言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

成人孤立型という可能性

アスペルガーの3つの型

 

 以前にも書いたが、アスペルガーには3つのタイプがあるとされる。積極奇異型、受動型、孤立型だ。発達心理学的には孤立型→受動型→積極奇異型と発展するらしいが、もちろん成人しても受動型のままの人もいる。

 孤立型は「外界に興味を持たない」状態だから、赤ん坊や幼児に見られる。発語をしないのも外界に興味がないせいかも知れない。知的障害を伴う自閉症では孤立型は一般的かも知れない。

 受動型は感情表現をどうして良いか分からず、また反応の遅れもあり、反応を返すタイミングがはかれない。そのため反応を思うように返せず、ストレスを溜めやすい。

 積極奇異型は最も典型的なアスペルガーに見えるかも知れない。一方的に話し続けたり、場の空気を読まず行動する。周囲を巻き込もうとする意図はなく、単独で勝手な動きをする。

 

アスペルガーとパーソナリティ障害

 

 最近、アスペルガー博士はアスペルガー症候群をパーソナリティ障害と捉えていたらしい、という話を知った。主張しているのは石川元医師だ。

 人格は行動によって決定するので、アスペルガー人格障害と見なすことは可能だろう。僕自身、境界性パーソナリティ障害と診断されたことがあるし、回避性パーソナリティ障害を疑ってもいる。積極奇異型は自己愛性パーソナリティ障害のように尊大に見えるという意見もあるし、孤立型はシゾイド型パーソナリティ障害に見えるかも知れない。パーソナリティ障害というのは「そう見える」ことが判断の基準で、原因が何かは限定されない。(本来、パーソナリティ障害はそういうものなのだが、今は原因まで限定してしまう説が強く、違和感を覚える。)

 幼児期の孤立型は外界に興味を持たず、また様々な対処をできないので介護者が必要だ。知的な遅れのないアスペルガーでは子供時代にここまで発達が遅れる人は稀なのではないかと思う。僕は物心ついた頃には受動型だったろうと思う。積極奇異型の特徴が目立ってきたのは小学校高学年くらいではないかと思う。

 

 僕は非常に大人しい子供だったそうだ。養母の話では泣かない、だだをこねない、育てやすい子供だったと聞いた。(実母はそれを「不気味な」「得体の知れない」と評した。)とはいえ幼稚園では悪さをして先生に叱られた記憶が数回ある。決して「良い子」ではなく、むしろ悪ガキに近かった。小学校に入ると晴れて問題児となる。しかし暴れたり騒いだりしない、落ち着きのある(落ち着きすぎて不気味な)子供だったようだ。(大人しいとはベクトルがちょっと違ったらしい。非常に頑固で言う事を聞かない面もあった。)

 あまりしゃべらなかった(発語の遅れはなかったが自分から話し出すことはあまりなかったらしい)のが、ある時突然、驚くほどしゃべるようになった、とは姉の話だ。それが小学校中学年~高学年のどこかではないかと思う。中学入学時点で「知らない子供に一方的にしゃべりたいことをしゃべっていた」記憶がある。

 小学校時代に、通学路で飼われていた犬に咬まれ(といってもガウっとやられて牙が当たった程度だが)、それを駄菓子屋のおばさんに物凄く愚痴った記憶がある。おばさんは黙って聞いてくれたが、きっと驚いたろう。近所の子供で顔は良く知っているとはいえ、そんなよく分からない話(犬の悪口)を一方的にまくしたてる子供。絶対変だ。これが何年生時点か記憶が曖昧だが、4年か5年じゃなかったかと思う。

 よくしゃべるようになったきっかけがそれかは分からないが、堰を切ったように弾丸トークを始めた時が積極奇異型への移行時期だろう。とはいえ受動型の行動パターンも残っているから、スイッチが入らない限りは受動型だ。スイッチが入ると積極奇異型になる。相手によっても行動が変わる。自分から話したくない相手だと完全に受動型になり、話したい相手だと積極奇異型になって一方的にしゃべり続ける。今でも受動型と積極奇異型の混合タイプだ。

 

◎大人になってから再び現れる孤立型

 

 タイトルの「成人孤立型」とは、乳幼児期の孤立型とは違い、受動型もしくは積極奇異型を経て至るタイプで、もちろん自分の創作なのだが、成人でも孤立型と言う場合もあるようだから完全な創作とも言えないかも知れない。乳幼児期の孤立型が(生命維持・生活の点で)自立していないのに比べ、成人孤立型(成人とは限らない)は自立している。他者への依存がなく、自足してしまう。

 最初からこのタイプに成長する子供もいるだろうし、他のタイプを経てここに至る場合もあるだろう。受動型と違いストレスが少なく、積極奇異型のように他者に働きかけもしない。それでいて自足して寂しくもない。本来、自閉症の人間は寂しいという感情が希薄で、滅多に孤独を感じたりはしない。ただ退屈するだけだ。

 

 積極奇異型が自制されるようになると他者への過度の働きかけはしなくなる。アスペルガーの人間は特定の誰かに強い愛着を持つことがあるが、その愛着の優先順位が自分の興味関心の中で低ければ、つきまとうこともしない。この「つきまとい」は結構凄いので、されたほうは辟易するらしい。加減を知らないからだ。孤立が自制によって起きるのか、はたまた興味関心の順位が入れ替わることで起きるのかは分からない。

 受動型の人間は他人に振り回されることが多いが、感情表現の方法を覚え、拒絶の手法を獲得するとそれが減らせる。ストレスが強いタイプでもあり、ガス抜きがしにくい。自分は元々はこのタイプで、何か嫌なことがあっても即座に反応することができずにストレスが溜まった。ショックを受けると泣いたり怒ったりすることができず、ただフリーズしてボーっとしていた。その時の情景は焼きついて長年フラッシュバックを起こした。要するにトラウマだ。

 

 孤立型から話が逸れるが、受動型と積極奇異型は行動様式が結構違う。

 僕は受動型から積極奇異型に移行したが、元々積極奇異な行動がないわけではない。完全に受動型の人とは違うらしい。自立して勝手な行動を取ることが多かった。しかし対人様式は受動的だったから、フリーズも起こすしストレスも溜まる。今でも「断れない」という悪い癖があるし、自分から頼み事をするのが苦手だ。自分の欲求を口にするのも苦手。強引な人に振り回されやすく、意志決定が苦痛だ。でも他人の決定に従うのはもっと苦痛なので、何とか頑張って意志決定するようにしているが時間がかかる。

 受動型の特徴は、この「決定できない」ではないかと思う。だから断るのも苦手だし、自分の欲求を相手に伝えるのも苦手だ。それらはすべて決定を伴う。決定するのは苦手でも、相手の要求を聞き入れるのは簡単だ。それは決定ではないからだ。だから受動型の人は「振り回されている」と感じやすい。

 僕の場合は発想力はあるから「提案をする」ことはできる。むしろ決定を下したくないから提案をする。そして相手の「了承」によって決定とする、という抜け道を編み出した。これだと決定のストレスが少ない。しかも受動型の人と相性が良い。受動型は仕切られることが好きだからだ。人の話を聞かない積極奇異型や強引な人と違って、意志決定は自分に任されるから振り回されているストレスも少ないだろうと思う。そういう相手との関係は長期間継続した。

 混合型だから僕の積極奇異はあまり典型的ではないかも知れない。でも、あまり深く考えもせずポンポン行動したり物を言ったりする。怖いという感情が希薄なように思う。場の空気はあまり読まないが、まったく読まないわけでもない。受動型と相性が良いと書いたが、積極的なタイプでも相性が良い場合もある。基本的に、自分がしゃべりたいことを勝手にしゃべる人が好きだ。こちらが話題をあれこれ探さなくて済むし、しゃべらせておけば機嫌が良い。もちろん話の内容によっては不快だから、そういう話をしない相手を選ぶ。手が合いさえすれば積極奇異はいたって扱いやすい。(もちろん、最低限の社会性があるのが前提。)

 

アスペルガー的人格の完成形としての孤立型

 

 成人孤立型に話を戻そう。「他者を求めない」「孤独を感じない」「自立している」「自足している」が条件だろうか。自分の関心事を他人にしゃべるという発散方法を取らなければ他者を求めることはなくなる。自身の内部で、愛着へのこだわりの優先順位を下げられれば、愛着障害と間違えられるような行動は減るだろう。

 アスペルガーは凝り性で、興味関心が狭い。狭く深くが基本だ。興味の対象がリスクなく際限なく掘り下げられるようなもので、かつ知的だったらこれほど良い趣味はない。たとえば僕の好きなテーマは宗教・思想・哲学・歴史で、これらをテーマにした本を読んでいると飽きないし、いくらやってもネタがなくなることもない。一生かかってもすべてを知ることができないようなジャンルだ。掘り下げようとしたらどこまででもディープになれる。中学くらいから調べ物が好きになったが、とにかく気になると調べ初めて、気が済むまで止めない。1つのことを十年二十年考え続けたりする。ものの役には立たないかも知れないが、これほど飽きない趣味はない。実際には結構役に立ったりもする。

 ただ困ったことに僕の場合、人への愛着が非常に強い。それで境界性パーソナリティ障害と診断されたりしたのだろう。愛着障害のように見える側面もあるが、見捨てられ恐怖はない。ただ強烈に愛着がある。愛着のない相手にはかなり冷淡でもある。愛着の故に友人が作れたし、特定少数の人と深く関わってこられた。愛着は恋愛感情みたいに強いものだから、一方的に嫌われると失恋したくらいのショックを受ける。僕から嫌いになった場合は、手厳しい批判と、嫌悪にも似た脱価値化が起きる。友人関係なのにまるで恋愛沙汰のような騒ぎだった。

 趣味的なこだわりと愛着へのこだわり――どちらも愛着と言えるから、人への愛着と趣味への愛着と言ったほうが正確か――のどちらが優位かは言えない。僕は精神エネルギー量が多いから、あれにもこれにもと執着することができる。他人との関係で理想的なのは週一ペースの接触だ。それ以上接触すると疲れるし苛々する。残りの時間は一人で何かしてるくらいがちょうど良い。

 もし、この愛着の対象が0だったら? 僕はだいたい2人の愛着対象を持ってきた。2人いるとバランスが良い。だから、いなくなるとまた探す。まるで恋人を探すみたいなものだ。性別は何でも良いし、条件が合えばセフレになっても良い。ただ、自分の愛着欲求を満たせれば良い。もちろん、これは恋愛ではない。友人関係だから、要求も期待もそれほどない。ある意味、希薄な関係ではあるが、精神的距離感は非常に近く、使う時間も友人としては異常に多い。だから、ある時期から愛着の対象がお互いを性的対象とする性別になった。必然だろう。

