言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

ロマンティックラブ・イデオロギーの罪深さ

 性的マイノリティーにアセクシャルと呼ばれる人達がいる。日本語では無性愛者となる。恋愛感情を持たず、他人に性的欲望も抱かない人達だ。似たような言葉にノンセクシャル(非性愛者)というのがあったが、和製英語だからという理由でアセクシャルに統合された。非性愛者は恋愛感情は持つが、他人に対し性的欲望を抱かない人達で、今はアセクシャルの一部と見なされる。

 最近の表記では「アロマンティック・アセクシャル」と書いてあれば恋愛感情と性欲の両方がない人だ。ア(否定)+ロマンティック(恋愛的な)で、ロマンス(恋愛)の派生語。以前のノンセクは「ロマンティック・アセクシャル」と書く。

 アセクシャルを定義する言葉だから「アロマンティック・セクシャル」は出てこなくて当然なのだが、調べてもこれに該当する用語は見つからなかった。相当数いるであろう「恋愛感情を持つことはないが性欲はあり、他人と性交することは可能」な人達は呼称さえない「見えざる属性」だ。

 「相当数いるであろう」と書いたのはデータがあってのことではない。自分の周囲を観察しての体感だ。このタイプの人について特別研究されたことさえないのではないか。何故なら「ごく普通のこと」だからだ。そして、このタイプだからといってもたいして困らない。結婚は子供を作るためと考えれば、性交さえできれば問題は生じない。一方が恋愛を求めていると欲求不満になるが、双方が性欲と繁殖目的なら特に問題がないのだ。

 

 恋愛は古来から小説や劇でよく使われるテーマであった。ギリシア悲劇にも見られ、シェイクスピアもよく題材にした。日本でも源氏物語浄瑠璃などで扱われたテーマだ。そのため「人類普遍のテーマ」だと勘違いされている。そこに混入してくるのが一夫一婦制のキリスト教の結婚観だ。(ユダヤ教は本来、一夫一婦制ではなかった。イスラムが一夫多妻制なのはその名残だ。)一夫一婦制を普及するのに、これほど便利なツールはない。他の相手に手を出せば「裏切り」であり「不実者」となるからだ。キリスト教はモノガミー(単婚)思想だ。(ユダヤ教も時期は分からないがモノガミー制になる。)

 この一夫一婦制を基本とした結婚制度にキリスト教カソリックの「結婚の秘跡」を組み込んだものがロマンティックラブ・イデオロギーだ。(※結婚の秘蹟:婚姻の秘跡とも。一組の男女が互いに、生涯にわたる愛と忠実を約束すること。)キリスト教徒以外には「神による組み合わせ」という意味はないから、「赤い糸」「運命の人」「ソウルメイト」といった世俗的な概念に変化している。つまり、恋愛を動機とした結婚と性交を神聖視する思想だ。

 

 日本で一般に恋愛のステレオタイプが広まるのは、何と言っても少女マンガの役割が大きい。一般と言っても女子だけではあるが。男子は少女マンガを読まない人が多い。少年マンガのテーマに恋愛が使われることが皆無ではないが、メインテーマではなくサブテーマだった。恋愛を大きく取り扱ったのは『翔んだカップル』(柳沢きみお、1978~1981年に少年マガジンに連載)が最も早かったのではないだろうか。続いて『タッチ』(あだち充、1981~1986年に少年サンデーに連載、アニメは1985~1987年放送)が大人気となり、テレビアニメ化されたことで広く知られるようになった。(あだち充は『タッチ』の前に恋愛要素の強い『ナイン』『みゆき』を書いていて、『ナイン』は『翔んだカップル』と同年に連載開始。)

 一方、少女マンガの王道は恋愛であり、メインテーマだ。少女達はそれを読んでは大恋愛・運命の出会いに憧れ、男子にそれを要求するようになる。とはいえ、初期はフィクションとして捉えていた人も多かったろうし、それを現実に再現しようとするのは一部の人だったかも知れない。そこに『タッチ』世代の男子が合流すると、双方が恋愛幻想を持つ同士となり再現率は一気に上がる。

 マンガだけではない。ドラマでも映画でも恋愛は大きなテーマで、しつこく再生産され刷り込まれ、「そうしたい」が「そうあらねばらない」へと変わっていく。その時期が80年代後半くらいではないかと思う。ここに来て、男子も「恋愛なんて馬鹿馬鹿しい」と声を大にしては言えなくなる。相手(女性)を得るためには相手の要求に応えねばならない。ステレオタイプなデートを重ね、「恋愛」が皆の「共通体験」へとなっていく。そして恋愛が「同調圧力」へと変わっていった。

 

 事ここに至って、自由恋愛の意味が変わった。自由恋愛とは何か。男女交際がふしだらとされた日本では、結婚相手は親同士や仲介者の紹介で決めた。そうなったのは当然ながら婚姻制度が法規定された明治以降なのだが、人の記憶はアテにならない。昭和になれば、ずっとそうしてきたと皆が錯覚し始める。戦後になり、新しい憲法で「結婚は両性の同意による」とされた。親の利権や都合による強請婚姻をやめさせる目的だ。これが自由恋愛による結婚である。本来の自由恋愛とは、「交際期間を経て結婚に至ること、親や周囲からの強請ではなく相手を自分で選ぶこと」だ。(だから見合いという方法が取られ、「本人が決めた」ことにした。さらに結婚準備期間を含め、一定の交際期間も設けられた。これなら合法である。)

 それがどう変わったのか。人々は「恋愛しないと結婚できない」と信じ込むようになった。自分もそうだ。恋愛をしたことがなかったから、自分は結婚できないと思っていた。ところが日本人は恋愛が非常に下手だ。感情表現が苦手だからだろう。ちょうど文明開化の頃、日本人が体に合わない洋服を不格好に着込んでいたように、恋愛はそれまでの日本の文化に馴染まなかった。結果、恋愛下手をこじらせて未婚者が大量に出るのが、見合い結婚が廃れた90年代から。この傾向は年を追う毎に進み、最近では未婚率が社会問題となるまでになった。

 

 そろそろ日本人は「恋愛という強迫観念」から自由になり、性欲と合理精神で相手を見繕って結婚してはどうだろうか。結婚に恋愛は必須ではない。それはオプションである。出会いがないから結婚も出来ない。それはもっともだ。じゃあ出会いがあったら結婚はできるのか。恋愛という手順を踏まないと、と考えると腰が引ける人は多いだろう。

 昔の日本では貞操観念が低かったから何となくの流れで性交して、恋愛でもなくだらだら関係が続き、時期がきたからそろそろ結婚でもして落ち着くか、みたいなカップルが多かった。感情表現が苦手な日本人にはこの方法のほうが合っているし、女性が誰でも面倒臭い大恋愛をしたいわけでもない。男性はもっとしたくない。そもそも男性の多数派は性交には興味があっても恋愛には興味が無いのではないか。相手がそれを要求するから演じているだけで、自分自身にそれをしたい欲求はない人が多いように感じる。(したいのは性行為だけだ。)しかし、「恋愛していること」にしないと性交させてくれない。

 大恋愛とか略奪愛は征服民族・狩猟民族の文化だ。農耕民族はもっと大らかで曖昧な関係が文化に合っているのではないか。村の祭で無礼講の乱交をしたり、夜這いで何となく関係が成立したり。土着で侵入者のいない土地で長年暮らしてきたから、ものをハッキリ言わない。こういう部分は農耕文化のソレのまま、恋愛だけは狩猟民族の真似をしろ、というのは無理筋だろう。

 

 「合理精神」と上で書いたが、合理精神=金銭や出世の条件という意味ではない。収入は最低限必要だろうが(暮らしていくには金が要る)、一人で暮らせる程度の収入がある者同士が二人で暮らすのは楽なはずだ。それよりも「この相手と一緒に暮らしていくのは(物理的にではなく精神の健康面で)可能か?」「考え方・価値観は近いか?」「お互い無理な我慢をせず済むか?」のほうがよほど重要だ。そして「過剰な要求はお互いしない」が大切だろう。それが「合う」「相性が良い」の意味だ。それだけだと気の合う友達止まりだから、プラスして「この相手と性交をして不快感はないか」が必用。それだけ揃っていれば完璧と言って良い。

 もう1つ提案したいのは、若い女性は能動的になろう、という点。男性は昔ほどガツガツしてない人が増え、草食化などと言われている。それなら待ちの姿勢をやめて自分から肉食化し、気に入った相手は押し倒すくらいの勢いで攻める必用がある。相手に責任を転嫁するのを止め、自己決定・自己責任で動こう。それを周囲がふしだらだのビッチだの言うのもやめろ。どっちが仕掛けても良いじゃないか。男女平等なのだから。

 以上は「相手が欲しい人」の場合。そんなことには興味がない、という人の価値観を否定するのもやめよう。幸福の形は人それぞれ。「結婚して一人前」だの「子供を持って一人前」だのの、古いステレオタイプ・偏見・押しつけは誰をも幸福にしない。したい人は放っておいてもそうするのだから、本人の選択を尊重しよう。その結果、非婚率が上がったとしても、それがどれほどの社会的損失だと言うのか。そういう人達は昔から一定数いるが、何か困ったか。

 言うまでもないことだが、ロマンティックラブに生きたい人の邪魔はしないし、その価値観も否定しない。男性の中にも一部、恋愛脳と呼ばれる人達はいる。人に押しつけるな、「それが当たり前」と言うな、という主張だ。ロマンティックラブ・イデオロギーで強迫観念を抱き、皆がそうしなきゃいけないと囚われたり、重圧を感じる必要はないのだ。

