言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

クィア性とは

 3月25日に書いたブログ記事「LGBTとか」内の「Q」の説明部分を修正していて、やはりクィアについては、もうちょっと考察したい。

 

 あの記事を書いた時点では、僕はクィアが良く判っていなかった。今でも良く判らない。

 Queerは元々、英語で同性愛者を罵る言葉だ。もし英語圏に行って、不用意にこの言葉を使えば殴られても文句は言えない。日本語だとオカマに相当するかも知れないが、オカマも当事者含め多用され過ぎて衝撃がなくなっている。(本来は非常に酷い侮蔑の言葉なのだが。)本来のニュアンスを伝えるなら「カマ野郎」「変態野郎」だろうか。変態も多用する人には衝撃が少ないから難しい。前の記事ではシナチョンと比較したが、だいたいそんな感じ。(米国ではFagもしくはFaggotという、もっと汚い言葉があるにはある。)

 同性愛者への侮辱がそれほど強い理由は宗教だ。ユダヤ教キリスト教イスラム教は「アブラハムの宗教」と呼ばれる同根の親子兄弟宗教で、基本となる教義はユダヤ聖典だ。ここで宗教教義に深く立ち入る余裕はないが、ユダヤ聖典レビ記には「女と寝るように男と寝る男は必ず殺されねばならない」(20章13節)とある。レビ記20章で「殺されねばならない」といった強い調子で死刑を宣言している罪は9つほどだ。有名な姦淫罪の他、獣姦や近親姦、父の妻や息子の妻との性交、母娘を同時に娶る等が禁止されている。中には月経中の女との性交なんてのもある。

 こんな調子だから、当事者じゃなくても相手を侮辱しようと思えば、同性愛者呼ばわりすれば良いというくらい強い侮辱なのだ。日本でも気軽に他人の性的志向を詮索したりからかったりする人がいるが、とても恥ずかしい行為だという事を、いい加減理解したほうが良い。質問するくらいは良いだろうと思うかも知れないが、質問も避けたほうが良い。何故なら、その質問に答える筋合いなど微塵もないからだ。聞いて良いのは、自分が性的アプローチをかけたい相手だけだ。(←ここ重要。)

 

 これだけ強い侮蔑の言葉が、どうしてポジティブな意味で当事者が使うようになったのか。経緯は「オカマ」に似ているかも知れない。クィアは差別語として公での使用は自粛された。90年代に入ると米国でクィア理論が言い出され、言葉の再定義が行われる。クィア・アートやクィア映画など多岐に利用される中で、クィアはポジティブな自己定義として再構築されていった。

 しかし重要な事は、クィアであるかどうかは「自己認識」だという点だ。他人がやってきて「お前はクィアだ」と言った場合、本来の差別語の意味になる。誰か(非当事者)が僕に向かって、たとえニコニコとでも「あなたはクィアなのね」と言えば、それはとりもなおさず「気持ちの悪い変態野郎」と言ったのと同じ意味になるのだ。

 たとえば男性同性愛者に「君はホモセクシャル(またはゲイ)なんだね」と言っても、女性同性愛者に「レズビアンだったんだ」と言っても、こんな意味にはならない。もちろん僕に対して「トランスジェンダーなのね」と言っても同じだ。しかし「君はクィアなのか」と言ったら訳が違う。

 この繊細さも「オカマ」に似ている。本人がどれだけ「あたしたちオカマは~」と言っても笑いを取るだけだが、他人が「このオカマ!」と言った途端、当事者を含め場が凍る。オカマという言葉をこういう風に取らない日本人も多いから通じにくいかも知れないが、本来侮蔑語である呼称とは大変失礼なものなのだ。

 ちょっと説明がくどくなるが、人種を表す侮蔑語で考えたほうがピンと来るかも知れない。ニガー(黒ンボ)は当事者同士では平気で使う言葉だが、非当事者が使った途端に差別になる。決して真似などしてはいけない。性差別と人種差別はとても似ている。性差別で分からない事は人種差別で置き換えれば、と言いたい所だが、日本人は人種差別にも疎いので中々通じない。とにかくクィアもニガーも「人前で口にしないほうが良い言葉」と覚えて置くと良い。

 

 さて、ジェンダークィアという言葉についてだが、性的志向クィア性とは別にジェンダークィア性というのがある。Xジェンダーと日本語で呼ばれる属性はジェンダークィアに包括されるらしい。と説明されても僕にもチンプンカンプンだ。何となく「普通じゃない」感じだけは伝わるが、その先は皆目分からない。それもそのはず、クィア性は「一人一人違う」のだそうだ。発達障害者が一人一人違うのに似ているのかも知れない。

 そうは言われても僕は今のところ、自身をクィアと認識していない。ごく普通に「女の体を持つ男」としか思っていない。それがどれほど奇妙なことであるのか、僕には分からない。何故なら、物心ついた時からずっとこうだからだ。そうでない人を見て「不思議だな」と思うくらいだ。「何故、自分の性別について迷った事がないの?」「何故、君の性別は肉体と一致しているの?」と聞かれても答えられるシスジェンダーはいないだろう。同じ質問にトランスも答えられない。理由なんて知らないからだ。

 これについて僕が薄ボンヤリとながら了解するのは、猫は自らを猫と思わないが、猫と呼ばれている。それと同じだ。僕は僕自身をクィアと思わないけれど、人はそう思うのだろう。僕は僕自身をしばしば「奇妙だ」と感じるが、それは性別の事ではない。精神性の何とも言えないアンビバレンスな有り様というか、自己矛盾を内包しながらもバランスを取ってしまっている感じが奇妙だと思う時がある。普通だと思う時もある。誰でもそんなものなんじゃないか。

 クィア性とは自認だと言いながら、とうとう他認にまで話が逸れてしまった。僕にとってのクィア性とは内面から出てくるものではなく、他者が僕をそのように見るであろう以上の意味を持たない。今後、この概念が内在化していくと認識が変わるのかも知れないが、自身が持つ「奇妙さ」にクィア性という名付けをするかは分からない。たぶん、しない。

XジェンダーとFTMの違い

 質問のほうは今回スルーだが、ベストアンサーがなかなか考えさせられるので考察してみたい。

 

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FTMとFTXはまったくの別物

 自分は性別違和で性自認は男性。そのため自分ではXジェンダーという自覚はない。とはいえ未治療の身体の性別は生まれた時の状態だから、周囲から見るとそう見えるのだろうと考えていた。しかし、そうではなかったようだ。FTMとFTXには明確な違いがある。

 今まで、FTMMTFとXジェンダーの違いを性規範の受容という視点で考えたことがなかったが、性規範へのこだわりは(肯定・否定両方あるが)かなり強い。既存の規範への強い反発がある一方で、自分が持つ規範への強い執着がある。自分と関係ない性別である女性には「こういう傾向がありがち」程度の認識と、自分が押しつけられてきた規範の知識があるだけで、規範は持っていない。どういう女性でも本人が女性と認識する限り(それがMTFでも)、女性と見なすし、女性として扱う。一方で、男性への規範はこだわりが炸裂する。自分がそうありたい姿と、自分の好みのタイプの両方が混じり合い、その評価はいつでも激辛だった。