(ただし、2人の相手と同時並行に性的関係は維持できない。それができるのは一時に一人だ。でも、自分をモノアモリーだとは思っていない。何故なら相手にそれを要求しないからだ。そんなわけで性的対象を愛着対象とした結果、一人しかキープできなくなってしまっている。)

 

 タイトルの「成人孤立型という可能性」とは、僕自身がそれかも知れないという意味ではない。確かに今現在の精神状態はそれに近い。が、退屈しやすいのとしゃべるのが好きなせいで、なかなかちゃんと孤立しきれてない。

 「可能性」とは、アスペルガーの理想という意味だ。何か特技があると、アスペルガーは凝り性と几帳面さから仕事では有能だ。営業的な才能はないからフリーランスは大変な場合もあるが、もし有能さを評価して仕事を貰えるなら、こんな楽なことはない。好きなことしかできないから、趣味を仕事にするのは理想だろう。

 対人関係で、他者に必要以上に関わろうとしないならトラブルもないし、本人もストレスがない。孤独を感じないという特徴が最大限に利用できる。どうしても退屈したときは自分の特徴を理解してくれる仲間と時間を過ごす。おそらくそれは、どんなに多くても週に1度で十分だ。人と接触すると凄く疲れるから、連日会いたいとは思わない。他人に興味がないから、過剰な期待もないし要求もしない。

 

 愛着という問題を取り除いて、完全に自立したらどうだろうか。他者を必要としない、と言っても良い。どんなに訓練しても、アスペルガーは他人と関わると疲れるし、ストレスも溜まる。それならいっそ関わらないほうが楽だ。数ある刺激の中で、人間関係から受ける刺激は最も厄介で強い。それをすべて取り除いたら、どれほど楽だろうか。アスペルガーの気分変調は刺激に対する反応だ。嫌な刺激がなければ変調もなく安定する。問題は、この状態を維持して経済的に自立できるかどうかだろう。その問題をクリアした後に残されているのは退屈だけだ。

 実際、こんなような生活をかつてしていた。そして退屈した。安定に飽きて、自分の人生に混乱を持ち込んだ。つまり、他人との深い関わりを求めた。二十代だった。若かったなと思う。それ自体に後悔はないが、孤立というあり方は僕にとって理想なのだと思う。一人で暮らして、たまに人に会う。メルトダウンも起きない。ストレスがないと持っている能力を十分に発揮できる。ストレスは刺激であり、適度な刺激は能力を伸ばすが、過度の刺激は能力を抑えてしまう。しかし刺激がなさすぎると精神は活性化しない。クオリティ・オブ・ライフが一番の問題だろう。

クィア性とは

 3月25日に書いたブログ記事「LGBTとか」内の「Q」の説明部分を修正していて、やはりクィアについては、もうちょっと考察したい。

 

 あの記事を書いた時点では、僕はクィアが良く判っていなかった。今でも良く判らない。

 Queerは元々、英語で同性愛者を罵る言葉だ。もし英語圏に行って、不用意にこの言葉を使えば殴られても文句は言えない。日本語だとオカマに相当するかも知れないが、オカマも当事者含め多用され過ぎて衝撃がなくなっている。(本来は非常に酷い侮蔑の言葉なのだが。)本来のニュアンスを伝えるなら「カマ野郎」「変態野郎」だろうか。変態も多用する人には衝撃が少ないから難しい。前の記事ではシナチョンと比較したが、だいたいそんな感じ。(米国ではFagもしくはFaggotという、もっと汚い言葉があるにはある。)

 同性愛者への侮辱がそれほど強い理由は宗教だ。ユダヤ教キリスト教イスラム教は「アブラハムの宗教」と呼ばれる同根の親子兄弟宗教で、基本となる教義はユダヤ聖典だ。ここで宗教教義に深く立ち入る余裕はないが、ユダヤ聖典レビ記には「女と寝るように男と寝る男は必ず殺されねばならない」(20章13節)とある。レビ記20章で「殺されねばならない」といった強い調子で死刑を宣言している罪は9つほどだ。有名な姦淫罪の他、獣姦や近親姦、父の妻や息子の妻との性交、母娘を同時に娶る等が禁止されている。中には月経中の女との性交なんてのもある。

 こんな調子だから、当事者じゃなくても相手を侮辱しようと思えば、同性愛者呼ばわりすれば良いというくらい強い侮辱なのだ。日本でも気軽に他人の性的志向を詮索したりからかったりする人がいるが、とても恥ずかしい行為だという事を、いい加減理解したほうが良い。質問するくらいは良いだろうと思うかも知れないが、質問も避けたほうが良い。何故なら、その質問に答える筋合いなど微塵もないからだ。聞いて良いのは、自分が性的アプローチをかけたい相手だけだ。(←ここ重要。)

 

 これだけ強い侮蔑の言葉が、どうしてポジティブな意味で当事者が使うようになったのか。経緯は「オカマ」に似ているかも知れない。クィアは差別語として公での使用は自粛された。90年代に入ると米国でクィア理論が言い出され、言葉の再定義が行われる。クィア・アートやクィア映画など多岐に利用される中で、クィアはポジティブな自己定義として再構築されていった。

 しかし重要な事は、クィアであるかどうかは「自己認識」だという点だ。他人がやってきて「お前はクィアだ」と言った場合、本来の差別語の意味になる。誰か(非当事者)が僕に向かって、たとえニコニコとでも「あなたはクィアなのね」と言えば、それはとりもなおさず「気持ちの悪い変態野郎」と言ったのと同じ意味になるのだ。

 たとえば男性同性愛者に「君はホモセクシャル(またはゲイ)なんだね」と言っても、女性同性愛者に「レズビアンだったんだ」と言っても、こんな意味にはならない。もちろん僕に対して「トランスジェンダーなのね」と言っても同じだ。しかし「君はクィアなのか」と言ったら訳が違う。

 この繊細さも「オカマ」に似ている。本人がどれだけ「あたしたちオカマは~」と言っても笑いを取るだけだが、他人が「このオカマ!」と言った途端、当事者を含め場が凍る。オカマという言葉をこういう風に取らない日本人も多いから通じにくいかも知れないが、本来侮蔑語である呼称とは大変失礼なものなのだ。

 ちょっと説明がくどくなるが、人種を表す侮蔑語で考えたほうがピンと来るかも知れない。ニガー(黒ンボ)は当事者同士では平気で使う言葉だが、非当事者が使った途端に差別になる。決して真似などしてはいけない。性差別と人種差別はとても似ている。性差別で分からない事は人種差別で置き換えれば、と言いたい所だが、日本人は人種差別にも疎いので中々通じない。とにかくクィアもニガーも「人前で口にしないほうが良い言葉」と覚えて置くと良い。

 

 さて、ジェンダークィアという言葉についてだが、性的志向クィア性とは別にジェンダークィア性というのがある。Xジェンダーと日本語で呼ばれる属性はジェンダークィアに包括されるらしい。と説明されても僕にもチンプンカンプンだ。何となく「普通じゃない」感じだけは伝わるが、その先は皆目分からない。それもそのはず、クィア性は「一人一人違う」のだそうだ。発達障害者が一人一人違うのに似ているのかも知れない。

 そうは言われても僕は今のところ、自身をクィアと認識していない。ごく普通に「女の体を持つ男」としか思っていない。それがどれほど奇妙なことであるのか、僕には分からない。何故なら、物心ついた時からずっとこうだからだ。そうでない人を見て「不思議だな」と思うくらいだ。「何故、自分の性別について迷った事がないの?」「何故、君の性別は肉体と一致しているの?」と聞かれても答えられるシスジェンダーはいないだろう。同じ質問にトランスも答えられない。理由なんて知らないからだ。

 これについて僕が薄ボンヤリとながら了解するのは、猫は自らを猫と思わないが、猫と呼ばれている。それと同じだ。僕は僕自身をクィアと思わないけれど、人はそう思うのだろう。僕は僕自身をしばしば「奇妙だ」と感じるが、それは性別の事ではない。精神性の何とも言えないアンビバレンスな有り様というか、自己矛盾を内包しながらもバランスを取ってしまっている感じが奇妙だと思う時がある。普通だと思う時もある。誰でもそんなものなんじゃないか。

 クィア性とは自認だと言いながら、とうとう他認にまで話が逸れてしまった。僕にとってのクィア性とは内面から出てくるものではなく、他者が僕をそのように見るであろう以上の意味を持たない。今後、この概念が内在化していくと認識が変わるのかも知れないが、自身が持つ「奇妙さ」にクィア性という名付けをするかは分からない。たぶん、しない。

反社会性パーソナリティ障害という診断名に思う

 以前にパーソナリティ障害についてまとめた時、反社会性はあまり診断されないのではないか、と書いたのだが、実際にはそうでもないらしい。この2ヶ月ほどで、ネットで二名ほど診断を受けたという人を見かけた。どちらもADHDの人だった。

 反社会性パーソナリティ障害とは何か。名前の通り反社会的行動を繰り返す人という意味だが、反社会的行動とは通常、犯罪を指す。それ故、このパーソナリティ障害を犯罪者予備軍などと揶揄する人もいる。

 DSMによる診断基準は以下の通り。

 

www5f.biglobe.ne.jp

 

 必要条件は患者が18歳以上である事、15歳以降に以下の3つ以上が当てはまる事、行為障害(素行障害)が15歳以前からある事。

 

1.法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。

2.人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。

3.衝動性または将来の計画をたてられないこと。

4.易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。

5.自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。

6.一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。

7.良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。

 

 行為障害とは、社会規範やルールの逸脱、度を超した喧嘩、放火や窃盗、繰り返される虚言、ずる休み、所有物の破壊、反発的で挑発的な行動、持続的な激しい反抗など。いわゆる反抗期に見られるような行動。未成年者の場合飲酒・喫煙を含み、成人の場合は暴力傾向と犯罪傾向・性的逸脱を含む。

 ICD10では「非社会性パーソナリティ障害」と訳すが、反社会性と非社会性はかなり意味が違う。非社会的行動は犯罪傾向はないがモラルの低い行動を指し、反社会的行動はしばしば犯罪性を持つからだ。

 自分がこの診断名に注目するのは、「これほど重大かつ重篤な診断名を犯罪者以外に実際につけることがあるのか」という驚きからだ。反社会性は明らかに犯罪を意味する言葉である。

 

 英語ではソシオパス(社会病質者)とサイコパス(精神病質者)の2つが反社会性パーソナリティ障害に含まれるが、この2つはかなり違う。ソシオパスは社会性が著しく低い人で、サイコパスは異常心理の持ち主とされる。(通常の精神病や統合失調症の意味ではない。)

