読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

性役割と性規範

 日記タイトルが大仰で恥ずかしかったので、変更した。山ほど書けるかは分からないが、せいぜい頑張ってみます。こんなくどくて長文のブログを読んでくださってる方にお礼申し上げます。

 今回のテーマは「性役割と性規範」。前回、あまり説明もなく性役割ジェンダーロール)という言葉を使ったので、捕捉的な説明になります。

 

性役割とは何か

 性役割と似たような言葉に、性別役割分担(性別役割分業・性別役割配分とも)などがあるが、用例が一定していなくて煩雑なので、今回は性役割ジェンダーロール)と性規範(ジェンダー規範)を使う。

 まず真っ先に言いたいことは、「子供を産む(妊娠・出産する)」とか「子種を仕込む」は性役割でも性規範でもない。分担でも何でもなく、性差そのもの。母乳を出すも同じ。分担のしようがない。

 家庭(生活)において作業分担が性別を理由に決定することを性別役割分担と呼ぶ。そこから形成されるのが社会的な性役割(性別ステレオタイプへと発展する)で、それが固定化すると性規範となる。と自分は考えている。性規範は一回転して、家庭内での子供や大人の行動を規定する。個から公への波及と、個へのフィードバックだ。

 家庭内での役割分担は当然あるだろう。乳幼児と病人以外には生活を維持する上での仕事が与えられ、各人の努力によって生活は維持される。それが個々人の能力や都合ではなく、性別で固定するという発想が性役割だ。子供を産むことはメスにしか出来ないが、子供を育てることはどの性別でも出来る。「子供は母親が育てるもの」と規定するのが性役割だ。その目的のために「女は外で働いていはいけない」になる。この考えは容易に、「働かないのだから教育は要らない」→「女に知識を与えると扱いにくくなる」に発展し、男女同権を否定する。その結果、支配階級の男と被支配階級の女という封建制度を維持する、というのがフェミニストの主張だろう。

 

 家庭における性別役割と社会における性役割は深い関連性があるが、同一ではない。家庭における分担は家庭ごとに違うからだ。ある家庭は会社員で家事はあっても家業がなく、別の家庭は自営業で家業があるとすると、必要な作業内容は自ずと違ってくる。

 しかし社会の性役割となるともっと普遍性があり、性規範となれば1つの文化圏で普遍的になる。性規範を別の言葉で言えば、性別に対するステレオタイプだ。ステレオタイプとは固定観念の意味で、偏見と同じものだ。だから性役割は性規範の意味でも使われるし、偏見の意味でも使われる。使用例が多岐に渡って意味の把握が難しい傾向は、フェミニズム用語の特徴だろう。

 

◎規範という言葉

 言葉の意味にこだわると煩雑になるかも知れないが、そこを曖昧にすると主旨が伝わらないので、もう少し説明を続ける。

 まず「性役割」と聞くと「当たり前のことだ」と思う人も多いだろう。しかし、上にも書いたように「子供を産む」とか「種付けする」といった生殖行動の話ではない。肉体的性別・生物学的性別を指す場合はセックスを使う。しかし性役割ジェンダーロールでありセックスロールではない。だからこれは生物学的性別の話ではなく、あくまで社会的性別(ジェンダー)の話だ。ここは明確にしておかねばならない。

 次に、もしかしたら馴染みがない人もいるかも知れない「規範」という言葉。英語ではNormで、数学用語のノルムと同じ。数学的意味は規格・基準・絶対値など。哲学では行動や判断・評価の基準となる原則・規格・基準のこと。行動規範や道徳規範、法規範などと使う。

 数学で言う規範は法則性に近いが、哲学で言う規範は「そう決めたからそう決まっている」といった人為的なものだ。T.パーソンズ

 

 「規範は文化体系の一部を構成し、内面化を通して人格体系へ、制度化を通して社会体系へそれぞれ定着し、人間の社会的生活の連続性・一貫性を保証する」

 

と定義しているらしい。示唆に富んでいる。

 

◎規範は必要なのか

 行動規範は社会的な枠組みではなく、個人の信念のようなものだ。個人の価値観を濃厚に反映する。例えば自分には「人前で感情的にならない」とか「人前で泣かない」という規範がある。努力目標でも理想でも意味は同じ。もっと具体的で細かい内容も沢山ある。それらの総体が人格と言っても良い。

