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言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

ロマンティックラブ・イデオロギーの罪深さ

 性的マイノリティーにアセクシャルと呼ばれる人達がいる。日本語では無性愛者となる。恋愛感情を持たず、他人に性的欲望も抱かない人達だ。似たような言葉にノンセクシャル(非性愛者)というのがあったが、和製英語だからという理由でアセクシャルに統合された。非性愛者は恋愛感情は持つが、他人に対し性的欲望を抱かない人達で、今はアセクシャルの一部と見なされる。

 最近の表記では「アロマンティック・アセクシャル」と書いてあれば恋愛感情と性欲の両方がない人だ。ア(否定)+ロマンティック(恋愛的な)で、ロマンス(恋愛)の派生語。以前のノンセクは「ロマンティック・アセクシャル」と書く。

 アセクシャルを定義する言葉だから「アロマンティック・セクシャル」は出てこなくて当然なのだが、調べてもこれに該当する用語は見つからなかった。相当数いるであろう「恋愛感情を持つことはないが性欲はあり、他人と性交することは可能」な人達は呼称さえない「見えざる属性」だ。

 「相当数いるであろう」と書いたのはデータがあってのことではない。自分の周囲を観察しての体感だ。このタイプの人について特別研究されたことさえないのではないか。何故なら「ごく普通のこと」だからだ。そして、このタイプだからといってもたいして困らない。結婚は子供を作るためと考えれば、性交さえできれば問題は生じない。一方が恋愛を求めていると欲求不満になるが、双方が性欲と繁殖目的なら特に問題がないのだ。

 

 恋愛は古来から小説や劇でよく使われるテーマであった。ギリシア悲劇にも見られ、シェイクスピアもよく題材にした。日本でも源氏物語浄瑠璃などで扱われたテーマだ。そのため「人類普遍のテーマ」だと勘違いされている。そこに混入してくるのが一夫一婦制のキリスト教の結婚観だ。(ユダヤ教は本来、一夫一婦制ではなかった。イスラムが一夫多妻制なのはその名残だ。)一夫一婦制を普及するのに、これほど便利なツールはない。他の相手に手を出せば「裏切り」であり「不実者」となるからだ。キリスト教はモノガミー(単婚)思想だ。(ユダヤ教も時期は分からないがモノガミー制になる。)

 この一夫一婦制を基本とした結婚制度にキリスト教カソリックの「結婚の秘跡」を組み込んだものがロマンティックラブ・イデオロギーだ。(※結婚の秘蹟:婚姻の秘跡とも。一組の男女が互いに、生涯にわたる愛と忠実を約束すること。)キリスト教徒以外には「神による組み合わせ」という意味はないから、「赤い糸」「運命の人」「ソウルメイト」といった世俗的な概念に変化している。つまり、恋愛を動機とした結婚と性交を神聖視する思想だ。

 

 日本で一般に恋愛のステレオタイプが広まるのは、何と言っても少女マンガの役割が大きい。一般と言っても女子だけではあるが。男子は少女マンガを読まない人が多い。少年マンガのテーマに恋愛が使われることが皆無ではないが、メインテーマではなくサブテーマだった。恋愛を大きく取り扱ったのは『翔んだカップル』(柳沢きみお、1978~1981年に少年マガジンに連載)が最も早かったのではないだろうか。続いて『タッチ』(あだち充、1981~1986年に少年サンデーに連載、アニメは1985~1987年放送)が大人気となり、テレビアニメ化されたことで広く知られるようになった。(あだち充は『タッチ』の前に恋愛要素の強い『ナイン』『みゆき』を書いていて、『ナイン』は『翔んだカップル』と同年に連載開始。)

 一方、少女マンガの王道は恋愛であり、メインテーマだ。少女達はそれを読んでは大恋愛・運命の出会いに憧れ、男子にそれを要求するようになる。とはいえ、初期はフィクションとして捉えていた人も多かったろうし、それを現実に再現しようとするのは一部の人だったかも知れない。そこに『タッチ』世代の男子が合流すると、双方が恋愛幻想を持つ同士となり再現率は一気に上がる。

 マンガだけではない。ドラマでも映画でも恋愛は大きなテーマで、しつこく再生産され刷り込まれ、「そうしたい」が「そうあらねばらない」へと変わっていく。その時期が80年代後半くらいではないかと思う。ここに来て、男子も「恋愛なんて馬鹿馬鹿しい」と声を大にしては言えなくなる。相手(女性)を得るためには相手の要求に応えねばならない。ステレオタイプなデートを重ね、「恋愛」が皆の「共通体験」へとなっていく。そして恋愛が「同調圧力」へと変わっていった。

 