 サイコパスに見られる特徴は、情緒障害と言えるほどの共感性の欠如(そのため他者の苦しむ姿を愉快と感じる事が可能)、危険に対する鈍感さ(自らの危険に対しても極端に鈍い)、良心の欠如(違法行為をしても心が痛むことはない)といった点に顕れており、一説には先天的な脳の欠陥らしい。

 一方でソシオパスはこれらの程度が軽く、犯罪を悪いと思っていないが自己保身から避けて合法内での迷惑行為に終始する。先天的というより一定の素質によって顕れる人格で、多くは社会性の獲得に失敗した結果だ。

 両者にはハッキリした原因の違いは見られないが、結果は随分と違う。そしてソシオパスと非常に似ているのが自己愛性パーソナリティ障害だ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 これはソースがあまり学問的ではないが、ソシオパスは俗語であり学術上の定義が存在しない。どうでも良い項目を省いて特徴を挙げてみる。

 

・過大な自我の持ち主である。
・嘘をついて、人を操るような行動を示す
・共感の欠如
・自責の念や羞恥心の欠如
・恐ろしい状況、危険な状況でも、不気味なほど落ち着いている
・無責任な行動や、あまりにも衝動的な行動を取る
・友人がほとんどいない
・「楽しいかどうか」を人生の行動指針にする
・社会規範の無視 

 

 どうだろうか。自己愛性パーソナリティ障害と酷似していないだろうか。

 「友人がほとんどいない」については友人が作れないのではなく、他者と安定した関係を継続的に持てないためだ。人見知りやコミュ障と呼ばれる人とは逆で、積極的に他者に働きかけもするし、すぐ親しくなる。しかし、短期間で決裂するのだ。

 重要なのは「虚言癖」「共感の欠如」「不気味なほどの落ち着き(想像力の欠如)」「社会規範の無視」あたり。

 

 実際にはソシオパスという診断名はないから、反社会性パーソナリティ障害とつけられる。それは同時にサイコパスを意味してしまうため、犯罪傾向の強い者という誤解を招く。いや、誤解ではなく、本来そういう意味なのだ。これが社会性と想像力が低いとされるADHDにやたらつけられているとしたら問題ではないだろうか。

 以前にも「診断名ブーム」の話を書いたが、境界性パーソナリティ障害の大流行後、ブームが自己愛性パーソナリティ障害に移った。今は反社会性パーソナリティ障害がブームなのではないか。拡大解釈でブームに乗って乱発させた診断名が後で大変なことになるのはボーダーで体験済みだ。診断名は何度も付け直せるものでもない。精神医療関係者がムーブメントを起こすなんて馬鹿げていると思わないだろうか。まさに「病気は医者が作る」を地で行く話だ。

 推測するに、以前なら自己愛性パーソナリティ障害としていた患者を、ブームで反社会性パーソナリティ障害としてしまっているのではないだろうか。その中には自己愛性ですらない人――発達障害が原因で社会性や想像力の生長が遅い人まで含めてしまっているのではないか。発達障害者でも自己愛性を起こしている人も一部にはいるが、多くは自己愛性パーソナリティ障害ではない。

 そもそも発達障害の人を安易にパーソナリティ障害と診断する事には問題がある。精神年齢と実年齢も違うし、原因が生まれつきの能力の凹みなのだから定型発達者のパーソナリティ障害と同じ基準での診断には無理があり過ぎる。

性同一性障害、自称と本物?

 SNSで、自称性同一性障害GID)と本物は話をしたら分かると書いている人がいた。本当に見分けられるものだろうか。このテーマはGID界隈では深刻なもののようだ。

 

d.hatena.ne.jp

 

 この記事は、性同一性障害を専門とする「はりまメンタルクリニック」院長の針間克己医師のブログだ。以下、引用。

 

 そのため、「あなたは、ただの『自称性同一性障害者』であり、本物の性同一性障害ではありません。ですから、ホルモン治療や手術を受けられません」などと言われることは、望まない。そういった事態を避け、反対の性別に近づく身体治療を確実に受けられるように、典型的な性同一性障害患者像であるように自己を見せようとする場合がある。

(中略)

 こういったさまざまな性別違和の中で、どのような程度、種類のものが性同一性障害といえるのかは、診断基準の中で必ずしも明確にされているとは言い難いため、なにをもって「本物」と診断するか、その境界は不明瞭なのが実状である。

 

 といった具合に「本物と自称を区別することは不可能」としている。世間はGIDには本物と自称(偽者)がいる、という認識らしい。そうかも知れないが、自称を偽者であるかのように扱うことは問題が多いと感じる。

 自称と呼ばれるのは正式に診断を受けていない人達、および診断を受ける気がない人達だろう。これから受けようという意志のある人を除くと、診断を受ける必要を感じない人達ということになる。その理由は「治療を希望しない」からだろうと推測する。診断が必要になるのは治療するためで、治療を必要としないなら診断も必要ないことになる。自分の性別(ジェンダー)は本人が分かっていれば良いことで、他人の判定など本来必要ないものだ。しかし戸籍性別の変更をしたい場合、診断は不可欠となる。目的もなく診断を受ける人もいるかも知れないが、多くは「その先」を考え必要に駆られて診断を受けようとする。

 

 では「治療を希望しない」人々とは誰だろうか。Xジェンダーと呼ばれる性別不定な人達は治療を必要としないかも知れない。どちらかの性別に自分を「適合させる」必要を感じないからだ。治療と言ってもホルモン治療と性別適合手術では随分開きがあるし、FTMなら乳房切除と内部摘出手術ではハードルは随分違う。どこまでの治療を望むかも人によってまちまちだ。

 トランスジェンダーとXジェンダーは自ずから意味が違う。Xジェンダーは性別違和を持つが性同一性障害ではない。同一させるべき性別がないからだ。故にトランスジェンダーではない。英語ではジェンダークィアと呼ばれ、Qと略称される。LGBTQAと綴られるQだ。

 ある意見によると、Xジェンダーは治療を求めない傾向があるらしい。身体違和感があまりないからでもあるし、目指すべき自分の性別イメージがないからでもある。自分の現在の状態を「自らの性」として受け入れる人もいるらしい。自分でFTMかFTXかを判断するとき、これは1つの基準になるかも知れない。

 そうかと言ってこれらFTXが自称の偽者というわけではない。多くの人々が「女ではない」と言うと「じゃあ男なんだ」と思ってしまう故の、「他称されるGID」だ。性別二分法、男女二元論の弊害だろう。Xジェンダーの多くはGIDを自称することもないだろう。

 

 自分が「自称」の人々を多く見かけるのはレズビアン・コミュニティだ。自分はレズビアンではないのでそういった界隈に詳しいわけではないが、垣間見える中にFTMまたはFTXを自称する人達の一部に強い違和感を持つ。レズビアン・コミュニティに身を置けるのだから、当然と言えば当然だろう。自分は高校受験時、女子校を拒絶して共学校に行ったほど「女の枠」に入れられることが苦痛だった。自分と同じでなければいけないとは思わないが、女性枠に安住できるのなら性別違和は小さいのかも知れないとは思う。

 レズビアンであることと性自認は何の関係もない。針間院長も「鑑別すべきセクシャリティや疾患」に「同性愛」を挙げている。日本では異性愛規範が非常に強いため、そして男女二元論が強いため、女を好きなら男にならねばという強迫観念が生じやすい。最近はSOGIという言葉も知られてきているが、そういった錯誤はまだまだありそうだ。性自認が女性なのに性別を男になったら悲劇しか待っていないのは当然だろう。

 これらレズビアン・コミュニティの自称FTMやFTXの中にも「本物」は混じっている。中にはGIDとして治療を望む人もいるだろう。しかし、自称FTXはもちろん、ダナーやボイタチの中にいる自称FTMの多くも治療に至らないのではないだろうか。特に若い人達に見受けられるこの用語の混乱は、レズビアン・コミュニティ内でSOGIの知識が深まれば修正されるのかも知れない。

 

 「FTMなら性別適合を望む、FTXなら治療を必要としない」という紋切り型の判断も間違っている。自分は性自認が男でXではないが、性別適合という点ではXに近い。身体違和はあるものの自分の体に長年慣れてしまってもいるし、醜形恐怖から改造したい部分はあるものの、完全に男になれる素質がないのも自覚している。結果、GIDを自称せず性別違和(GD)を自称しているのだが、ホルモン治療は受けたいし乳房切除もしたい。内摘手術はあまりしたくなくて、卵巣は取れたら取りたいが子宮を取るのには抵抗がある。切り開く大きさの問題や邪魔さの程度が理由だが、もちろん経済的問題が大きい。

 前にも書いたように、性的対象が女性でないから自分が完全な男にならなきゃいけない、という焦りがない。これは大きい。性自認が男でもヘテロ男性はあまり気にしない人も多いし、世の中にはFTM好きの男性というのもいる。ちょうどMTF好きのトラニーチェイサーと呼ばれる人達の反対だ。少々生々しい話になるが、性的対象が男のFTMには女性器で性行為を行うことができる人も珍しくないし、女性器が無理でも肛門性交ならできるかも知れない。相手になる男としては全然困らないわけだ。

 こういった点から「社会的な必然性」を持たないFTMゲイは埋没し、違和感を抱えながらもボーイッシュな女性として普通に生きて結婚したりもする。そうであっても、さすがに子供を産む人は珍しいと聞いている。

 

 FTMの情報が知られれば知られるほど、思い込みと決めつけによるステレオタイプが形成されていく。それは部外者だけによるのではなくて、当事者も盛んに行っているのだから呆れる。ステレオタイプに縛られないためにFTXと自称することにしたら、FTXにすらステレオタイプが形成されつつあるようだ。どこまで行っても類型化と偏見・均質化と同調圧力からは逃れられそうにない。

 そういうことを盛んにするのは、やはり若い世代が中心のようだ。男女のステレオタイプが強いのも若い世代が中心。それは当然のことで、まだまだ人生経験が少なく出会った人間の数も少ない。そこを責めるのは大人げないというものだ。一方で、若い世代は多様性に寛容だし、偏見や差別も少ない人が多い。自分が二十歳の頃なんて実に酷くて、今からだと信じられないような暴言が問題視もされず平気でまかり通っていた。

 自称の人達を責めるのではなく、何か勘違いしてるのかも知れないと見守っておけば良いのではないだろうか。もちろん、当人の性自認を他人が否定するなど御法度である。どれほど「どこから見ても女」だとしても、本人が男だと言い張るのだから男なのだろう。実際、自分から見たら女としか思えないようなメンタリティのネイティブ男性など珍しくもないのだから。

