非常に嫌われていたと思う。とにかくいちいち過干渉で、左利き矯正で今で言う適応障害を起こした。自分は記憶にないのだが、姉の話によると食べない動かないしゃべらない状態になり、父親が学校に怒鳴り込んで指導を止めさせたのだそうだ。(間違っても良い父親だとか思わないで欲しい。確かにこの件では命拾いしたが、アル中でPTSDができるほど苦しめられた。ただ子供、特に自分のことを異常に可愛がっていただけだ。そのことで母親からDVも受けていたのだから、有り難いのか迷惑なのか分からない。)

 このクソ教師には4年間も担任され地獄を味わったが、小5からは急激に問題行動が減る。(指導方針が変わっただけなのだが。)小5の担任は暴力教師で、すぐ子供の頭を物で叩くのだが、自分には天国のように感じられた。

 他にも、自分は他人と長期間一緒にいることができない。小学生時代、個室がないのを嫌がって押し入れに住み着いた。真夏などは熱中症で具合が悪くなった。家族であっても一緒にいられるのは二泊三日が限界。それ以上だと極端に不機嫌になり、怒り出すと自分でも制御は効かない。あまり暴力は振るわないのだが、ガラスを素手で叩き割ったことは数回ある。言い訳が大変だった。

 

◎性別違和

 最初に感じたのは小学校入学のときだったろう。自分用のランドセルの色を見て愕然とした。何故自分がこれなのか。その時、自分の性別をはっきり意識したのかも知れない。

 何か行事があると「よそ行き」と呼ぶキチンとした服装をさせられる。これが苦痛でならなかった。何故なら、自分の性別じゃない服を着せられるからだ。普段はスカートなど絶対はかなかったのだが、このときだけはスカートを強制的に着せられる。だからイベントやお出かけ的なものが大嫌いだった。

 中学に入ると制服がある。嫌でも女装させられる。これがとんでもない気鬱を運んできた。しかしまだ中学はマシだった。多くの時間をジャージで過ごせたし、スカートの下にジャージをはいてることもできた。それでもスカートなる不格好なものを着なければならないのは相当に苦痛だった。さらに、当時は性別教育があったから男子は技術、女子は家庭科だった。これもまた自尊心を傷つけられた。小学校時代から機械いじりもプラモデルも好きだった自分が何故技術をやらせて貰えないのか。料理は好きだが裁縫は大の苦手だった。授業中は適当に誤魔化し、家に持って帰って姉に全部やって貰った。

 高校となるとジャージは着れない。どう考えても不格好な制服(しかも中学と違いセーラー服)を着て、ますます死にたい気分で3年間を過ごした。ロック好きだった自分は軽音同好会に入り、格好つけてギターをかきならしたりして表面上はそこそこ楽しく過ごしてはいたのだが、内心は気鬱症が悪化して、この頃から希死念慮が強くなった。

 高校時代の思い出といえば教師とケンカしては言い負かし、一度など生意気な女性教師を泣かせてしまった。(いや、まさか大の大人が生徒に言い負かされて泣くなんて想像してなかったのだが。)それで当時の担任に「謝ってくれないか」と言われ、「自分が悪くないのに謝る必用はないです」と言ったら、「そうか」と言ってそれきり何も言われなかった。頭がモヤモヤして爆発しそうになっては、「頭の具合が悪いので早退します」と言い、それも止められたことはなかった。あの担任(2~3年時)には相当迷惑をかけたし理解があったな、と最近になってやっと気づいた。

 ところが高校を卒業して東京の学校に進学すると、何を着て良いのか色々迷い、試行錯誤した末に女装を始めた。スカートをはくことはまだ少なかったが、服は女物を買っていたし下着も女物だった。何とも気持ち悪い感じは抜けないからデザインにかなりこだわり、周囲からはオシャレな人と思われていたようだ。が、そういう問題じゃなく、許せる物だけしか身につけられなかったのだ。結果、黒ければ何とかなると発見。常に黒装束だった。下着も上半身は仕方ないにせよ、パンツはロングガードル。今でいうボクサーブリーフのような形が気に入って、これを直ばきしていた。

 女装には理由があった。自分の性的対象は高校以来、男だ。女装していると女と思われて相手を得るのが楽だと気づいた。性欲も結構強かった自分は、とにかくセックスしたくて、手っ取り早い方法として女装して化粧していたというのが正直なところ。

