言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

自分のこと

 開設したてでジャンルもよく分からないので、日記ー属性にしてみた。関心の多くが自分の属性だからだ。誰も読んでいないだろうから、自分の属性について書いてみる。書いてみたらえらい長文になってしまったが、人生を振り返っているようなものだから仕方がない。

 

◎精神科加療歴

 初診はかなり前。きっかけは慢性の頭痛が自殺したいほどつらかったからだ。頭痛が苦になり始めたのは中学の頃。逆立ちしたりして何とかやり過ごした。他に物心ついた頃からの入眠障害摂食障害(拒食)があり、幼稚園時代から弁当の時間が苦痛だった。小さな小さな弁当箱にほんの少し詰められた弁当さえ食べきるのが困難だった。夜も寝付けないくらいだから昼寝も苦手。寝れたことは殆どなかった。夜、全員が寝静まった真っ暗な家の中で一人寝付けず、柱時計の音が脅迫的に響き続ける。あの時間が最も苦痛だった。

 当時、精神面については自覚症状がなく、医者は仮面うつという診断名をつけた。抑うつ症状はなかったが身体自覚症状が複数あったからだ。大量の投薬を受けて副作用が出て、このままでは死ぬと思い、減薬を提案するも拒否され医者と決裂。勝手に断薬し、2ヶ月間離脱症状で苦しんだ。この経験は精神医療への不信感となる。

 離脱が終わると本来の症状がきつくなり、別のクリニックに。まだ残っていた体調不良に対し、自律神経調整薬を出してもらった。うつ病の治療は最初は拒否した。そのうちに気分障害の自覚が強くなり、結局はうつ病として治療を受ける。といっても抑うつ症状は相変わらずない。あるのは希死念廬、極端に切れやすい性格、数々の体調不良だ。特に慢性の下痢と頭痛、子供の頃から続く神経性の胃痛と吐き気。

 当時行っていたクリニックは心療内科と内科が併設で、32条の医療費公助で内科も受診できた。うつ病の専門医だった担当医は頑固な患者にサジを投げ、内科医に押しつけた。これが幸いした。東大・九大的な意味での心療内科に興味のあった内科医と一緒に処方を考えた。患者が処方を考えるなどと書くと批判もあろうかと思うが、治療薬マニュアルや精神医療の本を読みまくり、自分自身に人体実験を繰り返した。知的好奇心が刺激されたのだろう、それを内科医も許した。それくらい頑固で、他人の言うことを聞かない人間なのだ。

 更に幸いなことに、退職した担当医(精神科)の穴埋めに赴任してきたのが、九州大学心療内科医だった。九大の心療内科は日本初で、東大はその真似。当時、日本で希少種だった本物の心療内科医に診て貰えることとなり、担当して貰えたのは半年ほどだったが状態は格段に改善した。ただこの研修医は生真面目過ぎて、非常に心配性だった。

 心療内科の担当医が九大に帰ると、また担当が変わった。経験の浅い医師の研修場所という位置づけのクリニックだったから、入れ替わりが激しいのは仕方がない。次の担当はまた精神科で、なかなか際どいファッションの女医だったが、そこそこ上手くつきあえたと自分では思う。(最終的には切られるのだが。)

 この医者が最初に境界型人格障害という診断をつけた。それまで何とも名付けようがなく、手帳申請のために適当な病名をつけられていたのが、初めてまともな病名がついた。(最初のクリニックの仮面うつは診断名としてはインチキなのは知られている。)が、ここでも頑固な自分は当時の自分の境界型のイメージで「自分は違う」と言い張り、開業するからと退職したこの医者の次に院長に担当して貰い、半年かけて説得、取り消させた。その結果、ついた診断名が身体表現性障害。あまりに数の多い身体症状と不定愁訴に院長がひねり出したのがこの診断だが、どう考えたって違う。とりあえず当時は診断名をつけないと手帳の更新ができないので、こちらも飲み込んだ。

 院長は待ち時間が長いからと、新しく赴任してくる元内科医についてみないかと提案され了承。次の医者は境界型を専門にしたいらしく、程なく再び境界型と言われる。これも断固拒否。医者は諦め、半ば投げやりに治療を続けた。こうまで境界型の診断を嫌がった理由は、当時、周囲にいた境界型の人々と自分の状態があまりにかけ離れているように感じたからだった。今から思えば知識不足。

