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言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

成人孤立型という可能性

発達障害 自分史 パーソナリティ障害

アスペルガーの3つの型

 

 以前にも書いたが、アスペルガーには3つのタイプがあるとされる。積極奇異型、受動型、孤立型だ。発達心理学的には孤立型→受動型→積極奇異型と発展するらしいが、もちろん成人しても受動型のままの人もいる。

 孤立型は「外界に興味を持たない」状態だから、赤ん坊や幼児に見られる。発語をしないのも外界に興味がないせいかも知れない。知的障害を伴う自閉症では孤立型は一般的かも知れない。

 受動型は感情表現をどうして良いか分からず、また反応の遅れもあり、反応を返すタイミングがはかれない。そのため反応を思うように返せず、ストレスを溜めやすい。

 積極奇異型は最も典型的なアスペルガーに見えるかも知れない。一方的に話し続けたり、場の空気を読まず行動する。周囲を巻き込もうとする意図はなく、単独で勝手な動きをする。

 

アスペルガーとパーソナリティ障害

 

 最近、アスペルガー博士はアスペルガー症候群をパーソナリティ障害と捉えていたらしい、という話を知った。主張しているのは石川元医師だ。

 人格は行動によって決定するので、アスペルガー人格障害と見なすことは可能だろう。僕自身、境界性パーソナリティ障害と診断されたことがあるし、回避性パーソナリティ障害を疑ってもいる。積極奇異型は自己愛性パーソナリティ障害のように尊大に見えるという意見もあるし、孤立型はシゾイド型パーソナリティ障害に見えるかも知れない。パーソナリティ障害というのは「そう見える」ことが判断の基準で、原因が何かは限定されない。(本来、パーソナリティ障害はそういうものなのだが、今は原因まで限定してしまう説が強く、違和感を覚える。)

 幼児期の孤立型は外界に興味を持たず、また様々な対処をできないので介護者が必要だ。知的な遅れのないアスペルガーでは子供時代にここまで発達が遅れる人は稀なのではないかと思う。僕は物心ついた頃には受動型だったろうと思う。積極奇異型の特徴が目立ってきたのは小学校高学年くらいではないかと思う。

 

 僕は非常に大人しい子供だったそうだ。養母の話では泣かない、だだをこねない、育てやすい子供だったと聞いた。(実母はそれを「不気味な」「得体の知れない」と評した。)とはいえ幼稚園では悪さをして先生に叱られた記憶が数回ある。決して「良い子」ではなく、むしろ悪ガキに近かった。小学校に入ると晴れて問題児となる。しかし暴れたり騒いだりしない、落ち着きのある(落ち着きすぎて不気味な)子供だったようだ。(大人しいとはベクトルがちょっと違ったらしい。非常に頑固で言う事を聞かない面もあった。)

 あまりしゃべらなかった(発語の遅れはなかったが自分から話し出すことはあまりなかったらしい)のが、ある時突然、驚くほどしゃべるようになった、とは姉の話だ。それが小学校中学年~高学年のどこかではないかと思う。中学入学時点で「知らない子供に一方的にしゃべりたいことをしゃべっていた」記憶がある。

 小学校時代に、通学路で飼われていた犬に咬まれ(といってもガウっとやられて牙が当たった程度だが)、それを駄菓子屋のおばさんに物凄く愚痴った記憶がある。おばさんは黙って聞いてくれたが、きっと驚いたろう。近所の子供で顔は良く知っているとはいえ、そんなよく分からない話(犬の悪口)を一方的にまくしたてる子供。絶対変だ。これが何年生時点か記憶が曖昧だが、4年か5年じゃなかったかと思う。

 よくしゃべるようになったきっかけがそれかは分からないが、堰を切ったように弾丸トークを始めた時が積極奇異型への移行時期だろう。とはいえ受動型の行動パターンも残っているから、スイッチが入らない限りは受動型だ。スイッチが入ると積極奇異型になる。相手によっても行動が変わる。自分から話したくない相手だと完全に受動型になり、話したい相手だと積極奇異型になって一方的にしゃべり続ける。今でも受動型と積極奇異型の混合タイプだ。

 

◎大人になってから再び現れる孤立型

 

 タイトルの「成人孤立型」とは、乳幼児期の孤立型とは違い、受動型もしくは積極奇異型を経て至るタイプで、もちろん自分の創作なのだが、成人でも孤立型と言う場合もあるようだから完全な創作とも言えないかも知れない。乳幼児期の孤立型が(生命維持・生活の点で)自立していないのに比べ、成人孤立型(成人とは限らない)は自立している。他者への依存がなく、自足してしまう。

