言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

性別違和について

 日本はFTMの割合が高いという指摘を見た。理由は(その方が書いていたこと)女性を好きな女性は男性にならなければいけないと思い込むからだそうだ。ジェンダーアイデンティティーとセクシャルオリエンテーションはまったくの別物なのに、それが連結されている日本の状況は男性同性愛者のイメージがオネエである事が象徴している。

 自分が考える理由として、女性の行動規範が異常に厳しい事が違和感を覚えやすい原因ではないか。日本が特別厳しいと感じない人も多いかも知れないが、偏見・ステレオタイプ・決めつけ・思い込みの多さは欧米とは比較にならないのではないだろうか。アジアは全体にそうかも知れないが、全体主義同調圧力・横並びが強い日本では個人が感じる圧力は強まる。
 女性はこういうものという偏見が強ければ、それに自分を当てはめられない人は性別違和を覚える。もっとおおらかな性別規範なら違和感を感じない人まで違和感に追い込まれる。そういう空気が日本にはあるのではないか。

 

 某所で女性物の服を着たいという男性に寄せられたコメントの大半は賛同だったが、「変態と見られて当然」「女性物はおかしい」「性同一性障害か」など書く人もいて、見ていて非常に苦しくなった。あまりに苦しいので見続けることが困難なほどだ。それほどまでに性別規範が厳しい。(しかし当の本人はまるで意に介していないかのように、職場に着て行きますと元気いっぱいに書いていた。人が本当にやりたい事を止めることは誰にも出来ない。)

 逆に言えばこれは、女性がスカートをはかない、化粧をしない、女らしくしないことへの否定でもあるのだ。会社で「女なら化粧をしろ」「女ならきれいな格好をして職場の華となれ」とはさすがに昨今言う人がいないだろうと思っていたが、そうでもないのかも知れない。社会規範としての性別が日本では非常に強い。その保守性にうんざりするし、心が折れる感じを受ける。自由に生きることが否定される。保守的社会とはそういうもの。キリスト教国の性別規範も厳しいとは思うのだが、日本は独特の保守性・厳しさがあるように感じる。

 

 自分は男だと思っているが、男であろう・男でありたいと思ってそうなったのではないのではないか、と感じる時がある。あらゆる機会を捉えて女として足りてない、不完全である、出来損ないであると思い知らされた。それが日本の性別規範の厳しさなのだ。人形遊びが好きじゃない。スカートが好きじゃない。赤い服が好きじゃない。それは「おかしなこと」とされてきた。だから自分は「女じゃない」と感じて来たし、何かがいびつだと感じてきた。

 一方で、車のオモチャが大好きだったかと言えば、そんなことはない。子供の頃のオモチャといえばピストル(銀球鉄砲)、塩ビの刀、怪獣フィギュア、ぬいぐるみだった。もう少し大きくなるとプラモデルを作るようになる。それでも車はそんなに興味がなくて、怪獣とか鯉とか船とかを作っていた。鯉と船は池に沈めてしまった。(浮くと思っていたのだ。子供は馬鹿だね。)

 車が好きじゃなかったのは、音が苦手だったからだ。大型車両が横を通り過ぎるとき、怖くて道沿いの民家の庭に逃げ込んではやり過ごしていた。今になって思えば怖いのじゃなく、大きな音が嫌だったのだ。しかも車酔いが酷くて、乗れば必ずのようにゲロを吐いた。車を好きになる要素は皆無だった。

 

 しかし、自分が単独で部屋にいるとき、自分の性別などないに等しい。肉体はあるし、それが示す性別は生物学的にハッキリとあるが、それに苦しさは感じない。(胸は邪魔で仕方がないし、チンコがないのも何だか悔しい気はするのだが。)性別が問題になるのは他者がいるとき。相手が自分をどのように見てどのように扱うか。それが問題となる。つまり性別は極めて社会的なものだと言える。

 生物学的性別は個人的なものだが、もう1つ社会的性別というものがある。それは社会から要請される役割分担だったり、服飾や好みだったり、言葉遣いや仕草だったりする。それらはすべて文化的なもので、文化的故に獲得されたものだ。自分にとって性別とは極めて社会的なものであり、それ故に規範に満ちている。もしそれがなければ、自分の性別などどっちでも良いのだ。