 既存の性規範に対する反発(それを容認すると自分が生きにくいから)から、自分の立場はジェンダーフリーに近い。そこだけ見ればXジェンダーの主張と重なる点は多い。しかし、自分の性別に強いこだわりを持っていて、自分の中での規範を捨てようとは思わない。性別にこだわらない人からしたら偏執的だと思う。社会規範の性別とはだいぶ違うが、自分の性別イメージはかなり強く、明確なのだ。

 自分は自己流に再解釈した性規範に従っていて、性規範自体を完全に消滅させようとは望んでいないのかも知れない。つまり性規範を受け入れている部分があるのだ。Xジェンダーが性規範に自分を適合しようとしないのだとしたら、自分とは明かに違う。自分は内面的性別と社会的性別が不一致なだけなのだ。

 

◎身体への嫌悪が強い

 上の記事で感心したのは、性自認と社会的性別を重視する一方、生物学的性別を軽視する傾向への指摘だ。自分の場合はまさにそうで、自分が性別を語る時に主に問題とするのは自分の内面的性差文化と社会規範となっている性差文化だけだ。肉体的性別の事はあまり話題にしない。言っても仕方がないからもあるが、身体への嫌悪は多分にある。だから身体の性別を極端に軽んじる。

 前に「身体違和は少ない」と書いたのだが、是が非でも性別適合手術を望む人に比べたら少ないという話で、実際には醜形恐怖に似た嫌悪感が結構ある。子供の頃から写真を撮られるのが大嫌いで、人間と似た姿をした人形やサルのオモチャが苦手だ。この醜形恐怖は自分の身体への嫌悪が原因かも知れない。もちろん人間の姿が「不格好」と感じるのも理由の1つなのだが、自分の性別を自覚しなければいけなかった中学以降は、性別への嫌悪も強く混じっているように思う。

 

◎願望と自認は別問題

 しかしこの回答がすべて正しいわけではないだろう。性規範にどれだけ自分を合わせるかはFTMMTFでも個人差がある。必ずしもSRSを希望するとも限らない。Xジェンダーが身体的違和を全員、まったく持ってないわけでもないだろう。そこも人によって差が出る。

 特に、無性化願望とXジェンダーの絡め方には引っかかりを感じる。Xジェンダーにも無性・両性・中間性とタイプ別のセルフイメージがあるだろうし、それらがどれも「身体への執着」なのかは自分には分からない。しかし、個々人のイメージに従っているなら性別二元論の埒外にいるとは言える。

 

 「願望」で言えば、自分は両性具有というイメージが好きだ。それを知ったのはギリシア神話あたりで、中学の頃だった。ギリシア神話の場合は「ふたなり」のイメージそのままだ。半身ずつ性別が違うアシュラ男爵やインド神話のシヴァとパールヴァティの合体神(アルダーナリシュヴァラと呼ぶ)とは別で、女性の乳房を持ち、男性の生殖器を持つ。おそらく女性の生殖器も持っている。ヘルマプロディートスもしくはアンドロギュノスと呼ばれるが、アンドロギュノスは男女がくっついた球体の体で表現されるので、現在の両性具有のイメージはヘルマプロディートスだろう。ヘルマプロディートスもアルダーナリシュヴァラも神話的イメージだ。

 こういったイメージの遊戯は誰でもあるだろうと思う。しかしそれをもって自らの性別とはしないし、現実に生活する上でそれを再現しようとはしない。しかし無性の人がアセクシャルだった場合、少々事情は違うかも知れない。アセクシャルの人は性行為をしない。アセクシャル・アロマンティックとなると恋愛もしないから、無性でいることが現実的に楽だ。ジェンダー性的志向は完全に別問題なのだが、生活上はそれぞれの影響を避けられない。たとえば自分のように男性を性的対象とする場合、表面的に女性に見せかけておくのは極めて有利となる。性行為は若い時には比重の大きい問題だから、有利になるようにファッションも妥協する。

 

◎Xジェンダーは第3の性か? 

  「第3の性」という言い方があるが定義は曖昧であり、ただの言い回しに過ぎない。インドのヒジュラーがそう呼ばれることが多い。ヒジュラーとは半陰陽・両性具有の意味だが、実際にはMTFや女装した男性同性愛者。男性器をかなり乱暴な方法で切除していたりもする。稀に自然に両性の特徴を持つ人も混じっているらしいが、当然、数は圧倒的に少ない。生業は舞踏・演奏、新生児の祝福や売春。この場合、「男性とも女性とも言えない人」というより、元は男性で現在は女性として暮らしている人達だ。似たような存在(元が男性で女性として暮らす)ではメキシコのムシェもある。

 性分化疾患インターセックスDSD)に言及すると、彼ら・彼女らは「第3の性」を自認しない場合が多い。ジェンダーは男性か女性のどちらかが殆どだ。ヒジュラーやムシェも女性として暮らしていて、身体的特徴から完全な女性ではないと見なされるだけだ。そういう意味ではどのケースも「第3の性」と呼ぶにはふさわしくない。

 

 ジェンダーにおいて「男でも女でもない」と「男であり女である」の意味はとても離れている。「男でも女でもない」人は男性・女性のどちらの規範も受け入れない。「男であり女である」人は両方の規範を受け入れ、自分の中でミックスしている。このミックス状態を自分はクィア性と認識している。両性を兼ね備えるという形で、この人達もまた性規範の一部に属している。

 一方で「どちらでもない」人達は既存の性規範を完全に無視するのだろう。アンドロギュノスは両性具有なのだから、語義的には「男でも女でもある」人達に冠されるべきだ。どちらでもない無性の人はそれとは違う。

 

FTMMTFは「第3の性」ではない

 Xジェンダーが明示的に男性・女性のどちらでもないとするのに対し、FTMMTFは明確な性自認を持つ。つまり男性か女性かどちらかだ。それ故、TG(トランスジェンダー)を「第3の性」と呼ぶのは間違いだ。「第3の性」と呼んで良いのは、本人が「第3の性」を自認している人のことだけで、つまり自分を男性でも女性でもないと認識していたり、両方もしくは中間だからどちらかで呼ばれたくないという人達だ。

 同じ問題は性分化疾患で顕著だ。肉体的に定型ではないとしても、ジェンダーは男性か女性どちらかなので、ジェンダーに応じて扱われる必要がある。FTMMTFも肉体的には非定型となるがジェンダーは明確だ。それを勝手に「第3の性」と呼ぶのは失礼極まりない。

 どういうことかと言うと、たとえば事故や病気で性器の一部を欠損した人がいるとする。男性なら睾丸や陰茎で、見た目でハッキリ分かってしまう。その人に向かって「あなたは陰茎がないから男ではない」と言えるだろうか? その人は生まれた時から男で、不幸にして事故か病気で体の一部を失った。それを「もはや、お前は男じゃない」と言うのは残酷ではないのか?

