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言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

若者は保守化したのか?

 この記事はなかなか面白く、同意できる部分もいくつかあった。このテーマは面白そうなので自分でも考察してみたくなった。

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

 田中氏の主張していることは概ね理解できる。自分はロック・マンガ・アニメ・映画といったサブカルチャーの最盛期に、それらを目一杯吸収して育った世代だ。ロックはいかした音楽で、PTAが眉をしかめるような本を乱読し、家族と一緒に見ると気恥ずかしくなるような映画をたっぷり見て、マンガやアニメの登場人物を自分の規範として育った。具体的な作品名を出すと年がバレるので書かないが、中高を通して正統派の純文学を読む一方でサブカル的な本も随分読んだ。

 80年代になると宝島社がサブカルチャーという仕掛けをする。マンガ雑誌『ガロ』もあった。(ガロ系と呼ばれたマンガ群はアックスに引き継がれ、現在はアックス系と呼ばれている。)90年代になるとマンガやアニメに留まらない、いわゆるアンダーグラウンド・カルチャーを巻き込んだ盛大なサブカルブームが到来する。その担い手は別冊宝島とガロ、その他のアングラ雑誌だった。今のような「サブカル=オタク」ではなかった。むしろサブカルとオタクは相容れなかったし、根本的なセンスが違っていた。

 

 しかしサブカルにコミットしていたのは一部である。マンガは誰でも読むし、アニメは誰でも見るが、サブカル的な視点を持つとは限らない。サブカル的視点を持たない若者からは、ただの大衆文化として消費され、一定の年齢になると「卒業」されてしまうものだった。ロック(主に洋楽の)を聴くのは少数派だったし、単館系映画など見に行ったこともないという人が多数派だろう。我々は少数派であり、決して多数派ではなかった。

 では多数派は何をしていたのかと言えば、ネットこそなかったが「文化の相対化」など発想すらない、半径の狭い世界で充足し、無知でものを考えない人々だった。ただ、我々の世代は大人への不信感・反発心というのが何となくあった。そこが今の若者との違いだろう。もう1つの違いは、サブカルにコミットしている層はメインカルチャーの知識が一通りあったことだ。そこが今のオタクとは違う。

 サブカルとオタクが別だったとは今からでは理解して貰えないだろうが、相互に「何となく嫌い」だった。オタクからすればサブカルはオシャレでスノッブで鼻持ちならない嫌みな奴らだったし、サブカルからすればオタクは物をピンポイントでしか知らないどことなく気持ち悪いノロマな奴らだった。対立というほどではないが、何か相容れないものを感じていた。

 サブカルチャーブームは2000年初頭に終焉を迎える。変わって台頭して来たのがオタクカルチャーだ。サブカルはオタクカルチャーに吸収されていく。しかし本来、サブカルチャーとオタクカルチャーは別物なのだ。(サブカルはマニアックだが、オタクは消費が重要なタームだ。)

 サブカルチャーとオタクカルチャーは何が違うのか。サブカルの視野は広い。アニメだけではなく、実写映画(主に洋画)を沢山見る。マンガだけではなく活字小説も沢山読む。アンダーグラウンド・カルチャーの情報を集める。宗教、精神世界、ドラッグ、ロック、SF、カルト映画、オカルトと、その守備範囲は非常に広かった。まるで競うかのように知識を増やす。マニアックであればあるほど格好良い。ソレを知ってることをどこか自慢にし、気取っていて自信家で、それでいて不真面目で自由気まま。そんな連中がサブカル人だった。世の中を舐めてるかの如くハスに見て、面白いことにばかりうつつを抜かす。こう書けば非常に嫌な連中だと伝わるだろうか。

 さらにアングラ・カルチャーの影響で「悪趣味を好む」傾向も強かったから、「嫌われ者」という自覚はサブカル人にはあった。上の記事中の表現を使えば「規範からズレた人」。悪趣味を好む理由は、やはり規範への反発・価値観の相対化であろう。ピンと来ない人にはとことんピンと来ない。それがサブカルだった。

  

 多数派は何をしていたのかというと、そういった膨大な知識の海に飛び込むことはなく、狭い半径の世界で充足していた。価値観の相対化も起こさないし、掘り下げて何かを考えるということもしない。それが大多数だった。社会規範を疑うこともなく、それに従っていた。それに疑問を投げかけると、「変人」「理屈っぽい」と言って嫌がられた。

 80~90年代というのは日本が最も景気が良かった時代だ。景気が良いと人々には余裕がある。他人が何をしていようが興味を向けない。政治を変えようとか、日本のことを考えるとか、そういう発想は多くの若者は持っていなかった。それはサブカル人も多数派のドメスティックな若者も同じだった。

 では、今と何が違うのか。そういった多数派には広く発信するツールがなかった。ミニコミ誌を作っていたのはサブカル的な人が多かった。多数派は「発信する」というアイディアもなかったし、手段もなかったし、欲求もなかっただろう。それがインターネットの登場で可能になった。つまり今、目に見える「保守的な若者」は当時も多数派で、潜在していただけなのだ。彼らは疑うことを知らないし、無知故に差別的で、文化的なことに興味がない。それはいつの時代にも多数派なのだ。

 だからタイトルの問いに対する答えは「No」となる。日本は元々保守的な国だ。おそらく教育水準が上がったためだろう。今くらい多くの人が人権問題に興味を持った時代はない。特に若者は、当時の自分達とは比べものにならないほど知識がある。それが多数派でないとしても、それを自分は頼もしく感じている。

 むしろ問題は、「ショックを与えるような表現物を子供の目から隠す」今の大人の態度だと考えている。そういったものが価値観を揺るがし、深く考えさせ、社会規範を疑わせるきっかけとなるからだ。