言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

定型発達の奇妙な世界

 定型発達症候群という面白い言葉を見かけた。思考パターン・行動パターン・世界観が違うアスペルガーから見たら定型発達の人は奇妙に見えるのは事実。必ずしもアスペルガーのほうが劣っているわけではないので、「闇雲に定型発達の価値観に合わせる訓練をすべきでない」と主張する人達もいる。

 

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 上の記事中で上げられている5項目は以下。

■社会の問題への没頭

 周囲に馴染むことを最優先事項とみなす
 そして集団になると、社会性および行動において硬直する

■優越性への幻想
 自分の経験する世界が唯一のもの、正しいものであるとみなす

■ひとりでいることが困難

 人と一緒にいるが、仲間に入らないということを苦手とする
 人といるときには必ず何か話さないではいられない

■率直なコミュニケーションが苦手

 本音を言わず、建前を優先する

■論理を欠いても平気

 一貫性がなく、状況によって対応を変える 

 

 どれも言い得て妙だが、特に奇妙だと自分が感じるのは「論理を欠いても平気」という点。どうやって思考しているのか不思議になるほど、言ってる事が支離滅裂だったりする。表現は曖昧で、多義的で、指示代名詞や目的語をしばしば欠くから、酷い時には何を言ってるのかまるで理解できない。

 見ていて難儀だなと感じるのは「寂しい」を連呼する点。僕は「寂しい」という感覚が分からない。「暇」「退屈」「やる事が思いつかない」「時間を潰しきれない」という感覚はよくあるので、できるだけ本を持ち歩いている。本がない時はメモ帳とシャーペンを持っていて、今後やる事とかアイディアとか、何でも良いから書き込んで時間を潰す。

 今は時間より前に行く事が多いが、以前は待ち合わせや約束の時間ピッタリに行こうとしてよく遅刻をした。電車を1本逃すだけで数分の遅刻になってしまう。それも「時間より前に行って待つのが苦手だから」だった。さすがに年齢と共に工夫も進むし、携帯電話が普及してからは場所を固定しなくても会えるようになったから、本屋などで待ち合わせすれば待つのは苦痛ではない。そういう融通が利かない待ち合わせは今でも苦手で、できるだけ現地集合にして欲しいと思ってる。

 

 上の記事のネタを真似して、自分から見た定型発達の人達の奇妙な行動を考えてみたい。上の項目と被るものもあるかも知れないが、自分なりの意見として書いてみる。

 

・理由を聞いても説明がちゃんとできない

 理由が良く分からない時、「どうしてですか?」と質問するのは自然な行動だろう。しかし、しばしば「どうして」を説明して貰えない。僕にとって、物事はすべて理由がある。根拠が弱くても「どうしてそう思ったか」や「どうしてその選択をするのか」は説明可能だ。「何となくフィーリングで」「勘で」という理由の場合もちゃんとあるが、それを説明するのは取り立てて億劫ではない。

 しかし、定型発達の人に「何故そのように言うのか」を聞いても、ハッキリした理由(「何となく」や「勘」でも良いのに)を教えて貰えない事がよくある。それが主観的ではない問題だったりする場合(たとえばルールとか)には「根拠は?」「理由は?」という質問になるが、これも答えて貰えない事がよくある。理由が分からない事は理解できないし、理解できない事(意味の無い事)を覚えておくのは難しいのだが、むしろ理由を聞くと驚かれたり嫌な顔をされる。

・間違いを指摘すると怒る

 誰でも言い間違いや勘違い、間違った見解を述べることはある。が、親切に間違いを指摘すると切れられる事がある。「面子を潰された」「恥をかかされた」などと言われるが、間違った事を堂々と訳知り顔で吹聴するほうがよほど恥ずかしいのではないだろうか。昔から「聞くは一時の恥」と言うではないか。

・内容のない上っ滑りな会話をする

 これは僕から見ると相当に不思議な現象だ。聞いていると内容が無い会話で盛り上がっている。会話が噛み合ってないのに全然気にしない。まるで相手の話を聞いていないかのようなのに、しゃべった方もそれを指摘しない等。

 たとえば「うん、わかる、わかる」と相づちを打ったりしているが、その前に話された事は個人体験や主観だったりして、分かるわけがないものだったり。しかも具体性がまるでないから、いったい何を分かったのか聞いてるこちらはまるで分からない、という事態になる。それらの経験の結果、「わかる」はただの相づちの一種で、実際には何も分かっていないのだな、と思うようになった。

 また、「お元気ですか?」「調子はどうですか?」などの質問が非常に苦手だ。元気かどうかについて説明を始めると嫌な顔をされるし、調子と聞かれても何の調子を指しているのか分からなくて「何のですか?」と質問し返すと驚かれる。曖昧な質問をするほうが悪いと思うのに、何故こちらが非難がましい顔をされねばならないのだろうか。

・人真似をする

 僕も他人の持ち物を参考にしたりする。若い頃からファッション誌を殆ど買った事がなく、ファッションで参考にするのは街の人達の格好やテレビで見かけた服、店で実際に売ってる物などだ。若い頃、最初は何を着たら良いのか全然分からなくて、服屋を回ってリサーチした。昔の店員は物凄く話しかけてくるので結構困ったが、場数を踏むとやり過ごす方法も分かるので服屋巡りは結構した。ファッション誌も立ち読みでグラビアくらいは見る事もあったし、どこかの店に入った時、置いてあれば目を通した。

 東京に出てきて、最初の頃は本当に酷い格好をしていた。目も当てられない。まさに黒歴史。田舎ではとにかくどうでも良い格好をしていたので(ジーンズにカッターシャツかTシャツ、ジャンパーやコートといった具合で枚数も持ってなかった)、都会ではこれじゃ駄目だと思い、闇雲に服を選んだせいだ。そこで「自分は何を着るべきか」をリサーチするため原宿をよく歩き回った。