 それと同じことなのだ。理由は色々だが、何らかの事情で男性器が欠損している男性がこの世にはいる。その一部は事故や病気、一部はTGだ。TGの一部は男性器がないことに劣等感を抱いている。そこをえぐるような言葉を投げつけるとしたら、それはただの暴言に過ぎない。少なくとも自分は「第3の性」などと呼ばれたくはない。

ロマンティックラブ・イデオロギーの罪深さ

 性的マイノリティーにアセクシャルと呼ばれる人達がいる。日本語では無性愛者となる。恋愛感情を持たず、他人に性的欲望も抱かない人達だ。似たような言葉にノンセクシャル(非性愛者)というのがあったが、和製英語だからという理由でアセクシャルに統合された。非性愛者は恋愛感情は持つが、他人に対し性的欲望を抱かない人達で、今はアセクシャルの一部と見なされる。

 最近の表記では「アロマンティック・アセクシャル」と書いてあれば恋愛感情と性欲の両方がない人だ。ア(否定)+ロマンティック(恋愛的な)で、ロマンス(恋愛)の派生語。以前のノンセクは「ロマンティック・アセクシャル」と書く。

 アセクシャルを定義する言葉だから「アロマンティック・セクシャル」は出てこなくて当然なのだが、調べてもこれに該当する用語は見つからなかった。相当数いるであろう「恋愛感情を持つことはないが性欲はあり、他人と性交することは可能」な人達は呼称さえない「見えざる属性」だ。

 「相当数いるであろう」と書いたのはデータがあってのことではない。自分の周囲を観察しての体感だ。このタイプの人について特別研究されたことさえないのではないか。何故なら「ごく普通のこと」だからだ。そして、このタイプだからといってもたいして困らない。結婚は子供を作るためと考えれば、性交さえできれば問題は生じない。一方が恋愛を求めていると欲求不満になるが、双方が性欲と繁殖目的なら特に問題がないのだ。

 

 恋愛は古来から小説や劇でよく使われるテーマであった。ギリシア悲劇にも見られ、シェイクスピアもよく題材にした。日本でも源氏物語浄瑠璃などで扱われたテーマだ。そのため「人類普遍のテーマ」だと勘違いされている。そこに混入してくるのが一夫一婦制のキリスト教の結婚観だ。(ユダヤ教は本来、一夫一婦制ではなかった。イスラムが一夫多妻制なのはその名残だ。)一夫一婦制を普及するのに、これほど便利なツールはない。他の相手に手を出せば「裏切り」であり「不実者」となるからだ。キリスト教はモノガミー(単婚)思想だ。(ユダヤ教も時期は分からないがモノガミー制になる。)

 この一夫一婦制を基本とした結婚制度にキリスト教カソリックの「結婚の秘跡」を組み込んだものがロマンティックラブ・イデオロギーだ。(※結婚の秘蹟:婚姻の秘跡とも。一組の男女が互いに、生涯にわたる愛と忠実を約束すること。)キリスト教徒以外には「神による組み合わせ」という意味はないから、「赤い糸」「運命の人」「ソウルメイト」といった世俗的な概念に変化している。つまり、恋愛を動機とした結婚と性交を神聖視する思想だ。

 

 日本で一般に恋愛のステレオタイプが広まるのは、何と言っても少女マンガの役割が大きい。一般と言っても女子だけではあるが。男子は少女マンガを読まない人が多い。少年マンガのテーマに恋愛が使われることが皆無ではないが、メインテーマではなくサブテーマだった。恋愛を大きく取り扱ったのは『翔んだカップル』(柳沢きみお、1978~1981年に少年マガジンに連載)が最も早かったのではないだろうか。続いて『タッチ』(あだち充、1981~1986年に少年サンデーに連載、アニメは1985~1987年放送)が大人気となり、テレビアニメ化されたことで広く知られるようになった。(あだち充は『タッチ』の前に恋愛要素の強い『ナイン』『みゆき』を書いていて、『ナイン』は『翔んだカップル』と同年に連載開始。)

 一方、少女マンガの王道は恋愛であり、メインテーマだ。少女達はそれを読んでは大恋愛・運命の出会いに憧れ、男子にそれを要求するようになる。とはいえ、初期はフィクションとして捉えていた人も多かったろうし、それを現実に再現しようとするのは一部の人だったかも知れない。そこに『タッチ』世代の男子が合流すると、双方が恋愛幻想を持つ同士となり再現率は一気に上がる。

 マンガだけではない。ドラマでも映画でも恋愛は大きなテーマで、しつこく再生産され刷り込まれ、「そうしたい」が「そうあらねばらない」へと変わっていく。その時期が80年代後半くらいではないかと思う。ここに来て、男子も「恋愛なんて馬鹿馬鹿しい」と声を大にしては言えなくなる。相手(女性)を得るためには相手の要求に応えねばならない。ステレオタイプなデートを重ね、「恋愛」が皆の「共通体験」へとなっていく。そして恋愛が「同調圧力」へと変わっていった。

 

 事ここに至って、自由恋愛の意味が変わった。自由恋愛とは何か。男女交際がふしだらとされた日本では、結婚相手は親同士や仲介者の紹介で決めた。そうなったのは当然ながら婚姻制度が法規定された明治以降なのだが、人の記憶はアテにならない。昭和になれば、ずっとそうしてきたと皆が錯覚し始める。戦後になり、新しい憲法で「結婚は両性の同意による」とされた。親の利権や都合による強請婚姻をやめさせる目的だ。これが自由恋愛による結婚である。本来の自由恋愛とは、「交際期間を経て結婚に至ること、親や周囲からの強請ではなく相手を自分で選ぶこと」だ。(だから見合いという方法が取られ、「本人が決めた」ことにした。さらに結婚準備期間を含め、一定の交際期間も設けられた。これなら合法である。)

 それがどう変わったのか。人々は「恋愛しないと結婚できない」と信じ込むようになった。自分もそうだ。恋愛をしたことがなかったから、自分は結婚できないと思っていた。ところが日本人は恋愛が非常に下手だ。感情表現が苦手だからだろう。ちょうど文明開化の頃、日本人が体に合わない洋服を不格好に着込んでいたように、恋愛はそれまでの日本の文化に馴染まなかった。結果、恋愛下手をこじらせて未婚者が大量に出るのが、見合い結婚が廃れた90年代から。この傾向は年を追う毎に進み、最近では未婚率が社会問題となるまでになった。

 

 そろそろ日本人は「恋愛という強迫観念」から自由になり、性欲と合理精神で相手を見繕って結婚してはどうだろうか。結婚に恋愛は必須ではない。それはオプションである。出会いがないから結婚も出来ない。それはもっともだ。じゃあ出会いがあったら結婚はできるのか。恋愛という手順を踏まないと、と考えると腰が引ける人は多いだろう。

 昔の日本では貞操観念が低かったから何となくの流れで性交して、恋愛でもなくだらだら関係が続き、時期がきたからそろそろ結婚でもして落ち着くか、みたいなカップルが多かった。感情表現が苦手な日本人にはこの方法のほうが合っているし、女性が誰でも面倒臭い大恋愛をしたいわけでもない。男性はもっとしたくない。そもそも男性の多数派は性交には興味があっても恋愛には興味が無いのではないか。相手がそれを要求するから演じているだけで、自分自身にそれをしたい欲求はない人が多いように感じる。(したいのは性行為だけだ。)しかし、「恋愛していること」にしないと性交させてくれない。

 大恋愛とか略奪愛は征服民族・狩猟民族の文化だ。農耕民族はもっと大らかで曖昧な関係が文化に合っているのではないか。村の祭で無礼講の乱交をしたり、夜這いで何となく関係が成立したり。土着で侵入者のいない土地で長年暮らしてきたから、ものをハッキリ言わない。こういう部分は農耕文化のソレのまま、恋愛だけは狩猟民族の真似をしろ、というのは無理筋だろう。

 

