言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

Xジェンダーとトランスジェンダー

 自分はFTMを自称している。性自認が男だからだ。が、見た目が男っぽいわけでもなく、どちらかと言えば女にしか見えない。背が低い。骨格も細い。筋肉が全然ない。男に見えないことに劣等感があるかと言えば、全然ないわけでもないが凄くあるわけでもない。背はあまり高くないほうが身軽で好きだし、筋系より細身のほうが少年っぽくて好きだ。(相手の好みの話ではなく自分のスタイルとして。)

 FTMを自称しながらもトランスジェンダーの自認には抵抗がある。トランスしてるわけではなく、自分の自然はこうだと思っている。それが社会的にはトランスであるとは知っているけど、トランスを自認するのはまた違う感覚になる。性同一性障害を名乗ることをしないのも同じ理由だ。性別違和とは言っても性同一性障害とは自分を表さない。障害じゃないと思うからでもあるが、どうしても(メスを使ってでも)男になりたいかと言えばそうでもないからだ。

 おっぱいは邪魔だし、みっともないから要らない。チンコがあったら格好良いとは思う。が、どうせチンコはつけられない。中途半端なミニペニスでも悪くはないのだが、そのために何百万も使うかと聞かれれば全然やる気がしない。

 

 性別違和の歴史は長い。小学校時代、意識としては無性だったが、赤いランドセルにガッカリしたり、スカートを全力で拒否したり、自分を男子と思ってるフシはあった。その一方で、男子に当事者意識があったわけでもなく、客観視していた。女子も同じように客観視していた。どちらも自分自身ではないし、どちらかになりたいとも思っていなかった。

 小学校時代の自分は、ただ自分が「有るように有る」ことを肯定していたように思う。自己規定としては「女は~だから」と軽蔑した言動を繰り返したし、自分の行動規範は男子に近いのだが、馬鹿丸出しの小学生男子になりたいわけでも全然なかった。ことさらに男っぽく行動することもなかったし、女っぽい行動は意図的に避けた。

 

 小学校低学年の思い出に、『大きな栗の木の下で』のお遊戯がある。担任の女性教師がその振り付けをやって見せたとき、ゾッとした。胸の前で両腕をクロスさせて胸に手を当てるあのポーズに強烈な嫌悪感を覚えた。胸に名札をつけるのが苦痛なこととと関連づけて「胸部に対する強烈な羞恥心」と表現したら、相方に否定的な意見を頂いた。

 第二次性徴期前の子供が胸部に特別な羞恥心を持つわけはない。それは自分でも思う。では、あのとき感じた強烈な嫌悪感は何なのか。相方も同じ感想を持ったそうだ。あの振り付けを「あざとい」と彼は表現する。確かにその通りだ。何とも媚びたポーズがみっともなく、格好悪く感じる。強さ・逞しさを美しさ・優れた特徴と感じる自分には屈辱的ですらあった。

 さらに名札への抵抗感は、自分のアイデンティティを晒すことへの抵抗ではないかと言われた。胸につけるのが特別嫌な理由は、顔の近くだからではないか。胸にワッペンやワンポイントがある服も嫌いだと言ったら、ダサいからだろうと言われた。そんな気がしてきた。

 自分の行動は徹底して「格好良いか悪いか」で判断される。格好悪いことは我慢ならない。格好つけすぎるのも格好悪いから、これ見よがしは避ける。スカートが嫌だった理由も「格好悪いから」だ。どうしてそこまで格好良さにこだわってしまうのかは分からないのだが、格好悪い自分は好きになれない。自己肯定感が落ちる。格好悪いは自分にとって許しがたい。この訳の分からない自意識は幼稚園時代からあり、思春期になると自意識過剰そのものだった。

 

 自分が女性性や性規範を受け入れられないのは「格好悪いから」で良いのではないか、と思えてきた。スカートは格好悪い。特にプリーツやフレアは死ぬほどダサい。タイトなら許せる。セーラー服なんて男が着ても許しがたいほどみっともない。警察官でも消防士でも、押し着せ(制服)は何でも格好悪いと思っていた。