「多様性を受容する」の誤解

 一応でもリベラルをやっていると「みんな違って、みんないい」とか「多様性を受け入れよう」みたいな言葉にしょっちゅう出会う。それ自体は批判することではないし、是非そう願いたいと思う。しかし違和感を感じる時がある。

 多様性とは社会の構成員に様々な属性の人がいることを肯定的に捉えることだと理解しているが、どうもそうじゃない人がいるように感じる。彼らとて障害者をはじめとする様々な属性・様々な職業を受容しているとは思う。では「選択の自由」や「価値観の多様性」はどうだろうか。

 背景が違うと様々な価値観が出て来る。背景が違わなくてもだが、背景が違えば当然のことだ。価値観とは生き方そのものとなる。他人を尊重するとは、異なった価値観を否定しないこと。当然、肯定できない価値観は沢山ある。それをも含め「それぞれの考え方・感じ方」を否定しないこと。(批判しないという意味ではない。エビデンスに則った批判は当然出るし、批判=否定ではない。)

 こういうことを考えるようになったのは、「みんな違って、みんないい」と言いながら異質な考えや感性を否定したりバッシングする人が目につくからだ。属性は価値観を生み出し、価値観は生き方を決める。

 

 具体的な例の1つは、犯罪者や違法な行為をした人達に対する態度だ。他人を害することは決して許容されることではない。だから罪に問われるし、罰も受ける。罰には量刑と社会的制裁がある。それが過剰になることは法治国家では許されない。社会的制裁がリンチ(私刑)となり過剰制裁となる場面は多々見かける。他人を害することは間違いだ。それは声を大にして言う。やってはならないことだ。それをやってしまうのは失敗なのだ。失敗は誰でもする。殺人は償いきれない失敗ではあるが、量刑は刑法で決まっている。その妥当性に意見はあろうが、そう決まっているのだから仕方がない。その中でも、死刑は明かに過剰制裁だ。死をもって償えなどというのは時代錯誤も甚だしい。

 こういうことを言うと「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典を引き合いに出して正当性を主張する人がいるが、勘違いである。ハンムラビ法典に書かれているのは、「目には目で、歯には歯で」だ。「目には目で」の意味は、「目を傷つけたら目で償わせるべきで、殺したり両手両足を切り落とすのはやり過ぎた」。過剰制裁を規制しているのだ。決して等価交換を奨励しているのではない。ハンムラビ法典が出来た時代は古代。人殺しの禁止なんて概念すらないし、奴隷もいた。だから身分が違う同士のトラブルで等価交換になっていない量刑も記載されている。「目には目で」は同じ身分同士に適用される。奴隷に対しては気に入らないことがあれば殺すのも持ち主の自由という時代に、相手が奴隷といえど過剰制裁は駄目ですよと規定したのだ。そこが画期的である。世界初の法律書には「法の精神」が充ち満ちている。

 近代の法哲学においては、刑罰は復讐のツールではないと規定される。あくまでも更生のためであり、社会に復帰させることを前提としている。であるからヨーロッパでは死刑が廃止された。それによって凶悪犯罪が増えたというデータもないし、そもそも死刑制度が凶悪犯罪の抑止力になり得るのなら米国では凶悪犯罪が少ないはずである。しかし、データはそうなってはいない。

 

 もう1つの例は、変態性欲とか性的倒錯と呼ばれてしまうような嗜好を持つ人達だ。これも法律に抵触する場合は禁止になる。勘違いしてはいけないのは、「嗜好を持つこと自体」が禁止されているのではない点。他者に対して「同意なく行為を行うこと」が禁止されている。痴漢・覗き・強姦・被虐や加虐などだ。同意があっても駄目なのが幼児や少年少女への性的虐待。同意が成り立たないと見なされる。同じく同意が成り立たないのは獣姦。

 では他者がいない変態行為はどうだろうか。フェチシズムが代表的だが、他にも窒息プレイや糞尿飲食・自傷行為に見えるような様々な嗜好がある。他人を害さないから法律で禁止されてはいない。禁止されているのは盗癖(窃盗罪)くらいだろう。様々な性的倒錯についてはウィキペディアの「性的倒錯(パラフィリア)」の項を参照されたい。

 これら目もくらむばかりのバリエーションがある性欲・性癖の羅列がまさに「多様性」なのだ。趣味と軽く捉えられがちだが、当事者にとっては切迫していて強迫観念にも似た、回避が難しい欲望である。まさに「取り憑かれたように」心を焦がす。四肢欠損願望などは本当に深刻だ。

 現在、変態性欲に入れられているものすべてが変態であるかについて自分は強い疑問を持つが、今それは置いておく。「みんな違って、みんないい」と言ってる人は、自分にとって不都合な存在や気持ち悪いと感じる相手にもそう言えるのか。そして、自分にとって受け入れがたい選択をする人々を受け入れることが出来ているのか。できてもいないのにこのフレーズを安易に使わないで欲しいのだ。

 身近な例で言えばロリコン(幼児性愛)叩きがある。ロリコンペドフィリアはどこにでも一定数いる、多様性の1つだ。問題は「実際に行為をするかしないか」だけ。行為だけが罰せられるのであって、嗜好や妄想それ自体は罰せられない。「妄想無罪」である。

 

 さらにセックスワーカー、つまり性風俗関連の仕事をしている人達への職業差別やバッシングもある。自分が決してすることのない選択をする人は存在する。それが多様性だ。それが他者を害するものでない限り、叩かれる筋合いはない。それをパターナリズムでとやかく言う人が多い。

 パターナリズム(父権主義・家父長主義)とは、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉すること」。親が子供にあれこれ指図したり、年長者が年少者の意志決定に対し「それは良くない、こうしなさい」などと干渉する場合がそれだ。この言葉自体も何とも性差別的な気持ち悪さがあるのだが、やってることはもっと気持ち悪い。

 パターナリズムは「強い立場から弱い立場」に限らない。成人同士で立場が同じような場合でも、上から目線で指図がましい口を叩くことも該当するだろう。自分の考え方が一元的に正しいと信じた人が、「良かれと思って」口出しする。しかし、偏狭な価値観に裏付けられた、まったくの「余計なお世話」なことは多々ある。

 危害原理のない(つまり被害者なき)法規制もパターナリズムである。麻薬使用が禁止されるのは他者を害するからではない。もしそうなら飲酒も禁止されているはずだ。パターナリズムこそ価値観の多様性を排除した、人と同じことをしろという圧力そのものなのだ。

 

 法律の問題に限らない。むしろ法律よりも社会通念にパターナリズムは充ち満ちており、マイノリティーはそれに苦しめられる。「子供を産むのが人としてのつとめ」と言われても同性愛者は困る。「愛する人がいてこその人生」と言われてもアセクシャルは困る。「人の役に立つのが人としての生きがい」と言われても障害者は困る。「アフリカでは飢え死にしている人もいるのに」と責められても拒食症の人は困る。「生きたくても生きられない人がいるのに」と言われても希死念慮のある人は困る。「自分を大切にしなさい」と言われても自傷癖のある人は困る。価値観を押しつけるとは、こういうことなのだ。

 「多様性を受容する」とは、様々な状況に置かれた人達の、それ故に出て来る価値観と選択をどれだけ受容できるのか、という葛藤なのだと思う。受容しきれないものは誰にだってある。あまり褒められたことではなくても、それをしなければならない事情のある人もいる。事情などなくてもそうしたい人もいる。そういった様々な人々、他者の「選択を尊重する」ことこそが多様性の受容であると気づいて欲しいのだ。「(直接的に)他者を害する行為かどうか」が問われるだけで良い。

ゲイシズムについて

 ゲイシズムという言葉を知ったのは最近。ツイッターでフォローしている方(米国在住のゲイ)がつぶやいていたのが初見だ。その時の説明では、「テレビなどでオネエを出し、毒舌をもって様々な社会現象を鋭く論評する」といった内容だった。こういう芸風は日本でも多く見かける。なるほどなあ、と感心した。

 ゲイバーでは昔から定番だったのだろうが、日本で言えばテレビ的には「おすぎとピーコ」あたりが確立した芸風だろうか。批判を受けると「オカマだからしょうがないじゃない!」と返すアレだ。毒舌芸はオネエの独壇場というくらい普及した。自分なども昔、ゲイバーではない場所で遭遇するオネエ達の毒舌芸に腹を抱えて笑ったものだ。

 しかし、ここまで蔓延すると、これはこれでどうなのだろう、と感じるようになる。しかも内容に見識もクソもないものも増えた。ただの言いたい放題・暴言の類いも多い。数が増えれば質は低下するのは道理。仕方がないことではあるのだが。

 

 質の悪い放言を批判する作業は都度個別に必用なのだが、そもそもこのゲイシズム、どうなのだろうか。これが成立するのはオネエ達が被差別だからだ。つまり、ゲイシズムは差別構造に乗っかったものであり、差別をなくす役には立たない。オネエが言っても暴言は暴言だし、放言は許されない。そこをはき違えてはいけない。

 こういった構造(被差別からの乱暴な言い切り)を利用した芸風として、お笑いタレントにコメントをもらうというのもある。昔、お笑いタレントが世相や政治的な事柄について発言することは少なかった。「ぼやき漫才」というのはあったが、個別の芸人の芸風でしかなかった。

