言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

LGBTとか

 苦手なんですよ、これが。自分はこんなだからこの属性に入るわけだけど、何とも言えずしっくり来ない。とはいえ差別されるのは嫌いだから興味は示すし、賛同も一応するんですけどね。

 まず1つにLGBTという文字列。レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーなわけだが、LGBとTは意味合いが違う。セクシャル・マイノリティー(性的少数派)という括りなのだろうが、前3つと最後の1つはセクシャルオリエンテーション性的志向)とジェンダーアイデンティティー(性自認)という違いがある。

 これに昨今は他のセクマイをくっつけて5文字もしくは6文字にする表現もある。つけられるので多いのはQ(クィアまたはクエスチョニング)、A(アセクシャル=無性愛者)、I(インターセックス性分化疾患)。インターセックスがセクマイなのかには議論がある。多くの当事者は性別違和がないそうだし、生殖能力はともかく見た目はどちらかの性別だったりするからだ。だから自分はLGBTQAという書き方を使うのだが、このうち性自認の記号はTだけだ。(Q=クエスチョニングにした場合は、TとQが性自認となる。)

 日本ではXジェンダーという言い方をするが、英語ではジェンダークィアと呼ぶ。性別未定もしくは不定という意味らしいのだが、TだってXな部分はある。いくら本人の性自認が男女どちらかと主張しても世間はそうは見てくれないし、扱いは見た目で決定される。だから見た目を性自認と一致させようと必死になる人も多い。

 最近では性同一性障害の治療は知られていて、若い頃からホルモン治療を受ける人もいる。しかし、若くもないおっさんとしては今更どうしたら良いのか、と思ってしまう。背が低いしなとか、チンコ生やせるわけでもないしなとか、これ以上いびつになると外を歩けないんじゃないかとか。だから性自認としてではなく結果的にXであることを認めざるを得なくなる。

 

 その上、自分は性的志向が男性というのも大きい。もし女性が性的対象だったら、女性から男と認めてもらうために必死になっただろう。が、自分は中学では好きな女子がいたが(少年っぽい中性的な子)、高校からがっつり男が好きだ。むしろ自分の女性性を否定する気持ちから女性蔑視的な部分もあった。今でいうマッチョ感というのか、肉体的には無理なので精神的にマッチョでいようとした。昔ながらの男尊女卑的なセンスは自分にもある。が、自分が客体となったら差別されるのは自分になる。だから性差別については若い頃から非常に敏感。純男に対するひがみもあり男には厳しい。

 男性同性愛者が自分の好みに非常にこだわるように、自分も好みにはうるさい。だから好みじゃない男には冷淡だし、男としての水準(強さ・逞しさ・知性・理性)を厳しく要求する。一方、女には昔から甘いのだが、それは性的対象だからではなく、女に多くを求めても無駄だという女性蔑視があったからだ。近年これが薄れて、女性にも厳しい態度が取れるようになったのは我ながら進歩だと思う。

 こう書くととんでもない性差別主義者に見えるが、この考えを堂々と認めたら蔑視されるのは自分である。だから内心ひっそりとそう思っているだけで、表面上は女性を差別はしない。男というものは女に優しくしなければいけない、という考えもある。だから多くの男が、本心は「女に寛容で優しい俺って格好良い」という自画自賛でやってるのを良く知っている。自分がそうだからだ。自分の場合、それで女に好かれても嬉しいことは全然ないのだが、ヘテロの男性ならそりゃ嬉しいでしょうとも。スケベ心全開ですよ。

 そういうわけでLGBTのうちGでTな自分としては異性愛がいまいち理解できない。異性間セックスはよく知っている。そりゃあね、好きですからね、セックスは。が、恋愛というのが何かいまいちよくわかっていないし、恋愛=セックスだと思っていたりする。こういうところは感覚がモロ男ですね。

 だから正直、まともな恋愛というのはしたことがない。つきあっている相手はセフレくらいにしか思っていないし、つきあっているという認識もないからセックスしかしない、というのが若い頃の行動パターンだった。デートだとか面倒臭くて全然駄目なのだ。自分が行きたい所以外行きたくない。自分がしたい事以外したくない。友達同士ならつきあいで買い物もする。でもセックス相手とは無理。自分にとってセックスの相手は友達以下の存在だった。今でもそうかも知れない。

 それだけ深入りしないでつきあうから自分がこれだけおかしな人間でも何とかなったのだな、と今では思う。しかし、30からこっち自分の社会的性別を演じ続けることがどんどん苦しくなった。そのため、できるだけ社会との接点を減らして暮らしている。年を取れば性別違和が薄れるということはない。制服以外は学生時代までのほうがずっとマシだった。社会的役割に無頓着でいられたからだ。結果、これだけ長く生きてきて慣れないのだから、もうこれは一生慣れないのだと思うことにした。それで戸籍変更を目論むに至った。

 