 例えば道徳規範と言った場合は、個人の行動規範より普遍性が強まる。が、道徳の規準など人によって違うから、最低限を言えば「犯罪をしない」とか「悪いことを出来るだけしない」になる。「善を成せないなら、せめて悪は成さないでおこう」だ。道徳は文化圏で一律に決まっているようでいて、そうでもない。その人が摂取してきた文化によって変わる。政治思想・宗教・地域文化・職業や社会的地位などなど。正解がないのが道徳なのだ。(常識も同じ。)

 

 では性規範はどうか。性規範とは「男らしさ」「女らしさ」を指す。性別による行動規範は必要なのだろうか。男女の振るまいは、その摂取してきた文化や情報、興味関心によって自然と違ってくるだろうが、そこに規範が必要だろうか。性規範が生じると、必ず性別に対する固定観念が生じる。つまり「決めつけ」だ。

 男の子は車のオモチャが好き。女の子はお人形が好き。男の子は青が好き。女の子はピンクが好き。本当だろうか。もし統計でそれを「事実」としてしまったら、青が好きじゃない男の子やピンクが好きじゃない女の子は「駄目な男」「駄目な女」という烙印を押されてしまうのではないか。つまりこれが「規範の内在化」なのだ。内在化した規範は自分に懲罰を与える。

 自分が長年感じてきた「自分は女として駄目だろう」「女として無価値である」という感覚は、まさに規範の内在化によって生じている。それは自己評価を下げ、自尊心を失わせ、自己肯定させない圧力となる。だから自分は自らの性別の枠組みを変えなければいけなかった。そうしなければ自己否定の果てに自死に至る。肉体は何とか生き延びても、精神が死んでしまう。切実な渇望だった。

 しかし自分にも規範はある。それは「人としてより優れること、上を目指すこと」。そういうイメージを持てるようになったのは最近だ。つまり自分の性別の枠組みを変えてから。それまでは自己肯定できないから理想も持てなかったし、何をしたら良いのかも分からなかった。したいことはある。でも、それは「性別が邪魔して」出来ないのだ。したいことができないのなら、生きていても意味がない。自分には生きる価値がない。そう考えるのは簡単なことだった。

  

◎人としての規範と性規範は別なのか

 人としての規範と言うと分かりにくいが、理想とか人格者とか自己実現と言ったら解り易いだろうか。善人であろうとか悪いことをしないでおこうとかは、多くの人が心がけているのではないだろうか。「悪いことをしない」は犯罪をしないという意味ではない。法が善悪を規定する部分はあるにせよ、それがすべてではない。もし法律を守ることだけで善であると考える人がいたとしたら、その人には良心がないことになる。「悪いことをしない」の意味は「自分の良心に従う」と言い替えることができる。

 では、人としての規範とは何か。自分にとってそれは、より優れていること、強いこと、能力が高いこと、忍耐力があること、我慢強いこと、寛容であること、優しいこと、謙虚であること、想像力が豊かで思いやりがあること、他者共感性が高いこと、知識があること、知的であること、理性が強いこと、自制心があること、論理的であること、合理的であること。規範は「評価基準」であるから、比較の問題だ。

 上に書き並べたような価値観を否定する人はいないだろう。何故ならこれは「人の理想」だからだ。あくまで理想だから、そこに到達することはないが、そこを目指して努力することを否定されるものでもない。そしてこれは男女の区別なく目指すべき理想だと思っている。性別によらず、こういう人を「人格の高い人」と呼ぶのだろうと思う。

 

 一方で「男らしさ」「女らしさ」の規範は何だろうか。上の「人の規範」に矛盾する要素はあってはならないが、上の規範(理想)を書き並べた後で「男らしさ」や「女らしさ」について自分には書くべきことが思いつかない。人の理想は上の項目で網羅されてしまうからだ。しかし、一般の人は上の項目から「女らしさ」のためにいくつかを削除するだろう。そして、代わりにいくつかの項目を追加するだろう。