 最初からこのタイプに成長する子供もいるだろうし、他のタイプを経てここに至る場合もあるだろう。受動型と違いストレスが少なく、積極奇異型のように他者に働きかけもしない。それでいて自足して寂しくもない。本来、自閉症の人間は寂しいという感情が希薄で、滅多に孤独を感じたりはしない。ただ退屈するだけだ。

 

 積極奇異型が自制されるようになると他者への過度の働きかけはしなくなる。アスペルガーの人間は特定の誰かに強い愛着を持つことがあるが、その愛着の優先順位が自分の興味関心の中で低ければ、つきまとうこともしない。この「つきまとい」は結構凄いので、されたほうは辟易するらしい。加減を知らないからだ。孤立が自制によって起きるのか、はたまた興味関心の順位が入れ替わることで起きるのかは分からない。

 受動型の人間は他人に振り回されることが多いが、感情表現の方法を覚え、拒絶の手法を獲得するとそれが減らせる。ストレスが強いタイプでもあり、ガス抜きがしにくい。自分は元々はこのタイプで、何か嫌なことがあっても即座に反応することができずにストレスが溜まった。ショックを受けると泣いたり怒ったりすることができず、ただフリーズしてボーっとしていた。その時の情景は焼きついて長年フラッシュバックを起こした。要するにトラウマだ。

 

 孤立型から話が逸れるが、受動型と積極奇異型は行動様式が結構違う。

 僕は受動型から積極奇異型に移行したが、元々積極奇異な行動がないわけではない。完全に受動型の人とは違うらしい。自立して勝手な行動を取ることが多かった。しかし対人様式は受動的だったから、フリーズも起こすしストレスも溜まる。今でも「断れない」という悪い癖があるし、自分から頼み事をするのが苦手だ。自分の欲求を口にするのも苦手。強引な人に振り回されやすく、意志決定が苦痛だ。でも他人の決定に従うのはもっと苦痛なので、何とか頑張って意志決定するようにしているが時間がかかる。

 受動型の特徴は、この「決定できない」ではないかと思う。だから断るのも苦手だし、自分の欲求を相手に伝えるのも苦手だ。それらはすべて決定を伴う。決定するのは苦手でも、相手の要求を聞き入れるのは簡単だ。それは決定ではないからだ。だから受動型の人は「振り回されている」と感じやすい。

 僕の場合は発想力はあるから「提案をする」ことはできる。むしろ決定を下したくないから提案をする。そして相手の「了承」によって決定とする、という抜け道を編み出した。これだと決定のストレスが少ない。しかも受動型の人と相性が良い。受動型は仕切られることが好きだからだ。人の話を聞かない積極奇異型や強引な人と違って、意志決定は自分に任されるから振り回されているストレスも少ないだろうと思う。そういう相手との関係は長期間継続した。

 混合型だから僕の積極奇異はあまり典型的ではないかも知れない。でも、あまり深く考えもせずポンポン行動したり物を言ったりする。怖いという感情が希薄なように思う。場の空気はあまり読まないが、まったく読まないわけでもない。受動型と相性が良いと書いたが、積極的なタイプでも相性が良い場合もある。基本的に、自分がしゃべりたいことを勝手にしゃべる人が好きだ。こちらが話題をあれこれ探さなくて済むし、しゃべらせておけば機嫌が良い。もちろん話の内容によっては不快だから、そういう話をしない相手を選ぶ。手が合いさえすれば積極奇異はいたって扱いやすい。(もちろん、最低限の社会性があるのが前提。)

 

アスペルガー的人格の完成形としての孤立型

 

 成人孤立型に話を戻そう。「他者を求めない」「孤独を感じない」「自立している」「自足している」が条件だろうか。自分の関心事を他人にしゃべるという発散方法を取らなければ他者を求めることはなくなる。自身の内部で、愛着へのこだわりの優先順位を下げられれば、愛着障害と間違えられるような行動は減るだろう。

 アスペルガーは凝り性で、興味関心が狭い。狭く深くが基本だ。興味の対象がリスクなく際限なく掘り下げられるようなもので、かつ知的だったらこれほど良い趣味はない。たとえば僕の好きなテーマは宗教・思想・哲学・歴史で、これらをテーマにした本を読んでいると飽きないし、いくらやってもネタがなくなることもない。一生かかってもすべてを知ることができないようなジャンルだ。掘り下げようとしたらどこまででもディープになれる。中学くらいから調べ物が好きになったが、とにかく気になると調べ初めて、気が済むまで止めない。1つのことを十年二十年考え続けたりする。ものの役には立たないかも知れないが、これほど飽きない趣味はない。実際には結構役に立ったりもする。