 しかし、「最終的で不可逆的な治療」に関しては十分に慎重であるべきだ。最近ネットでネガキャンが盛んな、術後の体調不良の話もどこまで本当なのか分からないのだが、乳房切除くらいなら後からシリコンを入れれば何とかなるが、内摘手術の不可逆性・ホルモンが出なくなる影響は計り知れない。

それは発達障害ではなくパーソナリティ障害です

 ツイッターで複数回流れてきた人気のまとめ。

 発達当事者が考察した内容で、的確だと感じた。一方で、この方はパーソナリティ障害ではないのでそっちの知識はあまりなく、最初に挙げた4項目がパーソナリティ障害にありがちな認知の歪みだという点には気づいていない。そこは致し方がないのだが。

 

togetter.com

 

◎認知の歪みに気づく

 

 「親と良好な信頼関係を築けていない」は、AC(アダルト・チルドレン)になったり、愛着障害を引き起こすと言われている。人格成長期に承認欲求が十分満たされていないため成人後も過剰に承認を求めたり、生育期の愛情不足を埋め合わせようとして過剰に愛情を求める。

 「自分と他人を切り離すのに失敗している」は、境界性パーソナリティ障害で観察される。他人は他人と線引きできない感覚、行き過ぎた一体化だろう。これが他人の時間を無制限に奪う行動に結びつき、非常に嫌われる。

 「客観的、理論的思考より被害者意識が強い」は、認知の歪みで、境界性や自己愛性パーソナリティ障害でよく見られる。劇場型パーソナリティ障害と呼ばれる所以でもあろう。自分を過剰に悲劇の人に演出し、それを本人も信じ込んだり、客観性が低いから逆恨みが激しい。

 「自分を無条件に容認されることを強く望んでいる」は、境界性パーソナリティ障害でよく挙げられる特徴。満たされない承認欲求を満たそうと必死になる。境界性パーソナリティ障害では下位承認が強いが、自己愛性パーソナリティ障害では上位承認が強い。

 

 自分のことで言うと、「親と良好な信頼関係を築けなかった影響」はだいぶ減ったけど、これはかなり大きな影響があったことは事実。実際、20代いっぱいまではここからくる認知の歪みが非常に大きかった。

 「自分と他人を切り離すのに失敗している」はまだまだあって、どこまで切り離すべきかにも日々迷いを持っている。客観的・理論的思考が強く、被害者意識は低めだけど、「自分を(無条件に)容認されることを強く望んでいる」はある。今は無条件ではないけど、以前はこれがかなり無条件な要求であったので、人間関係のトラブルが多かった気がする。

 

◎人それぞれに苦労はあると考える


 発達当事者から被害者意識を強く感じるのは、定型発達者の悪口を言ってる場面だ。定型だって能力が低い人はいくらでもいて、苦労もするし、みじめな思いもしてる。なのに定型者全体を敵に回すような言説をしがち。承認欲求が満たされないから承認欲求が強いのも事実だけど、それは定型者にもしばしば見られる。

 そこでひがんでしまったり被害者意識が強くなってしまうのが「認知の歪み」そのもので、この歪みを取っていければ発達障害だろうがパーソナリティ障害だろうが、社会性の問題は小さくなる。

 そうはいかないのが発達障害だと言いたいだろうけど、その程度の認知の歪みを持つ人は定型者にもゴロゴロいる。結果、パーソナリティ障害という話になる。発達障害でパーソナリティ障害を併発する例もあるだろうが(自分がそれ)、原因が発達障害という点が定型者とは違う。認知の歪みが必然であるが、自己モニタリング能力を鍛えると意外とすんなり行く。


 自分は学習障害もほぼなく、知能も問題なかったからかも知れないが、定型発達に入れられてる人でも(自分から見て)人生無理ゲーな人はゴロゴロいる。結局、個々人の能力に応じて「出来ることをやる」のは誰でも同じ。自分にも逆立ちしたって絶対出来ないことなんていくらでもある。

 他人から見たら楽に生きてるように見えるだろうが、同じことするにも倍の集中・手間暇・気力を使っていると思う。でも、そうしないと出来ないのだから仕方がない。集中力は無尽に近いから良いが、昔から睡眠時間が長めなのはおそらくそのせい。凄く疲れる。疲れるのが好きだから困らないけど、疲れるのは事実だ。

 

◎他人は他人と割り切る

 

 発達障害者は馬鹿ではないから客観性もそれなりにある。客観視を鍛えることができれば自己モニタリング能力も上げていける。どうやったらそれが出来るのか、が課題。

 無駄な通念(思い込み・偏見・決めつけ)を否定し、自分をニュートラルにしながら客観性を高めるのは知性の問題になってしまうので難しい。しかし、定型者も同じ作業をしているわけだから、スタートラインが不利で足が遅くても自分なりに出来る部分はあると思う。人に比較してどれほど出来が悪くたって、自分は他人じゃないので自己満足していけば良いのだ。

 普通であろうとは望まない。自分こそが普通だと言い切る。人は時に傲慢である必要がある。自尊意識のために。自己肯定のために。そこを否定してくる人は否定し返して良い。そういう人は他人の自尊感情を意に介さないからだ。そういう人と対決するには、意図的に傲慢な態度を取る必要がある。そういう相手に真摯に向き合うと、こちらが潰されてしまう。

 どれだけお節介に口出ししてこようが他人は自分じゃないので、自分の代わりに人生を背負ってくれるわけじゃない。そんな人の言うことに振り回されるのは馬鹿馬鹿しい、と割り切ってしまうと楽になる。

メルトダウンについて

メルトダウンとは感情崩壊・機能衰退

 

 メルトダウンとは発達障害が原因で起こるパニック状態のようなもの。もし発達障害に軽度・重度を決めるなら、メルトダウンの頻度が1つの目安になるかも知れない。しかしメルトダウンが起きるかどうかは環境に左右されがちなので、やはり簡単にはいかない。

 

yaplog.jp

 

 メルトダウンは感情崩壊みたいな意味合いで使うのだろうが、俗語で言うヒステリー状態に似ている。感情の制御が利かなくなり暴走する。制御不能はよく感じたことだった。

 機能衰退と説明しているサイトもある。判断力・発想力が著しく減退する。この減退はメルトダウンの最中だけではなく、終わってからもしばらく戻らないから、一度起こすと結構大変だ。人によって暴走の仕方が違うから、メルトダウンの経験者でも他人のメルトダウンは理解できない。

 自分のメルトダウンは「切れる」「わめく」「何かを叩く」。昔はガラスをよく割った。ここ数年はマウスをよく壊した。できるだけ布団などを叩いて実害がないようにしている。一通り暴れると疲れてやめる。切れ方が酷いとしばらく放心する。「泣きわめく」こともたまにあるが、だいたいは泣かない。ただ悪態をつき続ける。

 

 自分の場合、大きなショックとか予定変更では起きにくく(ショック状態はフリーズ→シャットダウン、予定変更はフリーズになる)、複合した条件(思うように行かないことが複数重なる)で起きる。たとえばPCの動作が異常に重いor通信が頻繁に切れる+猫が邪魔してキーが打てない(あっさりどかすという発想はない)+もう1つの不快刺激(ハエが頭の周りを飛んでうるさいとか周囲の騒音がうるさいとか)。3つ重なると高確率で切れる。これが日常的なメルトダウン

 メルトダウンすると、わめきながら布団を叩く。飼い猫は怯えるが、これが最も安全な切れ方だ。何故なら、何も壊さないから。拙いのは物に当たる時。これでマウスを4~5個、コーヒーメーカーを2台、食器をいくつか壊した。今のところノートPCは壊すまで至っていないが、他人が見たら壊そうとしているかのように見える時はある。子供の頃を除くと自傷癖はないが(痛みに弱いからあまりできない)、衝動的な自殺計画は自傷だった可能性はあるが、そのキッカケとなったメルトダウンは言い争いだ。

 言い争いで切れる場合、最低3時間の議論(押し問答)と、相手からの論理攻撃が必要。だから言い争いで切れた相手は少ない。一度切れた相手は接触を避けるから、複数回切れた相手は家族と、同居してるツレくらいだ。接触を避けるのは継続して腹を立ててるのではなくて、トラウマになるから。一度トラウマができた相手とは普通に接することは不可能になる。

 

 メルトダウンを「誰でもあること」と言う人がいるが、誰でもはないと思う。確かに感情的になって何を言ってるのかまるで分からない人はたまに見かける。自分の「わめき散らす」「悪態をつく」も感情的ではあるにせよ、言ってる内容に一抹の整合性や論理性があるため、相手は「正気を失っている」とは見なさないらしい。自分でも怒った理由は分かっている場合が多い。しかし「何故そこまで怒るのか」は、あまり説明できない。

 「誰でもあること」という人は、誰と比較しているのだろうか。単に「切れる」なら誰でもあるかも知れない。でもそれは一瞬の爆発で、すぐ我に返るのではないか。メルトダウンは結構長い時間続く。後遺症も合わせると半日~一日潰れる。感情を引きずっているというより、その時の情景・言葉が焼きついてフラッシュバックし続ける。こんなのが「誰でもある」は本当なのだろうか。そうだとしたら、どうぞ共感して下さい。お願いします。

 

メルトダウンに性差はあるか

 

 上で貼ったサイトには、メルトダウンの仕方に性別が影響するかの如く記載されている。もし記事の通りだとするなら、本人のつらさを度外視すれば、泣きわめくだけで物を壊さず、他人を攻撃しない女性のメルトダウンのほうが社会的には害が少ない。攻撃性・暴力性が高く、暴れたり怒鳴ったりする男性のメルトダウンのほうが遙かに害があることになる。

 自分の、おそらく発達だろうと思われた母親は泣きわめくようなことはなく、切れるとひたすら相手を口撃し続けた。何時間でも飽きもせず続けた。物にもそれなりに当たるのだが、根がケチだから壊さないように微妙に加減している。(自分も物を壊すのは嫌いなのでそうしているが、勢い余ってたまに壊す。)

 自分の母親はおよそ世間がステレオタイプに考える「女性性」は殆ど持ち合わせなかった人だ。自分が前に出たい人で、思いやりや優しさは欠如し、他者共感性はかなり低かった。だから子育ても下手だったし、細かいことが苦手だから家事もほぼ壊滅状態。しかし仕事は大好きで、金も大好きで、働き者だった。金の管理がろくにできない(する必要がなかったせいもある)父親だったが、母親のみみっちさケチくささが父の店の経営管理を健全に支えていた。(着服も多かったが。)