 「強さ」の代わりに「美しさ」とか、「論理的」の代わりに「豊かな情操」とか。しかしそれは男性にあっても、まったく不都合のない要素だ。人としての美しさは自信や精神の気高さから発露するだろうし、精神の強さは男女ともに必要なものだ。豊かな情操は男性にだってある。理想を書き並べると(個別の好みは別にして)そこに顕れるのは男女の区別のない人間の理想像になる。

 では「男らしさ」に付加されるのは何だろうか。除外されねばならないのは何だろうか。そっちのほうが難しい。男はより完璧で高い能力を期待される存在だ。除外されるのは劣った性質だけである。女性には劣った性質が許されて、男性には許されないとしたら、女性を劣ったほうの性別と感じるのは当然となってしまう。

 もし、ある人が「女性として未熟」と評されるのだとしたら、男性はすべて「女性として未熟」だし、女性はすべて「男性として未熟」ということになってしまう。人として未熟かどうかを問われるべきであり、人として未熟でない人は生きてる人間には存在しない。自分は男性としても女性としても人としても未熟な状態で、未熟だと自覚できるから「まだやることがある」と思える。そう思わなかったら生きていても無意なのではないだろうか。

 

◎性規範など必要ない

 上記のように「人としての理想」に従う限り、性規範は必要ないように思える。個々人には特徴があるから、ある人は取り立てて優しく共感力が高いかも知れないし、ある人は常に冷静で合理的な発想をするかも知れない。ある人はとても寛容で、腹を立てることが滅多にないかも知れないし、ある人はとても知識があり何を聞いてもすぐ答えてくれるかも知れない。人によって個性が違う、得意なことが違う。それが多様性だ。一定の社会性に従う限り、その人が男性でも女性でも、問題は起こらないはずだ。

 念のため書いておくと、性規範は「自分の好みのタイプ」の問題とは別だ。好みは誰にでもある。女性的でふんわりしたタイプが好きな男性もいれば、さっぱりしたタイプやシャープなタイプが好きな男性もいる。男らしいと言われるゴリっとしたタイプが好きな女性もいれば、可愛いタイプの男が好きな女性もいる。人の好みは「蓼食う虫も好き好き」と言われるほど多様だ。そしてそれは、自分が対象としている相手(異性でも同性でも)に要請する権利でしかない。見ず知らずの何の関係もない他人に「こういう服装をしろ」「こういう仕草をしろ」と言ったら「余計なお世話」である。

 性規範は主に年長の同性が年少者に押しつける形で伝播する。これを性別威圧と呼ぶ。母親は自分のイメージに従って異性である息子に性別威圧をかけるし、父親は娘にかける。他人の子供にこれができる人は少ない。ところが同性だとこれが可能になるから、子供に直接はかけなくても親にかける。こういった圧力は性規範に限らない。単親世帯もされるし、一般的じゃない生活形態を取る家庭もされる。つまりこれは「多数派と違う人」に向けられる少数派差別の一種なのだ。同化政策とでも言うのか。同化が無理なら排除が行われる。「子供が可哀想」と言う人がよくいるが、可哀想かどうかは本人に確認してから言ってくれ、と思う。

 

 自分が見たところ、若い世代ほど性規範は薄くなっている。社会が少しは進歩している証拠だ。相変わらず年寄りは、自分の育ってきた時代の常識のままで、認識を変えられない人も多い。そういう人達は社会の変化についていけず、色々と不満が溜まる。「今時の若い者は」と口をついて出てしまうような人達だ。やれセクハラだパワハラだと言われ、目を白黒させている。そうはなりたくないものだ。育った時代の影響は誰でも受ける。しかし時代は刻々と変わるし、それにつれて社会も変容する。情報更新が常に必要なのだ。

 若い世代は「昔はこうだった」を知らないが、それを今更知って何になるだろうか。すぐそういうことを言い出す年寄りがいるが、今更役に立たない情報だろう。歴史を知ることは知的好奇心を刺激される。でも年寄りの繰り言を聞かされたらうんざりする。自分はこんなだから、同性代とは話が合わない。彼らの価値観が古臭く感じる。特に性差や性別に関する感覚は相容れないほど違う。だからカビ臭い常識にとらわれない若い世代が好きだし、若い世代が寛容で自由であるほど、未来に希望を見出せるのだ。