 事ここに至って、自由恋愛の意味が変わった。自由恋愛とは何か。男女交際がふしだらとされた日本では、結婚相手は親同士や仲介者の紹介で決めた。そうなったのは当然ながら婚姻制度が法規定された明治以降なのだが、人の記憶はアテにならない。昭和になれば、ずっとそうしてきたと皆が錯覚し始める。戦後になり、新しい憲法で「結婚は両性の同意による」とされた。親の利権や都合による強請婚姻をやめさせる目的だ。これが自由恋愛による結婚である。本来の自由恋愛とは、「交際期間を経て結婚に至ること、親や周囲からの強請ではなく相手を自分で選ぶこと」だ。(だから見合いという方法が取られ、「本人が決めた」ことにした。さらに結婚準備期間を含め、一定の交際期間も設けられた。これなら合法である。)

 それがどう変わったのか。人々は「恋愛しないと結婚できない」と信じ込むようになった。自分もそうだ。恋愛をしたことがなかったから、自分は結婚できないと思っていた。ところが日本人は恋愛が非常に下手だ。感情表現が苦手だからだろう。ちょうど文明開化の頃、日本人が体に合わない洋服を不格好に着込んでいたように、恋愛はそれまでの日本の文化に馴染まなかった。結果、恋愛下手をこじらせて未婚者が大量に出るのが、見合い結婚が廃れた90年代から。この傾向は年を追う毎に進み、最近では未婚率が社会問題となるまでになった。

 

 そろそろ日本人は「恋愛という強迫観念」から自由になり、性欲と合理精神で相手を見繕って結婚してはどうだろうか。結婚に恋愛は必須ではない。それはオプションである。出会いがないから結婚も出来ない。それはもっともだ。じゃあ出会いがあったら結婚はできるのか。恋愛という手順を踏まないと、と考えると腰が引ける人は多いだろう。

 昔の日本では貞操観念が低かったから何となくの流れで性交して、恋愛でもなくだらだら関係が続き、時期がきたからそろそろ結婚でもして落ち着くか、みたいなカップルが多かった。感情表現が苦手な日本人にはこの方法のほうが合っているし、女性が誰でも面倒臭い大恋愛をしたいわけでもない。男性はもっとしたくない。そもそも男性の多数派は性交には興味があっても恋愛には興味が無いのではないか。相手がそれを要求するから演じているだけで、自分自身にそれをしたい欲求はない人が多いように感じる。(したいのは性行為だけだ。)しかし、「恋愛していること」にしないと性交させてくれない。

 大恋愛とか略奪愛は征服民族・狩猟民族の文化だ。農耕民族はもっと大らかで曖昧な関係が文化に合っているのではないか。村の祭で無礼講の乱交をしたり、夜這いで何となく関係が成立したり。土着で侵入者のいない土地で長年暮らしてきたから、ものをハッキリ言わない。こういう部分は農耕文化のソレのまま、恋愛だけは狩猟民族の真似をしろ、というのは無理筋だろう。

 

 「合理精神」と上で書いたが、合理精神=金銭や出世の条件という意味ではない。収入は最低限必要だろうが(暮らしていくには金が要る)、一人で暮らせる程度の収入がある者同士が二人で暮らすのは楽なはずだ。それよりも「この相手と一緒に暮らしていくのは(物理的にではなく精神の健康面で)可能か?」「考え方・価値観は近いか?」「お互い無理な我慢をせず済むか?」のほうがよほど重要だ。そして「過剰な要求はお互いしない」が大切だろう。それが「合う」「相性が良い」の意味だ。それだけだと気の合う友達止まりだから、プラスして「この相手と性交をして不快感はないか」が必用。それだけ揃っていれば完璧と言って良い。

 もう1つ提案したいのは、若い女性は能動的になろう、という点。男性は昔ほどガツガツしてない人が増え、草食化などと言われている。それなら待ちの姿勢をやめて自分から肉食化し、気に入った相手は押し倒すくらいの勢いで攻める必用がある。相手に責任を転嫁するのを止め、自己決定・自己責任で動こう。それを周囲がふしだらだのビッチだの言うのもやめろ。どっちが仕掛けても良いじゃないか。男女平等なのだから。

 以上は「相手が欲しい人」の場合。そんなことには興味がない、という人の価値観を否定するのもやめよう。幸福の形は人それぞれ。「結婚して一人前」だの「子供を持って一人前」だのの、古いステレオタイプ・偏見・押しつけは誰をも幸福にしない。したい人は放っておいてもそうするのだから、本人の選択を尊重しよう。その結果、非婚率が上がったとしても、それがどれほどの社会的損失だと言うのか。そういう人達は昔から一定数いるが、何か困ったか。

 言うまでもないことだが、ロマンティックラブに生きたい人の邪魔はしないし、その価値観も否定しない。男性の中にも一部、恋愛脳と呼ばれる人達はいる。人に押しつけるな、「それが当たり前」と言うな、という主張だ。ロマンティックラブ・イデオロギーで強迫観念を抱き、皆がそうしなきゃいけないと囚われたり、重圧を感じる必要はないのだ。