 自分も人並みにリベラルだから、人権とか反差別とかもちろん支持する。でも、何とも言えずLGBTという言葉には抵抗がある。1つにはアライという存在が怖い。そして、押しつけられることが嫌い。こうせいああせいと指図されるのは苦手だし、変に同情もされたくないし、ありもしない共感をでっち上げられるのも嫌だ。それでも社会性はあるから、彼らに文句は言わないし大人しくしている。結婚主義ではないし結婚の意味など全然わからないが、同性婚には賛成するし、反対する人がいれば差別だと怒りもする。でも、昨今の大きなうねりを見ていると時代は変わったなと嬉しくなる一方で、どこか釈然としないものも感じる。

 その1つの理由。モノガミー思想が自分には弱いからだ。モノガミーとは一夫一婦制、1対1の結婚形態のこと。自分はポリアモリー(複数恋愛、お互いに複数の相手とつきあう状態)ではない。面倒臭いから一時に相手は一人いれば十分だ。浮気心が動いたことがないわけではないが、なかなか機会もないし、色々考えると面倒になって結局しない。平行して二人以上とつきあったことがないわけではないが、一点集中タイプの自分はその状態を長くは維持できない。でもそれはモノガミーだからではない。単に無精だからだ。

 だから不倫だ浮気だと怒っている人を見るとキョトンとする。自分だって交際相手にそう言って責めたことがないわけではないのだが、それは言わば戦略的な何かで本気とも言えない。相手の弱みをつけば勝てる、という戦術に過ぎない。もちろん他の相手と関係されて不快じゃないわけでもない。独占欲はあまりないが、あれと一緒かよと考えるとプライドが傷つくこともある。だからポリアモリーでもない。過去につきあった相手がポリアモリーだったこともあったが、それ自体はあまり気にしたことがない。そいつはそういう人間だと思っていたし、それで自分に不利益がなければどうでも良い。

 こんな人間だから結婚がどれほど良いものかなど永久に理解できない。他人にあまり興味がないのは発達障害の故かも知れないが、実理(名前じゃなくて)しか気にならない。もちろん情緒的なものが必用ないわけではない。尊敬と友愛、十分な理解の上で対等な関係を欲する。しかし自分はどこか、一人の人間にすべてを要求するのは無理だと思っているところがある。だから友達とセックス相手は分けて考えてきたし、それぞれに要求するものもきっちり区別してきた。

 結婚の価値がいまいちわからない理由は、純粋な関係を保つのに邪魔だと思うからだ。結婚していなければ関係を継続できないほど弱い結びつきなら別れたら良いと思っている。ロマンティックなのかも知れないが、何の縛りもなく一緒にいるという状態を評価するし憧れもする。結婚は契約であり生活だ。契約も生活もきっと嫌いなんだと思う。

 

 上で説明してない用語が1つある。クィアだ。これは説明が非常に難しい。自分も十分に把握しているわけではない。元々は英語圏で男性同性愛者を罵る言葉だった。英語の意味は「奇妙な・不思議な・風変わりな」で、言うほど罵倒ではないように見えるが、差別語として強い罵りである。使用自粛されてきたが、これを逆手にとって同性愛者側がクィア理論というのを組み上げたらしい。それ以来、この言葉は再解釈され、当事者が使うようになった。クィア・スタディーズという知識があるらしい等々。が、これも一部の話で、当事者でもいまだに嫌う人のいる表現だから、部外者は迂闊に使ってはいけない。

  しかしLGBTQとして使われる場合はQ=クィアとなる。LGBTに当てはまらない、その他すべての、という意味らしい。昨今ではクィア=同性愛者ではなくクィア性を持つ者とされているようだが、ここまで来ると自分には理解が追いつかない。言えることは自分はクィアを自認していないということだけだ。が、他人から見たらクィアに入れられてしまう、というのも認めざるを得ない。

 ついでだから書いておくと、性的志向に関する差別語・侮蔑語はクィア以外にもホモ、レズ、オカマなどがある。オカマは最初から侮蔑的に作られた言葉だが(だからオカマさんなどと敬称をつけてでも使ってはいけない)、ホモ・レズは短縮することで侮蔑的なニュアンスになる。というのも使用例がそうなっているからだ。英語圏では絶対使ってはいけないというくらいの禁忌であり、日本語でも十分失礼なので避けたほうが良い。これらの意味の強さをどうしたら表現できるかと考えると、どうしても差別語を出さないと説明できないので躊躇されるが、日本で言えばシナチョンくらいだと思うと間違いない。

 じゃあ何て呼べばいいんだよ、と思われるだろう。省略しなければ問題はない。ホモセクシャルレズビアンには侮蔑的なニュアンスはない。オカマは通常、女性の服装をしたり仕草などで女性的な雰囲気を漂わす人々を指すことが多い。現在はオネエという表現が一般化している。が、トランス女性に向かってオネエと言ってはいけない。彼女らは女性であってオネエではないからだ。同じくトランス男性はオナベではない。女性が性的対象の人も多いが(そっちのほうが多いのかもしれない)当然レズビアンではない。

 

 まとまりがないな、と思いつつ、長くなったからこの辺で。次は一般論的なことを書きたいと思うけど、まだ当分、自分の話が続きそうな予感もする。