 うちの中学は男子は全員坊主だった。坊主頭は自分にとって究極に格好悪いものだ。実際に同級生が坊主刈りになったのを見たとき、自分がスカートを履かなきゃいけないこと以上の衝撃を受けた。「アレ(坊主頭)よりはコレ(スカート)のほうがマシだ」と納得してしまった。そして男子に同情した。中学の制服はブレザーにプリーツスカートだった。男子は詰め襟。中学の詰め襟はそんなに嫌いじゃなかった。

 高校になると、女子の制服はセーラー服。男子は詰め襟。セーラー服は拷問だった。適応障害から来る気鬱(軽度うつ)が続いた。しかし当時、男子はボンタンに長ランが流行。それは何ともダサく見えた。北関東の芋臭い田舎の高校生そのものだ。かと言って、長ランとボンタンじゃない男子は大人しい真面目な奴らで、「トッポい格好もできないヘタレ」と見なされ、ダサい存在だった。長ランにもボンタンにも憧れなかったし、弱い存在とされた普通の学ランもダサく見えた。

 あらゆる物事を「格好良いか格好悪いか」だけで判断すると自覚したのは小学校高学年。以来、中二病だった間ずっと「人並み外れて高い美意識を持った人間」と自分を評価していた。別にモード系というのじゃない。美術は好きだったが、不器用だから上手いわけでもない。ただ、あらゆること…音楽・ファッション・映画・マンガ・小説・スポーツを「格好良いか」どうかだけで選んでいた。当然、少女アニメは格好良くないから、少年アニメが好きだった。

 

 つまり性別の問題ではなかったのではないか、と思い至った。たとえば昔は男子の服は格好悪かった。デザインが画一的で、合理的なのは良いのだがどこか芋臭い。特に最低だと思ったのは下着。ブリーフは論外。トランクスも何だかダサい柄で、形だってダサい。だから男性用下着を身につけようと思わなかった。男性用下着に変えたのはボクサーが一般化してからだ。

 下着以外も、中性的な格好を好んではいたが男物を買うことは少なかった。自分が特に好きだったのはプルオーバーで、中1のとき初めて東京で買った服が青と黒の横縞のフード付きの服だった。しかし東京の学校に入るため上京してからは女装に走った。言うまでもないことだが、交尾のために合理的だったからだ。性欲はスタイルさえ変える力がある。男受けを狙ったというほどではないが、一応、女と認識して頂ける程度には服装に気をつけた。スタイリッシュでスマート。それがファッション/ポリシーだった。

 年を取ると流行なんてどうでも良くなる。交尾の相手をガツガツ探す必要もなくなる。そうなると合理性に特化した服で不都合がない。結果、ユニクロのバーゲン品を買い漁るようになる。女装もやめて、中性的な服装に戻ったが、ことさら男っぽく見せたいとは思わない。やはりオッサンのファッションはどこかダサいからだ。

 

◎Xジェンダートランスジェンダーなのか

 

 ウィキペディアトランスジェンダーの項目には、

 

 トランスジェンダーの中には、「Xジェンダー」である者も存在する。これに当てはまるのは主に、「両性」や「無性」や「中性」の性自認を持つ者である。

 

と書かれている。うーん。Xジェンダートランスジェンダーの一種なのか?

 以前にも書いたが、Xジェンダーは「性別二元論の埒外にいる存在」だと思っている。だから自分のように性別の概念がしっかりあり、自分の性別を言える人間はXジェンダーではないと考えた。つまり「両性である人」はXジェンダーではないのではないかと。「女性でありかつ男性である」と「女性でもなく男性でもない」はまったく違う。自分自身を女性であると認識できる時点で、その人は一定の性別概念を持っているし、性規範に従っているのだ。一方で、「女性でも男性でもない人」は性規範を持たない、もしくは無視しているのではないか。言い回しの問題のようでいて、その意味は深い気がする。

 自分はどうかと言えば、「自分は男(に近い)と思う」のだが、男じゃないことは誰が見ても明らかだ。性他認は完全に女性になるだろう。それが不愉快じゃないわけではない。「自分はもっと強くて格好良い存在だ」という思いが内部で渦巻く。しかし、全力で男に見せようと努力するわけでもない。「ツルンとした股間」と言われたらイラッとするが、じゃあモッコリな股間が格好良いのかと言えば微妙である。

 

