言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

【本】パーソナリティ障害(矢幡洋)

 臨床心理士矢幡洋先生の『パーソナリティ障害』を図書館で借りて読んだ。矢幡先生は『ドクターキリコからの贈り物』の著者で、その他にも著作が多い。テレビにも出て人気らしい。文系の矢幡先生の説は医師のものとは全然違い、とても興味深い。医師はどうしても解剖学的に考えがちだ。世間では理系のほうが論理性に優れていると思われがちだが、俯瞰的な視点は文系のほうが優れているように個人的には感じる。

 

『パーソナリティ障害』(矢幡洋):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

 

 特徴としてはDSMに定義されているパーソナリティ障害以外も取り上げており、14のタイプについて実例を1つずつ提示しての説明は大変分かりやすい。もちろんその実例通りでないケースのほうが多いし、ステレオタイプを生み出すという危険性もなきにしもあらずだが、把握するには実例があるほうが良い。今回、この本ではじめてシゾイド型(スキゾイド型・統合失調質)の具体的な行動パターンと問題点が把握できた。驚いたことに、それは身近にいるタイプだった。

 また、ポラリティバランスという「喜び・苦痛」「受動・能動」「自己・他者」という3つの視点での相互の関わりとバランスを示しての説明も興味深かった。境界性パーソナリティ障害ではすべてが標準にあり(つまり対になる要素でどちらか一方に強弱があったりせず、かつ3つの軸でも強弱がない)、かつ3つの組み合わせすべてで「葛藤」が生じているらしい。あらゆる事に葛藤が生じやすい、というのは当事者としても納得のいく説明だ。

 こういったDSMにもあるパーソナリティ障害のさらなる理解にも役立つが、特に興味深かったのは、DSMには掲載がない「サディスティック」「マゾヒスティック」「拒絶性」「抑うつ性」といったタイプの説明だった。サディスティックと反社会性の違いや、抑うつ性と境界性の違いなどはよく考えてみないと飲み込めないのだが、マゾヒスティックは「あー、いるいる」という感じ。(もちろんそれがパーソナリティ障害と呼べるほどなのかは別として。)

 

 精神疾患者のグループと接したり、変わった知り合い都合上なのか、いくつかのタイプで具体的に「それに近い」と思える人物を知っている。面白がってこういう本を読み漁っているわけではなく(知的好奇心は否定できないが)、こういった知識は必要だと思っている。

 もちろん僕は素人で専門の勉強をしていないから、「誰々はこれこれのパーソナリティ障害だ」と言う事はできない。言わないように注意もしている。ただ「~のように見える」は言う事が可能だし、その見方は役に立つ。「彼はこういう傾向があるから、こういう対処を必要とする」といった活用ができるからだ。障害かどうかはその人が困っている程度によるし、周囲にどれほど迷惑をかけて社会生活で追い込まれるかにもよるのだが、性格つまり人格つまり行動パターンがそのタイプだと分かっていればトラブルを避けられるかも知れない。

 これは発達障害にも言える事だ。実際に障害と言えるレベルかは僕が判断する事ではないが、「彼にはこれこれの傾向があるから、このような配慮を必要とする」という知識があれば相互に不快な思いをする機会を減らせるかも知れないし、必要以上に腹を立てる事もなくなるかも知れない。

 

 名称として混乱を招きやすいのが「統合失調質パーソナリティ障害」と「統合失調症型パーソナリティ障害」だ。前者は上にも書いたシゾイドスキゾイド)型で、他人に無関心で自分の人生にも無頓着らしい。DSMでの説明を読んだ時には他人に無関心な事がそれほど問題があるとは思えなかったのだが、この本を読むと「人生の目的化」ができず情緒的体験が希薄。願望もなければ葛藤もない。統合失調質という名称はそこから来ているようだ。

 統合失調症というと幻聴・幻覚・妄想という陽性症状を思い浮かべるが、陰性症状と呼ばれる無気力・無関心・無感動という状態のほうが長く続くとされる。今では統合失調症を指しては使われなくなったがアルツハイマー症は「若年性認知症」とも呼ばれる。認知症の高齢者のようにボーっとして感情を表さない状態になるからだ。統合失調質(シゾイド型)はまさにこの陰性症状を指す。

 一方、陽性症状に似ているのが統合失調症型で、こちらはしばしば霊感や霊能力、テレパシーや千里眼と解釈される。ハッキリとした幻聴や幻覚とは言い難い場合でも、異常知覚やその意味づけとしての強い妄想がある。極端な迷信深さや神秘体験への固執、魔術的思考なども含まれる。これを本物の統合失調症とどう区別するのかは素人の僕には分からないが、あくまで人格のレベルとされるとこれになるらしい。