 しかし、そんな彼女の性自認はしっかりしていて、化粧大好き、着物大好き、オシャレ大好きだった。衛生を保つのはなかなか難しかったようだが、着飾ることには執念があった。表面的には女性らしさを過剰に追求するのだが、内面はからっきしだ。本人もそういう価値観(思いやりだの優しさだの共感だの)を持っていないから、何の迷いもない。見事なまでに容赦なく、濡れた犬を叩く人だった。こういうのを世間では「気丈な女性」と呼ぶのだろう。

 

 女性のメルトダウンでも切れてわめく人は結構いるし、ただひたすらに攻撃的になる人もいる。一方、男性では黙り込む人を複数見た。思慮や分別で我慢して黙るのではない。頭が真っ白になり、何も耳に入らなくなるらしい。反応を返すことすらまったくできなくなってしまうのだ。フリーズに近いがもっと酷い状態だ。これは受動型のメルトダウンの特徴ではないかと思う。積極奇異型は切れてわめく・暴れるのではないか。もちろん、女性のアスペルガーは男性に比べるとかなり少ないが、その全員が受動型なんてことはない。ADHDとなるとメルトダウンの仕方も違うかも知れない。

 本当にメルトダウンに性差があるのだろうか。単に個人の性格やタイプの違いじゃないのか。これもジェンダーバイアスじゃないのかと思う。こんなところにまでジェンダーバイアスを持ち込んで、何の益があるのか不思議でならない。

 

認知の歪み

 「ニンゲンなら誰でも」などとお気楽に書かれているが、それがハンパないレベルで人格に陰を落とすのがパーソナリティ障害の問題点。アスペルガーでもこだわりや極端な物の見方から歪みが生じやすい。ダブルで来るから自分の認知の歪みはかなりひどかった。おそらく最初はアスペルガーの影響で、その結果、パーソナリティ障害を起こしたのだろうと思う。

 どの項目もいちいち心当たりがある。言い回しも自分が馴染んでいるもので解説してみると、以前よりはマシになったものの、まだまだやらかしてるなあと思う。

 

fernwelt.net

 

1.すべてか無か
 アスペルガーがやりがちと言われるのがコレ。中間がなく、極端から極端に振り切る。自分もすごくやりがち。ちょっとでもケチがつくと評価を極端に落として全否定してしまう。「ちょっとでもケチが」と言っても、本人にとっては世界の終わりくらいの衝撃なのだ。境界性パーソナリティ障害でも対人評価でこれをやるから、相手への評価が手のひらを返したように極端に変動する。「白か黒か」といった二分化思考にも顕れる。

 この傾向が強いと口癖のように、「常に~」「いつも~」「完全に~」「決して~」「絶対に~」を連発する。

 まず前提として「認知の歪み」があって、何か(誰か)を全肯定してしまう。そのため些細な欠点が大きな衝撃で捉えられてしまう。まず「完全なものなどこの世にはない」「完全な人などこの世にはいない」という、「当たり前な捉え方」を練習しよう。

 

2.一般化のしすぎ
 自分は「過度の一般化」と呼ぶが、1にも通じる極端な物の見方から出て来る極論癖。落ち着いて思い出してみればそうじゃないことも沢山あるのに、1~2の例を捉えて極端な論を組み立てる。または1~2度の出来事を「いつもそうなる」と過大に評価する。ある属性が犯罪者予備軍などと考えるのもこれの一種。(例:犯人がアスペルガーの事件が1つ起きると、アスペルガーは犯罪者予備軍と一般化する。自分がそうだから誰でもそうだと一般化する等。)

 これは論理性の弱さに関係している。少しの証拠を持って結論づけてしまう。その一方で、アスペルガーだとすぐ「70%の確立で」「85%はそうなる」など、サンプリングが明かに歪んだデータを元に思い込みを強めがちだ。まずは冷静になって「本当にそう言い切れるか」を考えてみよう。キーワードは「科学する心」。

 

3.心のフィルタリング
 自分は「視点の固定化」と呼ぶのだが、1つの悪い出来事で頭がいっぱいになり、別の視点を持つことができない。別の角度から考えることができない。自分に都合の良い判断材料だけを集めるのもこれの一種だし、逆に悪い材料ばかりを集めるのも同じ。客観的で妥当な判断に導くことができず、失敗を繰り返す。アスペルガーはこれが強く、違う角度から検証したりが苦手だ。応用力の弱さでもある。そうとなったらそれ以外は発想できなくなる。

 対処法としては他人に意見を仰ぎ、一旦は素直に耳を傾けるよう心がけよう。(検証した結果、納得がいかないと批判を加えるのは自由。その場合は十分な根拠を用意して反論するのが意見をくれた人への敬意となる。即座の反論・即日の反応は避けて、時間をかけて検証しよう。でないと意見を言ってもらえなくなる。)

 

4.マイナス思考
 悪い結果だけを予想する。良い兆候も悪い結果に結びつくと考える。ポジティブ思考の反対でネガティブ思考(否定的な思考)とも言える。うつなどになると明るい将来を想像できなくなるのもこれの一種だが、パーソナリティ障害の場合はそれが長期間継続する。

 悪いことを予想して準備するほうが万全だから必ずしも間違った手法ではないのだが、行き過ぎると物事の予想を正確につけることができない。「起こりやすさの確率」を考える習慣をつける。そして順番をつけてみる。そうすると最悪の事態の「起こりやすさの確率」はさして高くないことに気づく。

 

5.結論の飛躍
 論理的思考を放棄して、結論にジャンプする飛躍思考。悪いことが起きるほうが怖いから、そちらばかり考えてしまう。4のマイナス思考に近いが、こちらは予想というより結論を出してしまう。
 2つのパターンがあり、「心の読みすぎ」は相手の表情が一瞬でも曇ると自分に悪い感情を持っている・自分を嫌いだと結論づける。結論づける前に相手に確認してみよう。もう1つの「先読みの誤り」は、判断材料も揃っていないのに未来を悪くなると決めつける。4と対処方法は同じ。

 「悪いことが起きると怖い」と先回りして悪い可能性ばかり想定してしまう場合は、「そうなってもたいしたことではない。十分に対処できる」と自分に言い聞かせる。たいていの場合、何とかなることしか起きない。

 

6.拡大解釈と過小評価
 些細な出来事を拡大解釈し、自分に誇大に悪い評価を下す。自分の能力を過剰に高く見積もっていたり、自分への期待が高すぎると起きやすい。まず、そもそもが自分を過大評価しているのが原因。

 非常に大仰な考え方をするアスペルガーに見られる。表現もいちいち大仰だ。自分の重要性を軽く見たり、中二性を軽減することで対処する。自分は世界の重要人物ではないし、自分なんてたいしたことないと心がけて考えよう。(自己肯定感は下げないように注意。)

 

7.感情的決めつけ
 論理性や合理性、事実関係の確認による判断をせず、感情的に短絡した結論に飛躍する。5にも通じるが、判断の根拠が感情(情理的)であるところが特徴。本人は論理的なつもりでも、感情的になって極端なことを口走るときに起こりやすい。

 自分で感情的かを判断するのは難しいので、第三者に「感情的な意見か」を質問してみる。どこに論理の飛躍があるのかを指摘してもらえるとなお良い。相手が情理的な人だと質問しても意味はないので、相手を選ぼう。

 

8.すべき思考
 常に「~すべきである」「~すべきでない」と考えたり、言い回しを多用する。過去の出来事に対しても、起こったことを受け入れるのではなく「~すべきであったのに」「~すべきではなかったのに」と考えてしまうため、現状の受け入れができなくなる。「起きてしまったことは仕方がない」と考えるよう心がける。未来のことは「なるようにしかならない」と考えよう。

 また、他人の行いにも「~すべき」「~すべきでない」と考え、他罰的になったりパターナリズムを発揮したりする。結果、偏見が強くなり、簡単に差別的言動を行う。例:「まともな日本人なら~するはずだ。(~しないのは日本人ではない。)」2にも通じる。「他人のことはどうしようもない」と諦めるようにしよう。「関係ないし」と心になくても差し挟むようにする。


9.レッテル貼り
 2の「過度の一般化」にも通じる決めつけ。ラベリングは分類や把握のために必要だが、妥当でないラベルを貼ることにより認知を歪めてしまう。「そう判断するだけの十分な根拠があるか」を常に心がける。また、レッテルの意味を正確に把握する努力を怠らない。

 先読みの決めつけにも通じるから、「予想で怒る」ことをやめる努力をする。まだ起きていないことを「こうするに違いない」と予断を持って、先回りして腹を立てるのをやめよう。対処法は「怒る前に確認する」。

 

10.個人化
 「自己関連づけ」とも言い、出来事に対し過剰に自分の責任や関与を考えてしまう。夫の浮気に責任を感じる妻(自分が妻として駄目だから夫が浮気する)などが顕著。夫の浮気の原因が、単に「多数の女性と関係を持ちたい」本能的なものである場合でも、自分に関連づけて考えてしまう。一言で言うと自意識過剰。

 無関係な事象を自分に紐付けすることも多い。(鏡が割れたから悪いことが起きる等の迷信はたいていこのパターン。)本当に2つの事柄には関連性があるかを考える習慣をつける。自分に関しては、「自分はそれほど重要な人物ではない」と認識する。

 

◎合理的で根拠のある妥当な判断

 上の10項目を眺めると、認知の歪みと呼ばれるものには似たような傾向があることが分かる。無根拠な決めつけ・先読み・極端な判断・少ないデータでの言い切り・予想で断定などだ。データにこだわりすぎると、「データがあるのだから間違いない」と思い込む結果になる。「起こりやすさの確率」を意識するとその思考から抜けられるのだが、今度は確率に固執しはじめる。どこまで行っても極端なのだ。

 自分は本当に上の10パターンを絵に描いたように踏襲し続けていた。自分が固執したのは「合理性」「論理性」「妥当性」だったから他人からはあまり滅茶苦茶には思われない面もあったが、決定的に抜けていたのが「妥当な根拠」だった。口では「根拠、根拠」と繰り返すくせに、自分が提示する根拠が十分か、サンプリングが偏ってないか、妥当かはほとんど気にしなかった。非常に悪い癖で、今でも極論を言う傾向はある。

 認知の歪みは「悪い癖」でもある。習い性というやつだ。良い癖というものがあるかは知らないが、少なくともこれらは悪い癖だ。思考の癖を取る時に気をつけると良いのは、頭の中で使う言葉を含めた表現。口に出す場合は更に注意が必要。たとえば「べき」を使うのを一切やめてみるとか「絶対」を使わないとか、そういう些細なことでも効果はある。言葉の持つ力は非常に大きい。人間は言葉でしか思考できないからだ。