 お笑いタレントにコメントを求めるようになるのは、ビートたけしあたりからではないかと思う。漫才師が政治について言及するようになる。最近でも太田光松本人志のコメントは大きく取り上げられ、メディアを駆け巡る。それ自体はどうでも良いのだが、問題は一般人がそれを有り難く拝聴し、同調しやすい点だ。彼らはそれほどの見識を備えた「文化人」なのだろうか。

 

 批判が来ると、ビートたけしは「たかがお笑い芸人の言うこと」と逃げる。これはオネエが「あたし達オカマだもんねー」と逃げるのと同じである。芸人というのは日本では河原者であった。河原者とは「河原に住んでいる人達」という意味で、被差別を意味する。日本では湿気が多く環境の悪い河原に人は住まない。そこに住まざるを得ないのは、流れ者・外れ者の被差別の人達だった。そこには芸人も多く含まれていた。

 ある一定の職業を河原者と認識するのは、もちろん職業差別だ。だから現在ではそんな人達はいない。しかし、アウトサイダーとしての立場を利用して言論するのは、まさにこの河原者制度なのだ。だから「たかがお笑い芸人」の言うことでも「たかがオカマ」の言うことでも内容に応じて批判を加える必用がある。最近の松本人志の意見には批判される点が多いと感じる。

  自分は芸能には疎いし、芸能の話をしたくて書いているわけではない。もしオネエ達が「あたし達オカマだもんねー」に逃げ込むなら、ゲイ差別はなくならないと言いたいのだ。オネエ独自の視点を持って批評する、というのなら批判も真っ向から受ける必用が生じる。それだけの覚悟をもって言説しているのか。中にはそう見えない人もいるように感じる。

 

 もう1つの風潮として不気味なのが、女性誌でオネエのコラムが増えている点だ。オネエは女性なのか。そうとも言える部分はあるが、基本的には性自認が女性ではない人達だ。性自認が女性はトランスジェンダーであってオネエではないし、オネエ=女性ではない。トランス女性の性的対象は男性とは限らない。ここはハッキリと区別しないといけない。とは言え、性自認の問題は本人にしか分からない。問題は、それを有り難がる女性が多い点だ。

 女性という性別の規範は男性より遙かに多い。まさに「女性に生まれるのではなく、女性になる」のだ。若い世代はその過程で悩みも多いだろう。そういう時に、風穴を空けるようなオネエの意見が参考になることもあるだろう。が、昨今増えているのは、オネエによる「女性はこうあるべき」論だ。これはとんでもない性差別であり、性規範の再生産でしかない。こういう言説をするオネエは性別役割分担に荷担する性差別主義者。自身が被差別であるにも関わらず、差別的言説をする人は世に多い。

 

 ゲイシズムもお笑い芸人のコメントも1つの流行だろうから、それを批判するのは意味がないかも知れない。しかし受け手側は警戒しなければならない。特に性規範の再生産は何も良いことをもたらさない。旧態依然とした男女観を維持するだけだ。日本の性規範は息苦しい。過剰である。それをオネエが助長してどうする、と言いたい。

 乱暴なことを言えば、女とはを性規範で語るオネエは「そこいらのオバサンと同じ」なのだ。言ってる内容も大差ない。そういう意見を聞きたければ、「そこいらのオバサン」に聞けば良い。オネエである必然性は何もない。個人の理想を語ることは自由だ。が、それを人に押しつけてはいけない。それはあくまでも主観に過ぎない。どうか惑わされずに、自分の自然を発見し貫いて欲しいと願う。

 これもまた自分の主観であり個別の経験ではあるが、世間に圧迫され、折れて合わせてきたことに自分は後悔がある。性規範に従って良いことは1つも起きなかった。自己選択・自己決定が自尊心を保つ最良の方法だと信じている。そこには後悔がない。失敗したら反省はある。が、自己否定に走るほどの後悔は生じない。自己肯定感。これを得られず人は苦しむ。自己肯定感こそが自尊心の源だと自分は考えている。

 

マイノリティー差別について

 某所でゲイだと友人にバレた人が相手から投げつけられた言葉が公開されていて、それを見て何とも言えない気持ちになった。好き嫌いは仕方がないし、友達をやめるのは自由だと思うのだが、それにしたって言って良いことと悪いことがある。25年も友達で、たったその属性1つであそこまで言えるのかと愕然となった。

 一方で、そういうことはよくあると知っていたし、内容も色々読んだことがあるが、書き起こされた言葉ではなくオリジナルを見たとき、これを自分が言われたときの気持ちを想像してゾッとしたし、それが十分に想像がついていなかった自分に気づいた。上っ面で理解して、本当には分かっていなかったのだ。

 

 公開されていたのはラインか何かのスクリーンショットだと思われる。暴言・罵倒・誹謗中傷といった内容で、ありがちな偏見に満ちた差別的な言葉が並んでいた。こういう表現をしてしまうとインパクトが消えるのだが、酷すぎてとても書く気になれない。

 言われた人は「仕方がない」と書いていた。友達間の関係のこじれは仕方がないのだが、属性に向けられた暴言や中傷は仕方がないとは到底言えるものではない。しかし、長年直接・間接に誹謗中傷されてきたマイノリティーは、それに怒る気力も失ってしまうのか。友人など自分以外が言われたら怒るのだろうが、自分のこととなると怒らない人が多い気がする。個人的な感情だからと押し殺すのかも知れないし、ショックが強すぎて怒りが湧いてこないのかも知れない。冷静に受け止めようとする本人の強い理性は賞賛に値するが、何ともモヤっとした感情が残る。

 

 差別はよくないとか、やめましょうなんて表層的な言葉では表現できない、何かもっと別の、やりきれない感覚が残る。同性愛差別に限った話ではない。ここまで酷いことを言われるのは男性同性愛者が多いかも知れないが(男は言葉が乱暴だから)、その他のセクシャルマイノリティーも言われるし、在日外国人への差別や障害者への差別もある。どれも無知に根ざした偏見に満ちた暴力的な内容だ。

 自分の属性を離れれば、自分が差別する側になる。被差別属性を持っていて、これを忘れている人は多い。自分は差別を受ける属性だから他人を差別していないと信じ込む。そんなことは不可能だ。差別をしない人はどこにもいない。

 とても幸いなことに自分は精神と発達の障害を持っていて、セクマイでもある。宗教も肯定しているし、自身もかなり傾倒した時期がある。自分が有色人種だから人種差別には嫌悪がある。それでも自分には無縁な被差別属性は沢山ある。自分が配慮が足りないと心配しているのは知的や身体の障害だ。子供を育てたことがないから、子育てのリアルを知らない。男性恐怖症や女性恐怖症などの恐怖症は想像がつくのだが、気が弱いとか心が弱い人に十分な配慮はできていないだろう。

 

 最近、しばしば「女ってどうしてこう自己中なんだろう」と感じる時がある。それは目の前のその人が自己中なだけなのだが、イラッとした瞬間にそのフレーズが頭を過ぎる。そして、頭の中で自己中な男の言動を一生懸命思い出す。自己中なのは女に限ったことではない、それは性差別だと確認するためだ。簡単に自己中な男の言動がいくつも思い出せるが、自己中の内容に微妙な印象の差がある。そして女特有の自己中さについて考え始める。そんな作業が多い。

 一方で、男にイラっとするのは無神経な発言に多い。相手の心情を慮る訓練が男は女に比べて弱い。能力の差というより文化の差だ。そこまで気にしなくてもたいていの男は簡単に傷つかないし、人間関係もこじれない。女の場合、ちょっとした言い回しで傷ついたのなんのと怒る人が多いから、気を遣う訓練が子供時代からできている。女性の言葉遣いや表現がソフトなのは性差ではなく、こういう経験の積み重ねなのだ。

 

 冒頭に書いた例でも、「同性愛だけは許せない」と罵倒者は書いていたが、これをレズビアンに対しても投げつけるのかと言えば、そうとも思えない。男が男に投げつける言葉の乱暴さに、自分が慣れていないので余計にショックを受けたのかも知れない。言われたほうが「言われ慣れている」のは、こういったきつい表現・露骨な表現のことかもしれない。そうだとすると「差別だから許してはいけない」と吹き上がるのも少し違う気がしてくる。(差別には間違いないのだが。)

 そうは言っても、差別する側として考えたとき、そこまで言うのは言いすぎだと感じるし、言って良いことと悪いことがあるという感想も変わらない。では自分は誰かの能力に対し、決して言い過ぎていないのか。言い過ぎないように気をつけてはいるが、相手からしたら「酷い」という場面は沢山あるだろう。

 属性を笑いものにするような冗談については、もっと危険だ。色の見え方と年齢に関連性があるという年齢チェックをネットでやったのだが(25歳と出た)、色弱の人からしたら不愉快な話だろう。こういう偏見を振りまく遊びは沢山ある。

 自分もやらかしているかも知れないという発想、自分の傲慢さへの警戒は、いくらしてもし過ぎることはない。一方で、ウッカリは誰でもするものだから、過剰に非難したり攻撃してはいけない。冒頭の罵倒者も、今はそう言っても数年後、反省して謝罪するかも知れない。人は生きてる限り成長できるからだ。

 

 

 

 

性別は社会規範なのか

 性別には生物学的性別(biological sex)、社会的役割(gender role)、性自認(gender identity)の3種類があると定義される。妥当な分け方だが、様々な視点から見ると不服がある。