 

◎僕自身が出会ったパーソナリティ障害の人々(の一部)

  

 この2つのパーソナリティ障害は、僕にも顔の浮かぶ人がそれぞれ一人ずついる。シゾイド型のほうはひきこもり歴40年という大ベテランで、驚くほど何もしない。本人にはこれといった欲求がないから、何かしようとする動機がまったくないのだ。長年不思議に思っていたが、この本を読んでシゾイド型に近いのだな、と納得した。

 統合失調症型のほうは例に漏れず、自称霊能力者だ。その人をこのタイプじゃないかと思ったのはDSMの記述だ。以下はDSM-Ⅳでの診断基準。(ウィキペディアから引用。)

 

・関係念慮を持ち偶然の出来事に特別な意味づけをするが、確信を持っている関係妄想はではない。
・文化規範から離れた奇妙なあるいは魔術的な信念があり、テレパシーや予知などで、簡単な儀式を伴うこともある。
・無いものがあるように感じるというように、知覚の変容がある場合がある。
・過剰に具体的であったり抽象的であったり、普通とは違った形で言葉を用いたりするなどの奇異な話し方をする。
・妄想様観念を持ち、疑い深く、自分を陥れようとしているのではないかなどと考える。
・不適切または限定された感情は、良好な対人関係を保つのに必要なことをうまく扱えない。
・奇妙な癖や外観は、視線を合わせなかったり、だらしのないあるいは汚れた服装などの特徴を持つことがある。
・親族以外にほとんど友人がいない。
・過剰な社会不安は、慣れによって減じることはなく、妄想的な恐怖によってである。

 

 また、次のような説明もある。

 

非社交的でマイペースな点では,先述のシゾイドと共通点がありますが,シゾイドの人が内閉的でエネルギーに欠けた孤独で静かなライフスタイルを持つのに対して,スキゾタイパルの人は頭がいつも働きすぎて,考えが際限なく広がり過ぎています。
人との関係には必ずしも消極的ではないものの,ぎくしゃくしていたり,自然さに欠ける嫌いがあります。直感やインスピレーションに富み,創造性を発揮したり,予言者的な存在や救済者として社会に貢献することもあります。

定義
統合失調型パーソナリティ障害の患者の特徴は,行動,思考,感情,話し方,外観における際立った奇矯さ,風変わりさにあります。魔術的思考を営み,一風変わった観念,関係念虜,錯覚を呈し,現実感消失のエピソードを経験することが多いです。

   (統合失調型パーソナリティ障害(こころの病気のはなし/専門編)より引用。)

 

 極端に奇妙な対人様式を持ち(非常にギクシャクしていて自然な話し方や態度ができない)、妄想的な観念と知覚を持ち(遠隔治療と本人が信じる儀式をよく行う)、人と接する事が非常に苦手なように見えるのに人を信用しやすく(統合失調症で言う連合障害のような関連づけの弱さが見られる)、期待通りでないと激烈な怒りを燃やし恨む(被害妄想がある)。

 こちらのほうが一般人がイメージする統合失調症に近いだろうと思う。その人の認識は常に不自然で、奇妙で、それを自分の才能と信じている。その一方で妄想が悪化する事はなく、症状は進行型ではない。霊能力云々についても、社会性を欠いた突飛な行動に走るわけでもなし、ある程度の常識の範疇で行動している。だから妄想というより「思い込み」に見えるし、しかも本人が意図的にしているように見える。そこが本当の統合失調症との違いだろうと思う。

 加療を始めた当初はうつ病という診断だったが、今では統合失調症という診断になっているらしい。妥当と言えば妥当だ。第三者から見た時の困り事は、安定した人間関係を継続できない点。親しい関係の人ともよそよそしくしか接する事ができず(本人はまったくよそよそしいとは思っていない)、過敏な反応で人間関係を自分から断つ事が多い。継続的な人間関係は、かなり距離を取った人だけに可能だ。(近しい関係になると必ずと言って良いほど逆恨みが始まり、自分から関係を断つ。)

 

 シゾイド型の人のほうはそんな事はないかと言うと、都合の悪い事は何でも他人のせいにして相手を責めるので、近づく人はいなくなった。家族にすら責任転嫁が激しいので手を貸す事もできない(何かしてやればしてやるほど恨まれるので)。他者との良好な関係を望まない「動機のなさ」が無闇矢鱈な責任転嫁として出て来るのかも知れない。その人にとっては、何も起こらない事が最も望ましい事なのだ。この人は加療さえしていないので診断名はない。

 

