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【本】発達障害という希望(2) ― 多動スペクトラムと自閉症スペクトラム

 『発達障害という希望』(石川憲彦・高岡健著、雲母書房)の中で、「多動スペクラム」という言葉が出て来る。高岡健医師の造語らしい。ADHDの特徴とされるものを自閉症スペクトラムと同じような「連続帯」での濃淡として捉える、という考えだ。(同書P47)

 

◎多動スペクトラムはMOAT

 

 ADHDの特徴とは「MOAT」という4文字の頭文字で表される

 ・Movement(動作)

 ・Organization(段取り)

 ・Attention(注意)

 ・Talkative(しゃべること)

で、「動きが多い」「段取りが悪い」「注意集中の持続時間が短い」「おしゃべり」の4つがどれくらい強いかでスペクトラムをはかるという考えのようだ。通常の指標とされる「不注意・多動性・衝動性」から衝動性を外している。片岡医師によると、MOATの傾向が強い人が全員、衝動的とは限らないから、だそうだ。

 

 僕の二番目の姉は多動スペクトラムの人だと思う。僕と長女は自閉症スペクトラムなのだが、二番目の姉だけは子供の頃からタイプが違う。活発で、動きが多く、友達が多く、段取りが悪く、注意力が散漫だった。話にまとまりがなく、何の話をしているか分からない。だから部屋は散らかっていて、何をするにも手際が悪い。

 僕も段取りはそんなに良くないし、部屋も散らかっているが、下の姉のそれは度を超している。ちなみに長女は神経質なくらいきれい好きで、部屋を散らかしていた事はない。しかし、もちろん下の姉にしても「障害」というレベルではない。調理はできるし、生活に支障はない。

 「動きの多さ」で特徴的だと感じるのは、スーパーに行った時だ。僕はスーパーに行くと、(買う物が特定されていなければ)端から回る。彼女は真っ先に、買いたい物の場所に移動する。買う物を思い出しては、その場所に移動する。つまり動線が滅茶苦茶なのだ。だから同じ物を買うのでも歩く距離が多い、となる。見ていてなかなか飽きない。

 

◎「障害」の文字は要らない

 

 片岡医師の考えによると、スペクトラムは1つの線上にすべての人が収まるから、障害とつける必要がないのだそうだ。だから、多動スペクトラム障害ではなく「多動スペクトラム」だけ、自閉症スペクトラム障害ではなく「自閉症スペクトラム」とだけ呼ぶのだそうだ。

 この2つの基準、つまり二次元のグラフのどこかにすべての人が収まる、という考えだろう。多動も自閉症も強い人もいれば、多動も自閉症も弱い人もいる。どちらの軸も、どこかの点から先が実質的に「障害」と呼ばれる領域になる。それは注意力不全であったり、コミュニケーション不全であったり。多動がなくて注意力不全だけならADD(注意欠陥)となる。

 「障害の文字は要らない」と言っても、配慮が不必要という意味ではない。本人の状況に応じた配慮を必要とする。これを高岡医師は「骨折によって全く歩けなくなれば、身体障害者ではなくても車いすを利用することがある」と説明する。状況に応じて支援するのであって、それが障害かどうかを問う必要はない、との主張だ。

 この考えには賛否があるだろうと思う。障害と呼ばれたい人もいれば、呼ばれたくない人もいる。障害とされる事で安心する人もいれば、自尊心を傷つけられる人もいる。しかし、知的障害の例を見れば分かるように、障害か障害じゃないかを白黒の2つに分けて障害だから支援しましょうとすると、障害に入れて貰えなかったグレーゾーン人達は健常として何の支援も受けられず、能力が低い事を罵られながら働かなければいけなくなる。人の能力は白黒の2つに分けられるものではない、という考えには賛同できる。

 

◎3つの学習障害

 

 一方で、学習障害についてはスペクトラムの考えを採らないらしい。理由は、上と逆で「できるかできないか」の白黒の話で済むから。ただ、算数障害についてはジャンルの問題があるので単純に「計算ができない障害」とは言い切れない気はする。

 学習障害は読字障害・書字障害・算数障害の3つがある。読字と書字が同時にあれば識字障害になる。読むことはできても書くことができない人、書くことはできても読むことができない人を含め識字障害とすれば、それと算数障害の2つが学習障害という事になる。

