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言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

ミサンドリーについて

 昨今ネットを中心に男性に憎悪をぶつける女性が増えている。性的消費がとか、性的搾取がといったフェミニズムの用語を多用するのでフェミニストと思われがちだが、彼女らはフェミニストではない。非常に厳格な性差別主義者だ。

 フェミニストではなく性差別主義者だという理由は、フェミニズムは男女同権・不公平の是正を目指す思想だが、彼女らは決してそこを目指さないからだ。女性の権利確保・女性解放を叫んでいるように見えて、動機は男性嫌悪。だから男を全部去勢しろという話になる。

 個々人の男性嫌悪については仕方がないのだが、それを動機に社会的な問題に言論するととんでもなくおかしな言説になってしまう。誰かの権利・人権を度外視し、一定の属性の人権を侵害・否定する言説は、差別主義者のそれである。人種差別主義も性差別主義も障害者差別も皆、そのように言説している。

 男を全部虚勢した場合、困るのは女も一緒だ。レズビアンはともかく、異性愛者は非常に困る。だから男性排除主義のような彼女らの言説は数多い異性愛者の女性をも攻撃対象にしてしまっている。

 

 人権はゼロサムゲームではない。人種差別主義者も排外主義者も、同性婚否定論者も夫婦同姓論者それを忘れている。他人の権利が認められても、自分の持っている権利は少しも損なわれないのだ。

 女性管理職が少ない日本の現状を変えるため一定期間、新たに任命する半分を女性にしなければならない、という決まりを作っても良いと自分は思っている。これを5年10年やって女性管理職がある程度増えたら、「性別で出世に差別を作ってはいけない」に戻す。管理職だけではなく、裁判所判事や政治家など社会の上層と呼ばれる役職でこれをやれば、男性が権力を独占する社会を変えられる。

 しかし、こうしたからと言って男性の権利が損なわれるわけではない。個別には自分が出世できるタイミングだったのに女にポストを取られた、といった不満はあろうが、本当言えば能力が足りなかっただけだ。男性との競争に半分以上勝っていれば男の中で上位に入れるのだから出世はできる。「女のせいで」などと言う人がいれば負け惜しみである。

 考えてみて欲しい。完全に能力で決まる大学受験で、女を合格させたから俺が落ちたんだなんて言う男がいたら馬鹿である。女子大というのはあるが男子大はない。男子の入学を制限している四大は存在しない。高校と違って合格者の男女比も決められていない。受験の成績順で合否を決めている。だから上位の大学ほど女子学生の比率は低い。 もし「女を東大に合格させるから俺が落ちたんだ」なんて言う男がいれば全東大生から馬鹿にされるだろう。「女より良い点数取ればいいんじゃない?」と言われて終わりだ。試験の点数だけで勝ち残ったのが東大生だ。これは女子大を除くどこの大学でも同じだ。

 

 ミサンドリーフェミニスト(本当はフェミではないが)は大きな勘違いをしている。彼女等を抑圧しているのは男性ではない。男性中心主義の社会なのだ。男性中心主義の社会の上層部にいるのは男性だが、それを支持する沢山の女性がいる。性差別を肯定し受け入れる沢山の女性がいるから成り立っている。女性が一人残らず一斉に「No!」と言ったら維持できない。

 子供の頃から自分に性差を押しつけてきたのは男だったのかと言えば、むしろ年長の女性が多かった。小学校の女性教師、中学・高校の家庭科教師、会社のお局様や女性の先輩社員、近所のおばちゃん。思い浮かぶ顔は殆ど女性だ。中にはおっさんも勿論いるが、数にしたら圧倒的に女性が多い。彼女等がこの性差別社会を維持している。自分がそうありたいを他人に押しつけ、社会規範を作り、圧力をかける。男を思い上がらせ、いい気にさせて来たのはそういった女性達の、男尊女卑とも言い切れない性別役割分担思想なのだ。

 何故こういうことになるのかと言えば、性差別の激しい日本では、逆に男は女のことにあまり口出しできない。勘違いした旧式な価値観の人は勿論いるが、自分の彼女でもない人にとやかくは言いにくい。「女はこういうもの」「女ならこうすべき」を日常的に押しつけてくるのはたいてい女なのだ。彼女等を名誉男性などと呼ぶのは間違いだ。非対称性を好む立派な女性である。名誉男性などという言葉は問題の本質を分かりにくくするだけで何の役にも立たない。

 

 このミサンドリー(男性嫌悪)が何から生じているのかと考えてみる。セクハラや性暴力はもちろんあるが、子供の頃から繰り返し受け続ける男子からの「ブス」という罵りは女子にとって非常にきつい。ルッキズム(容姿至上主義)として最近は激しく攻撃されているが、容姿のことだけではない。「素直じゃない」「可愛くない」「女の子らしくない」「生意気だ」といった具合に人格の多岐に渡っている。当然これを言うのは同年代の男子に限ったことではない。女子も言うし大人も言う。こうやって細かく細かく小さな攻撃を浴び続けるうちに人格を否定された気持ちになり、自信も失うし恨みも抱く。性別の問題だけではないのだが、女子は男子より規制が多い。

