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言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

性別は社会規範なのか

 性別には生物学的性別(biological sex)、社会的役割(gender role)、性自認(gender identity)の3種類があると定義される。妥当な分け方だが、様々な視点から見ると不服がある。

 性別をあらわす英語はセックスとジェンダーの2つがある。通常、セックスは2つ(男女)と考えられているが、性分化疾患DSD)を視野に入れると二分法で考えるのは危険とされる。が、DSDの当事者の中には「第3の性」を自認する者もいれば、しない者もいる。(しないほうが多い。)ざっくりとDSD=第3の性と捉えてはいけないのだ。

 その理由は、性別を決定するのはセックスではなく主にジェンダーだからだ。DSDの当事者の多くは、性自認がXジェンダーではなく男性か女性かどちらかだ。ちなみにDSDは「半陰陽」「両性具有」「ふたなり」「アンドロギュノス」などと言われるが、男性器と女性器を完全な形で兼ね備える例は稀だ。また、性染色体がXXYの人というのは誤解である。多くは性染色体と一致しない生殖器を持つか、どちらとも判別しがたい不完全な生殖器を持つ、XYまたはXXの人々だ。

 DSDの当事者を「第3の性」と見なすのは生物学的性別(セックス)だけで性別が決定するという間違った考えに根ざしている。セックスだけで性別が決定するとされた場合、性同一性障害も性別違和も存在しないことになる。ジェンダー否定論であるから、性自認も無視される。自分が泣こうが喚こうが性別は形状で決定する。であるから、この考え方は自分には受け入れがたい。

 本当ならジェンダーの問題に彼らを巻き込むべきではないのだが、DSDの人を引き合いに出した意図は、「形状で性別は決定しない」と言いたいからだ。彼らの性自認は形状がどうであれそれぞれに決定していて、性別違和の率は低い。ウィキペディアによると、2005年のドイツの調査ではDSD当事者でXジェンダーを自認する人はわずか9%だったらしい。

 

 性別について考えてみよう。性別はまずセックスとジェンダーの2つがある。これが大前提だ。何故セックスだけでは駄目なのか。人間の生きている社会では、性別が単なる生殖機能から離れ、意味が増幅し、複雑な概念や価値体系を作り出しているからだ。人々が考える性別の多くは「社会的な性別役割」なのだ。このことをシスジェンダーの人達は殆ど意識せずに生きている。

 もし性別が純粋に生物学的なもの、つまり生殖に関わるだけのものであれば服飾の性差もないし、言葉や仕草の性差も必用ないはずだ。授乳期を過ぎた子供の養育が役割分担になるはずもない。雌の役割は子供を妊娠・出産し、授乳すること。乳離れした幼児の成育に対し、養育者が男か女かで大きな違いはないはずだ。ところが性別役割分担ではそれが女性の仕事と決められている。授乳で築いた信頼関係を利用して、その後も子育てを担当するというのは一見合理的ではある。だから、そうすることを批判はしない。しかし、保護者が女性、それも生みの親であることは必須ではない。

 自分はジェンダーを「文化的性別」と捉えている。社会的役割も文化だし、社会での扱われ方も文化だ。国や地域・時代によって差があり普遍性がない。こういったものは自然物ではなく人工物、アプリオリではなくアポステリオリなもの。それをザックリと文化と呼ぶことにしている。性差にまつわる文化は多岐に渡っており、自分が何を選択するかの好みも左右するし、生活のすべてに及ぶ。社会と接するときは社会規範として働き、歩き方から話し方、あらゆる行動を規制される。

 

 では、性別違和とは何だろうか。自分の場合、肉体違和は比較的弱い。それは、物心ついてからずっと自分が見てきた、自分自身と認識するモノだからだ。変化もつぶさに見てきた。長年の間にソレに対する慣れが作られている。全部ではないが、受け入れることができていると思う。

 その一方で、自分の持つ文化は女子的ではなく、そういうものに興味を持ったことはあまりない。とはいえ兄弟がおらず姉2人と一緒に育つと、同じような立場の男子がそうであるように姉の文化的影響はそれなりに受ける。少女漫画を読み、少女向けアニメを見、女の子の遊びに付き合わされる、といった具合だ。

 自分の場合、小学校時代は長女が少年漫画雑誌は「汚い」からと持ち込み禁止で、少年漫画を読み始めたのは中学から。雑誌は買わず(少女漫画雑誌を買うので小遣いがなくなるため)、友達から単行本を借りて読んだり、立ち読みしたり、店などに置いてある少年誌を読んだ。少女アニメはつまらなくて(一応は見たが)、少年向けアニメを好んで見た。女の子の遊びはあまりしたことがなく、野外でするのは虫取り、カエル取り、川遊び、探検ごっこが主だった。秘密基地を作ったりもした。しかし一緒に遊ぶのは女子が多く、男女混成で遊ぶ機会は半分以下だったと思う。前出の銀球鉄砲の他、かんしゃく玉もよく遊んだ。メンコ・ベーゴマは下手だったが、そこそこたしなんだ。