 「合理精神」と上で書いたが、合理精神=金銭や出世の条件という意味ではない。収入は最低限必要だろうが(暮らしていくには金が要る)、一人で暮らせる程度の収入がある者同士が二人で暮らすのは楽なはずだ。それよりも「この相手と一緒に暮らしていくのは(物理的にではなく精神の健康面で)可能か?」「考え方・価値観は近いか?」「お互い無理な我慢をせず済むか?」のほうがよほど重要だ。そして「過剰な要求はお互いしない」が大切だろう。それが「合う」「相性が良い」の意味だ。それだけだと気の合う友達止まりだから、プラスして「この相手と性交をして不快感はないか」が必用。それだけ揃っていれば完璧と言って良い。

 もう1つ提案したいのは、若い女性は能動的になろう、という点。男性は昔ほどガツガツしてない人が増え、草食化などと言われている。それなら待ちの姿勢をやめて自分から肉食化し、気に入った相手は押し倒すくらいの勢いで攻める必用がある。相手に責任を転嫁するのを止め、自己決定・自己責任で動こう。それを周囲がふしだらだのビッチだの言うのもやめろ。どっちが仕掛けても良いじゃないか。男女平等なのだから。

 以上は「相手が欲しい人」の場合。そんなことには興味がない、という人の価値観を否定するのもやめよう。幸福の形は人それぞれ。「結婚して一人前」だの「子供を持って一人前」だのの、古いステレオタイプ・偏見・押しつけは誰をも幸福にしない。したい人は放っておいてもそうするのだから、本人の選択を尊重しよう。その結果、非婚率が上がったとしても、それがどれほどの社会的損失だと言うのか。そういう人達は昔から一定数いるが、何か困ったか。

 言うまでもないことだが、ロマンティックラブに生きたい人の邪魔はしないし、その価値観も否定しない。男性の中にも一部、恋愛脳と呼ばれる人達はいる。人に押しつけるな、「それが当たり前」と言うな、という主張だ。ロマンティックラブ・イデオロギーで強迫観念を抱き、皆がそうしなきゃいけないと囚われたり、重圧を感じる必要はないのだ。

ゲイシズムについて

 ゲイシズムという言葉を知ったのは最近。ツイッターでフォローしている方(米国在住のゲイ)がつぶやいていたのが初見だ。その時の説明では、「テレビなどでオネエを出し、毒舌をもって様々な社会現象を鋭く論評する」といった内容だった。こういう芸風は日本でも多く見かける。なるほどなあ、と感心した。

 ゲイバーでは昔から定番だったのだろうが、日本で言えばテレビ的には「おすぎとピーコ」あたりが確立した芸風だろうか。批判を受けると「オカマだからしょうがないじゃない!」と返すアレだ。毒舌芸はオネエの独壇場というくらい普及した。自分なども昔、ゲイバーではない場所で遭遇するオネエ達の毒舌芸に腹を抱えて笑ったものだ。

 しかし、ここまで蔓延すると、これはこれでどうなのだろう、と感じるようになる。しかも内容に見識もクソもないものも増えた。ただの言いたい放題・暴言の類いも多い。数が増えれば質は低下するのは道理。仕方がないことではあるのだが。

 

 質の悪い放言を批判する作業は都度個別に必用なのだが、そもそもこのゲイシズム、どうなのだろうか。これが成立するのはオネエ達が被差別だからだ。つまり、ゲイシズムは差別構造に乗っかったものであり、差別をなくす役には立たない。オネエが言っても暴言は暴言だし、放言は許されない。そこをはき違えてはいけない。

 こういった構造(被差別からの乱暴な言い切り)を利用した芸風として、お笑いタレントにコメントをもらうというのもある。昔、お笑いタレントが世相や政治的な事柄について発言することは少なかった。「ぼやき漫才」というのはあったが、個別の芸人の芸風でしかなかった。

 お笑いタレントにコメントを求めるようになるのは、ビートたけしあたりからではないかと思う。漫才師が政治について言及するようになる。最近でも太田光松本人志のコメントは大きく取り上げられ、メディアを駆け巡る。それ自体はどうでも良いのだが、問題は一般人がそれを有り難く拝聴し、同調しやすい点だ。彼らはそれほどの見識を備えた「文化人」なのだろうか。

 

 批判が来ると、ビートたけしは「たかがお笑い芸人の言うこと」と逃げる。これはオネエが「あたし達オカマだもんねー」と逃げるのと同じである。芸人というのは日本では河原者であった。河原者とは「河原に住んでいる人達」という意味で、被差別を意味する。日本では湿気が多く環境の悪い河原に人は住まない。そこに住まざるを得ないのは、流れ者・外れ者の被差別の人達だった。そこには芸人も多く含まれていた。

 ある一定の職業を河原者と認識するのは、もちろん職業差別だ。だから現在ではそんな人達はいない。しかし、アウトサイダーとしての立場を利用して言論するのは、まさにこの河原者制度なのだ。だから「たかがお笑い芸人」の言うことでも「たかがオカマ」の言うことでも内容に応じて批判を加える必用がある。最近の松本人志の意見には批判される点が多いと感じる。

  自分は芸能には疎いし、芸能の話をしたくて書いているわけではない。もしオネエ達が「あたし達オカマだもんねー」に逃げ込むなら、ゲイ差別はなくならないと言いたいのだ。オネエ独自の視点を持って批評する、というのなら批判も真っ向から受ける必用が生じる。それだけの覚悟をもって言説しているのか。中にはそう見えない人もいるように感じる。

 

 もう1つの風潮として不気味なのが、女性誌でオネエのコラムが増えている点だ。オネエは女性なのか。そうとも言える部分はあるが、基本的には性自認が女性ではない人達だ。性自認が女性はトランスジェンダーであってオネエではないし、オネエ=女性ではない。トランス女性の性的対象は男性とは限らない。ここはハッキリと区別しないといけない。とは言え、性自認の問題は本人にしか分からない。問題は、それを有り難がる女性が多い点だ。

 女性という性別の規範は男性より遙かに多い。まさに「女性に生まれるのではなく、女性になる」のだ。若い世代はその過程で悩みも多いだろう。そういう時に、風穴を空けるようなオネエの意見が参考になることもあるだろう。が、昨今増えているのは、オネエによる「女性はこうあるべき」論だ。これはとんでもない性差別であり、性規範の再生産でしかない。こういう言説をするオネエは性別役割分担に荷担する性差別主義者。自身が被差別であるにも関わらず、差別的言説をする人は世に多い。

 

 ゲイシズムもお笑い芸人のコメントも1つの流行だろうから、それを批判するのは意味がないかも知れない。しかし受け手側は警戒しなければならない。特に性規範の再生産は何も良いことをもたらさない。旧態依然とした男女観を維持するだけだ。日本の性規範は息苦しい。過剰である。それをオネエが助長してどうする、と言いたい。

 乱暴なことを言えば、女とはを性規範で語るオネエは「そこいらのオバサンと同じ」なのだ。言ってる内容も大差ない。そういう意見を聞きたければ、「そこいらのオバサン」に聞けば良い。オネエである必然性は何もない。個人の理想を語ることは自由だ。が、それを人に押しつけてはいけない。それはあくまでも主観に過ぎない。どうか惑わされずに、自分の自然を発見し貫いて欲しいと願う。