 色々言うとこちらが怒るので(内心は境界型だと思っていたのだろう)、担当医は事なかれに処方を続けるが、医療不信の強い自分は新しい薬を提案されても拒否することが多かった。そのくせ自分が試してみたいと思う薬があると出させる。相変わらず自分に自分で処方している状態が続いた。それができたのも自分の経験と知識に自信があったからだろうが、何より他人の言う通りにするのが嫌でたまらない性格のせいだった。よく担当医は我慢したものだと思うが、当時はそんなことにも気づかず、俺様に処方しようなんざ百年早いんだよ的な思い上がりで中二病真っ盛りだった。

 そのうち、いくらやっても治るでもなし通院が面倒になり、手帳の更新も面倒になり加療を一方的に中止。近所の内科で欲しい薬を出して貰いながら(この内科医もこちらの言う通りに薬をくれる)、去年判明した慢性頭痛の原因であるストレートネックからくる首や肩の痛みを抑え、慢性的な吐き気・下痢・胃痛の薬を貰っている。

 

発達障害疑惑

 精神医療を放棄した理由は、ここ数年気になっている発達障害疑惑。数多い不定愁訴のいくつもが発達障害で説明できることに気づいた。前からコミュニケーション方法の独特さから冗談でアスペルガーだろうと言う人はいたが、自分が子供の頃は発達障害なんて概念は日本で知られていなかった。最近急激に情報が増えたから調べみて、コミュニケーションや社会性以上に体感のズレや感覚過敏が当てはまると感じた。

 子供の頃から太陽は異常に眩しかった。だから外で遊ぶのはあまり好きではなかった。聴覚も過敏で子供の泣き声・犬の吠える声・パチンコ店・工事現場が大の苦手だ。言葉は悪いが発狂しそうになる。その一方で言語の聞き取りはかなり悪い。聞こえにくいキーがあって、その音域の人だと近くで話していても聞き取れないことが多い。小学校に入る前、一度耳鼻科に連れて行かれたことがある。耳に何か差し込まれる感じが不快で、腕を振り回し医療器具の乗った台をひっくり返したのを覚えている。あれは何だったのだろうと考えていて、中耳炎にでもなったのかと思っていたが、そんな記憶もない。聴覚検査も受け、聴覚にはまったく問題がない結果となったが、もしかしたら言葉の聞き取りが弱かったのかも知れない。当時、連れて行ってくれた人は亡くなっているので確認できないのが残念だ。

 その他、異常なまでに食べ物の好き嫌いが激しく、食べられる物のほうが少ない。感触が嫌いで服を着るのを嫌がり、裸で走り回っていた。小さい頃だけじゃない。高校生になっても大人になっても夏だとマッパで過ごすことが多い。他にも思い当たることは色々ある。学生時代や働き出してからも黒いサングラスを室内や地下道でもかけっぱなしで(あれで職場で文句言われなかったのだから凄い)、視覚障害者と間違えられたりもした。そして、話し出すと止まらない一方的な弾丸トーク。過集中が酷く、しかも長時間持続する。つきあわされる相手はたまったものではない。

 たまったものではないと言えば、本当申し訳なかったのだが、中学になっても色々と分かっていなかった自分は、友達を階段の上で突き飛ばしたことがある。その子は運動神経が良かったから大股でピョーンピョーンと下までバランスを取って、最後に壁にぶち当たって転んだ。結果、捻挫。捻挫で済んで本当に良かった。当然、学校で問題になり、「どうしてあんなことをしたのか」と聞かれ、「どうなるか見てみたかったから」と答えた。もちろん、その子とはケンカもしていなかったし、腹を立ててもいなかった。急に好奇心がおさえられなくなっただけだ。この返答は教師にも親にも信じて貰えず、仕方がないから「何故か分からない」ことにした。とりあえず母親と菓子折を持って謝りに行き、その後も特に関係はこじれなかったのは怪我が軽かったことに次いで幸いだった。

 あれこれやらかして、小学1年から一貫して問題児であったが、周囲があまり心配していなかったのは、ひとえに「頭は普通っぽかった」からだろう。成績は中の上から上の下くらいだが理屈が上手く、大人にも言い負けることはなかった。(今から思えば勝ちを譲って貰っていたのだろうが。)難しい言葉をよく知っていて、何かにつけて基本的人権の侵害とか見解の相違だとか言っていたが、今から思えば意味はよく判っていなかった。協調性には著しく欠けるが、問題行動は少なかった。つまり騒ぎをあまり起こさなかった。そうなったのは色々と運の良さでしかなく、巡り合わせさえ悪ければとんでもないことになっていたのは先の階段突き落とし事件でよく分かる。