 性別をあらわす英語はセックスとジェンダーの2つがある。通常、セックスは2つ(男女)と考えられているが、性分化疾患DSD)を視野に入れると二分法で考えるのは危険とされる。が、DSDの当事者の中には「第3の性」を自認する者もいれば、しない者もいる。(しないほうが多い。)ざっくりとDSD=第3の性と捉えてはいけないのだ。

 その理由は、性別を決定するのはセックスではなく主にジェンダーだからだ。DSDの当事者の多くは、性自認がXジェンダーではなく男性か女性かどちらかだ。ちなみにDSDは「半陰陽」「両性具有」「ふたなり」「アンドロギュノス」などと言われるが、男性器と女性器を完全な形で兼ね備える例は稀だ。また、性染色体がXXYの人というのは誤解である。多くは性染色体と一致しない生殖器を持つか、どちらとも判別しがたい不完全な生殖器を持つ、XYまたはXXの人々だ。

 DSDの当事者を「第3の性」と見なすのは生物学的性別(セックス)だけで性別が決定するという間違った考えに根ざしている。セックスだけで性別が決定するとされた場合、性同一性障害も性別違和も存在しないことになる。ジェンダー否定論であるから、性自認も無視される。自分が泣こうが喚こうが性別は形状で決定する。であるから、この考え方は自分には受け入れがたい。

 本当ならジェンダーの問題に彼らを巻き込むべきではないのだが、DSDの人を引き合いに出した意図は、「形状で性別は決定しない」と言いたいからだ。彼らの性自認は形状がどうであれそれぞれに決定していて、性別違和の率は低い。ウィキペディアによると、2005年のドイツの調査ではDSD当事者でXジェンダーを自認する人はわずか9%だったらしい。

 

 性別について考えてみよう。性別はまずセックスとジェンダーの2つがある。これが大前提だ。何故セックスだけでは駄目なのか。人間の生きている社会では、性別が単なる生殖機能から離れ、意味が増幅し、複雑な概念や価値体系を作り出しているからだ。人々が考える性別の多くは「社会的な性別役割」なのだ。このことをシスジェンダーの人達は殆ど意識せずに生きている。

 もし性別が純粋に生物学的なもの、つまり生殖に関わるだけのものであれば服飾の性差もないし、言葉や仕草の性差も必用ないはずだ。授乳期を過ぎた子供の養育が役割分担になるはずもない。雌の役割は子供を妊娠・出産し、授乳すること。乳離れした幼児の成育に対し、養育者が男か女かで大きな違いはないはずだ。ところが性別役割分担ではそれが女性の仕事と決められている。授乳で築いた信頼関係を利用して、その後も子育てを担当するというのは一見合理的ではある。だから、そうすることを批判はしない。しかし、保護者が女性、それも生みの親であることは必須ではない。

 自分はジェンダーを「文化的性別」と捉えている。社会的役割も文化だし、社会での扱われ方も文化だ。国や地域・時代によって差があり普遍性がない。こういったものは自然物ではなく人工物、アプリオリではなくアポステリオリなもの。それをザックリと文化と呼ぶことにしている。性差にまつわる文化は多岐に渡っており、自分が何を選択するかの好みも左右するし、生活のすべてに及ぶ。社会と接するときは社会規範として働き、歩き方から話し方、あらゆる行動を規制される。

 

 では、性別違和とは何だろうか。自分の場合、肉体違和は比較的弱い。それは、物心ついてからずっと自分が見てきた、自分自身と認識するモノだからだ。変化もつぶさに見てきた。長年の間にソレに対する慣れが作られている。全部ではないが、受け入れることができていると思う。

 その一方で、自分の持つ文化は女子的ではなく、そういうものに興味を持ったことはあまりない。とはいえ兄弟がおらず姉2人と一緒に育つと、同じような立場の男子がそうであるように姉の文化的影響はそれなりに受ける。少女漫画を読み、少女向けアニメを見、女の子の遊びに付き合わされる、といった具合だ。

 自分の場合、小学校時代は長女が少年漫画雑誌は「汚い」からと持ち込み禁止で、少年漫画を読み始めたのは中学から。雑誌は買わず(少女漫画雑誌を買うので小遣いがなくなるため)、友達から単行本を借りて読んだり、立ち読みしたり、店などに置いてある少年誌を読んだ。少女アニメはつまらなくて(一応は見たが)、少年向けアニメを好んで見た。女の子の遊びはあまりしたことがなく、野外でするのは虫取り、カエル取り、川遊び、探検ごっこが主だった。秘密基地を作ったりもした。しかし一緒に遊ぶのは女子が多く、男女混成で遊ぶ機会は半分以下だったと思う。前出の銀球鉄砲の他、かんしゃく玉もよく遊んだ。メンコ・ベーゴマは下手だったが、そこそこたしなんだ。

 一方で、いわゆる人形遊びはしたことがない。人形が嫌いだったのだ。人間の形に嫌悪感があったから、もらった人形を丸裸にし、髪の毛を坊主にし、折り曲げて壊した。ぬいぐるみは好きで、沢山持っていたが、それで遊ぶということはあまりなかった。触っていると落ち着くという程度。動物が好きで、家で飼っていた猫・犬・ウサギ・その他色々をかまっている時間が長かった。虫の観察も好きだった。あとはプラモデルを作っていたり、電気製品を分解しては組み立てたり、学研の科学の付録で何かしていたりだった。これが小学校時代の遊びだった。

 

 自分にはすごく重要な文化がある。1つはサッカーだ。小4か小5の頃、偶然見たサッカー番組に夢中になり、毎週かかさず見ていた。それまで野球や相撲はあったが、サッカーなんて存在も知らなかった。自分は野球が苦手で、キャッチボールもあまりしなかった。肩が弱くて上投げが下手だったし、棒を小さなボールに上手く当てるのも苦手だった。

 始めて見るサッカーの面白さは何とも表現できない。最初はルールさえ分からず、ただ見ていた。ボールを足で蹴るだけの単純なスポーツだと思った。当時よく放送されていたのがドイツのブンデスリーガで、接触プレイを嫌うお国柄だが流血沙汰もよくあった。それも含め、面白くて仕方がなかった。解説者とアナウンサーの会話から細かいルールを飲み込んでいくと、さらに面白さが増した。ドイツ人の長身の選手は格好良かった。体が大きく、骨格も日本人とは全然違う。ところが、同級生や友達でサッカーを知っている子は一人もいなかった。

 もう1つの重要な文化がロックだ。これは中学1年のとき、テレビを見ていて知った。それまで歌謡曲やフォークしか聞いたことがなかったから(生まれて初めて買ったアルバムは井上陽水の『氷の世界』だった)、この異文化には衝撃を受けた。北関東の田舎の退屈な生活に、海の向こうから刺激的な音が届いた。ファッションも格好良くて、すぐ夢中になった。当時夢中だったのがクイーンのフレディー・マーキュリー。始めて買ったロックのアルバムはクイーンだった。他にはローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか、男臭さ満載のバンドが多かった。

 サッカーやロックの話を書き出すと止まらないから自重するが(実は歴史の話も書き出すと止まらないので、前の記事でも公開した量の倍ほどの歴史の話を書いてしまい、削除した)、これらの要素で構成された自分の文化には性別などなかった。その後も小説や映画と自分の文化は増えていくのだが、そこにも性別の要素はあまりないと思う。つまり、自分が吸収していた文化は日本の性規範の埒外にあったし、女子的と考えられる文化に興味を持たなかった。

 かといって男子の文化の中で育ったわけでもない。小学校高学年ともなると、男子と女子は距離を取り始めるし、一緒に遊ぶのも同性になる。中学になると妙に意識して、特に男子が女子と距離を取ろうとする。兄弟はいなかったし、一緒に育った男の子達とは年が離れていて、あまり接点がなかった。だから男子が共有していた文化を、自分はそれほど吸収できていない。

 

 文化はこういった遊びの文化だけではなく、好み全般を支配している。ソレを好きと思っている自分が、本当に心からソレを素晴らしいと思っているとは限らない。「好むべき」という規範によってそう思わされている可能性がある。自分は確信的にコレが好き、アレが好きとやった結果、自分には文化的な女性性が希薄だと認めざるを得なかった。しかしそれが性同一性障害なのかと聞かれると、確信を持ってそうだと言える自信はない。

 性規範の中でも服装の性規範は非常に厳しい。特に男性が女性の服を着ることに対し、世間は厳しい目を向ける。シスジェンダーはこういった性規範に馴染み、それを全部肯定しないまでも受け入れることができている人々だろう。しかし、性別とは社会規範なのだろうか。性別が社会規範に利用される部分はあるが、性別そのものが社会規範だとするのは非常に危険な気がする。

 肉体的性別違和は自然に内面から出てくる。しかし文化的性別違和は人為的に作られているのではないか。文化的故に生活している時代・地域・国の性規範によって強まったり薄まったりする、相対的なものに過ぎないのではないか。最近そう考えるようになった。そう考えることで、自分自身の中にある性別に対する強いこだわりを薄めていけたら、と思っている。