 本書の自己愛性パーソナリティ障害については僕が考えているものとちょっと違う。(1つのパターンかも知れないが。)僕はソシオパスは自己愛性だと考えているので、自己評価が高く自信たっぷりなタイプというより、自己愛が欠損していて見栄だけ張る自己中な人という考え方をしている。しばしば社会ルールを逸脱するし、良心は希薄だ。僕の考える自己愛性については、過去記事「反社会性パーソナリティ障害という診断名に思う - 言いたいことは山ほどある。」を参照して下さい。

 

 演技性パーソナリティ障害についても一例だけではちょっと浅いというか、1つの典型なのだろうけど、すべての演技性がこういう感じではない気がする。というのも僕は2人ほど演技性の人を知っている。片方は診断があるが、もう片方は診断が双極性障害でパーソナリティ障害の診断はない。しかし、その行動パターンからそれっぽいと考えている。二人とも、この本の症例とは違い男性だ。(本書の症例は女性。)

 彼らの特徴は、場所・場面・相手による極端なまでの振る舞いの違いだ。まるで別人格かのように見える。しかし、どちらの場合も自分が期待されている(と本人が考える)振る舞いを過剰に演じる。それが社会通念上あまり宜しくない振る舞い(悪口や策略)だとしても、その事に罪悪感を抱く事はない。何故なら彼らはただ期待された事をしただけだからだ。内在的な欲求によって行っているのじゃないからだ。しかし、2人とも自分に好意的な相手にはいたって態度が良く、良識があるように振る舞う。そう感じるのは交流した僕が良識があるように見えたからかも知れない。2人の印象はとても近い。

 もう1人、これに近いと思う知り合いがいる。それも男性だ。彼は非常に空っぽな人間で、すべてを周囲から模倣する。人生の目的さえも模倣だ。大袈裟なリアクション、これ見よがしな態度など、まるで見せつけるように行うのだが、やはり反省のなさはずば抜けている。(口では反省めいた事は言う。)何かに興味を持っているように見えて、それも借り物なので、借りた相手と疎遠になると途端に関心を失う。だからいつもフワフワと宙を漂っているような不安定な感じに見えるのだ。彼はうつ病という事で長年加療しているが、実際のところは発達障害があるのではないかと思っている。定型うつ病メランコリー親和型)ではなく、いわゆる非定型うつ(ディスチミア親和型うつ)のように見える。

 

 本の感想として書き始めたのに、感想は殆ど書かずに持説ばかりになって申し訳ない。この本はとても参考になるので、興味を持たれた方は一読をお勧めする。最後に、僕に最も関連が深い境界性パーソナリティ障害の箇所について感想を書いておく。

 本書には発達心理として「幼児期における親の接し方」をパーソナリティ障害の一因として紹介している。確かに類型化できるケースも多いだろうと思うが、そしてその類型化に当てはまる人も多いのかも知れないが、人格形成は親の接し方だけで決まるものではない。幼稚園以来の社会参加の中で得る友人関係に大きく影響される。親が足りないものを友人は補ってくれる。おそらく人格が固定されるのは18歳以降だろうから(もっと言えば23歳以降かも知れない)、特に思春期の学校での体験は大きな影響を与える。

 僕に関して言えば、アイデンティティは一貫していると思っている。他人から指摘を受けた事もない。むしろ頑固だとさえ言われる。自己言及が多く、自分はどんな人間かをいつも考えている。自分にしか興味がないかの如くだ。もちろん、上に書いたように他人にも興味はそれなりにあって、あれこれ分析的に観察するのが好きだ。でもそれは、自分が何であるかをつきとめる手がかりとしての興味関心であり、本当の意味では他人にはあまり興味がないのかも知れない。他人が何を考えているのかに興味がないし、他人の考えには興味が湧かない。

 一方で、幼児期の体験で言えば「不安定な環境」に置かれ溺愛から虐待までを経験というのが当てはまる。2つの家庭を行き来し、片方では穏やかで静かな生活、もう片方では刺激だらけの生活を送った。激しい気性の両親のもと、父親には溺愛され母親には憎悪された。しかし僕が人類への憎悪を爆発させるのは、中学での友人の裏切りが契機と考えている。もちろん小学校でも過剰な指導を食らったり、友達の裏切りで人間不信になったりしたが、僕自身が攻撃的で邪悪な人格を露わにするのは中学以降だ。

 あの体験がなければ境界性にならなかったのかは分からない。それ以外にも人間不信が積み上がる経験はたくさんある。どこかでそれらが堰を切って爆発したかも知れない。そうだとしても、あの経験がなければ20年近く夢に見続ける事もなかったろうし、だいぶ対人様式は違ったんじゃないか。それでも結果的には、幼児期の不安定な環境と子供時代の不信から今のような人格に成長した可能性は高い。