性役割と性規範

 日記タイトルが大仰で恥ずかしかったので、変更した。山ほど書けるかは分からないが、せいぜい頑張ってみます。こんなくどくて長文のブログを読んでくださってる方にお礼申し上げます。

 今回のテーマは「性役割と性規範」。前回、あまり説明もなく性役割ジェンダーロール)という言葉を使ったので、捕捉的な説明になります。

 

性役割とは何か

 性役割と似たような言葉に、性別役割分担(性別役割分業・性別役割配分とも)などがあるが、用例が一定していなくて煩雑なので、今回は性役割ジェンダーロール)と性規範(ジェンダー規範)を使う。

 まず真っ先に言いたいことは、「子供を産む(妊娠・出産する)」とか「子種を仕込む」は性役割でも性規範でもない。分担でも何でもなく、性差そのもの。母乳を出すも同じ。分担のしようがない。

 家庭(生活)において作業分担が性別を理由に決定することを性別役割分担と呼ぶ。そこから形成されるのが社会的な性役割(性別ステレオタイプへと発展する)で、それが固定化すると性規範となる。と自分は考えている。性規範は一回転して、家庭内での子供や大人の行動を規定する。個から公への波及と、個へのフィードバックだ。

 家庭内での役割分担は当然あるだろう。乳幼児と病人以外には生活を維持する上での仕事が与えられ、各人の努力によって生活は維持される。それが個々人の能力や都合ではなく、性別で固定するという発想が性役割だ。子供を産むことはメスにしか出来ないが、子供を育てることはどの性別でも出来る。「子供は母親が育てるもの」と規定するのが性役割だ。その目的のために「女は外で働いていはいけない」になる。この考えは容易に、「働かないのだから教育は要らない」→「女に知識を与えると扱いにくくなる」に発展し、男女同権を否定する。その結果、支配階級の男と被支配階級の女という封建制度を維持する、というのがフェミニストの主張だろう。

 

 家庭における性別役割と社会における性役割は深い関連性があるが、同一ではない。家庭における分担は家庭ごとに違うからだ。ある家庭は会社員で家事はあっても家業がなく、別の家庭は自営業で家業があるとすると、必要な作業内容は自ずと違ってくる。

 しかし社会の性役割となるともっと普遍性があり、性規範となれば1つの文化圏で普遍的になる。性規範を別の言葉で言えば、性別に対するステレオタイプだ。ステレオタイプとは固定観念の意味で、偏見と同じものだ。だから性役割は性規範の意味でも使われるし、偏見の意味でも使われる。使用例が多岐に渡って意味の把握が難しい傾向は、フェミニズム用語の特徴だろう。

 

◎規範という言葉

 言葉の意味にこだわると煩雑になるかも知れないが、そこを曖昧にすると主旨が伝わらないので、もう少し説明を続ける。

 まず「性役割」と聞くと「当たり前のことだ」と思う人も多いだろう。しかし、上にも書いたように「子供を産む」とか「種付けする」といった生殖行動の話ではない。肉体的性別・生物学的性別を指す場合はセックスを使う。しかし性役割ジェンダーロールでありセックスロールではない。だからこれは生物学的性別の話ではなく、あくまで社会的性別(ジェンダー)の話だ。ここは明確にしておかねばならない。

 次に、もしかしたら馴染みがない人もいるかも知れない「規範」という言葉。英語ではNormで、数学用語のノルムと同じ。数学的意味は規格・基準・絶対値など。哲学では行動や判断・評価の基準となる原則・規格・基準のこと。行動規範や道徳規範、法規範などと使う。

 数学で言う規範は法則性に近いが、哲学で言う規範は「そう決めたからそう決まっている」といった人為的なものだ。T.パーソンズ

 

 「規範は文化体系の一部を構成し、内面化を通して人格体系へ、制度化を通して社会体系へそれぞれ定着し、人間の社会的生活の連続性・一貫性を保証する」

 

と定義しているらしい。示唆に富んでいる。

 

◎規範は必要なのか

 行動規範は社会的な枠組みではなく、個人の信念のようなものだ。個人の価値観を濃厚に反映する。例えば自分には「人前で感情的にならない」とか「人前で泣かない」という規範がある。努力目標でも理想でも意味は同じ。もっと具体的で細かい内容も沢山ある。それらの総体が人格と言っても良い。

 例えば道徳規範と言った場合は、個人の行動規範より普遍性が強まる。が、道徳の規準など人によって違うから、最低限を言えば「犯罪をしない」とか「悪いことを出来るだけしない」になる。「善を成せないなら、せめて悪は成さないでおこう」だ。道徳は文化圏で一律に決まっているようでいて、そうでもない。その人が摂取してきた文化によって変わる。政治思想・宗教・地域文化・職業や社会的地位などなど。正解がないのが道徳なのだ。(常識も同じ。)

 

 では性規範はどうか。性規範とは「男らしさ」「女らしさ」を指す。性別による行動規範は必要なのだろうか。男女の振るまいは、その摂取してきた文化や情報、興味関心によって自然と違ってくるだろうが、そこに規範が必要だろうか。性規範が生じると、必ず性別に対する固定観念が生じる。つまり「決めつけ」だ。

 男の子は車のオモチャが好き。女の子はお人形が好き。男の子は青が好き。女の子はピンクが好き。本当だろうか。もし統計でそれを「事実」としてしまったら、青が好きじゃない男の子やピンクが好きじゃない女の子は「駄目な男」「駄目な女」という烙印を押されてしまうのではないか。つまりこれが「規範の内在化」なのだ。内在化した規範は自分に懲罰を与える。

 自分が長年感じてきた「自分は女として駄目だろう」「女として無価値である」という感覚は、まさに規範の内在化によって生じている。それは自己評価を下げ、自尊心を失わせ、自己肯定させない圧力となる。だから自分は自らの性別の枠組みを変えなければいけなかった。そうしなければ自己否定の果てに自死に至る。肉体は何とか生き延びても、精神が死んでしまう。切実な渇望だった。

 しかし自分にも規範はある。それは「人としてより優れること、上を目指すこと」。そういうイメージを持てるようになったのは最近だ。つまり自分の性別の枠組みを変えてから。それまでは自己肯定できないから理想も持てなかったし、何をしたら良いのかも分からなかった。したいことはある。でも、それは「性別が邪魔して」出来ないのだ。したいことができないのなら、生きていても意味がない。自分には生きる価値がない。そう考えるのは簡単なことだった。

  

◎人としての規範と性規範は別なのか

 人としての規範と言うと分かりにくいが、理想とか人格者とか自己実現と言ったら解り易いだろうか。善人であろうとか悪いことをしないでおこうとかは、多くの人が心がけているのではないだろうか。「悪いことをしない」は犯罪をしないという意味ではない。法が善悪を規定する部分はあるにせよ、それがすべてではない。もし法律を守ることだけで善であると考える人がいたとしたら、その人には良心がないことになる。「悪いことをしない」の意味は「自分の良心に従う」と言い替えることができる。

 では、人としての規範とは何か。自分にとってそれは、より優れていること、強いこと、能力が高いこと、忍耐力があること、我慢強いこと、寛容であること、優しいこと、謙虚であること、想像力が豊かで思いやりがあること、他者共感性が高いこと、知識があること、知的であること、理性が強いこと、自制心があること、論理的であること、合理的であること。規範は「評価基準」であるから、比較の問題だ。

 上に書き並べたような価値観を否定する人はいないだろう。何故ならこれは「人の理想」だからだ。あくまで理想だから、そこに到達することはないが、そこを目指して努力することを否定されるものでもない。そしてこれは男女の区別なく目指すべき理想だと思っている。性別によらず、こういう人を「人格の高い人」と呼ぶのだろうと思う。

 

 一方で「男らしさ」「女らしさ」の規範は何だろうか。上の「人の規範」に矛盾する要素はあってはならないが、上の規範(理想)を書き並べた後で「男らしさ」や「女らしさ」について自分には書くべきことが思いつかない。人の理想は上の項目で網羅されてしまうからだ。しかし、一般の人は上の項目から「女らしさ」のためにいくつかを削除するだろう。そして、代わりにいくつかの項目を追加するだろう。

 「強さ」の代わりに「美しさ」とか、「論理的」の代わりに「豊かな情操」とか。しかしそれは男性にあっても、まったく不都合のない要素だ。人としての美しさは自信や精神の気高さから発露するだろうし、精神の強さは男女ともに必要なものだ。豊かな情操は男性にだってある。理想を書き並べると(個別の好みは別にして)そこに顕れるのは男女の区別のない人間の理想像になる。

 では「男らしさ」に付加されるのは何だろうか。除外されねばならないのは何だろうか。そっちのほうが難しい。男はより完璧で高い能力を期待される存在だ。除外されるのは劣った性質だけである。女性には劣った性質が許されて、男性には許されないとしたら、女性を劣ったほうの性別と感じるのは当然となってしまう。

 もし、ある人が「女性として未熟」と評されるのだとしたら、男性はすべて「女性として未熟」だし、女性はすべて「男性として未熟」ということになってしまう。人として未熟かどうかを問われるべきであり、人として未熟でない人は生きてる人間には存在しない。自分は男性としても女性としても人としても未熟な状態で、未熟だと自覚できるから「まだやることがある」と思える。そう思わなかったら生きていても無意なのではないだろうか。

 

◎性規範など必要ない

 上記のように「人としての理想」に従う限り、性規範は必要ないように思える。個々人には特徴があるから、ある人は取り立てて優しく共感力が高いかも知れないし、ある人は常に冷静で合理的な発想をするかも知れない。ある人はとても寛容で、腹を立てることが滅多にないかも知れないし、ある人はとても知識があり何を聞いてもすぐ答えてくれるかも知れない。人によって個性が違う、得意なことが違う。それが多様性だ。一定の社会性に従う限り、その人が男性でも女性でも、問題は起こらないはずだ。

 念のため書いておくと、性規範は「自分の好みのタイプ」の問題とは別だ。好みは誰にでもある。女性的でふんわりしたタイプが好きな男性もいれば、さっぱりしたタイプやシャープなタイプが好きな男性もいる。男らしいと言われるゴリっとしたタイプが好きな女性もいれば、可愛いタイプの男が好きな女性もいる。人の好みは「蓼食う虫も好き好き」と言われるほど多様だ。そしてそれは、自分が対象としている相手(異性でも同性でも)に要請する権利でしかない。見ず知らずの何の関係もない他人に「こういう服装をしろ」「こういう仕草をしろ」と言ったら「余計なお世話」である。