ミソジニーについて

ミサンドリーについて書いたのでこれも書いておこう。

フェミニストがよく使うミソジニーという言葉の意味は多義的だが、元々は英国の男性専用社交倶楽部のホモソーシャル(単性の社会、この場合は男性のみで構成される場)な関係を説明するために定義された言葉で、直訳だと「女嫌い」になる。未読だが、米国の文学者イヴ・セジウィックジェンダー論・クィア理論で有名)が『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(2001年)の中で定義したらしいが、日本では上野千鶴子氏が『女ぎらい』(2010年)の中で取り上げ(タイトルもモロにそれ)フェミニズム界隈に知られるようになった。

 英国の社交倶楽部は会員になれるのが男性だけ。倶楽部施設内に入れるのは会員だけ。ということで男性だけの空間だった。その中ではミソジニー女性嫌悪)とホモフォビア(同性愛嫌悪)が共有された、という定義。日本でこれに当たるのは体育会系と言われている。(女子選手がいない野球・サッカー・ラグビーなど。)

 この言葉を上野氏が利用しているのだが、フェミニスト(気取りを含め)が使う意味は女性蔑視・男尊女卑に近い。何故なら異性愛者の男性が本気で女性を嫌悪することは難しいからだ。しかし近年の女性優遇社会(では本当はないのだが、女の言うことを聞き過ぎることから一部男性がそう言い始めた)に反発を感じる人々(主に男性)によって蔑視どころではない女性嫌悪が叫ばれ始めている。

 

 英国の男性専用倶楽部(男性専用しか存在しなかったが)では、「女は馬鹿だ」「話がつまらなくて退屈」「一緒にいると疲れる」「女はワガママ」といった男性の不満から、息抜き場所のような働きを倶楽部が持ち、その中は「女人禁制」だった。レディーファーストや騎士道のお国柄故、男性に課せられる過剰な負担からの解放として利用された。

 利用者は貴族や中産階級で、パブリックスクール(私立の学校)を出た金持ち連中。彼らは子供の頃から寮生活をし、男女が厳しく分けられた空間で成長する。大人になって一般社会に戻るが、女性が何の責任も果たさない社会で、すべての責任を押しつけられる。当時の貴族階級・中産階級の女性は働くことがなかったし、家事は使用人がやる。子供を産む以外、役割がないのだ。一方で高い教養を身につけた男性達は、彼女らの話が学がなくつまらないと感じる。結果、「夫の役割」を最低限こなし、余った時間を倶楽部で過ごす。というのがライフスタイルだった。(当時の倶楽部内の雰囲気は映画・小説・マンガなどで知ることができる。)

 どうしてこれがホモフォビアなのかと言うと、倶楽部内での恋愛沙汰は御法度だった。せっかく女性との面倒な人間関係から逃げてくるので、そこでもまた恋愛関係でいざこざがあっては台無しだ。ということで同性愛者を排除する、ということになったらしい。男同士の友情がもてはやされ、女性との恋愛は劣ったものとして軽蔑された。最近流行のブロマンスという言葉があらわすのが、この関係に近いかも知れない。

 しかし実際には同性愛者はいただろうし、人知れず恋愛沙汰もあっただろう。セジウィックの定義は相当にステレオタイプな感じを受けるが、当時は法律で同性愛行為が禁止されていてバレたら実刑だったから、堂々とそういう関係を持つ人はいなかった。

 

 上野氏の『女ぎらい』でも言及されているが、女性を軽蔑しながらも女性によってしか性欲を発散できない男性の葛藤がミソジニーの原因らしい。葛藤があるかは知らないが、女性軽視の一方で女性によってしか発散できない性欲の結果が女性を性欲処理器と見なす考えを生み出すことは間違いない。それならば、やはり女性嫌悪というより女性蔑視と言ったほうが収まりが良い気がする。

 ミサンドリーとの違いが分かって頂けるだろうか。ミサンドリーは男性蔑視ではなく嫌悪だ。嫌悪の裏には恐怖がある。一方でミソジニーには女性恐怖症は含まれない。もちろん人によっては恐怖心に似た嫌悪がある場合もあろうが、多くは軽視・蔑視である。

 

 フェミニストがこのワードを利用するのは、男尊女卑社会を糾弾するのに便利だからだ。しかし現在の日本では、多くの男性が男尊女卑思想を持っていない。非常に保守的な一部の男性はまだそんな世迷い言を言っているようだが、多くの人がそれに共感しなくなっている。だから政治家の失言に女性だけではなく男性も怒りを示す。日本は男尊女卑社会なのだろうか。

 日本の男尊女卑は男性個人の思想というより社会構造だ。会社員と専業主婦の夫婦がモデルケースとされ、女性の社会進出が難しい点。それをしようと思ったら結婚・出産を諦めなければいけない点などだ。キャリアを中断して退職した後の再就職の難しさも原因の1つ。(これは男性でも難しい。)

 だから男性を攻撃しても意味はないし、問題解決にならない。社会構造を変える必用がある。それには「性別役割分担」という間違った通念を破壊する必用があるのだ。それなのに「自称フェミニスト」達は個人的な憎悪を個別の男性や表現物にばかりぶつけ、一向に社会構造の変革に乗り出してくれない。自分勝手な欲望に走る「自称フェミニスト」達は社会の役に全然立っていないのだ。

 それもそのはず、彼女等は保守と変わらない性差別主義者、「性別役割分担」の肯定者、ジェンダーフリーの敵対者だからだ。しかし彼女等の存在に一番困り果てているのはフェミニストだろう。

アスペルガーの3つのタイプ

 アスペルガーには3つのタイプがあるとされる。周囲に関心が薄くコミュニケーションが取りにくい「孤立型」、自分から働きかけることがなく受け身の「受動型」、活動的で自分からの働きかけが盛ん過ぎる「積極奇異型」。発達段階に応じて孤立型→受動型→積極奇異型と移行することが多いと説明されている。
 しかし「他人から見て奇妙に見える」ほどの積極性が最終段階というのでもない。行き過ぎた行動を慎むようになったり、一見孤立型のように周囲に対する関心が低くなることもある。幼少期の孤立型は興味関心の狭さ・外界認識能力の低さから起きるが、大人だと自己完結型とでも言うのか、他者をあまり求めなくなる。
 元々アスペルガーの人は他人がいると疲れてしまうから、独りで過ごす時間を確保しようとする。そうは言っても退屈はするから、誰かを捕まえて話したいことをガーっと話したりする。エネルギーの発散だ。この行動が積極奇異と呼ばれるのだが、24時間365日、積極奇異かと言えばそういうわけではない。
 また、必ずしも3つのうちのどれかの特徴だけを持っているわけではなく混合もあるから、どの行動パターンが強く出ているのかを見極めて対処する必要がある。受動型はもっともストレスが強いとされる。

 4つ目のタイプに「大仰型」を入れる人もいる。言動がドラマティックで大仰だからだそうだ。別に演技的だというのではなく、表現が大袈裟だったり、詩的な表現を好んだりするかららしい。自分にはこの傾向がかなりあるが、これを先の3つと同等の別のタイプとして切り分ける必然性はないように思う。

 

 成長して再び孤立傾向を示すアスペルガーは、シゾイド・パーソナリティー障害に似た特徴を持つかも知れない。

 以下、シゾイド・パーソナリティー障害についての引用。

 

 「A. 社会的関係からの離脱、対人関係場面での情動表現の範囲の限定などの広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。
 以下のうち4つ(またはそれ以上)によって示される。

 ①家族の一員であることを含めて、親密な関係をもちたいとは思わない、またはそれを楽しいと感じない
 ②ほとんどいつも孤立した行動を選択する
 ③他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない
 ④喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない
 ⑤第一度親族以外には、親しい友人または信頼できる友人がいない
 ⑥他人の賞賛や批判に対して無関心に見える
 ⑦情動的冷淡さ、離脱、または平板な感情状態をしめす」

 

  大人の孤立型で出るのは①、②、③、⑥、⑦あたりか。元々持っている傾向でもあるし、問題行動が収まった後の完成形でもある。

 パーソナリティー障害と言われても、これのどこが悪いのかまったく分からない。が、シゾイドとはスキゾイド(統合失調)の意味だ。人に積極的に関わって喜びに満ちた人生を歩むのが「普通」という決めつけ・思い込み・偏見があるからこんな定義になる。幸福の形など人によって様々。余計なお世話だ。

 

 自分も成長過程に応じた3つのタイプを経過している。育てた人によると大人しい、殆ど泣かない、手のかからない赤ん坊だったそうだ。仰向けに寝たままボーッと天井を見ていたらしい。親の都合で言えば「手のかからない良い子」だが、孤立型の「周囲に関心がない」状態だとすれば「赤ん坊らしくない不気味な子供」である。幸い、自分を育てた人は前者で解釈していたらしい。可愛がって頂いた。(母親の感想は後者だったらしいが。)
 次に受動型期に入り、自分からはしゃべらない、活動的でない大人しい子供だったらしい。言語の遅れがあったわけでもなく、相手が言うことは通じるが自分からの働きかけが少ない。それでも近所に同じ年頃の子供がいたため、遊びに誘われることも多く、結構一緒に遊んだ記憶がある。幼稚園ではそこそこ「悪いことをする子供」で、先生にきつく叱られた記憶もある。幼稚園では文字を覚えて、絵本を沢山読んだ。
 積極奇異型に移行した時期がいつかは分からないのだが、一番上の姉の話では「突然、ものすごくしゃべるようになった」らしい。しゃべり出すと止まらないから、辟易しながら付き合っていたようだ。さらに母親の話によると「屁理屈をよくこねた」らしい。ここでの屁理屈とは屁のような理屈ではない。うちの地元では理屈のことを指す。(論理性軽視の大嫌いな言葉だ。)母親からは子供時代から大人になるまで「理屈っぽい」と嫌がられた。
 やたらに大人に質問したり、自分の話したいことを一方的に話し続けたり、自己主張が強すぎて頑固だったりするのは子供の発達過程で普通にある。時期が大きくずれているからおかしく感じられるのかも知れないし、そのやり方が少し変なのかも知れない。