 もし男子が「生意気」「可愛くない」「素直じゃない」「男の子らしくない」と言われたとして、どれほど人格を傷つけられるだろうか。男の子は生意気なものだし、可愛いと言われて喜んだりしない。素直なことが良いとかそれを目指す男の子しか「素直じゃない」にショックを受けない。「男の子らしくない」はショックな子もいるだろうが、これは言い替えると「女みたい」であって性差別。女を劣った存在として見下さない子は気にしないかも知れない。

 人から否定的に言われるのは良い気持ちがしない。それは男女同じだが、上の言葉から受ける否定の強さを考えてみて欲しい。女子が受ける攻撃のほうが遙かに多いのだ。男子がきついのは能力の低さ。サッカーや野球が下手だとか、成績が悪いとか、面白くないとか、弱虫とか。能力で競い合う文化を強く持たない女子は、こういった否定はあまり受けない。女子ホモソーシャルでは、能力で相手を否定する言説は逆に嫌われる。男子が受ける否定の中で性別に関わるのは「男らしくない・女みたい・弱虫」だけである。しかも、それはどれも女子には無効だ。

 

 勿論、男子が生きやすいということは全然ない。男子同士のイジメは暴力的だし、能力でしか評価されないから自信をなくす場面は多いだろう。が、女子は「見た目と媚び」でこれをやられるのだ。「素直じゃない」と「可愛くない」は意味が全然違うのだが、女子の場合はしばしば同義で使われる。「可愛くない」は容姿のことだけじゃなく、服装・態度に及ぶ。この言葉は「媚びが足りない」と言い替えることが可能だ。女は媚びるもの。そういう偏見がある。

 自分はこんなだから、(ASということもあって)媚びることは一切なかった。「素直じゃない」「可愛くない」「生意気」は雨のように降り注ぐ自分への評価だったが、小学校時代それを気にしたことは一度もない。素直なことに価値を見いださないし、可愛いと思われたら気持ち悪い。生意気は男子の勲章だ。そう言われるたびに「自分は(男として)イケてる」と自信を深めた。素直で可愛い男なんて気持ち悪いだけだ。なんだそれ、という感じである。

 しかしこれが女子に向けられたならば、とてもきつい否定になる。その心情は自分にも想像できる。相手が自分を女子と見なした上でそれを投げつけてくるのだから、社会的評価としては否定なのだ。これが理解できるようになるのは中学以降だったが、「ウゼえ」「クソが」など内心舌打ちしたものだった。

 

 こうやって「女性としての存在価値」を否定されながら育った女性達が男性嫌悪になるのではないか。こう書くと「ミサンドリーはブス」という短絡した結論が出てしまうのだが、そうではなくて、それが心に刺さった人達だ。実際にブスかどうかは関係ない。容姿だけが問題になるのではない。男に対する「媚び」が足りない人もそうだ。容姿はまあまあでも、「媚び」が足りないと「ブス」という罵倒が飛んでくる。その罵倒から逃れられるのは、「誰が見ても超絶に可愛い子・美人」だけだ。

 ここに高校くらいから性的な興味関心がプラスされる。高校生ではまだ照れが強い人も多いだろうが(自分もそうだった)、セックスに興味も持つし実行する人もチラホラ出てくる。ミサンドリーフェミニストはセックスフォビア(性欲嫌悪症)という指摘もあるが、それは本当だろう。自分に性欲があれば男の性欲もある程度は肯定できるし、それを利用もする。「自分に性的関心を向けられるのが苦痛」な人達はセックスフォビアとなり、ミサンドリーを持つに至る。

 注意が必要なのは、ミサンドリー=セックスフォビアではない点。ミサンドリストの中に一定のセックスフォビアがいる、という、ミサンドリー∋セックスフォビアの集合関係だ。ミサンドリスト全員がセックスフォビアを強く持っているわけではない。その嫌悪の強さも個人差があるから、無自覚な人もいる。無自覚な人々はロマンティックラブ・イデオロギーを振り回す場合がある。性行為に真面目に正面から対峙する勇気がなく、愛だの恋だのにすり替えてしまうのだ。

 

 そして、この人達は自分のように「敵は男じゃなくて女です」と言う者がいれば、「女性を分断し対立させようとする男の手先」と見なす。いや、そうじゃなくて、本当に敵は「男性優位社会に同調し支持し、それを下支えしている女性達」なんですよ。気づいて下さい。今の時代、男なんて女の同意と支持がなかったら手も足も出せないんですから。 

 男の手先というより、自分は男なので男のポジショントークをしているように見える時もあるだろうが、女として扱われ女の位置で世の中を見てきたからこそ言える実感も色々ある。見たものを「女のポジショントーク」で語らないだけだ。自分には男性(純男)への敵意もあるし、異性愛者への軽い嫌悪もある。自分が語っているのは、「男女両方の性別を股にかけ、異性愛と同性愛の両方の視点を持って」見える景色なのだ。