 ただ困ったことに僕の場合、人への愛着が非常に強い。それで境界性パーソナリティ障害と診断されたりしたのだろう。愛着障害のように見える側面もあるが、見捨てられ恐怖はない。ただ強烈に愛着がある。愛着のない相手にはかなり冷淡でもある。愛着の故に友人が作れたし、特定少数の人と深く関わってこられた。愛着は恋愛感情みたいに強いものだから、一方的に嫌われると失恋したくらいのショックを受ける。僕から嫌いになった場合は、手厳しい批判と、嫌悪にも似た脱価値化が起きる。友人関係なのにまるで恋愛沙汰のような騒ぎだった。

 趣味的なこだわりと愛着へのこだわり――どちらも愛着と言えるから、人への愛着と趣味への愛着と言ったほうが正確か――のどちらが優位かは言えない。僕は精神エネルギー量が多いから、あれにもこれにもと執着することができる。他人との関係で理想的なのは週一ペースの接触だ。それ以上接触すると疲れるし苛々する。残りの時間は一人で何かしてるくらいがちょうど良い。

 もし、この愛着の対象が0だったら? 僕はだいたい2人の愛着対象を持ってきた。2人いるとバランスが良い。だから、いなくなるとまた探す。まるで恋人を探すみたいなものだ。性別は何でも良いし、条件が合えばセフレになっても良い。ただ、自分の愛着欲求を満たせれば良い。もちろん、これは恋愛ではない。友人関係だから、要求も期待もそれほどない。ある意味、希薄な関係ではあるが、精神的距離感は非常に近く、使う時間も友人としては異常に多い。だから、ある時期から愛着の対象がお互いを性的対象とする性別になった。必然だろう。

(ただし、2人の相手と同時並行に性的関係は維持できない。それができるのは一時に一人だ。でも、自分をモノアモリーだとは思っていない。何故なら相手にそれを要求しないからだ。そんなわけで性的対象を愛着対象とした結果、一人しかキープできなくなってしまっている。)

 

 タイトルの「成人孤立型という可能性」とは、僕自身がそれかも知れないという意味ではない。確かに今現在の精神状態はそれに近い。が、退屈しやすいのとしゃべるのが好きなせいで、なかなかちゃんと孤立しきれてない。

 「可能性」とは、アスペルガーの理想という意味だ。何か特技があると、アスペルガーは凝り性と几帳面さから仕事では有能だ。営業的な才能はないからフリーランスは大変な場合もあるが、もし有能さを評価して仕事を貰えるなら、こんな楽なことはない。好きなことしかできないから、趣味を仕事にするのは理想だろう。

 対人関係で、他者に必要以上に関わろうとしないならトラブルもないし、本人もストレスがない。孤独を感じないという特徴が最大限に利用できる。どうしても退屈したときは自分の特徴を理解してくれる仲間と時間を過ごす。おそらくそれは、どんなに多くても週に1度で十分だ。人と接触すると凄く疲れるから、連日会いたいとは思わない。他人に興味がないから、過剰な期待もないし要求もしない。

 

 愛着という問題を取り除いて、完全に自立したらどうだろうか。他者を必要としない、と言っても良い。どんなに訓練しても、アスペルガーは他人と関わると疲れるし、ストレスも溜まる。それならいっそ関わらないほうが楽だ。数ある刺激の中で、人間関係から受ける刺激は最も厄介で強い。それをすべて取り除いたら、どれほど楽だろうか。アスペルガーの気分変調は刺激に対する反応だ。嫌な刺激がなければ変調もなく安定する。問題は、この状態を維持して経済的に自立できるかどうかだろう。その問題をクリアした後に残されているのは退屈だけだ。

 実際、こんなような生活をかつてしていた。そして退屈した。安定に飽きて、自分の人生に混乱を持ち込んだ。つまり、他人との深い関わりを求めた。二十代だった。若かったなと思う。それ自体に後悔はないが、孤立というあり方は僕にとって理想なのだと思う。一人で暮らして、たまに人に会う。メルトダウンも起きない。ストレスがないと持っている能力を十分に発揮できる。ストレスは刺激であり、適度な刺激は能力を伸ばすが、過度の刺激は能力を抑えてしまう。しかし刺激がなさすぎると精神は活性化しない。クオリティ・オブ・ライフが一番の問題だろう。