言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

視線恐怖について

 子供の頃から人と視線を合わせられない。人と視線を合わせないで話すのは失礼という社会の押しつけがあるから無理してチラチラと合わせるのだが、相手が自分をガン見していると怖くて固まる。高じて他人の視線が怖くなり、症状が酷いときは部屋の中で毛布を被っていることもあった。

 自分の視線恐怖は本態性振戦と連結されていて、これは小学校時代のイジメと関係がある。小6のとき、クラス全員からイジメられていた子がいたのだが(当時2クラスで、どちらのクラスにも全員からイジメられる子供が1人ずついた)、その子が本態性振戦だった。イジメの原因はその子が嘘つきだからだが、かなり酷い振戦を持っていて、それをからかった子が一部いた。
 自分の本態性振戦は父親からの遺伝だろうと思うのだが(父親の振戦を子供の頃はアル中の影響・中気だと思っていた)、自分も少し手が震えるので一緒にされたら嫌だなと怖くなった。それ以来、振戦を他人に見られることが恐怖になった。このイジメ自体を酷いとは言わないし、そこには子供なりの事情があったのだと言いたい。イジメと言ったって無視だけで暴力は振るっていない。言葉の暴力はあっただろうが、子供なんて無神経で馬鹿な生き物だから、それぞれが暴言を投げつけられて傷ついていただろう。自分だってそれはあった。

 しかし振戦に関する恐怖は強く、向精神薬の副作用で振戦が再び悪化したとき外出できなくなった。社会不安障害という診断がついたが、本来的なSADとはかなり違う。強度の視線恐怖と軽度の対人恐怖。あのイジメさえなければこんなことにはならなかったとは思わない。おそらくどこかでは躓いて、同じ結果になっていたと思う。ただ、あれは強烈なトリガーとして埋め込まれてしまい、体調によって振戦が出ると今でも発動する。振戦が出ないように体調管理をするのが唯一の対処法だ。 自分は発達障害の確定診断は受けていないが、定型標準の社会でその基準を押しつけて育てると、こんな要らぬ障害を作り出してしまう。そうかといって、やたらに障害者扱いして本人の自尊心を削ってしまうのも問題がある。自分は健常の子供として育てられて良かったと思う部分もあるし、標準を押しつけられて苦しかった部分もある。どっちが良かったかは分からないが、自尊心的には健常で良かったのだろう。

 人が生きるのに最も重要なものは自尊心だ。それがなければ肉体は生きていても精神が死ぬ。どんな状況にある人でも、どんな障害を持つ人でも自尊心は空気と同じくらい大切なのだ。だから相手を潰す目的でない限り、可哀想だの哀れだの言わないで欲しい。不幸とか悲惨とかは本人が決めることで、見ている人が感想として持つことはあるが、それはそれぞれの主観であり相対的なものに過ぎないのだ。