 小1から問題児という原因の1つは当時の担任にある。自分は左利きで、何でも左手でしかやれなかった。これを極端に問題視した定年間際の老教師が、何故か責任感に燃えて矯正しようとした。その他、ほぼ毎日のような遅刻と忘れ物の異常な多さも問題にされた。給食は常に残し、当時は居残り給食指導があったから放課後まで給食と睨めっこしていた。この老教師には非常に嫌われていたと思う。とにかくいちいち過干渉で、左利き矯正で今で言う適応障害を起こした。自分は記憶にないのだが、姉の話によると食べない動かないしゃべらない状態になり、父親が学校に怒鳴り込んで指導を止めさせたのだそうだ。(間違っても良い父親だとか思わないで欲しい。確かにこの件では命拾いしたが、アル中でPTSDができるほど苦しめられた。ただ子供、特に自分のことを異常に可愛がっていただけだ。そのことで母親からDVも受けていたのだから、有り難いのか迷惑なのか分からない。)

 このクソ教師には4年間も担任され地獄を味わったが、小5からは急激に問題行動が減る。(指導方針が変わっただけなのだが。)小5の担任は暴力教師で、すぐ子供の頭を物で叩くのだが、自分には天国のように感じられた。

 他にも、自分は他人と長期間一緒にいることができない。小学生時代、個室がないのを嫌がって押し入れに住み着いた。真夏などは熱中症で具合が悪くなった。家族であっても一緒にいられるのは二泊三日が限界。それ以上だと極端に不機嫌になり、怒り出すと自分でも制御は効かない。あまり暴力は振るわないのだが、ガラスを素手で叩き割ったことは数回ある。言い訳が大変だった。

 

◎性別違和

 最初に感じたのは小学校入学のときだったろう。自分用のランドセルの色を見て愕然とした。何故自分がこれなのか。その時、自分の性別をはっきり意識したのかも知れない。

 何か行事があると「よそ行き」と呼ぶキチンとした服装をさせられる。これが苦痛でならなかった。何故なら、自分の性別じゃない服を着せられるからだ。普段はスカートなど絶対はかなかったのだが、このときだけはスカートを強制的に着せられる。だからイベントやお出かけ的なものが大嫌いだった。

 中学に入ると制服がある。嫌でも女装させられる。これがとんでもない気鬱を運んできた。しかしまだ中学はマシだった。多くの時間をジャージで過ごせたし、スカートの下にジャージをはいてることもできた。それでもスカートなる不格好なものを着なければならないのは相当に苦痛だった。さらに、当時は性別教育があったから男子は技術、女子は家庭科だった。これもまた自尊心を傷つけられた。小学校時代から機械いじりもプラモデルも好きだった自分が何故技術をやらせて貰えないのか。料理は好きだが裁縫は大の苦手だった。授業中は適当に誤魔化し、家に持って帰って姉に全部やって貰った。

 高校となるとジャージは着れない。どう考えても不格好な制服(しかも中学と違いセーラー服)を着て、ますます死にたい気分で3年間を過ごした。ロック好きだった自分は軽音同好会に入り、格好つけてギターをかきならしたりして表面上はそこそこ楽しく過ごしてはいたのだが、内心は気鬱症が悪化して、この頃から希死念慮が強くなった。

 高校時代の思い出といえば教師とケンカしては言い負かし、一度など生意気な女性教師を泣かせてしまった。(いや、まさか大の大人が生徒に言い負かされて泣くなんて想像してなかったのだが。)それで当時の担任に「謝ってくれないか」と言われ、「自分が悪くないのに謝る必用はないです」と言ったら、「そうか」と言ってそれきり何も言われなかった。頭がモヤモヤして爆発しそうになっては、「頭の具合が悪いので早退します」と言い、それも止められたことはなかった。あの担任(2~3年時)には相当迷惑をかけたし理解があったな、と最近になってやっと気づいた。

 ところが高校を卒業して東京の学校に進学すると、何を着て良いのか色々迷い、試行錯誤した末に女装を始めた。スカートをはくことはまだ少なかったが、服は女物を買っていたし下着も女物だった。何とも気持ち悪い感じは抜けないからデザインにかなりこだわり、周囲からはオシャレな人と思われていたようだ。が、そういう問題じゃなく、許せる物だけしか身につけられなかったのだ。結果、黒ければ何とかなると発見。常に黒装束だった。下着も上半身は仕方ないにせよ、パンツはロングガードル。今でいうボクサーブリーフのような形が気に入って、これを直ばきしていた。