 これもまた自分の主観であり個別の経験ではあるが、世間に圧迫され、折れて合わせてきたことに自分は後悔がある。性規範に従って良いことは1つも起きなかった。自己選択・自己決定が自尊心を保つ最良の方法だと信じている。そこには後悔がない。失敗したら反省はある。が、自己否定に走るほどの後悔は生じない。自己肯定感。これを得られず人は苦しむ。自己肯定感こそが自尊心の源だと自分は考えている。

 

マイノリティー差別について

 某所でゲイだと友人にバレた人が相手から投げつけられた言葉が公開されていて、それを見て何とも言えない気持ちになった。好き嫌いは仕方がないし、友達をやめるのは自由だと思うのだが、それにしたって言って良いことと悪いことがある。25年も友達で、たったその属性1つであそこまで言えるのかと愕然となった。

 一方で、そういうことはよくあると知っていたし、内容も色々読んだことがあるが、書き起こされた言葉ではなくオリジナルを見たとき、これを自分が言われたときの気持ちを想像してゾッとしたし、それが十分に想像がついていなかった自分に気づいた。上っ面で理解して、本当には分かっていなかったのだ。

 

 公開されていたのはラインか何かのスクリーンショットだと思われる。暴言・罵倒・誹謗中傷といった内容で、ありがちな偏見に満ちた差別的な言葉が並んでいた。こういう表現をしてしまうとインパクトが消えるのだが、酷すぎてとても書く気になれない。

 言われた人は「仕方がない」と書いていた。友達間の関係のこじれは仕方がないのだが、属性に向けられた暴言や中傷は仕方がないとは到底言えるものではない。しかし、長年直接・間接に誹謗中傷されてきたマイノリティーは、それに怒る気力も失ってしまうのか。友人など自分以外が言われたら怒るのだろうが、自分のこととなると怒らない人が多い気がする。個人的な感情だからと押し殺すのかも知れないし、ショックが強すぎて怒りが湧いてこないのかも知れない。冷静に受け止めようとする本人の強い理性は賞賛に値するが、何ともモヤっとした感情が残る。

 

 差別はよくないとか、やめましょうなんて表層的な言葉では表現できない、何かもっと別の、やりきれない感覚が残る。同性愛差別に限った話ではない。ここまで酷いことを言われるのは男性同性愛者が多いかも知れないが(男は言葉が乱暴だから)、その他のセクシャルマイノリティーも言われるし、在日外国人への差別や障害者への差別もある。どれも無知に根ざした偏見に満ちた暴力的な内容だ。

 自分の属性を離れれば、自分が差別する側になる。被差別属性を持っていて、これを忘れている人は多い。自分は差別を受ける属性だから他人を差別していないと信じ込む。そんなことは不可能だ。差別をしない人はどこにもいない。

 とても幸いなことに自分は精神と発達の障害を持っていて、セクマイでもある。宗教も肯定しているし、自身もかなり傾倒した時期がある。自分が有色人種だから人種差別には嫌悪がある。それでも自分には無縁な被差別属性は沢山ある。自分が配慮が足りないと心配しているのは知的や身体の障害だ。子供を育てたことがないから、子育てのリアルを知らない。男性恐怖症や女性恐怖症などの恐怖症は想像がつくのだが、気が弱いとか心が弱い人に十分な配慮はできていないだろう。

 

 最近、しばしば「女ってどうしてこう自己中なんだろう」と感じる時がある。それは目の前のその人が自己中なだけなのだが、イラッとした瞬間にそのフレーズが頭を過ぎる。そして、頭の中で自己中な男の言動を一生懸命思い出す。自己中なのは女に限ったことではない、それは性差別だと確認するためだ。簡単に自己中な男の言動がいくつも思い出せるが、自己中の内容に微妙な印象の差がある。そして女特有の自己中さについて考え始める。そんな作業が多い。

 一方で、男にイラっとするのは無神経な発言に多い。相手の心情を慮る訓練が男は女に比べて弱い。能力の差というより文化の差だ。そこまで気にしなくてもたいていの男は簡単に傷つかないし、人間関係もこじれない。女の場合、ちょっとした言い回しで傷ついたのなんのと怒る人が多いから、気を遣う訓練が子供時代からできている。女性の言葉遣いや表現がソフトなのは性差ではなく、こういう経験の積み重ねなのだ。

 

 冒頭に書いた例でも、「同性愛だけは許せない」と罵倒者は書いていたが、これをレズビアンに対しても投げつけるのかと言えば、そうとも思えない。男が男に投げつける言葉の乱暴さに、自分が慣れていないので余計にショックを受けたのかも知れない。言われたほうが「言われ慣れている」のは、こういったきつい表現・露骨な表現のことかもしれない。そうだとすると「差別だから許してはいけない」と吹き上がるのも少し違う気がしてくる。(差別には間違いないのだが。)

 そうは言っても、差別する側として考えたとき、そこまで言うのは言いすぎだと感じるし、言って良いことと悪いことがあるという感想も変わらない。では自分は誰かの能力に対し、決して言い過ぎていないのか。言い過ぎないように気をつけてはいるが、相手からしたら「酷い」という場面は沢山あるだろう。

 属性を笑いものにするような冗談については、もっと危険だ。色の見え方と年齢に関連性があるという年齢チェックをネットでやったのだが(25歳と出た)、色弱の人からしたら不愉快な話だろう。こういう偏見を振りまく遊びは沢山ある。

 自分もやらかしているかも知れないという発想、自分の傲慢さへの警戒は、いくらしてもし過ぎることはない。一方で、ウッカリは誰でもするものだから、過剰に非難したり攻撃してはいけない。冒頭の罵倒者も、今はそう言っても数年後、反省して謝罪するかも知れない。人は生きてる限り成長できるからだ。

 

 

 

 

性別は社会規範なのか

 性別には生物学的性別(biological sex)、社会的役割(gender role)、性自認(gender identity)の3種類があると定義される。妥当な分け方だが、様々な視点から見ると不服がある。

 性別をあらわす英語はセックスとジェンダーの2つがある。通常、セックスは2つ(男女)と考えられているが、性分化疾患DSD)を視野に入れると二分法で考えるのは危険とされる。が、DSDの当事者の中には「第3の性」を自認する者もいれば、しない者もいる。(しないほうが多い。)ざっくりとDSD=第3の性と捉えてはいけないのだ。

 その理由は、性別を決定するのはセックスではなく主にジェンダーだからだ。DSDの当事者の多くは、性自認がXジェンダーではなく男性か女性かどちらかだ。ちなみにDSDは「半陰陽」「両性具有」「ふたなり」「アンドロギュノス」などと言われるが、男性器と女性器を完全な形で兼ね備える例は稀だ。また、性染色体がXXYの人というのは誤解である。多くは性染色体と一致しない生殖器を持つか、どちらとも判別しがたい不完全な生殖器を持つ、XYまたはXXの人々だ。

 DSDの当事者を「第3の性」と見なすのは生物学的性別(セックス)だけで性別が決定するという間違った考えに根ざしている。セックスだけで性別が決定するとされた場合、性同一性障害も性別違和も存在しないことになる。ジェンダー否定論であるから、性自認も無視される。自分が泣こうが喚こうが性別は形状で決定する。であるから、この考え方は自分には受け入れがたい。