 ここで「人真似」と言ってるのはそういう話ではなく、何でもかんでも人と同じにしようとする事だ。服装、髪型、バッグや小物に至るまで似たような物を持ち、同じものを見て、団体行動しようとする。これは実に不思議で、本当にそれを良いと思っているのかと聞くとハッキリ答えない。「みんながそうしているから」とか言ってくる。

 僕にとっては物は良い(興味がある・面白いも含む)か悪い(興味がない・つまらないも含む)かしかない。音楽でも映画でもマンガでも本でも、自分が面白いと思うものに夢中になり、どうでも良いものはどうでも良かった。興味関心が狭いから、知らない事は驚くほど知らない。今ではだいぶマシになったが、若い頃はそれが極端だった。

 だから「どっちでも良い」は「興味がない・つまらない」と同義だったし、そんなものには金を出したくもなかった。自分がそれほど良いと思ってるわけでもない物を買い、それほど見たいわけでもない映画を見、それほど好きでもない音楽を聴く、というのは僕には考えられない行動だ。

・はみ出す事を極端に畏れる

 上の項目のような行動を取る理由がコレらしい。子供の頃から、他人と自分は違うと思っていたから、この感覚にはかなり驚いた。同じ物を着て同じ物を食べても同じ人間になれるわけがないのに。僕は他人と過ごすのは結構好きだ。僕の狭い考え方や感覚と違うものを見せてくれるからだ。それは刺激でもあり、退屈がしのげる。とにかく僕は退屈する事に耐えられない。

 また、校則やルールなどでも「はみ出す」事を畏れる。僕の行った高校には服装検査があった。体育館に並ばされて教師のチェックを受けるのだ。実に馬鹿馬鹿しい儀式。たいてい僕は駄目駄目な格好で行って注意を受ける。注意されたから直す、という態度だった。ウザいから注意を受けないように、その場だけは服装や髪型を正して臨むという生徒もいた。しかし、あくまでそれは「その場限り」。

 ところが、そうじゃない人達も結構いたのだ。校則なんてたいていは意味がない。ただ「そう決まっているから、そう決まっている」というだけの、根拠の無いルールだ。それを守る事には何の意味もなければメリットもない。1つだけ意味があるとすれば「ルールを守った」という事実だけだ。それが僕には理解できなかった。

 僕は高校時代、いわゆる不良でもなく、態度はあまり良くないが成績はまあまあの「放っておいても問題ない生徒」だったと思う。服装や髪型の事ではしょっちゅう注意を受けるが、ツッパリとかではなく「だらしがない」のほうでだ。夏、プールの後には靴下をはかず素足に上履きをつっかけて歩いたり、衣替え前のジャンパースカートがクソ暑いからと下にシャツを着ないで素肌にジャンパースカートを着ていたり、スカートの裾は落ちてるわ、上履きはずっと洗わないから真っ黒だわ、髪はいつもボサボサだった。制服なんてくそダサいものに時間や手間をかける気はさらさら無かったのだ。

 格好もこんななら態度も酷くて、「はみ出さない」努力というのはまったくしなかった。というか、発想すらなかった。目立ちたがりでもないから地味にコソコソしていたいほうだったが、意図せず悪目立ちはした。教師に食ってかかるのも定番だった。その一方で、薬物はやらないし、窃盗もしないし、制服で煙草を吸う事もない。(自宅では喫煙していた。)適当にサボりながらも授業にはちゃんと出て、成績もまあ普通だったが、とにかく見た目と態度がそんな調子だったので、当時の担任には結構面倒をかけたかも知れない。(と、今になると思う。当時は思い上がっていたので、「それがお前の仕事だ」と思っていた。)

 

◎果たしてどちらが幸せか

 30歳になるまで人生は苦痛に満ちていてつらかったが、僕は自分のやってきた事がそこそこ好きだし、自分をかなり好きだ。自分の好きなものが凄く好きだし、趣味もまあまあ良いと思ってる。もちろん、間違った事も色々したし、黒歴史なんて山のようにあるが、それでも「結果オーライ」だと思っている。

 リア充な一部の人はさて置いて、いつも「寂しい」「孤独だ」と愚痴ってる定型発達の人と、寂しさを感じないアスペルガーの人とではどちらが実質、幸せなのだろうか。理由の分からないルールを信じ込み、根拠希薄な行動に固執する人々と。人と違う事を畏れ、はみ出さないように必死に他人に合わせて、やりたいように行動できない人々と。

 僕から見ると「困った世の中」であって僕自身が問題だとは思わない場面も多い。不便は多いし困り事も多い。しかし「世の中が悪い」とは言わない。世の中はろくでもないのが前提なので、どう対処するかを工夫しようという話であって、世の中に期待してもろくな事にはならないと経験で知っている。

 工夫できるのだったら、アスペルガーはそう悪い特性でもないだろう。発想力が貧困だと工夫ができないから、困り事が改善されない。それは大変だろうと思う。僕だって中一の時、通学靴の内側に出ている釘が「もしかしたら抜けるのじゃないか」と発想するまで半年間、足の横の皮に穴が空いたままだった。

 そういう「抜けたところ」が我ながら可愛らしくもあり、それを改善した「成功体験」は強烈だった。「工夫すればたいていの事は何とかなるんじゃないか」と思うようになった。まあ、たまに危ない事もあるんだけど。(小4か小5の頃、ヒューズが飛んだコタツを銅線で自力修理して、家全体のヒューズを吹っ飛ばした事がある。今思えば、よく火事にならなかったなと感心する。)