 女装には理由があった。自分の性的対象は高校以来、男だ。女装していると女と思われて相手を得るのが楽だと気づいた。性欲も結構強かった自分は、とにかくセックスしたくて、手っ取り早い方法として女装して化粧していたというのが正直なところ。

 

◎生活のこと 

 あまり言いたくはないのだが、結婚した。自分は結婚などできないと思っていたし、したいとも思っていなかったのだが、ものの弾みとは恐ろしい。最大の理由は、母親をはじめとする周囲からの圧力に負けたといったところ。そして名字が変わるというとんでもない拷問を受けることとなる。大失敗だ。

 自分の名字は嫌いだ。山田だよ。どんだけ馬鹿にされたか。どう考えたって結婚相手の姓のほうが格好良い。が、どうしても自分は姓が変わるのが我慢できず、数年間はがんばって通名で通した。しかし、通名使用などできるわけがなかった。銀行口座から浸食され、本人確認証の必用な登録も、すべて新しい姓に汚染されるのに長い時間はかからなかった。それは強烈な違和感となり大変な苦痛となった。

 一方で、自分の下の名前は身の毛もよだつほど嫌いだ。性別丸出しだからだ。一度だってそれが自分の名前だと感じられたことはない。学生時代からしばしば偽名を使っていた。性別が分かりにくい中性的な名前を好んで使った。しかし仕事の上では本名を避けては通れない。このブログで使っている実理(みつさと)は元の名前に漢字が似ていてイニシャルも変わらないことから決めた、もし性別を変更することができたら自分につける予定の名前だ。イニシャルも名字も好きじゃない。でも、それが一番自分らしいと感じる。自分が一番格好良いと思う、好きな名前はやはり気恥ずかしくてつけられない。自分じゃないような気がする。通名使用で問題ないから夫婦別姓は必要ないと言った責任者、出て来い。仕事をしている限り、通名なんて通せないんだよ。ふざけるな。籍を入れなければ良い? その通り。結婚なんて放棄すべし。そんなものに価値などない。

 

 籍は入れたものの(それは親の戸籍から外れるためでもあった、当時の自分は単身で本籍を移動すれば戸籍から外れることを知らなかった)、同居する気はさらさらなかった。自分は他人と一緒には暮らせない。何があるでもないのだが、他人と長時間一緒にいると精神的に追い詰められてしまう。ヘトヘトに疲れてしまう。ところが、上で書いたような状態で経済的に追い詰められたので、どうしようもなくなって同居した。家賃を半分にするためだ。それぞれの電話は別。財布も別。しかし狭いアパートにフリーランスの自宅作業者が二人、24時間籠もりきりでいればウンザリもする。

 荷物も増えた。キャパ越えして片付けができなくなった。元々、他人のために家事をするのが嬉しいという感覚はないから、人がいるから家事をしなくなった。精神的にも追い詰められ、よくあれで離婚しなかったものだと自分でも思う。いや、何度も切れながら離婚すると叫んだのだが、どういうタイミングなのかしそびれてしまった。相手はまったく反対しなかったのだが、かといって自分から動くタイプではない。そうしたければ引っ越しから手続きから、何から何まで自分が全部何とかするしかなかった。それが面倒だったのだろう。

 現在のパートナーのことが嫌いかと聞かれれば、おそらく人類の中ではかなり上位に来る程度には好きだ。しかし彼は異性愛者。その感覚に違和感が消えない。性別役割を要求することはないのだが、そうしないといけないような気になるのは異性愛的センスが彼にあるからだろう。さらに自分は男に負けるのが嫌いだ。男は競争意識が強いし、周囲の男より自分が優れていることを機会を捉えては証明しようとする。密室の中で繰り返されるマウンティングはどんどん狂気を帯び、お互い精神的に追い詰められた時期も長くあった。

 それでも同居しているのは経済的な問題が大きい。そして相手が徹底して受動型の人間だからだ。受動型の人間としか長続きしないのは、子供の頃の友人関係でも同じ。自分から働きかけて来ない人間が楽なのだ。ペースを乱されるのも嫌い。邪魔されるのも嫌い。こういう人間は他人とは暮らせない。

 東京に出て来て以来、独り暮らしをしていて寂しいと思ったことはない。寂しいというのがどういう感覚か、おそらくわかっていない。ただ退屈はする。刺激が欲しいと思う。そして溜まったエネルギーを発散するためだろうが、長時間しゃべる。これが相手には苦痛らしい。ただしゃべるのではなく、何かについて論じ始める。それも数時間に及ぶ。相手は集中して聞き続けなければいけない。自分がやられたら死ぬほど嫌だ。