言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

ゲイシズムについて

 ゲイシズムという言葉を知ったのは最近。ツイッターでフォローしている方(米国在住のゲイ)がつぶやいていたのが初見だ。その時の説明では、「テレビなどでオネエを出し、毒舌をもって様々な社会現象を鋭く論評する」といった内容だった。こういう芸風は日本でも多く見かける。なるほどなあ、と感心した。

 ゲイバーでは昔から定番だったのだろうが、日本で言えばテレビ的には「おすぎとピーコ」あたりが確立した芸風だろうか。批判を受けると「オカマだからしょうがないじゃない!」と返すアレだ。毒舌芸はオネエの独壇場というくらい普及した。自分なども昔、ゲイバーではない場所で遭遇するオネエ達の毒舌芸に腹を抱えて笑ったものだ。

 しかし、ここまで蔓延すると、これはこれでどうなのだろう、と感じるようになる。しかも内容に見識もクソもないものも増えた。ただの言いたい放題・暴言の類いも多い。数が増えれば質は低下するのは道理。仕方がないことではあるのだが。

 

 質の悪い放言を批判する作業は都度個別に必用なのだが、そもそもこのゲイシズム、どうなのだろうか。これが成立するのはオネエ達が被差別だからだ。つまり、ゲイシズムは差別構造に乗っかったものであり、差別をなくす役には立たない。オネエが言っても暴言は暴言だし、放言は許されない。そこをはき違えてはいけない。

 こういった構造(被差別からの乱暴な言い切り)を利用した芸風として、お笑いタレントにコメントをもらうというのもある。昔、お笑いタレントが世相や政治的な事柄について発言することは少なかった。「ぼやき漫才」というのはあったが、個別の芸人の芸風でしかなかった。

 お笑いタレントにコメントを求めるようになるのは、ビートたけしあたりからではないかと思う。漫才師が政治について言及するようになる。最近でも太田光松本人志のコメントは大きく取り上げられ、メディアを駆け巡る。それ自体はどうでも良いのだが、問題は一般人がそれを有り難く拝聴し、同調しやすい点だ。彼らはそれほどの見識を備えた「文化人」なのだろうか。

 

 批判が来ると、ビートたけしは「たかがお笑い芸人の言うこと」と逃げる。これはオネエが「あたし達オカマだもんねー」と逃げるのと同じである。芸人というのは日本では河原者であった。河原者とは「河原に住んでいる人達」という意味で、被差別を意味する。日本では湿気が多く環境の悪い河原に人は住まない。そこに住まざるを得ないのは、流れ者・外れ者の被差別の人達だった。そこには芸人も多く含まれていた。

 ある一定の職業を河原者と認識するのは、もちろん職業差別だ。だから現在ではそんな人達はいない。しかし、アウトサイダーとしての立場を利用して言論するのは、まさにこの河原者制度なのだ。だから「たかがお笑い芸人」の言うことでも「たかがオカマ」の言うことでも内容に応じて批判を加える必用がある。最近の松本人志の意見には批判される点が多いと感じる。

  自分は芸能には疎いし、芸能の話をしたくて書いているわけではない。もしオネエ達が「あたし達オカマだもんねー」に逃げ込むなら、ゲイ差別はなくならないと言いたいのだ。オネエ独自の視点を持って批評する、というのなら批判も真っ向から受ける必用が生じる。それだけの覚悟をもって言説しているのか。中にはそう見えない人もいるように感じる。

 

 もう1つの風潮として不気味なのが、女性誌でオネエのコラムが増えている点だ。オネエは女性なのか。そうとも言える部分はあるが、基本的には性自認が女性ではない人達だ。性自認が女性はトランスジェンダーであってオネエではないし、オネエ=女性ではない。トランス女性の性的対象は男性とは限らない。ここはハッキリと区別しないといけない。とは言え、性自認の問題は本人にしか分からない。問題は、それを有り難がる女性が多い点だ。

 女性という性別の規範は男性より遙かに多い。まさに「女性に生まれるのではなく、女性になる」のだ。若い世代はその過程で悩みも多いだろう。そういう時に、風穴を空けるようなオネエの意見が参考になることもあるだろう。が、昨今増えているのは、オネエによる「女性はこうあるべき」論だ。これはとんでもない性差別であり、性規範の再生産でしかない。こういう言説をするオネエは性別役割分担に荷担する性差別主義者。自身が被差別であるにも関わらず、差別的言説をする人は世に多い。

 

 ゲイシズムもお笑い芸人のコメントも1つの流行だろうから、それを批判するのは意味がないかも知れない。しかし受け手側は警戒しなければならない。特に性規範の再生産は何も良いことをもたらさない。旧態依然とした男女観を維持するだけだ。日本の性規範は息苦しい。過剰である。それをオネエが助長してどうする、と言いたい。

 乱暴なことを言えば、女とはを性規範で語るオネエは「そこいらのオバサンと同じ」なのだ。言ってる内容も大差ない。そういう意見を聞きたければ、「そこいらのオバサン」に聞けば良い。オネエである必然性は何もない。個人の理想を語ることは自由だ。が、それを人に押しつけてはいけない。それはあくまでも主観に過ぎない。どうか惑わされずに、自分の自然を発見し貫いて欲しいと願う。

 これもまた自分の主観であり個別の経験ではあるが、世間に圧迫され、折れて合わせてきたことに自分は後悔がある。性規範に従って良いことは1つも起きなかった。自己選択・自己決定が自尊心を保つ最良の方法だと信じている。そこには後悔がない。失敗したら反省はある。が、自己否定に走るほどの後悔は生じない。自己肯定感。これを得られず人は苦しむ。自己肯定感こそが自尊心の源だと自分は考えている。