言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

アスペルガーの3つのタイプ

 アスペルガーには3つのタイプがあるとされる。周囲に関心が薄くコミュニケーションが取りにくい「孤立型」、自分から働きかけることがなく受け身の「受動型」、活動的で自分からの働きかけが盛ん過ぎる「積極奇異型」。発達段階に応じて孤立型→受動型→積極奇異型と移行することが多いと説明されている。
 しかし「他人から見て奇妙に見える」ほどの積極性が最終段階というのでもない。行き過ぎた行動を慎むようになったり、一見孤立型のように周囲に対する関心が低くなることもある。幼少期の孤立型は興味関心の狭さ・外界認識能力の低さから起きるが、大人だと自己完結型とでも言うのか、他者をあまり求めなくなる。
 元々アスペルガーの人は他人がいると疲れてしまうから、独りで過ごす時間を確保しようとする。そうは言っても退屈はするから、誰かを捕まえて話したいことをガーっと話したりする。エネルギーの発散だ。この行動が積極奇異と呼ばれるのだが、24時間365日、積極奇異かと言えばそういうわけではない。
 また、必ずしも3つのうちのどれかの特徴だけを持っているわけではなく混合もあるから、どの行動パターンが強く出ているのかを見極めて対処する必要がある。受動型はもっともストレスが強いとされる。

 4つ目のタイプに「大仰型」を入れる人もいる。言動がドラマティックで大仰だからだそうだ。別に演技的だというのではなく、表現が大袈裟だったり、詩的な表現を好んだりするかららしい。自分にはこの傾向がかなりあるが、これを先の3つと同等の別のタイプとして切り分ける必然性はないように思う。

 

 成長して再び孤立傾向を示すアスペルガーは、シゾイド・パーソナリティー障害に似た特徴を持つかも知れない。

 以下、シゾイド・パーソナリティー障害についての引用。

 

 「A. 社会的関係からの離脱、対人関係場面での情動表現の範囲の限定などの広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。
 以下のうち4つ(またはそれ以上)によって示される。

 ①家族の一員であることを含めて、親密な関係をもちたいとは思わない、またはそれを楽しいと感じない
 ②ほとんどいつも孤立した行動を選択する
 ③他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない
 ④喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない
 ⑤第一度親族以外には、親しい友人または信頼できる友人がいない
 ⑥他人の賞賛や批判に対して無関心に見える
 ⑦情動的冷淡さ、離脱、または平板な感情状態をしめす」

 

  大人の孤立型で出るのは①、②、③、⑥、⑦あたりか。元々持っている傾向でもあるし、問題行動が収まった後の完成形でもある。

 パーソナリティー障害と言われても、これのどこが悪いのかまったく分からない。が、シゾイドとはスキゾイド(統合失調)の意味だ。人に積極的に関わって喜びに満ちた人生を歩むのが「普通」という決めつけ・思い込み・偏見があるからこんな定義になる。幸福の形など人によって様々。余計なお世話だ。

 

 自分も成長過程に応じた3つのタイプを経過している。育てた人によると大人しい、殆ど泣かない、手のかからない赤ん坊だったそうだ。仰向けに寝たままボーッと天井を見ていたらしい。親の都合で言えば「手のかからない良い子」だが、孤立型の「周囲に関心がない」状態だとすれば「赤ん坊らしくない不気味な子供」である。幸い、自分を育てた人は前者で解釈していたらしい。可愛がって頂いた。(母親の感想は後者だったらしいが。)
 次に受動型期に入り、自分からはしゃべらない、活動的でない大人しい子供だったらしい。言語の遅れがあったわけでもなく、相手が言うことは通じるが自分からの働きかけが少ない。それでも近所に同じ年頃の子供がいたため、遊びに誘われることも多く、結構一緒に遊んだ記憶がある。幼稚園ではそこそこ「悪いことをする子供」で、先生にきつく叱られた記憶もある。幼稚園では文字を覚えて、絵本を沢山読んだ。
 積極奇異型に移行した時期がいつかは分からないのだが、一番上の姉の話では「突然、ものすごくしゃべるようになった」らしい。しゃべり出すと止まらないから、辟易しながら付き合っていたようだ。さらに母親の話によると「屁理屈をよくこねた」らしい。ここでの屁理屈とは屁のような理屈ではない。うちの地元では理屈のことを指す。(論理性軽視の大嫌いな言葉だ。)母親からは子供時代から大人になるまで「理屈っぽい」と嫌がられた。
 やたらに大人に質問したり、自分の話したいことを一方的に話し続けたり、自己主張が強すぎて頑固だったりするのは子供の発達過程で普通にある。時期が大きくずれているからおかしく感じられるのかも知れないし、そのやり方が少し変なのかも知れない。