 本当ならジェンダーの問題に彼らを巻き込むべきではないのだが、DSDの人を引き合いに出した意図は、「形状で性別は決定しない」と言いたいからだ。彼らの性自認は形状がどうであれそれぞれに決定していて、性別違和の率は低い。ウィキペディアによると、2005年のドイツの調査ではDSD当事者でXジェンダーを自認する人はわずか9%だったらしい。

 

 性別について考えてみよう。性別はまずセックスとジェンダーの2つがある。これが大前提だ。何故セックスだけでは駄目なのか。人間の生きている社会では、性別が単なる生殖機能から離れ、意味が増幅し、複雑な概念や価値体系を作り出しているからだ。人々が考える性別の多くは「社会的な性別役割」なのだ。このことをシスジェンダーの人達は殆ど意識せずに生きている。

 もし性別が純粋に生物学的なもの、つまり生殖に関わるだけのものであれば服飾の性差もないし、言葉や仕草の性差も必用ないはずだ。授乳期を過ぎた子供の養育が役割分担になるはずもない。雌の役割は子供を妊娠・出産し、授乳すること。乳離れした幼児の成育に対し、養育者が男か女かで大きな違いはないはずだ。ところが性別役割分担ではそれが女性の仕事と決められている。授乳で築いた信頼関係を利用して、その後も子育てを担当するというのは一見合理的ではある。だから、そうすることを批判はしない。しかし、保護者が女性、それも生みの親であることは必須ではない。

 自分はジェンダーを「文化的性別」と捉えている。社会的役割も文化だし、社会での扱われ方も文化だ。国や地域・時代によって差があり普遍性がない。こういったものは自然物ではなく人工物、アプリオリではなくアポステリオリなもの。それをザックリと文化と呼ぶことにしている。性差にまつわる文化は多岐に渡っており、自分が何を選択するかの好みも左右するし、生活のすべてに及ぶ。社会と接するときは社会規範として働き、歩き方から話し方、あらゆる行動を規制される。

 

 では、性別違和とは何だろうか。自分の場合、肉体違和は比較的弱い。それは、物心ついてからずっと自分が見てきた、自分自身と認識するモノだからだ。変化もつぶさに見てきた。長年の間にソレに対する慣れが作られている。全部ではないが、受け入れることができていると思う。

 その一方で、自分の持つ文化は女子的ではなく、そういうものに興味を持ったことはあまりない。とはいえ兄弟がおらず姉2人と一緒に育つと、同じような立場の男子がそうであるように姉の文化的影響はそれなりに受ける。少女漫画を読み、少女向けアニメを見、女の子の遊びに付き合わされる、といった具合だ。

 自分の場合、小学校時代は長女が少年漫画雑誌は「汚い」からと持ち込み禁止で、少年漫画を読み始めたのは中学から。雑誌は買わず(少女漫画雑誌を買うので小遣いがなくなるため)、友達から単行本を借りて読んだり、立ち読みしたり、店などに置いてある少年誌を読んだ。少女アニメはつまらなくて(一応は見たが)、少年向けアニメを好んで見た。女の子の遊びはあまりしたことがなく、野外でするのは虫取り、カエル取り、川遊び、探検ごっこが主だった。秘密基地を作ったりもした。しかし一緒に遊ぶのは女子が多く、男女混成で遊ぶ機会は半分以下だったと思う。前出の銀球鉄砲の他、かんしゃく玉もよく遊んだ。メンコ・ベーゴマは下手だったが、そこそこたしなんだ。

 一方で、いわゆる人形遊びはしたことがない。人形が嫌いだったのだ。人間の形に嫌悪感があったから、もらった人形を丸裸にし、髪の毛を坊主にし、折り曲げて壊した。ぬいぐるみは好きで、沢山持っていたが、それで遊ぶということはあまりなかった。触っていると落ち着くという程度。動物が好きで、家で飼っていた猫・犬・ウサギ・その他色々をかまっている時間が長かった。虫の観察も好きだった。あとはプラモデルを作っていたり、電気製品を分解しては組み立てたり、学研の科学の付録で何かしていたりだった。これが小学校時代の遊びだった。

 

 自分にはすごく重要な文化がある。1つはサッカーだ。小4か小5の頃、偶然見たサッカー番組に夢中になり、毎週かかさず見ていた。それまで野球や相撲はあったが、サッカーなんて存在も知らなかった。自分は野球が苦手で、キャッチボールもあまりしなかった。肩が弱くて上投げが下手だったし、棒を小さなボールに上手く当てるのも苦手だった。

 始めて見るサッカーの面白さは何とも表現できない。最初はルールさえ分からず、ただ見ていた。ボールを足で蹴るだけの単純なスポーツだと思った。当時よく放送されていたのがドイツのブンデスリーガで、接触プレイを嫌うお国柄だが流血沙汰もよくあった。それも含め、面白くて仕方がなかった。解説者とアナウンサーの会話から細かいルールを飲み込んでいくと、さらに面白さが増した。ドイツ人の長身の選手は格好良かった。体が大きく、骨格も日本人とは全然違う。ところが、同級生や友達でサッカーを知っている子は一人もいなかった。

 もう1つの重要な文化がロックだ。これは中学1年のとき、テレビを見ていて知った。それまで歌謡曲やフォークしか聞いたことがなかったから(生まれて初めて買ったアルバムは井上陽水の『氷の世界』だった)、この異文化には衝撃を受けた。北関東の田舎の退屈な生活に、海の向こうから刺激的な音が届いた。ファッションも格好良くて、すぐ夢中になった。当時夢中だったのがクイーンのフレディー・マーキュリー。始めて買ったロックのアルバムはクイーンだった。他にはローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか、男臭さ満載のバンドが多かった。

 サッカーやロックの話を書き出すと止まらないから自重するが(実は歴史の話も書き出すと止まらないので、前の記事でも公開した量の倍ほどの歴史の話を書いてしまい、削除した)、これらの要素で構成された自分の文化には性別などなかった。その後も小説や映画と自分の文化は増えていくのだが、そこにも性別の要素はあまりないと思う。つまり、自分が吸収していた文化は日本の性規範の埒外にあったし、女子的と考えられる文化に興味を持たなかった。

 かといって男子の文化の中で育ったわけでもない。小学校高学年ともなると、男子と女子は距離を取り始めるし、一緒に遊ぶのも同性になる。中学になると妙に意識して、特に男子が女子と距離を取ろうとする。兄弟はいなかったし、一緒に育った男の子達とは年が離れていて、あまり接点がなかった。だから男子が共有していた文化を、自分はそれほど吸収できていない。

 

 文化はこういった遊びの文化だけではなく、好み全般を支配している。ソレを好きと思っている自分が、本当に心からソレを素晴らしいと思っているとは限らない。「好むべき」という規範によってそう思わされている可能性がある。自分は確信的にコレが好き、アレが好きとやった結果、自分には文化的な女性性が希薄だと認めざるを得なかった。しかしそれが性同一性障害なのかと聞かれると、確信を持ってそうだと言える自信はない。

 性規範の中でも服装の性規範は非常に厳しい。特に男性が女性の服を着ることに対し、世間は厳しい目を向ける。シスジェンダーはこういった性規範に馴染み、それを全部肯定しないまでも受け入れることができている人々だろう。しかし、性別とは社会規範なのだろうか。性別が社会規範に利用される部分はあるが、性別そのものが社会規範だとするのは非常に危険な気がする。

