言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

「多様性を受容する」の誤解

 一応でもリベラルをやっていると「みんな違って、みんないい」とか「多様性を受け入れよう」みたいな言葉にしょっちゅう出会う。それ自体は批判することではないし、是非そう願いたいと思う。しかし違和感を感じる時がある。

 多様性とは社会の構成員に様々な属性の人がいることを肯定的に捉えることだと理解しているが、どうもそうじゃない人がいるように感じる。彼らとて障害者をはじめとする様々な属性・様々な職業を受容しているとは思う。では「選択の自由」や「価値観の多様性」はどうだろうか。

 背景が違うと様々な価値観が出て来る。背景が違わなくてもだが、背景が違えば当然のことだ。価値観とは生き方そのものとなる。他人を尊重するとは、異なった価値観を否定しないこと。当然、肯定できない価値観は沢山ある。それをも含め「それぞれの考え方・感じ方」を否定しないこと。(批判しないという意味ではない。エビデンスに則った批判は当然出るし、批判=否定ではない。)

 こういうことを考えるようになったのは、「みんな違って、みんないい」と言いながら異質な考えや感性を否定したりバッシングする人が目につくからだ。属性は価値観を生み出し、価値観は生き方を決める。

 

 具体的な例の1つは、犯罪者や違法な行為をした人達に対する態度だ。他人を害することは決して許容されることではない。だから罪に問われるし、罰も受ける。罰には量刑と社会的制裁がある。それが過剰になることは法治国家では許されない。社会的制裁がリンチ(私刑)となり過剰制裁となる場面は多々見かける。他人を害することは間違いだ。それは声を大にして言う。やってはならないことだ。それをやってしまうのは失敗なのだ。失敗は誰でもする。殺人は償いきれない失敗ではあるが、量刑は刑法で決まっている。その妥当性に意見はあろうが、そう決まっているのだから仕方がない。その中でも、死刑は明かに過剰制裁だ。死をもって償えなどというのは時代錯誤も甚だしい。

 こういうことを言うと「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典を引き合いに出して正当性を主張する人がいるが、勘違いである。ハンムラビ法典に書かれているのは、「目には目で、歯には歯で」だ。「目には目で」の意味は、「目を傷つけたら目で償わせるべきで、殺したり両手両足を切り落とすのはやり過ぎた」。過剰制裁を規制しているのだ。決して等価交換を奨励しているのではない。ハンムラビ法典が出来た時代は古代。人殺しの禁止なんて概念すらないし、奴隷もいた。だから身分が違う同士のトラブルで等価交換になっていない量刑も記載されている。「目には目で」は同じ身分同士に適用される。奴隷に対しては気に入らないことがあれば殺すのも持ち主の自由という時代に、相手が奴隷といえど過剰制裁は駄目ですよと規定したのだ。そこが画期的である。世界初の法律書には「法の精神」が充ち満ちている。

 近代の法哲学においては、刑罰は復讐のツールではないと規定される。あくまでも更生のためであり、社会に復帰させることを前提としている。であるからヨーロッパでは死刑が廃止された。それによって凶悪犯罪が増えたというデータもないし、そもそも死刑制度が凶悪犯罪の抑止力になり得るのなら米国では凶悪犯罪が少ないはずである。しかし、データはそうなってはいない。

 

 もう1つの例は、変態性欲とか性的倒錯と呼ばれてしまうような嗜好を持つ人達だ。これも法律に抵触する場合は禁止になる。勘違いしてはいけないのは、「嗜好を持つこと自体」が禁止されているのではない点。他者に対して「同意なく行為を行うこと」が禁止されている。痴漢・覗き・強姦・被虐や加虐などだ。同意があっても駄目なのが幼児や少年少女への性的虐待。同意が成り立たないと見なされる。同じく同意が成り立たないのは獣姦。

 では他者がいない変態行為はどうだろうか。フェチシズムが代表的だが、他にも窒息プレイや糞尿飲食・自傷行為に見えるような様々な嗜好がある。他人を害さないから法律で禁止されてはいない。禁止されているのは盗癖(窃盗罪)くらいだろう。様々な性的倒錯についてはウィキペディアの「性的倒錯(パラフィリア)」の項を参照されたい。

 これら目もくらむばかりのバリエーションがある性欲・性癖の羅列がまさに「多様性」なのだ。趣味と軽く捉えられがちだが、当事者にとっては切迫していて強迫観念にも似た、回避が難しい欲望である。まさに「取り憑かれたように」心を焦がす。四肢欠損願望などは本当に深刻だ。

 現在、変態性欲に入れられているものすべてが変態であるかについて自分は強い疑問を持つが、今それは置いておく。「みんな違って、みんないい」と言ってる人は、自分にとって不都合な存在や気持ち悪いと感じる相手にもそう言えるのか。そして、自分にとって受け入れがたい選択をする人々を受け入れることが出来ているのか。できてもいないのにこのフレーズを安易に使わないで欲しいのだ。

 身近な例で言えばロリコン(幼児性愛)叩きがある。ロリコンペドフィリアはどこにでも一定数いる、多様性の1つだ。問題は「実際に行為をするかしないか」だけ。行為だけが罰せられるのであって、嗜好や妄想それ自体は罰せられない。「妄想無罪」である。

 

 さらにセックスワーカー、つまり性風俗関連の仕事をしている人達への職業差別やバッシングもある。自分が決してすることのない選択をする人は存在する。それが多様性だ。それが他者を害するものでない限り、叩かれる筋合いはない。それをパターナリズムでとやかく言う人が多い。

 パターナリズム(父権主義・家父長主義)とは、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉すること」。親が子供にあれこれ指図したり、年長者が年少者の意志決定に対し「それは良くない、こうしなさい」などと干渉する場合がそれだ。この言葉自体も何とも性差別的な気持ち悪さがあるのだが、やってることはもっと気持ち悪い。

 パターナリズムは「強い立場から弱い立場」に限らない。成人同士で立場が同じような場合でも、上から目線で指図がましい口を叩くことも該当するだろう。自分の考え方が一元的に正しいと信じた人が、「良かれと思って」口出しする。しかし、偏狭な価値観に裏付けられた、まったくの「余計なお世話」なことは多々ある。

 危害原理のない(つまり被害者なき)法規制もパターナリズムである。麻薬使用が禁止されるのは他者を害するからではない。もしそうなら飲酒も禁止されているはずだ。パターナリズムこそ価値観の多様性を排除した、人と同じことをしろという圧力そのものなのだ。

 

 法律の問題に限らない。むしろ法律よりも社会通念にパターナリズムは充ち満ちており、マイノリティーはそれに苦しめられる。「子供を産むのが人としてのつとめ」と言われても同性愛者は困る。「愛する人がいてこその人生」と言われてもアセクシャルは困る。「人の役に立つのが人としての生きがい」と言われても障害者は困る。「アフリカでは飢え死にしている人もいるのに」と責められても拒食症の人は困る。「生きたくても生きられない人がいるのに」と言われても希死念慮のある人は困る。「自分を大切にしなさい」と言われても自傷癖のある人は困る。価値観を押しつけるとは、こういうことなのだ。

 「多様性を受容する」とは、様々な状況に置かれた人達の、それ故に出て来る価値観と選択をどれだけ受容できるのか、という葛藤なのだと思う。受容しきれないものは誰にだってある。あまり褒められたことではなくても、それをしなければならない事情のある人もいる。事情などなくてもそうしたい人もいる。そういった様々な人々、他者の「選択を尊重する」ことこそが多様性の受容であると気づいて欲しいのだ。「(直接的に)他者を害する行為かどうか」が問われるだけで良い。