 

 発達障害は遺伝性だとすると我が家の場合、父親もたいがい変人だったが母親は間違いなく発達が遅れていた。極端に子供っぽい感情表現とか、他人の情緒をまったく考えない言動が際だっていた。自分が高校生になってからは「我が家の唯一の子供」として家族全員から大目に見られ、扱われた。それがまた馬鹿にされてるようだと言っては怒る。いや、馬鹿にしてますとも。大人としての分別も判断もできない人間を、馬鹿にしないわけがない。
 母親は勉強ができたのがプライドで、元教師が自慢の種。しかし情操という点では本当に子供のようで、いつも夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。父親のやってることもそれなりに酷いのだが、子供の目から見ても母親が怒り過ぎる。他人の失敗を寛容できない。他人に完全さを容赦なく求める。子供が病気をすると心配するのじゃなく叱りつける。あげくに犬や猫にもマジギレ。姉が子供を産んだら、赤ん坊にもマジギレしていた。普通に「ヤバい人」だった。
 自分の子供が子供とは言えない年齢になったとき、母親は子育てから解放された。家が商売で、両親が忙しかったことから、我々子供は放任されていて自立も早かった。親に朝起こして貰ったのは小学校中学年まで。中学からは弁当もなかった。必用なら自分で用意する。洗濯も自分でするし、夕食の準備もしろと言われればする。むしろ店の手伝いも含め、よく働かされた。それでも母親は「子供の面倒を見なければいけない」というプレッシャーがあったのだろう。子育てから解放されて、余計に子供っぽくなった。それを家族は「仕方がない」と容赦していた。姉達などは「可愛い」と言っていた。誰も彼女に「大人の分別」を求めないし、「親としての振るまい」も求めなかった。
 こんな具合だから自分は親に甘えたことがない。それを不満に思ったこともない。そもそも親に愛着はまったく持てなかったし、何の期待もなかった。これはかなり幸いだった。求めることがなければ失望もない。欲求不満にもならない。暖かい家庭ではないが自由があった。自分は満足し、家を出て独り暮らしをすることばかり考えていた。姉達とは仲が良かったし親しい友達もいたが、独りで過ごす時間も長く単独行動が多かった。普通と言えば普通。男の子だしね。

 

 3つのタイプに話を戻すと、この行動パターンは今でも出る。調子が落ちているときは幼児孤立型のように周囲への関心が薄まり、反応も薄い。関わり合いたくない人や苦手なタイプを前にすると受動型になりストレスを溜め込む。好きな相手の前や、調子が上がり過ぎて活動的になると積極奇異型になり、いらんことをして迷惑をかけたり、マシンガントークを長時間続ける。落ち着いていて内省的な時は成人孤立型になり、よく考えて落ち着いて行動できるし、判断もそこそこ的確になる。しかし何か突発的な出来事があると「退行」して、判断にも行動にも問題が出たり、癇癪を含めフリーズを起こす。

 つまり3タイプの有様というのは奇異なものではなく、程度の差こそあれ誰にでもあるのだ。それが極端で過剰だから障害と呼ばれる。アスペルガーは宇宙人ではない、と自分が主張する理由はこれだ。我々は「異物」ではなく、人間が普通に持っている特徴を、ただ物凄く極端に過剰に、コントロールしてないかのように放出しているだけなのだ。