 

 発達障害は遺伝性だとすると我が家の場合、父親もたいがい変人だったが母親は間違いなく発達が遅れていた。極端に子供っぽい感情表現とか、他人の情緒をまったく考えない言動が際だっていた。自分が高校生になってからは「我が家の唯一の子供」として家族全員から大目に見られ、扱われた。それがまた馬鹿にされてるようだと言っては怒る。いや、馬鹿にしてますとも。大人としての分別も判断もできない人間を、馬鹿にしないわけがない。
 母親は勉強ができたのがプライドで、元教師が自慢の種。しかし情操という点では本当に子供のようで、いつも夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。父親のやってることもそれなりに酷いのだが、子供の目から見ても母親が怒り過ぎる。他人の失敗を寛容できない。他人に完全さを容赦なく求める。子供が病気をすると心配するのじゃなく叱りつける。あげくに犬や猫にもマジギレ。姉が子供を産んだら、赤ん坊にもマジギレしていた。普通に「ヤバい人」だった。
 自分の子供が子供とは言えない年齢になったとき、母親は子育てから解放された。家が商売で、両親が忙しかったことから、我々子供は放任されていて自立も早かった。親に朝起こして貰ったのは小学校中学年まで。中学からは弁当もなかった。必用なら自分で用意する。洗濯も自分でするし、夕食の準備もしろと言われればする。むしろ店の手伝いも含め、よく働かされた。それでも母親は「子供の面倒を見なければいけない」というプレッシャーがあったのだろう。子育てから解放されて、余計に子供っぽくなった。それを家族は「仕方がない」と容赦していた。姉達などは「可愛い」と言っていた。誰も彼女に「大人の分別」を求めないし、「親としての振るまい」も求めなかった。
 こんな具合だから自分は親に甘えたことがない。それを不満に思ったこともない。そもそも親に愛着はまったく持てなかったし、何の期待もなかった。これはかなり幸いだった。求めることがなければ失望もない。欲求不満にもならない。暖かい家庭ではないが自由があった。自分は満足し、家を出て独り暮らしをすることばかり考えていた。姉達とは仲が良かったし親しい友達もいたが、独りで過ごす時間も長く単独行動が多かった。普通と言えば普通。男の子だしね。

 

 3つのタイプに話を戻すと、この行動パターンは今でも出る。調子が落ちているときは幼児孤立型のように周囲への関心が薄まり、反応も薄い。関わり合いたくない人や苦手なタイプを前にすると受動型になりストレスを溜め込む。好きな相手の前や、調子が上がり過ぎて活動的になると積極奇異型になり、いらんことをして迷惑をかけたり、マシンガントークを長時間続ける。落ち着いていて内省的な時は成人孤立型になり、よく考えて落ち着いて行動できるし、判断もそこそこ的確になる。しかし何か突発的な出来事があると「退行」して、判断にも行動にも問題が出たり、癇癪を含めフリーズを起こす。

 つまり3タイプの有様というのは奇異なものではなく、程度の差こそあれ誰にでもあるのだ。それが極端で過剰だから障害と呼ばれる。アスペルガーは宇宙人ではない、と自分が主張する理由はこれだ。我々は「異物」ではなく、人間が普通に持っている特徴を、ただ物凄く極端に過剰に、コントロールしてないかのように放出しているだけなのだ。

3つ組の障害を持つアスペルガーの定義(ローナ・ウィング)

 アスペルガーがどういうものか知るのに参考になる基礎的資料がこれ。ローナ・ウィング監修。

 

www.autism.jp

 

 カナー型自閉症と同じ「3つ組の障害」を基本にした考えで、「社会性の障害」(他の人と一緒にいるときに、どのように振る舞うべきか)、「コミュニケーションの障害」(自分の思っていることをどう相手に伝えるか、そして相手の言いたいことをどう理解するか)、「イマジネーションの障害」(ふり遊びや、見立て遊び、こだわり)で説明している。カナー型だとこの3つが「できない」くらい低いのだが、アスペルガーの場合できないわけではなく、「定型者のように器用にこなせない」「他人から見て奇妙に見える」のだが、本人は自覚がない場合が多い。

 

 このサイトで紹介している特徴だが、「同年齢の子どもと波長があわない」はない。友達は同年代ばかりで、むしろ小さい子と遊ぶのが苦手だった。自分が末っ子で、たいてい年上に囲まれていたせいかも知れない。自分の母親は赤ん坊や猫にもマジギレする人で驚かされたが、自分も年下の小さい子になかなか我慢ができない。

 「分かりにくい話し方,訥々とした話し方」はあるが、「駄洒落を好む」はない。昔から冗談が苦手で殆ど言わない。たまにつまらない駄洒落を言ってしまい、友達が固まってしまい恥ずかしくなった。「ものまね」は大の苦手。他人の口調を真似るのも最近やっとできるようになった。が、「テレビ・ビデオへの興味」が強く、テレビっ子だった。「思考を言葉に出す」「常同運動」はない。これ以外はだいたい思い当たるのだが、経験から拙いと思い修正したものもある。今でもウッカリすると出てしまうが、定型者だってウッカリくらいするだろう。

 

 その下にある「特有ではないが良く見られる特徴」のほうが心当たりが多い。「不器用」で子供の頃はボタンが大嫌いだった。今でもジッパーを最初かみ合わせるのが中々できないことがある。字はもちろん下手。今でも左右盲だが、子供の頃は鏡文字を頻繁に書いた。

 特に当てはまるのが「音や光、味などへの過敏さ・音への敏感さ・視覚的敏感さ・味覚の敏感さ・嗅覚の敏感さ・触覚的な障害」で、感覚過敏は臭覚以外全部ある。服のタグ切りはデフォルト。「痛みに対する反応」も過敏で、歯医者によく怒られた。痛覚が強いようだ。
 「学習の問題」は自分の場合、高校2年の二学期から目を見張るほど成績が下がったが、これは単にまったく勉強しなかったからだと思う。興味のないことは一切できない。決まり切った答えがある算数・数学は得意で国語も得意だったが、言語能力は高いわけではなく英語・古文は壊滅的だった。注意力は一点集中で色々な対象に広く薄く注意を向けられない。だから、よくあちこちぶつけた。それがあって動くときは注意深い。計画性が一番違っていて、計画を立てるのはむしろ得意だ。旅行の計画など、行きもしないのに暇つぶしで詳細に作った。実際に行くと、予定を分単位で正確にこなさないと気が済まない。変更が加わると判断ができなくなって非常に困る。


 こういうのを改めて細かく見ていると、自分はアスペルガーじゃないのではないかと思えてくる。別の発達障害(多動はないからADHDではないし、過集中があるからADDでもない)か、そもそも発達障害ではないのか。疑い出したのも感覚過敏の部分だった。確定診断を受けてる人だってピッタリ当てはまる人ばかりではないだろうが、「違う」という結果が出る可能性はある。

 ウィングという人は「アスペルガー高機能自閉症を区別しない立場」だ。どちらにも「3つ組の障害」があり、大きな違いはないと書いている。一方でこれを明確に区別する立場もあって、

 「ICD-10DSM-IVアスペルガー症候群は認知・言語発達の遅れがないこと、コミュニケーションの障害がないこと、そして社会性の障害とこだわりがあることで定義されます。」

としている。診断したらアスペルガーではなく非定型自閉症と言われるかも知れないし、そもそも自閉症じゃないと言われるかも知れない。ちなみに、ネットで試せるアスペルガー自己診断では39ポイントだった。

ミサンドリーについて

 昨今ネットを中心に男性に憎悪をぶつける女性が増えている。性的消費がとか、性的搾取がといったフェミニズムの用語を多用するのでフェミニストと思われがちだが、彼女らはフェミニストではない。非常に厳格な性差別主義者だ。

 フェミニストではなく性差別主義者だという理由は、フェミニズムは男女同権・不公平の是正を目指す思想だが、彼女らは決してそこを目指さないからだ。女性の権利確保・女性解放を叫んでいるように見えて、動機は男性嫌悪。だから男を全部去勢しろという話になる。

 個々人の男性嫌悪については仕方がないのだが、それを動機に社会的な問題に言論するととんでもなくおかしな言説になってしまう。誰かの権利・人権を度外視し、一定の属性の人権を侵害・否定する言説は、差別主義者のそれである。人種差別主義も性差別主義も障害者差別も皆、そのように言説している。

 男を全部虚勢した場合、困るのは女も一緒だ。レズビアンはともかく、異性愛者は非常に困る。だから男性排除主義のような彼女らの言説は数多い異性愛者の女性をも攻撃対象にしてしまっている。

 

 人権はゼロサムゲームではない。人種差別主義者も排外主義者も、同性婚否定論者も夫婦同姓論者それを忘れている。他人の権利が認められても、自分の持っている権利は少しも損なわれないのだ。