 肉体的性別違和は自然に内面から出てくる。しかし文化的性別違和は人為的に作られているのではないか。文化的故に生活している時代・地域・国の性規範によって強まったり薄まったりする、相対的なものに過ぎないのではないか。最近そう考えるようになった。そう考えることで、自分自身の中にある性別に対する強いこだわりを薄めていけたら、と思っている。

性別違和について

 日本はFTMの割合が高いという指摘を見た。理由は(その方が書いていたこと)女性を好きな女性は男性にならなければいけないと思い込むからだそうだ。ジェンダーアイデンティティーとセクシャルオリエンテーションはまったくの別物なのに、それが連結されている日本の状況は男性同性愛者のイメージがオネエである事が象徴している。

 自分が考える理由として、女性の行動規範が異常に厳しい事が違和感を覚えやすい原因ではないか。日本が特別厳しいと感じない人も多いかも知れないが、偏見・ステレオタイプ・決めつけ・思い込みの多さは欧米とは比較にならないのではないだろうか。アジアは全体にそうかも知れないが、全体主義同調圧力・横並びが強い日本では個人が感じる圧力は強まる。
 女性はこういうものという偏見が強ければ、それに自分を当てはめられない人は性別違和を覚える。もっとおおらかな性別規範なら違和感を感じない人まで違和感に追い込まれる。そういう空気が日本にはあるのではないか。

 

 某所で女性物の服を着たいという男性に寄せられたコメントの大半は賛同だったが、「変態と見られて当然」「女性物はおかしい」「性同一性障害か」など書く人もいて、見ていて非常に苦しくなった。あまりに苦しいので見続けることが困難なほどだ。それほどまでに性別規範が厳しい。(しかし当の本人はまるで意に介していないかのように、職場に着て行きますと元気いっぱいに書いていた。人が本当にやりたい事を止めることは誰にも出来ない。)

 逆に言えばこれは、女性がスカートをはかない、化粧をしない、女らしくしないことへの否定でもあるのだ。会社で「女なら化粧をしろ」「女ならきれいな格好をして職場の華となれ」とはさすがに昨今言う人がいないだろうと思っていたが、そうでもないのかも知れない。社会規範としての性別が日本では非常に強い。その保守性にうんざりするし、心が折れる感じを受ける。自由に生きることが否定される。保守的社会とはそういうもの。キリスト教国の性別規範も厳しいとは思うのだが、日本は独特の保守性・厳しさがあるように感じる。

 

 自分は男だと思っているが、男であろう・男でありたいと思ってそうなったのではないのではないか、と感じる時がある。あらゆる機会を捉えて女として足りてない、不完全である、出来損ないであると思い知らされた。それが日本の性別規範の厳しさなのだ。人形遊びが好きじゃない。スカートが好きじゃない。赤い服が好きじゃない。それは「おかしなこと」とされてきた。だから自分は「女じゃない」と感じて来たし、何かがいびつだと感じてきた。

 一方で、車のオモチャが大好きだったかと言えば、そんなことはない。子供の頃のオモチャといえばピストル(銀球鉄砲)、塩ビの刀、怪獣フィギュア、ぬいぐるみだった。もう少し大きくなるとプラモデルを作るようになる。それでも車はそんなに興味がなくて、怪獣とか鯉とか船とかを作っていた。鯉と船は池に沈めてしまった。(浮くと思っていたのだ。子供は馬鹿だね。)

 車が好きじゃなかったのは、音が苦手だったからだ。大型車両が横を通り過ぎるとき、怖くて道沿いの民家の庭に逃げ込んではやり過ごしていた。今になって思えば怖いのじゃなく、大きな音が嫌だったのだ。しかも車酔いが酷くて、乗れば必ずのようにゲロを吐いた。車を好きになる要素は皆無だった。

 

 しかし、自分が単独で部屋にいるとき、自分の性別などないに等しい。肉体はあるし、それが示す性別は生物学的にハッキリとあるが、それに苦しさは感じない。(胸は邪魔で仕方がないし、チンコがないのも何だか悔しい気はするのだが。)性別が問題になるのは他者がいるとき。相手が自分をどのように見てどのように扱うか。それが問題となる。つまり性別は極めて社会的なものだと言える。

 生物学的性別は個人的なものだが、もう1つ社会的性別というものがある。それは社会から要請される役割分担だったり、服飾や好みだったり、言葉遣いや仕草だったりする。それらはすべて文化的なもので、文化的故に獲得されたものだ。自分にとって性別とは極めて社会的なものであり、それ故に規範に満ちている。もしそれがなければ、自分の性別などどっちでも良いのだ。

LGBTとか

 苦手なんですよ、これが。自分はこんなだからこの属性に入るわけだけど、何とも言えずしっくり来ない。とはいえ差別されるのは嫌いだから興味は示すし、賛同も一応するんですけどね。

 まず1つにLGBTという文字列。レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーなわけだが、LGBとTは意味合いが違う。セクシャル・マイノリティー(性的少数派)という括りなのだろうが、前3つと最後の1つはセクシャルオリエンテーション性的志向)とジェンダーアイデンティティー(性自認)という違いがある。

 これに昨今は他のセクマイをくっつけて5文字もしくは6文字にする表現もある。つけられるので多いのはQ(クィアまたはクエスチョニング)、A(アセクシャル=無性愛者)、I(インターセックス性分化疾患)。インターセックスがセクマイなのかには議論がある。多くの当事者は性別違和がないそうだし、生殖能力はともかく見た目はどちらかの性別だったりするからだ。だから自分はLGBTQAという書き方を使うのだが、このうち性自認の記号はTだけだ。(Q=クエスチョニングにした場合は、TとQが性自認となる。)

 日本ではXジェンダーという言い方をするが、英語ではジェンダークィアと呼ぶ。性別未定もしくは不定という意味らしいのだが、TだってXな部分はある。いくら本人の性自認が男女どちらかと主張しても世間はそうは見てくれないし、扱いは見た目で決定される。だから見た目を性自認と一致させようと必死になる人も多い。

 最近では性同一性障害の治療は知られていて、若い頃からホルモン治療を受ける人もいる。しかし、若くもないおっさんとしては今更どうしたら良いのか、と思ってしまう。背が低いしなとか、チンコ生やせるわけでもないしなとか、これ以上いびつになると外を歩けないんじゃないかとか。だから性自認としてではなく結果的にXであることを認めざるを得なくなる。

 

 その上、自分は性的志向が男性というのも大きい。もし女性が性的対象だったら、女性から男と認めてもらうために必死になっただろう。が、自分は中学では好きな女子がいたが(少年っぽい中性的な子)、高校からがっつり男が好きだ。むしろ自分の女性性を否定する気持ちから女性蔑視的な部分もあった。今でいうマッチョ感というのか、肉体的には無理なので精神的にマッチョでいようとした。昔ながらの男尊女卑的なセンスは自分にもある。が、自分が客体となったら差別されるのは自分になる。だから性差別については若い頃から非常に敏感。純男に対するひがみもあり男には厳しい。

 男性同性愛者が自分の好みに非常にこだわるように、自分も好みにはうるさい。だから好みじゃない男には冷淡だし、男としての水準(強さ・逞しさ・知性・理性)を厳しく要求する。一方、女には昔から甘いのだが、それは性的対象だからではなく、女に多くを求めても無駄だという女性蔑視があったからだ。近年これが薄れて、女性にも厳しい態度が取れるようになったのは我ながら進歩だと思う。

