言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

クィア性とは

 3月25日に書いたブログ記事「LGBTとか」内の「Q」の説明部分を修正していて、やはりクィアについては、もうちょっと考察したい。

 

 あの記事を書いた時点では、僕はクィアが良く判っていなかった。今でも良く判らない。

 Queerは元々、英語で同性愛者を罵る言葉だ。もし英語圏に行って、不用意にこの言葉を使えば殴られても文句は言えない。日本語だとオカマに相当するかも知れないが、オカマも当事者含め多用され過ぎて衝撃がなくなっている。(本来は非常に酷い侮蔑の言葉なのだが。)本来のニュアンスを伝えるなら「カマ野郎」「変態野郎」だろうか。変態も多用する人には衝撃が少ないから難しい。前の記事ではシナチョンと比較したが、だいたいそんな感じ。(米国ではFagもしくはFaggotという、もっと汚い言葉があるにはある。)

 同性愛者への侮辱がそれほど強い理由は宗教だ。ユダヤ教キリスト教イスラム教は「アブラハムの宗教」と呼ばれる同根の親子兄弟宗教で、基本となる教義はユダヤ聖典だ。ここで宗教教義に深く立ち入る余裕はないが、ユダヤ聖典レビ記には「女と寝るように男と寝る男は必ず殺されねばならない」(20章13節)とある。レビ記20章で「殺されねばならない」といった強い調子で死刑を宣言している罪は9つほどだ。有名な姦淫罪の他、獣姦や近親姦、父の妻や息子の妻との性交、母娘を同時に娶る等が禁止されている。中には月経中の女との性交なんてのもある。

 こんな調子だから、当事者じゃなくても相手を侮辱しようと思えば、同性愛者呼ばわりすれば良いというくらい強い侮辱なのだ。日本でも気軽に他人の性的志向を詮索したりからかったりする人がいるが、とても恥ずかしい行為だという事を、いい加減理解したほうが良い。質問するくらいは良いだろうと思うかも知れないが、質問も避けたほうが良い。何故なら、その質問に答える筋合いなど微塵もないからだ。聞いて良いのは、自分が性的アプローチをかけたい相手だけだ。(←ここ重要。)

 

 これだけ強い侮蔑の言葉が、どうしてポジティブな意味で当事者が使うようになったのか。経緯は「オカマ」に似ているかも知れない。クィアは差別語として公での使用は自粛された。90年代に入ると米国でクィア理論が言い出され、言葉の再定義が行われる。クィア・アートやクィア映画など多岐に利用される中で、クィアはポジティブな自己定義として再構築されていった。

 しかし重要な事は、クィアであるかどうかは「自己認識」だという点だ。他人がやってきて「お前はクィアだ」と言った場合、本来の差別語の意味になる。誰か(非当事者)が僕に向かって、たとえニコニコとでも「あなたはクィアなのね」と言えば、それはとりもなおさず「気持ちの悪い変態野郎」と言ったのと同じ意味になるのだ。

 たとえば男性同性愛者に「君はホモセクシャル(またはゲイ)なんだね」と言っても、女性同性愛者に「レズビアンだったんだ」と言っても、こんな意味にはならない。もちろん僕に対して「トランスジェンダーなのね」と言っても同じだ。しかし「君はクィアなのか」と言ったら訳が違う。

 この繊細さも「オカマ」に似ている。本人がどれだけ「あたしたちオカマは~」と言っても笑いを取るだけだが、他人が「このオカマ!」と言った途端、当事者を含め場が凍る。オカマという言葉をこういう風に取らない日本人も多いから通じにくいかも知れないが、本来侮蔑語である呼称とは大変失礼なものなのだ。

 ちょっと説明がくどくなるが、人種を表す侮蔑語で考えたほうがピンと来るかも知れない。ニガー(黒ンボ)は当事者同士では平気で使う言葉だが、非当事者が使った途端に差別になる。決して真似などしてはいけない。性差別と人種差別はとても似ている。性差別で分からない事は人種差別で置き換えれば、と言いたい所だが、日本人は人種差別にも疎いので中々通じない。とにかくクィアもニガーも「人前で口にしないほうが良い言葉」と覚えて置くと良い。

 

 さて、ジェンダークィアという言葉についてだが、性的志向クィア性とは別にジェンダークィア性というのがある。Xジェンダーと日本語で呼ばれる属性はジェンダークィアに包括されるらしい。と説明されても僕にもチンプンカンプンだ。何となく「普通じゃない」感じだけは伝わるが、その先は皆目分からない。それもそのはず、クィア性は「一人一人違う」のだそうだ。発達障害者が一人一人違うのに似ているのかも知れない。

 そうは言われても僕は今のところ、自身をクィアと認識していない。ごく普通に「女の体を持つ男」としか思っていない。それがどれほど奇妙なことであるのか、僕には分からない。何故なら、物心ついた時からずっとこうだからだ。そうでない人を見て「不思議だな」と思うくらいだ。「何故、自分の性別について迷った事がないの?」「何故、君の性別は肉体と一致しているの?」と聞かれても答えられるシスジェンダーはいないだろう。同じ質問にトランスも答えられない。理由なんて知らないからだ。

 これについて僕が薄ボンヤリとながら了解するのは、猫は自らを猫と思わないが、猫と呼ばれている。それと同じだ。僕は僕自身をクィアと思わないけれど、人はそう思うのだろう。僕は僕自身をしばしば「奇妙だ」と感じるが、それは性別の事ではない。精神性の何とも言えないアンビバレンスな有り様というか、自己矛盾を内包しながらもバランスを取ってしまっている感じが奇妙だと思う時がある。普通だと思う時もある。誰でもそんなものなんじゃないか。

 クィア性とは自認だと言いながら、とうとう他認にまで話が逸れてしまった。僕にとってのクィア性とは内面から出てくるものではなく、他者が僕をそのように見るであろう以上の意味を持たない。今後、この概念が内在化していくと認識が変わるのかも知れないが、自身が持つ「奇妙さ」にクィア性という名付けをするかは分からない。たぶん、しない。