 こんな質疑を見つけた。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 自分は生物学的には三人姉妹で、それを父親は非常に残念がっていた。かといって男のような格好で育てられたわけでもない。女の子らしさを押しつけられたこともない。(母親には多少言われた。)女だからと何かをするのを止められたこともない。ただ、中型バイクに乗りたいと言ったときは、「バイクが倒れたら起こせないから」という理由で反対された。今から思えば事故が心配だったのだろう。車の免許は生活に必要だからと、とっとと取らされた。

 女子便所や女子更衣室は臭かった。女臭さを感じない人もいるのかも知れないが、何かこう独特の蒸れ臭さがある。男子はたいてい汗臭かったが、男性特有の匂いに気づいたのは高校の頃で、それは好感が持てた。しかし、たいていの男子は臭くて嫌いだった。自分の場合、好きな匂いの男性は「鼻がスッとするような清々しさ」を感じる。女子にも「何だか甘くて良い匂い」と感じる子はいた。人工香料の匂い(シャンプーや洗剤、化粧品、整髪剤)は苦手だった。

 若い頃は男の好みが悪くて苦労した。見た目が可愛く女性的な子が好きだったからだ。そういう男性はだいたい性的な能力が低い。それが性欲の強い自分には不満で、二十代半ばに「これではいけない」と好みを変えることにした。それでも男女ともに「中性的な見た目」の子が一番好きなのは変わらない。当然、背の高すぎる男性は苦手で、170cm前後がベスト。下は160cmくらいまでで、175cmを越えると対象外となる。腹筋が割れた筋系体型も好きだが、あくまでも観賞用である。

 だから、この質問者の投稿は「あるある」なことが多いが、自分は「男になりたい」という気持ちが皆無ではない。非常に酷い言い方だが、自分は女性を「劣ったほうの性別」と表現することがある。それは生物学的にではなく社会的にそういう位置に置かれていることを指すのだが(だから自分の主張はジェンダーフリーを目指せだ)、そう考えざるを得ない現状が自分の性別を受け入れられない要因の1つだと思う。

 

◎何を受け入れ何を拒絶するのか

 

 自分が拒絶しているのはジェンダーロール(性役割)だ。そして性別威圧と呼ばれる「男らしさ」「女らしさ」を拒絶する。性別のすべてを拒絶するわけではない。その査証が肉体改造に熱心ではない点だ。胸は服を着るのに邪魔だから要らないのだが、チンコがないと困ると感じるのは立ち小便できない点だけだ。立ち小便は合理的だからしたいと思うし、しゃがんで小便をするのはちょっと格好悪いとも思う。でも、「男の沽券」とか言われてしまうと苦笑いしか出てこない。そんなくだらないことにこだわるなんて馬鹿じゃないのか、としか思えない。

 きっと生まれつきチンコがある人は、それに愛着があるだろう。女性が胸に愛着を持てないとしたら、それは途中から出っ張ってくるものだからかも知れない。おっぱいは女の服を着るにはとても役に立つが、男の服を着るには邪魔にしかならない。最近ずっと胸をつぶしている理由は、着る服がより格好良く見えるためであり、ついでに動きやすくするためだ。もしおっぱいに嫌悪を感じなければいけないとするなら、自分はトランスではない。

 もし性規範とか性別イメージをすべて否定し排除しなければいけないとするなら、自分はXジェンダーではない。自分には高い理想としての男性像があるし、より強くより優れた人間になりたいという願いがある。それがどういうわけか女性性と相容れないと思っている。その理由がジェンダーロールなのだが、それはまた別の機会に譲る。

 もし一定の性規範を受け入れ(独自解釈の性規範だとしても規範はあるとする)、性自認が明確な状態でもXジェンダーとされるのなら、自分はXジェンダーだろう。性規範の受け入れといっても、かなり怪しいのだが。自分が認めているのは人としての規範と男としての規範だけで、女の規範はいまだに何だかよく分からない。男の規範と人としての規範は同一だ。ということはそれは性規範ではなく「人としての規範」ではないのか。じゃあ性別による規範の差異を認めていないことになるから、やっぱり性規範は容認しないとなる。性役割を全否定する時点で、性規範など受け入れられるわけがないのだ。

 と、こんな風に性自認が揺らぐのが、まさにXジェンダーということになるのだろうか。