 実際には僕のように漢字名が覚えられない人や、発達の人によくいる、空間認識能力が低い人もいる。空間認識能力が低いと図形が苦手とか、立体が分からないとかが起きる。日本語は問題がないが、アルファベットがどうしても覚えられない人もいる。しかし、これらは学習障害には入れないらしい。

 読字障害はディスレクシア、書字障害はディスグラフィア、算数障害はディスカリキュアと呼ぶ。

 

ディスレクシア(読字障害)
 似た文字が区別できない。文章を読んでいるとどこを読んでいるのか分からなくなる。字を読むと頭痛がする。文章を逆さに読む。読んでも内容を理解することができない、など。

・ディスグラフィア(書字障害)

 黒板の文字を書き写すことが難しい。鏡字を書く。作文が書けない。句読点が理解できない、など。

ディスカリキュア(算数障害)
 数字や記号を理解したり認識したりできない。簡単な計算が出来ない。(指を使うとできる場合がある。)繰り上がりや繰り下がりが分からない。数の大小の理解ができない、など。

 

自閉症スペクトラムの問題点

 

 興味深かったのは、以前にもチラチラと触れている自閉症(カナー型)とアスペルガー型の違いを無視し、一括りにして自閉症スペクトラムとしたという話。アスペルガーハンス・アスペルガーというオーストリアの小児科医が提唱したものを、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが発掘し解釈したもの。カナー型はレオ・カナーという児童精神科医が定義したもの。カナーは自閉症を病気と認識し、アスペルガーは発達の1つの形と捉えていた。

 つまり、切り口のまるで違う定義を1つに結合させてしまった。ローナ・ウィングは高機能自閉症アスペルガー症候群を区別しない立場だと以前にも書いた通りだ。一方でアスペルガー自身はアスペルガー症候群を人格の面から見ていた、という話も他で読んだ。言うまでもなく、自閉症は人格の問題ではない。

 

 僕自身もこの用語の統合には思うところがある。例えば知的障害発達障害の1つだから、知的障害の人が発達障害と名乗ったとしても何ら問題はないのだが、発達障害とあえて言う場合は「知的障害がない」を補填して解釈してしまう。何故なら知的障害の人は通常、知的障害と名乗るからだ。それを、知的障害はイメージが悪いからだろう、発達障害ですと名乗る人が出てきた。

 自閉症と名乗れば通常は「知的障害を伴った」を補填して解釈する。しかし「発達障害自閉症」と名乗れば、高機能自閉症のほうだと理解してしまう。他人においそれとは知的障害があるかは聞けない。医者相手でない限り、自己申告なのだ。もちろん、知的障害の人だから概念が分からず間違って使っている可能性もある。しかし、知的障害がないと前提されて言動を見ると、明らかに本人にとって不利な判断をされてしまうのだ。上で書いたように「知的障害に入れて貰えなかったばかりに支援を受けられない人」と同じになる。

 また高機能自閉症アスペルガー症候群もかなり違う「状態」の場合が多い。まず、アスペルガー症候群の人には「言語の遅れ」がない。独特のアスペルガー言葉をしゃべろうとも、一般的な言葉が理解できない、という事は起きない。が、高機能自閉症の人には「言語の遅れ」がある。言語でコミュニケーションを取る以上、この違いは大きいのだ。

 

 自閉症スペクトラムとは、「臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心・やり方・ペースの維持を最優先させたいという本能的志向が強いこと」を特徴とする発達障害の一種、と説明される。全然ピンと来ない。これでは「ただの性格」と思われても仕方がない言い方だ。「融通が利かない」と言えばイメージできるものがあるが、実際には一般的に言う「融通の利かない人」とはちょっと違っている。

 LGBTという言葉があるが、今では+QAだけではなく12種類あるとも言われるSOGI(性的思考と性自認)。パンセクシャルやデミセクシャル、フルィドなど多彩だ。煩雑に感じるかも知れないが、本人が自分の状態を説明するのに便利なように細分化され、それを表す言葉がどんどん作られている。一方で、発達障害の用語は統合されていく。おかしなものだ。

 元アスペルガーの人は「言語の遅れと知的障害のない自閉症スペクトラムの広汎性発達障害」と自己紹介しなければいけないのだろうか。アスペルガーにはこれらの意味がすべて含まれていた。アスペルガーアスペルガーなのだと言いたい。