 

◎生活のこと 

 あまり言いたくはないのだが、結婚した。自分は結婚などできないと思っていたし、したいとも思っていなかったのだが、ものの弾みとは恐ろしい。最大の理由は、母親をはじめとする周囲からの圧力に負けたといったところ。そして名字が変わるというとんでもない拷問を受けることとなる。大失敗だ。

 自分の名字は嫌いだ。山田だよ。どんだけ馬鹿にされたか。どう考えたって結婚相手の姓のほうが格好良い。が、どうしても自分は姓が変わるのが我慢できず、数年間はがんばって通名で通した。しかし、通名使用などできるわけがなかった。銀行口座から浸食され、本人確認証の必用な登録も、すべて新しい姓に汚染されるのに長い時間はかからなかった。それは強烈な違和感となり大変な苦痛となった。

 一方で、自分の下の名前は身の毛もよだつほど嫌いだ。性別丸出しだからだ。一度だってそれが自分の名前だと感じられたことはない。学生時代からしばしば偽名を使っていた。性別が分かりにくい中性的な名前を好んで使った。しかし仕事の上では本名を避けては通れない。このブログで使っている実理(みつさと)は元の名前に漢字が似ていてイニシャルも変わらないことから決めた、もし性別を変更することができたら自分につける予定の名前だ。イニシャルも名字も好きじゃない。でも、それが一番自分らしいと感じる。自分が一番格好良いと思う、好きな名前はやはり気恥ずかしくてつけられない。自分じゃないような気がする。通名使用で問題ないから夫婦別姓は必要ないと言った責任者、出て来い。仕事をしている限り、通名なんて通せないんだよ。ふざけるな。籍を入れなければ良い? その通り。結婚なんて放棄すべし。そんなものに価値などない。

 

 籍は入れたものの(それは親の戸籍から外れるためでもあった、当時の自分は単身で本籍を移動すれば戸籍から外れることを知らなかった)、同居する気はさらさらなかった。自分は他人と一緒には暮らせない。何があるでもないのだが、他人と長時間一緒にいると精神的に追い詰められてしまう。ヘトヘトに疲れてしまう。ところが、上で書いたような状態で経済的に追い詰められたので、どうしようもなくなって同居した。家賃を半分にするためだ。それぞれの電話は別。財布も別。しかし狭いアパートにフリーランスの自宅作業者が二人、24時間籠もりきりでいればウンザリもする。

 荷物も増えた。キャパ越えして片付けができなくなった。元々、他人のために家事をするのが嬉しいという感覚はないから、人がいるから家事をしなくなった。精神的にも追い詰められ、よくあれで離婚しなかったものだと自分でも思う。いや、何度も切れながら離婚すると叫んだのだが、どういうタイミングなのかしそびれてしまった。相手はまったく反対しなかったのだが、かといって自分から動くタイプではない。そうしたければ引っ越しから手続きから、何から何まで自分が全部何とかするしかなかった。それが面倒だったのだろう。

 現在のパートナーのことが嫌いかと聞かれれば、おそらく人類の中ではかなり上位に来る程度には好きだ。しかし彼は異性愛者。その感覚に違和感が消えない。性別役割を要求することはないのだが、そうしないといけないような気になるのは異性愛的センスが彼にあるからだろう。さらに自分は男に負けるのが嫌いだ。男は競争意識が強いし、周囲の男より自分が優れていることを機会を捉えては証明しようとする。密室の中で繰り返されるマウンティングはどんどん狂気を帯び、お互い精神的に追い詰められた時期も長くあった。

 それでも同居しているのは経済的な問題が大きい。そして相手が徹底して受動型の人間だからだ。受動型の人間としか長続きしないのは、子供の頃の友人関係でも同じ。自分から働きかけて来ない人間が楽なのだ。ペースを乱されるのも嫌い。邪魔されるのも嫌い。こういう人間は他人とは暮らせない。

 東京に出て来て以来、独り暮らしをしていて寂しいと思ったことはない。寂しいというのがどういう感覚か、おそらくわかっていない。ただ退屈はする。刺激が欲しいと思う。そして溜まったエネルギーを発散するためだろうが、長時間しゃべる。これが相手には苦痛らしい。ただしゃべるのではなく、何かについて論じ始める。それも数時間に及ぶ。相手は集中して聞き続けなければいけない。自分がやられたら死ぬほど嫌だ。