 性規範は主に年長の同性が年少者に押しつける形で伝播する。これを性別威圧と呼ぶ。母親は自分のイメージに従って異性である息子に性別威圧をかけるし、父親は娘にかける。他人の子供にこれができる人は少ない。ところが同性だとこれが可能になるから、子供に直接はかけなくても親にかける。こういった圧力は性規範に限らない。単親世帯もされるし、一般的じゃない生活形態を取る家庭もされる。つまりこれは「多数派と違う人」に向けられる少数派差別の一種なのだ。同化政策とでも言うのか。同化が無理なら排除が行われる。「子供が可哀想」と言う人がよくいるが、可哀想かどうかは本人に確認してから言ってくれ、と思う。

 

 自分が見たところ、若い世代ほど性規範は薄くなっている。社会が少しは進歩している証拠だ。相変わらず年寄りは、自分の育ってきた時代の常識のままで、認識を変えられない人も多い。そういう人達は社会の変化についていけず、色々と不満が溜まる。「今時の若い者は」と口をついて出てしまうような人達だ。やれセクハラだパワハラだと言われ、目を白黒させている。そうはなりたくないものだ。育った時代の影響は誰でも受ける。しかし時代は刻々と変わるし、それにつれて社会も変容する。情報更新が常に必要なのだ。

 若い世代は「昔はこうだった」を知らないが、それを今更知って何になるだろうか。すぐそういうことを言い出す年寄りがいるが、今更役に立たない情報だろう。歴史を知ることは知的好奇心を刺激される。でも年寄りの繰り言を聞かされたらうんざりする。自分はこんなだから、同性代とは話が合わない。彼らの価値観が古臭く感じる。特に性差や性別に関する感覚は相容れないほど違う。だからカビ臭い常識にとらわれない若い世代が好きだし、若い世代が寛容で自由であるほど、未来に希望を見出せるのだ。

Xジェンダーとトランスジェンダー

 自分はFTMを自称している。性自認が男だからだ。が、見た目が男っぽいわけでもなく、どちらかと言えば女にしか見えない。背が低い。骨格も細い。筋肉が全然ない。男に見えないことに劣等感があるかと言えば、全然ないわけでもないが凄くあるわけでもない。背はあまり高くないほうが身軽で好きだし、筋系より細身のほうが少年っぽくて好きだ。(相手の好みの話ではなく自分のスタイルとして。)

 FTMを自称しながらもトランスジェンダーの自認には抵抗がある。トランスしてるわけではなく、自分の自然はこうだと思っている。それが社会的にはトランスであるとは知っているけど、トランスを自認するのはまた違う感覚になる。性同一性障害を名乗ることをしないのも同じ理由だ。性別違和とは言っても性同一性障害とは自分を表さない。障害じゃないと思うからでもあるが、どうしても(メスを使ってでも)男になりたいかと言えばそうでもないからだ。

 おっぱいは邪魔だし、みっともないから要らない。チンコがあったら格好良いとは思う。が、どうせチンコはつけられない。中途半端なミニペニスでも悪くはないのだが、そのために何百万も使うかと聞かれれば全然やる気がしない。

 

 性別違和の歴史は長い。小学校時代、意識としては無性だったが、赤いランドセルにガッカリしたり、スカートを全力で拒否したり、自分を男子と思ってるフシはあった。その一方で、男子に当事者意識があったわけでもなく、客観視していた。女子も同じように客観視していた。どちらも自分自身ではないし、どちらかになりたいとも思っていなかった。

 小学校時代の自分は、ただ自分が「有るように有る」ことを肯定していたように思う。自己規定としては「女は~だから」と軽蔑した言動を繰り返したし、自分の行動規範は男子に近いのだが、馬鹿丸出しの小学生男子になりたいわけでも全然なかった。ことさらに男っぽく行動することもなかったし、女っぽい行動は意図的に避けた。

 

 小学校低学年の思い出に、『大きな栗の木の下で』のお遊戯がある。担任の女性教師がその振り付けをやって見せたとき、ゾッとした。胸の前で両腕をクロスさせて胸に手を当てるあのポーズに強烈な嫌悪感を覚えた。胸に名札をつけるのが苦痛なこととと関連づけて「胸部に対する強烈な羞恥心」と表現したら、相方に否定的な意見を頂いた。

 第二次性徴期前の子供が胸部に特別な羞恥心を持つわけはない。それは自分でも思う。では、あのとき感じた強烈な嫌悪感は何なのか。相方も同じ感想を持ったそうだ。あの振り付けを「あざとい」と彼は表現する。確かにその通りだ。何とも媚びたポーズがみっともなく、格好悪く感じる。強さ・逞しさを美しさ・優れた特徴と感じる自分には屈辱的ですらあった。

 さらに名札への抵抗感は、自分のアイデンティティを晒すことへの抵抗ではないかと言われた。胸につけるのが特別嫌な理由は、顔の近くだからではないか。胸にワッペンやワンポイントがある服も嫌いだと言ったら、ダサいからだろうと言われた。そんな気がしてきた。

 自分の行動は徹底して「格好良いか悪いか」で判断される。格好悪いことは我慢ならない。格好つけすぎるのも格好悪いから、これ見よがしは避ける。スカートが嫌だった理由も「格好悪いから」だ。どうしてそこまで格好良さにこだわってしまうのかは分からないのだが、格好悪い自分は好きになれない。自己肯定感が落ちる。格好悪いは自分にとって許しがたい。この訳の分からない自意識は幼稚園時代からあり、思春期になると自意識過剰そのものだった。

 

 自分が女性性や性規範を受け入れられないのは「格好悪いから」で良いのではないか、と思えてきた。スカートは格好悪い。特にプリーツやフレアは死ぬほどダサい。タイトなら許せる。セーラー服なんて男が着ても許しがたいほどみっともない。警察官でも消防士でも、押し着せ(制服)は何でも格好悪いと思っていた。

 うちの中学は男子は全員坊主だった。坊主頭は自分にとって究極に格好悪いものだ。実際に同級生が坊主刈りになったのを見たとき、自分がスカートを履かなきゃいけないこと以上の衝撃を受けた。「アレ(坊主頭)よりはコレ(スカート)のほうがマシだ」と納得してしまった。そして男子に同情した。中学の制服はブレザーにプリーツスカートだった。男子は詰め襟。中学の詰め襟はそんなに嫌いじゃなかった。

 高校になると、女子の制服はセーラー服。男子は詰め襟。セーラー服は拷問だった。適応障害から来る気鬱(軽度うつ)が続いた。しかし当時、男子はボンタンに長ランが流行。それは何ともダサく見えた。北関東の芋臭い田舎の高校生そのものだ。かと言って、長ランとボンタンじゃない男子は大人しい真面目な奴らで、「トッポい格好もできないヘタレ」と見なされ、ダサい存在だった。長ランにもボンタンにも憧れなかったし、弱い存在とされた普通の学ランもダサく見えた。

 あらゆる物事を「格好良いか格好悪いか」だけで判断すると自覚したのは小学校高学年。以来、中二病だった間ずっと「人並み外れて高い美意識を持った人間」と自分を評価していた。別にモード系というのじゃない。美術は好きだったが、不器用だから上手いわけでもない。ただ、あらゆること…音楽・ファッション・映画・マンガ・小説・スポーツを「格好良いか」どうかだけで選んでいた。当然、少女アニメは格好良くないから、少年アニメが好きだった。

 

 つまり性別の問題ではなかったのではないか、と思い至った。たとえば昔は男子の服は格好悪かった。デザインが画一的で、合理的なのは良いのだがどこか芋臭い。特に最低だと思ったのは下着。ブリーフは論外。トランクスも何だかダサい柄で、形だってダサい。だから男性用下着を身につけようと思わなかった。男性用下着に変えたのはボクサーが一般化してからだ。

 下着以外も、中性的な格好を好んではいたが男物を買うことは少なかった。自分が特に好きだったのはプルオーバーで、中1のとき初めて東京で買った服が青と黒の横縞のフード付きの服だった。しかし東京の学校に入るため上京してからは女装に走った。言うまでもないことだが、交尾のために合理的だったからだ。性欲はスタイルさえ変える力がある。男受けを狙ったというほどではないが、一応、女と認識して頂ける程度には服装に気をつけた。スタイリッシュでスマート。それがファッション/ポリシーだった。

 年を取ると流行なんてどうでも良くなる。交尾の相手をガツガツ探す必要もなくなる。そうなると合理性に特化した服で不都合がない。結果、ユニクロのバーゲン品を買い漁るようになる。女装もやめて、中性的な服装に戻ったが、ことさら男っぽく見せたいとは思わない。やはりオッサンのファッションはどこかダサいからだ。

 

◎Xジェンダートランスジェンダーなのか

 

 ウィキペディアトランスジェンダーの項目には、

 

 トランスジェンダーの中には、「Xジェンダー」である者も存在する。これに当てはまるのは主に、「両性」や「無性」や「中性」の性自認を持つ者である。

 

と書かれている。うーん。Xジェンダートランスジェンダーの一種なのか?

 以前にも書いたが、Xジェンダーは「性別二元論の埒外にいる存在」だと思っている。だから自分のように性別の概念がしっかりあり、自分の性別を言える人間はXジェンダーではないと考えた。つまり「両性である人」はXジェンダーではないのではないかと。「女性でありかつ男性である」と「女性でもなく男性でもない」はまったく違う。自分自身を女性であると認識できる時点で、その人は一定の性別概念を持っているし、性規範に従っているのだ。一方で、「女性でも男性でもない人」は性規範を持たない、もしくは無視しているのではないか。言い回しの問題のようでいて、その意味は深い気がする。

 自分はどうかと言えば、「自分は男(に近い)と思う」のだが、男じゃないことは誰が見ても明らかだ。性他認は完全に女性になるだろう。それが不愉快じゃないわけではない。「自分はもっと強くて格好良い存在だ」という思いが内部で渦巻く。しかし、全力で男に見せようと努力するわけでもない。「ツルンとした股間」と言われたらイラッとするが、じゃあモッコリな股間が格好良いのかと言えば微妙である。

 

 こんな質疑を見つけた。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 自分は生物学的には三人姉妹で、それを父親は非常に残念がっていた。かといって男のような格好で育てられたわけでもない。女の子らしさを押しつけられたこともない。(母親には多少言われた。)女だからと何かをするのを止められたこともない。ただ、中型バイクに乗りたいと言ったときは、「バイクが倒れたら起こせないから」という理由で反対された。今から思えば事故が心配だったのだろう。車の免許は生活に必要だからと、とっとと取らされた。