 こう書くととんでもない性差別主義者に見えるが、この考えを堂々と認めたら蔑視されるのは自分である。だから内心ひっそりとそう思っているだけで、表面上は女性を差別はしない。男というものは女に優しくしなければいけない、という考えもある。だから多くの男が、本心は「女に寛容で優しい俺って格好良い」という自画自賛でやってるのを良く知っている。自分がそうだからだ。自分の場合、それで女に好かれても嬉しいことは全然ないのだが、ヘテロの男性ならそりゃ嬉しいでしょうとも。スケベ心全開ですよ。

 そういうわけでLGBTのうちGでTな自分としては異性愛がいまいち理解できない。異性間セックスはよく知っている。そりゃあね、好きですからね、セックスは。が、恋愛というのが何かいまいちよくわかっていないし、恋愛=セックスだと思っていたりする。こういうところは感覚がモロ男ですね。

 だから正直、まともな恋愛というのはしたことがない。つきあっている相手はセフレくらいにしか思っていないし、つきあっているという認識もないからセックスしかしない、というのが若い頃の行動パターンだった。デートだとか面倒臭くて全然駄目なのだ。自分が行きたい所以外行きたくない。自分がしたい事以外したくない。友達同士ならつきあいで買い物もする。でもセックス相手とは無理。自分にとってセックスの相手は友達以下の存在だった。今でもそうかも知れない。

 それだけ深入りしないでつきあうから自分がこれだけおかしな人間でも何とかなったのだな、と今では思う。しかし、30からこっち自分の社会的性別を演じ続けることがどんどん苦しくなった。そのため、できるだけ社会との接点を減らして暮らしている。年を取れば性別違和が薄れるということはない。制服以外は学生時代までのほうがずっとマシだった。社会的役割に無頓着でいられたからだ。結果、これだけ長く生きてきて慣れないのだから、もうこれは一生慣れないのだと思うことにした。それで戸籍変更を目論むに至った。

 

 自分も人並みにリベラルだから、人権とか反差別とかもちろん支持する。でも、何とも言えずLGBTという言葉には抵抗がある。1つにはアライという存在が怖い。そして、押しつけられることが嫌い。こうせいああせいと指図されるのは苦手だし、変に同情もされたくないし、ありもしない共感をでっち上げられるのも嫌だ。それでも社会性はあるから、彼らに文句は言わないし大人しくしている。結婚主義ではないし結婚の意味など全然わからないが、同性婚には賛成するし、反対する人がいれば差別だと怒りもする。でも、昨今の大きなうねりを見ていると時代は変わったなと嬉しくなる一方で、どこか釈然としないものも感じる。

 その1つの理由。モノガミー思想が自分には弱いからだ。モノガミーとは一夫一婦制、1対1の結婚形態のこと。自分はポリアモリー(複数恋愛、お互いに複数の相手とつきあう状態)ではない。面倒臭いから一時に相手は一人いれば十分だ。浮気心が動いたことがないわけではないが、なかなか機会もないし、色々考えると面倒になって結局しない。平行して二人以上とつきあったことがないわけではないが、一点集中タイプの自分はその状態を長くは維持できない。でもそれはモノガミーだからではない。単に無精だからだ。

 だから不倫だ浮気だと怒っている人を見るとキョトンとする。自分だって交際相手にそう言って責めたことがないわけではないのだが、それは言わば戦略的な何かで本気とも言えない。相手の弱みをつけば勝てる、という戦術に過ぎない。もちろん他の相手と関係されて不快じゃないわけでもない。独占欲はあまりないが、あれと一緒かよと考えるとプライドが傷つくこともある。だからポリアモリーでもない。過去につきあった相手がポリアモリーだったこともあったが、それ自体はあまり気にしたことがない。そいつはそういう人間だと思っていたし、それで自分に不利益がなければどうでも良い。

 こんな人間だから結婚がどれほど良いものかなど永久に理解できない。他人にあまり興味がないのは発達障害の故かも知れないが、実理(名前じゃなくて)しか気にならない。もちろん情緒的なものが必用ないわけではない。尊敬と友愛、十分な理解の上で対等な関係を欲する。しかし自分はどこか、一人の人間にすべてを要求するのは無理だと思っているところがある。だから友達とセックス相手は分けて考えてきたし、それぞれに要求するものもきっちり区別してきた。

 結婚の価値がいまいちわからない理由は、純粋な関係を保つのに邪魔だと思うからだ。結婚していなければ関係を継続できないほど弱い結びつきなら別れたら良いと思っている。ロマンティックなのかも知れないが、何の縛りもなく一緒にいるという状態を評価するし憧れもする。結婚は契約であり生活だ。契約も生活もきっと嫌いなんだと思う。

 

 上で説明してない用語が1つある。クィアだ。これは説明が非常に難しい。自分も十分に把握しているわけではない。元々は英語圏で男性同性愛者を罵る言葉だった。英語の意味は「奇妙な・不思議な・風変わりな」で、言うほど罵倒ではないように見えるが、差別語として強い罵りである。使用自粛されてきたが、これを逆手にとって同性愛者側がクィア理論というのを組み上げたらしい。それ以来、この言葉は再解釈され、当事者が使うようになった。クィア・スタディーズという知識があるらしい等々。が、これも一部の話で、当事者でもいまだに嫌う人のいる表現だから、部外者は迂闊に使ってはいけない。

  しかしLGBTQとして使われる場合はQ=クィアとなる。LGBTに当てはまらない、その他すべての、という意味らしい。昨今ではクィア=同性愛者ではなくクィア性を持つ者とされているようだが、ここまで来ると自分には理解が追いつかない。言えることは自分はクィアを自認していないということだけだ。が、他人から見たらクィアに入れられてしまう、というのも認めざるを得ない。

 ついでだから書いておくと、性的志向に関する差別語・侮蔑語はクィア以外にもホモ、レズ、オカマなどがある。オカマは最初から侮蔑的に作られた言葉だが(だからオカマさんなどと敬称をつけてでも使ってはいけない)、ホモ・レズは短縮することで侮蔑的なニュアンスになる。というのも使用例がそうなっているからだ。英語圏では絶対使ってはいけないというくらいの禁忌であり、日本語でも十分失礼なので避けたほうが良い。これらの意味の強さをどうしたら表現できるかと考えると、どうしても差別語を出さないと説明できないので躊躇されるが、日本で言えばシナチョンくらいだと思うと間違いない。

 じゃあ何て呼べばいいんだよ、と思われるだろう。省略しなければ問題はない。ホモセクシャルレズビアンには侮蔑的なニュアンスはない。オカマは通常、女性の服装をしたり仕草などで女性的な雰囲気を漂わす人々を指すことが多い。現在はオネエという表現が一般化している。が、トランス女性に向かってオネエと言ってはいけない。彼女らは女性であってオネエではないからだ。同じくトランス男性はオナベではない。女性が性的対象の人も多いが(そっちのほうが多いのかもしれない)当然レズビアンではない。

 

 まとまりがないな、と思いつつ、長くなったからこの辺で。次は一般論的なことを書きたいと思うけど、まだ当分、自分の話が続きそうな予感もする。