 女性管理職が少ない日本の現状を変えるため一定期間、新たに任命する半分を女性にしなければならない、という決まりを作っても良いと自分は思っている。これを5年10年やって女性管理職がある程度増えたら、「性別で出世に差別を作ってはいけない」に戻す。管理職だけではなく、裁判所判事や政治家など社会の上層と呼ばれる役職でこれをやれば、男性が権力を独占する社会を変えられる。

 しかし、こうしたからと言って男性の権利が損なわれるわけではない。個別には自分が出世できるタイミングだったのに女にポストを取られた、といった不満はあろうが、本当言えば能力が足りなかっただけだ。男性との競争に半分以上勝っていれば男の中で上位に入れるのだから出世はできる。「女のせいで」などと言う人がいれば負け惜しみである。

 考えてみて欲しい。完全に能力で決まる大学受験で、女を合格させたから俺が落ちたんだなんて言う男がいたら馬鹿である。女子大というのはあるが男子大はない。男子の入学を制限している四大は存在しない。高校と違って合格者の男女比も決められていない。受験の成績順で合否を決めている。だから上位の大学ほど女子学生の比率は低い。 もし「女を東大に合格させるから俺が落ちたんだ」なんて言う男がいれば全東大生から馬鹿にされるだろう。「女より良い点数取ればいいんじゃない?」と言われて終わりだ。試験の点数だけで勝ち残ったのが東大生だ。これは女子大を除くどこの大学でも同じだ。

 

 ミサンドリーフェミニスト(本当はフェミではないが)は大きな勘違いをしている。彼女等を抑圧しているのは男性ではない。男性中心主義の社会なのだ。男性中心主義の社会の上層部にいるのは男性だが、それを支持する沢山の女性がいる。性差別を肯定し受け入れる沢山の女性がいるから成り立っている。女性が一人残らず一斉に「No!」と言ったら維持できない。

 子供の頃から自分に性差を押しつけてきたのは男だったのかと言えば、むしろ年長の女性が多かった。小学校の女性教師、中学・高校の家庭科教師、会社のお局様や女性の先輩社員、近所のおばちゃん。思い浮かぶ顔は殆ど女性だ。中にはおっさんも勿論いるが、数にしたら圧倒的に女性が多い。彼女等がこの性差別社会を維持している。自分がそうありたいを他人に押しつけ、社会規範を作り、圧力をかける。男を思い上がらせ、いい気にさせて来たのはそういった女性達の、男尊女卑とも言い切れない性別役割分担思想なのだ。

 何故こういうことになるのかと言えば、性差別の激しい日本では、逆に男は女のことにあまり口出しできない。勘違いした旧式な価値観の人は勿論いるが、自分の彼女でもない人にとやかくは言いにくい。「女はこういうもの」「女ならこうすべき」を日常的に押しつけてくるのはたいてい女なのだ。彼女等を名誉男性などと呼ぶのは間違いだ。非対称性を好む立派な女性である。名誉男性などという言葉は問題の本質を分かりにくくするだけで何の役にも立たない。

 

 このミサンドリー(男性嫌悪)が何から生じているのかと考えてみる。セクハラや性暴力はもちろんあるが、子供の頃から繰り返し受け続ける男子からの「ブス」という罵りは女子にとって非常にきつい。ルッキズム(容姿至上主義)として最近は激しく攻撃されているが、容姿のことだけではない。「素直じゃない」「可愛くない」「女の子らしくない」「生意気だ」といった具合に人格の多岐に渡っている。当然これを言うのは同年代の男子に限ったことではない。女子も言うし大人も言う。こうやって細かく細かく小さな攻撃を浴び続けるうちに人格を否定された気持ちになり、自信も失うし恨みも抱く。性別の問題だけではないのだが、女子は男子より規制が多い。

 もし男子が「生意気」「可愛くない」「素直じゃない」「男の子らしくない」と言われたとして、どれほど人格を傷つけられるだろうか。男の子は生意気なものだし、可愛いと言われて喜んだりしない。素直なことが良いとかそれを目指す男の子しか「素直じゃない」にショックを受けない。「男の子らしくない」はショックな子もいるだろうが、これは言い替えると「女みたい」であって性差別。女を劣った存在として見下さない子は気にしないかも知れない。

 人から否定的に言われるのは良い気持ちがしない。それは男女同じだが、上の言葉から受ける否定の強さを考えてみて欲しい。女子が受ける攻撃のほうが遙かに多いのだ。男子がきついのは能力の低さ。サッカーや野球が下手だとか、成績が悪いとか、面白くないとか、弱虫とか。能力で競い合う文化を強く持たない女子は、こういった否定はあまり受けない。女子ホモソーシャルでは、能力で相手を否定する言説は逆に嫌われる。男子が受ける否定の中で性別に関わるのは「男らしくない・女みたい・弱虫」だけである。しかも、それはどれも女子には無効だ。

 

 勿論、男子が生きやすいということは全然ない。男子同士のイジメは暴力的だし、能力でしか評価されないから自信をなくす場面は多いだろう。が、女子は「見た目と媚び」でこれをやられるのだ。「素直じゃない」と「可愛くない」は意味が全然違うのだが、女子の場合はしばしば同義で使われる。「可愛くない」は容姿のことだけじゃなく、服装・態度に及ぶ。この言葉は「媚びが足りない」と言い替えることが可能だ。女は媚びるもの。そういう偏見がある。

 自分はこんなだから、(ASということもあって)媚びることは一切なかった。「素直じゃない」「可愛くない」「生意気」は雨のように降り注ぐ自分への評価だったが、小学校時代それを気にしたことは一度もない。素直なことに価値を見いださないし、可愛いと思われたら気持ち悪い。生意気は男子の勲章だ。そう言われるたびに「自分は(男として)イケてる」と自信を深めた。素直で可愛い男なんて気持ち悪いだけだ。なんだそれ、という感じである。

 しかしこれが女子に向けられたならば、とてもきつい否定になる。その心情は自分にも想像できる。相手が自分を女子と見なした上でそれを投げつけてくるのだから、社会的評価としては否定なのだ。これが理解できるようになるのは中学以降だったが、「ウゼえ」「クソが」など内心舌打ちしたものだった。

 

 こうやって「女性としての存在価値」を否定されながら育った女性達が男性嫌悪になるのではないか。こう書くと「ミサンドリーはブス」という短絡した結論が出てしまうのだが、そうではなくて、それが心に刺さった人達だ。実際にブスかどうかは関係ない。容姿だけが問題になるのではない。男に対する「媚び」が足りない人もそうだ。容姿はまあまあでも、「媚び」が足りないと「ブス」という罵倒が飛んでくる。その罵倒から逃れられるのは、「誰が見ても超絶に可愛い子・美人」だけだ。

 ここに高校くらいから性的な興味関心がプラスされる。高校生ではまだ照れが強い人も多いだろうが(自分もそうだった)、セックスに興味も持つし実行する人もチラホラ出てくる。ミサンドリーフェミニストはセックスフォビア(性欲嫌悪症)という指摘もあるが、それは本当だろう。自分に性欲があれば男の性欲もある程度は肯定できるし、それを利用もする。「自分に性的関心を向けられるのが苦痛」な人達はセックスフォビアとなり、ミサンドリーを持つに至る。

 注意が必要なのは、ミサンドリー=セックスフォビアではない点。ミサンドリストの中に一定のセックスフォビアがいる、という、ミサンドリー∋セックスフォビアの集合関係だ。ミサンドリスト全員がセックスフォビアを強く持っているわけではない。その嫌悪の強さも個人差があるから、無自覚な人もいる。無自覚な人々はロマンティックラブ・イデオロギーを振り回す場合がある。性行為に真面目に正面から対峙する勇気がなく、愛だの恋だのにすり替えてしまうのだ。

 

 そして、この人達は自分のように「敵は男じゃなくて女です」と言う者がいれば、「女性を分断し対立させようとする男の手先」と見なす。いや、そうじゃなくて、本当に敵は「男性優位社会に同調し支持し、それを下支えしている女性達」なんですよ。気づいて下さい。今の時代、男なんて女の同意と支持がなかったら手も足も出せないんですから。 

 男の手先というより、自分は男なので男のポジショントークをしているように見える時もあるだろうが、女として扱われ女の位置で世の中を見てきたからこそ言える実感も色々ある。見たものを「女のポジショントーク」で語らないだけだ。自分には男性(純男)への敵意もあるし、異性愛者への軽い嫌悪もある。自分が語っているのは、「男女両方の性別を股にかけ、異性愛と同性愛の両方の視点を持って」見える景色なのだ。

 

アスペルガーの特長

記事から引用。

 「社会生活で必要なコミュニケーション力、想像力、社会性の3つに障害があるとされる自閉症スペクトラム障害(ASD)。」

 

economic.jp

 正確ではないにせよ間違ってはいない。想像力の障害の意味は多義的でしばしば誤解もあるように感じるが、挙げている例は頷ける。(現在、アスペルガー症候群は正式名称から外されている。自分がASと略称する場合、自閉症スペクトラムを意味するが、Dをつけないのは意図的。)

 

◎「言葉を文字の意味通りに受け取る」

 子供の頃、「鍋を見ていて」と頼まれ、吹きこぼれるまで見ていて怒られたことがある。「鍋を見張っていて、吹きこぼれそうになったら火を止めなさい、もしくは火を弱めなさい」と言われたらそうする。しかも気を利かせて、指示も受けていないのに「吹きこぼれてるよ」と報告にまで行ってやったというのにだ。不適切な指示の責任をこちらになすりつける定型の邪悪さ。さすがに次の時には、「吹きこぼれそうになったら火を弱めて」という指示に変わった。