 女子便所や女子更衣室は臭かった。女臭さを感じない人もいるのかも知れないが、何かこう独特の蒸れ臭さがある。男子はたいてい汗臭かったが、男性特有の匂いに気づいたのは高校の頃で、それは好感が持てた。しかし、たいていの男子は臭くて嫌いだった。自分の場合、好きな匂いの男性は「鼻がスッとするような清々しさ」を感じる。女子にも「何だか甘くて良い匂い」と感じる子はいた。人工香料の匂い(シャンプーや洗剤、化粧品、整髪剤)は苦手だった。

 若い頃は男の好みが悪くて苦労した。見た目が可愛く女性的な子が好きだったからだ。そういう男性はだいたい性的な能力が低い。それが性欲の強い自分には不満で、二十代半ばに「これではいけない」と好みを変えることにした。それでも男女ともに「中性的な見た目」の子が一番好きなのは変わらない。当然、背の高すぎる男性は苦手で、170cm前後がベスト。下は160cmくらいまでで、175cmを越えると対象外となる。腹筋が割れた筋系体型も好きだが、あくまでも観賞用である。

 だから、この質問者の投稿は「あるある」なことが多いが、自分は「男になりたい」という気持ちが皆無ではない。非常に酷い言い方だが、自分は女性を「劣ったほうの性別」と表現することがある。それは生物学的にではなく社会的にそういう位置に置かれていることを指すのだが(だから自分の主張はジェンダーフリーを目指せだ)、そう考えざるを得ない現状が自分の性別を受け入れられない要因の1つだと思う。

 

◎何を受け入れ何を拒絶するのか

 

 自分が拒絶しているのはジェンダーロール(性役割)だ。そして性別威圧と呼ばれる「男らしさ」「女らしさ」を拒絶する。性別のすべてを拒絶するわけではない。その査証が肉体改造に熱心ではない点だ。胸は服を着るのに邪魔だから要らないのだが、チンコがないと困ると感じるのは立ち小便できない点だけだ。立ち小便は合理的だからしたいと思うし、しゃがんで小便をするのはちょっと格好悪いとも思う。でも、「男の沽券」とか言われてしまうと苦笑いしか出てこない。そんなくだらないことにこだわるなんて馬鹿じゃないのか、としか思えない。

 きっと生まれつきチンコがある人は、それに愛着があるだろう。女性が胸に愛着を持てないとしたら、それは途中から出っ張ってくるものだからかも知れない。おっぱいは女の服を着るにはとても役に立つが、男の服を着るには邪魔にしかならない。最近ずっと胸をつぶしている理由は、着る服がより格好良く見えるためであり、ついでに動きやすくするためだ。もしおっぱいに嫌悪を感じなければいけないとするなら、自分はトランスではない。

 もし性規範とか性別イメージをすべて否定し排除しなければいけないとするなら、自分はXジェンダーではない。自分には高い理想としての男性像があるし、より強くより優れた人間になりたいという願いがある。それがどういうわけか女性性と相容れないと思っている。その理由がジェンダーロールなのだが、それはまた別の機会に譲る。

 もし一定の性規範を受け入れ(独自解釈の性規範だとしても規範はあるとする)、性自認が明確な状態でもXジェンダーとされるのなら、自分はXジェンダーだろう。性規範の受け入れといっても、かなり怪しいのだが。自分が認めているのは人としての規範と男としての規範だけで、女の規範はいまだに何だかよく分からない。男の規範と人としての規範は同一だ。ということはそれは性規範ではなく「人としての規範」ではないのか。じゃあ性別による規範の差異を認めていないことになるから、やっぱり性規範は容認しないとなる。性役割を全否定する時点で、性規範など受け入れられるわけがないのだ。

 と、こんな風に性自認が揺らぐのが、まさにXジェンダーということになるのだろうか。

拳を握って寝ていたら腱鞘炎になった話

 1年くらい前、両手とも腱鞘炎になった。普段から家事で指を使いすぎると痛みが出たりバネ指になるのだが、指に負担をかけないように家事をしていたのに、不思議なくらい指が痛くなった。起き抜けに特に痛むので、もしかして寝ている時に拳を握っているのではと思い、寝る前にテーピングすることにした。2ヶ月くらい続けて、痛みはなくなった。

 

◎テーピングのやり方

 その1。

 手の甲側に筋に沿ってテープを貼る。テープは百均の絆創膏で十分。貼る面積が広いので、剥がすとき痛くない程度に粘着力が弱いものが良い。剥がした後に糊が残るのはちょっと格好悪いので注意。自分は紙テープだと痒くて長時間貼れないので、布テープにした。伸縮性はないほうが良い。手を開いた状態で甲側に貼ると指が曲げにくくなる。貼る長さで保定強度を調整するが、あまりしっかりは保定できない。

 その2。

 上記のやり方では保定が弱い場合、関節にテープをグルっと巻く。指の付け根はアウェアネス・リボンの形にして手の甲側を長めに貼る。(長さで保定強度を調整する。)関節にグルっと巻く場合、血流を阻害しないように注意。(テープを引っ張りながら巻きつけるのではなく、表面を押さえるようにして貼り付ける感じ。)

 

 使うテープの幅は1.2~1.8mm。あまり幅が広いと血流が止まる。指の太さに応じて(細い人は狭め、太い人は広め)選ぶ。色々試した結果、テープの消費量と保定の強度から2の貼り方をすることが多かったが、貼ったまま作業や家事をするには1のほうが楽。

 さらに痛みが酷い場合は、指を数本束ねて保定する。(自分の場合は薬指と小指。)1と2のやり方だと起きてる間も指が使えるが、まとめて貼るとかなり不便なので剥がさないといけない。寝ている間に限る。

 スポーツ用のグローブ(サッカーのキーパーグローブなど)を持ってる人はそれをつけて寝ればテーピングの手間はない。(顔を掻いたりはできないが。)上記すべての方法でも拳を握ってしまう人は、板状のもの(プラスチックや塩ビの下敷きの硬いもの)を適当な大きさに切って、掌側に貼り付けて寝る。 

 

◎拳を握って眠るのはストレスらしい

 起きている間の作業量にもよるが、炎症自体はわりと短期間で取れる。昼間、それなりに指を使う人でも2ヶ月も続ければかなり良くなる。問題は拳を握って寝ていることなのだが、これはストレスから来てるらしいので、どうしようもない。

 子供の頃(小学校時代まで)、朝起きると指に力が入らなかった。子供は誰でもそうだと思っていたが、もしかしてあれも拳を握って寝ていたせいかも知れない。子供は誰でもと思ったのは、赤ん坊などが指を曲げて寝てるからだ。友達に聞いてみたことがないから、本当のところは分からない。重いもの(ランドセルや手提げカバン)を持てなくて結構苦労した。

 

 ストレスで寝てるときに力を入れてしまう(体が緊張する)のは色々あって、歯ぎしりもその1つだ。家族が寝ているとき、歯ぎしりが酷いようなら相当ストレスがある。自分が寝ていると歯ぎしりやイビキが分からない。人に教えて貰わないと分からない。ストレスがあると分かってても、ストレスの原因が分からないのでは対処しようがないのだが。

 普通、人間は寝ていると力が抜ける。寝ているときに筋肉を使ってるような人は、まずたいていストレスが強い。他にも足を組む、腕を組むというのもある。ツレがこれで、寝ながら足を組んでいるので何をしているのかと不思議に思った。腕も組んでいた。歯ぎしりも酷かった。まあ色々とストレスがあったのだろう。最近はマシらしい。

 

 一方、イビキは原因が全然別で、こっちのほうが健康に問題がある場合が多い。肥満などが原因で気道がふさがれがちだったり、鼻に問題が考えられる。気道を塞いでいる場合、最悪で睡眠時無呼吸症になる。あまりイビキが酷い場合は、たかがイビキと思わず医師に相談されると良い。仰向けに寝ないで横向きで寝るとイビキはかきにくいのだが、眠っているときの姿勢は本人にはどうしようもない。

 隣で寝てる人のイビキがうるさい場合は、蹴飛ばしたり鼻をつまむのではなく、横向きにしてあげよう。どうしても仰向けに戻ってしまう場合は、布団を丸めて支えにして保定しよう。まあ、たいていの人はうるさがって怒るのだが、むしろ親切だと思う。仕方がないと我慢するよりよほど良い。

 

 寝る姿勢は本人にはどうしようもないのだが、仰向けより横向きのほうが何かと良いらしい。うつぶせ寝をする人がいるが(自分も結構する)、太っていると内臓を圧迫する。腰が反り返って負担になるので、完全にうつぶせになるより、片足を曲げて体を斜めにしたほうが良い。イビキの酷い人におすすめ。

 横向きの欠点は背骨が真っ直ぐにならない点。寝返りをちゃんと打てば問題はないが、同じ側を下にして寝ていると腰に来る。マットの柔らかいベッドなら腰が沈み込むので問題はあまり起きない。右を下にしたほうが心臓・胃腸の都合が良いらしい。

 腰が悪い人は硬い布団のほうが楽らしいが、硬い布団は血流を阻害し、姿勢によっては骨をズラしてしまうので本当は良くない。自分の場合は起きた時、体の節々が痛かったりする。寝る姿勢で何が良い悪いや、布団は硬いほうが良いか柔らかいほうが良いかは俗説が多く、あまりアテになる話ではないのだが、仰向けで気道が塞がれるのは医学的にも確かなので注意が必要。

 横向きで寝る場合は、枕は高めにしないと肩がよじれるし首もこる。西洋のホテルのような大きな枕を2つ重ねたくらいの高さがいる。(洋式のホテルピローは大きくて柔らかいので、沈み込みも大きい。)うつぶせなら布団はかなり柔らかい必要がある。(布団やハードタイプのベッドは腰に負担が大きい。)寝返りを頻繁に打つのは寝苦しいせいだが、全然動かないのは逆に心配。と言っても意識がないからどうしようもないのだが。

 寝る姿勢は本人が安眠できて疲れが取れるなら何でも良いと思うが(寝る姿勢で健康改善と言っている記事はたいてい医学的根拠が薄いし、絶対やっちゃ駄目な危険な寝方なんて書いているものもたいてい嘘だ)、寝具が合わないとストレスがかかる。起きている間のストレスで歯ぎしりや握り拳寝をしている場合も多いが、寝ている間のストレスも馬鹿にはならない。個人的に絶対やめたほうが良いと思うのは、「他人と一緒に寝る」だ。安眠は妨害されるし、ストレスが半端ない。用もないのに、または避けようがないわけでもないのに一緒に寝るのは、睡眠の質を落とすばかりで何も益がない。「たまには」程度にしておいたら良いと思う。