 一方で、いわゆる人形遊びはしたことがない。人形が嫌いだったのだ。人間の形に嫌悪感があったから、もらった人形を丸裸にし、髪の毛を坊主にし、折り曲げて壊した。ぬいぐるみは好きで、沢山持っていたが、それで遊ぶということはあまりなかった。触っていると落ち着くという程度。動物が好きで、家で飼っていた猫・犬・ウサギ・その他色々をかまっている時間が長かった。虫の観察も好きだった。あとはプラモデルを作っていたり、電気製品を分解しては組み立てたり、学研の科学の付録で何かしていたりだった。これが小学校時代の遊びだった。

 

 自分にはすごく重要な文化がある。1つはサッカーだ。小4か小5の頃、偶然見たサッカー番組に夢中になり、毎週かかさず見ていた。それまで野球や相撲はあったが、サッカーなんて存在も知らなかった。自分は野球が苦手で、キャッチボールもあまりしなかった。肩が弱くて上投げが下手だったし、棒を小さなボールに上手く当てるのも苦手だった。

 始めて見るサッカーの面白さは何とも表現できない。最初はルールさえ分からず、ただ見ていた。ボールを足で蹴るだけの単純なスポーツだと思った。当時よく放送されていたのがドイツのブンデスリーガで、接触プレイを嫌うお国柄だが流血沙汰もよくあった。それも含め、面白くて仕方がなかった。解説者とアナウンサーの会話から細かいルールを飲み込んでいくと、さらに面白さが増した。ドイツ人の長身の選手は格好良かった。体が大きく、骨格も日本人とは全然違う。ところが、同級生や友達でサッカーを知っている子は一人もいなかった。

 もう1つの重要な文化がロックだ。これは中学1年のとき、テレビを見ていて知った。それまで歌謡曲やフォークしか聞いたことがなかったから(生まれて初めて買ったアルバムは井上陽水の『氷の世界』だった)、この異文化には衝撃を受けた。北関東の田舎の退屈な生活に、海の向こうから刺激的な音が届いた。ファッションも格好良くて、すぐ夢中になった。当時夢中だったのがクイーンのフレディー・マーキュリー。始めて買ったロックのアルバムはクイーンだった。他にはローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか、男臭さ満載のバンドが多かった。

 サッカーやロックの話を書き出すと止まらないから自重するが(実は歴史の話も書き出すと止まらないので、前の記事でも公開した量の倍ほどの歴史の話を書いてしまい、削除した)、これらの要素で構成された自分の文化には性別などなかった。その後も小説や映画と自分の文化は増えていくのだが、そこにも性別の要素はあまりないと思う。つまり、自分が吸収していた文化は日本の性規範の埒外にあったし、女子的と考えられる文化に興味を持たなかった。

 かといって男子の文化の中で育ったわけでもない。小学校高学年ともなると、男子と女子は距離を取り始めるし、一緒に遊ぶのも同性になる。中学になると妙に意識して、特に男子が女子と距離を取ろうとする。兄弟はいなかったし、一緒に育った男の子達とは年が離れていて、あまり接点がなかった。だから男子が共有していた文化を、自分はそれほど吸収できていない。

 

 文化はこういった遊びの文化だけではなく、好み全般を支配している。ソレを好きと思っている自分が、本当に心からソレを素晴らしいと思っているとは限らない。「好むべき」という規範によってそう思わされている可能性がある。自分は確信的にコレが好き、アレが好きとやった結果、自分には文化的な女性性が希薄だと認めざるを得なかった。しかしそれが性同一性障害なのかと聞かれると、確信を持ってそうだと言える自信はない。

 性規範の中でも服装の性規範は非常に厳しい。特に男性が女性の服を着ることに対し、世間は厳しい目を向ける。シスジェンダーはこういった性規範に馴染み、それを全部肯定しないまでも受け入れることができている人々だろう。しかし、性別とは社会規範なのだろうか。性別が社会規範に利用される部分はあるが、性別そのものが社会規範だとするのは非常に危険な気がする。

 肉体的性別違和は自然に内面から出てくる。しかし文化的性別違和は人為的に作られているのではないか。文化的故に生活している時代・地域・国の性規範によって強まったり薄まったりする、相対的なものに過ぎないのではないか。最近そう考えるようになった。そう考えることで、自分自身の中にある性別に対する強いこだわりを薄めていけたら、と思っている。