◎「相手の気持ちを想像できない」

 目の前で誰かがタンスの角に小指をぶつけて悶絶するのを見れば、自分だってさすがに「痛そうだ」と思う。想像ではなく経験だからだ。泣いてる人がいれば、悲しいんだなとか苦しいんだなと思う。(本人がそれで泣いた経験があればの話。なければ経験のある理由で想像する。)気持ちを想像できないのは、もっと抽象的で目に見えない事象の場合だと思う。

 自分の場合で言えば、友達を階段の上で突き飛ばした時、自分は「こんなことをしたら嫌われるのではないか」と想像はできていなかった。「相手が怒るかも知れない」とも考えてなかった。これをすると相手が怒る、という紐付けは極めて弱い。思ったままを口に出し、相手を怒らせることが多いのはそのせいだろう。何故なら自分はそれで怒らないから、もしくは怒った経験がまだないから。

 これは「想像力の障害」とも関連するのだが、主には「情緒のズレ」ではないかと考えている。自分の場合はこうだ、が強くて人は違うということが想像できない。自分がそう思わない場合、それがあり得ると信じられない。定型者だって他人の予想外の反応にギョッとすることは多々あるだろうが、発達の人は定型者のたいていの反応にギョッとしていると思って貰うと想像しやすいだろうか。発達障害は宇宙人のようだと言われるが、こちらからすると定型者が宇宙人に見える。

◎「音や匂いに敏感」

 自分の場合、匂いには鈍感なのだが音には敏感。どれが敏感でどれが鈍感かは人によって違いがあって一定ではない。匂いに鈍感といっても腐ってる物が腐ってるくらいは分かるし、異臭がすれば気づく。むしろ敏感な匂いもあって、苦手な匂いは微かでも気になる。その一方で、鈍感な匂いにはかなり鈍感。自分の場合、大小便は異臭に入らないのか鈍感。多少の腐敗臭も気づかないから、匂いで腐敗していないかを確認することはしない。(舐めてみる。)

 感覚過敏・鈍磨は五感すべてに及ぶ。聴覚・視覚は敏感な人が多いように思う。自分の場合、光の刺激どころか色の刺激にも弱いから黒いと安心する。定型の人は白が無色だと思うのかも知れないが、自分にとっての無色(無刺激)は黒だ。

◎「興味の幅が狭く、こだわりが強い」

 興味のあることにしか興味がない。興味のないことにはどうしても興味を持てない。ADHDのほうが極端らしいのだが、ASもこの傾向はある。だから学校の成績は科目ごとにかけ離れすぎるくらい差が出てしまう。自分の場合、漢字人名と無意味な数字を暗記することができず高校では日本史を捨てた。ところが世界史はできるのだから、単に好き嫌いにしか見えなかったろう。数字が苦手なわけではなく、文系数学は得意だった。が、これもスポット的にどうしても理解できないジャンルがあり、図形は得意だが微積分が苦手といった具合。これがあって理系は選ばなかった。好きな科目・ジャンルへの執着は偏執的で、過集中もあるし記憶力もそこそこあるから異常な点数を叩き出すこともある。

 

 ウィキペディア自閉症スペクトラム」より引用。

自閉症スペクトラムの診断基準としてローナ・ウィングらは以下の三つを上げている

  1.対人関係の形成が難しい「社会性の障害」

  2.ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」

  3.想像力や柔軟性が乏しく、変化を嫌う「想像力の障害」

これを「三つ組の障害」と呼ぶ。」

 

 これはカナー型自閉症の説明で、アスペルガーの場合は言葉の遅れは見られないことが多い。逆に早熟な傾向があり、年に似合わぬ難しい言葉をやたら使いたがる。「社会性の障害」も、カナー型とはかなり違う。ただし、ルールを守っていても意味は理解していないことも多い。そのため「社会性が低い」行動を取りがちではあるが、それが障害とまでは言えないのがアスペルガーの特長。(個人差はある。)

 「柔軟性が乏しい」と「想像力の欠如」はアスペルガーでも同じだが、この表現がまた誤解を生んでいるように思う。

 想像力といっても空想力のようなものはある。人によっては強いくらいある。アスペルガーはゴッコ遊びをあまりしないと言われているが(自分もほとんどした記憶がない)、見立て遊びが好きな子はいるし、なりきりもできる。ゴッコ遊びが苦手な理由は、相手のいる遊びが苦手だからで、独りで見立て遊びをしたりなりきり遊びはする。ただし、なりきるのは人間ではない場合が多いかも知れない。床とか椅子とか猫とか死体とか、そんなのが多い。

 だから、ここで言う想像力とは「他人の気持ちを想像すること」なのだが、他人の気持ちが想像できないのは想像力云々より、情緒のズレに関係あるのではないか。人によっては共感力の欠如とも表現するが、自分なりに共感力はあると思っているので、それもちょっとひっかかる。自分から共感した場合は強烈に共感するが(感情移入とも言える)、相手からの要請でそれを自在に引き出すことはできない。ピンと来ないものは徹底的に理解できないのだ。そういうものだと言われればそういうものかと思うことはできるが、そこには何の共感もない。「言葉を文字通りに取る」のは自分の発する言葉でも同じで、思ってもいないことは言えない。だから表面上だけ調子を合わせることが非常に苦手だ。

 

 それと「記憶の特異性」だ。広く言われてはいないかも知れないが、記憶力の構造が定型者と違う気がしている。短期記憶・長期記憶の関係、記憶の構造、忘却のメカニズムが少し違う。取り立ててトラウマだとかショックだとかじゃない記憶が20年30年残る。何故、自分はこんなことを覚えているのだろうか、と不思議になるようなことを、ただ景色とか映画のワンシーンのようにハッキリ記憶している。言葉の断片などは強烈に焼きつく。そこに強い感慨を持っていなくてもだ。(基本的には意味の理解できないことは一切記憶できないのだが、この時だけは意味に関係なく記憶されるようだ。)

 定型者が普通にやる「記憶の組み替え」も比較的小さいように感じる。わりとそのまま覚えているのだ。そこに何らかの情緒がセットになっていれば、それをも薄まることなく記憶しているから思い出し怒りが多い。まるで時間をワープしたように、当時の感覚のまま怒りがぶり返して来たりする。

 アスペルガーはトラウマができやすいと言われているのは、こういった記憶の特異性が原因ではないかと思う。嫌なことを忘れることはできないし、良い記憶を選んで保持することもできない。印象の強さで言ったら嫌なことのほうが焼きつく。長期記憶は印象が薄れて細部を削り落として記憶されると言われているが、その加工があまり起こらない気がする。

 長期記憶が短期記憶のようなのも特徴だが、短期記憶も鮮明。先に意味のない数字を覚えられないと書いたが、覚えるときはとんでもないものでも覚える。文字列に意味のないコードとか、スペリングとか、よくそんなことを覚えられるなというものを覚えることがある。自分が苦手としたのは語呂合わせでの暗記。語呂の意味がまったく記憶できないから(こじつけや駄洒落が苦手とも言える)、歴史の年号はそのまま数字で覚えないといけない。数字の並びに意味はないし、関連づけもできないから覚えにくいというわけだ。

 記憶の加工が少ないと言っても、別に写真的記憶力とかではない。覚えていることしか覚えていないから細部が曖昧だったりはする。が、覚えていることなら匂いや音、空気感まで覚えている。覚えていないことはおそらく最初から記憶に留めていないのだ。つまり注意力が偏っていて集中型だから、注意を向けなかった部分は最初から見てさえいない。(あまり関係ないかも知れないが、自分の記憶には色が弱い。色を鮮明に覚えていないことが多い。夢もたいてい白黒だ。)

 

 「見てさえいない」は最近少し話題になった、「発達障害者はどこを見ているのか」という話題と被る。定型の友人と外を歩いていると、見ているものがあまりに違うので驚く。自分が「あれあれ」と言ってもたいてい見落としている。それは何故かというと、自分は視界の真ん中あたりに注意を向けていないのだ。通常は視界の真ん中を中心に注意を向け、端のほうは意識しないらしいのだが、自分は目の端の動くもの・コントラストの大きいものに気を取られる。

 きっかけになったのは人と待ち合わせをしているとき。携帯が普及する前は駅など人の多い場所で待ち合わせをして(たいてい自分は激しく遅刻するのだが)、お互い相手を探してキョロキョロする。定型の友人と自分とどちらが先に相手を見つけるかに大きな差はないが(自分は必死で相手を探して互角なのだが)、あるとき友人に「こっちを見ているから手を振ったのに気づかなかった」と言われた。ほぼ正面の位置にいたらしい。それから自分が視野のどこに注意を向けているかを意識するようになったのだが、たいてい真っ正面のど真ん中の物や人には気づかない。

 この「視点のズレ」は結構役に立って、建物や看板を探す時は便利だし(かなり早足で歩いていても目の端に入る看板が読める)、きっとこれは虫取りなんかだと凄く役に立つ。(実際、子供の頃、夏は虫取りしまくっていた。)視界の真ん中あたりがよく見えてないのは猫と同じだ。そこは映像が動かないからと言われている。猫の目は動くものに反応する。

 ADHDもかは知らないのだが、アスペルガーは色々と猫に似ている。単独生活者で群れない、過集中、落ち着きがある(落ち着きすぎ)とか。人類ネコ科ということにしておこう。