言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

【本】発達障害という希望(2) ― 多動スペクトラムと自閉症スペクトラム

 『発達障害という希望』(石川憲彦・高岡健著、雲母書房)の中で、「多動スペクラム」という言葉が出て来る。高岡健医師の造語らしい。ADHDの特徴とされるものを自閉症スペクトラムと同じような「連続帯」での濃淡として捉える、という考えだ。(同書P47)

 

◎多動スペクトラムはMOAT

 

 ADHDの特徴とは「MOAT」という4文字の頭文字で表される

 ・Movement(動作)

 ・Organization(段取り)

 ・Attention(注意)

 ・Talkative(しゃべること)

で、「動きが多い」「段取りが悪い」「注意集中の持続時間が短い」「おしゃべり」の4つがどれくらい強いかでスペクトラムをはかるという考えのようだ。通常の指標とされる「不注意・多動性・衝動性」から衝動性を外している。片岡医師によると、MOATの傾向が強い人が全員、衝動的とは限らないから、だそうだ。

 

 僕の二番目の姉は多動スペクトラムの人だと思う。僕と長女は自閉症スペクトラムなのだが、二番目の姉だけは子供の頃からタイプが違う。活発で、動きが多く、友達が多く、段取りが悪く、注意力が散漫だった。話にまとまりがなく、何の話をしているか分からない。だから部屋は散らかっていて、何をするにも手際が悪い。

 僕も段取りはそんなに良くないし、部屋も散らかっているが、下の姉のそれは度を超している。ちなみに長女は神経質なくらいきれい好きで、部屋を散らかしていた事はない。しかし、もちろん下の姉にしても「障害」というレベルではない。調理はできるし、生活に支障はない。

 「動きの多さ」で特徴的だと感じるのは、スーパーに行った時だ。僕はスーパーに行くと、(買う物が特定されていなければ)端から回る。彼女は真っ先に、買いたい物の場所に移動する。買う物を思い出しては、その場所に移動する。つまり動線が滅茶苦茶なのだ。だから同じ物を買うのでも歩く距離が多い、となる。見ていてなかなか飽きない。

 

◎「障害」の文字は要らない

 

 片岡医師の考えによると、スペクトラムは1つの線上にすべての人が収まるから、障害とつける必要がないのだそうだ。だから、多動スペクトラム障害ではなく「多動スペクトラム」だけ、自閉症スペクトラム障害ではなく「自閉症スペクトラム」とだけ呼ぶのだそうだ。

 この2つの基準、つまり二次元のグラフのどこかにすべての人が収まる、という考えだろう。多動も自閉症も強い人もいれば、多動も自閉症も弱い人もいる。どちらの軸も、どこかの点から先が実質的に「障害」と呼ばれる領域になる。それは注意力不全であったり、コミュニケーション不全であったり。多動がなくて注意力不全だけならADD(注意欠陥)となる。

 「障害の文字は要らない」と言っても、配慮が不必要という意味ではない。本人の状況に応じた配慮を必要とする。これを高岡医師は「骨折によって全く歩けなくなれば、身体障害者ではなくても車いすを利用することがある」と説明する。状況に応じて支援するのであって、それが障害かどうかを問う必要はない、との主張だ。

 この考えには賛否があるだろうと思う。障害と呼ばれたい人もいれば、呼ばれたくない人もいる。障害とされる事で安心する人もいれば、自尊心を傷つけられる人もいる。しかし、知的障害の例を見れば分かるように、障害か障害じゃないかを白黒の2つに分けて障害だから支援しましょうとすると、障害に入れて貰えなかったグレーゾーン人達は健常として何の支援も受けられず、能力が低い事を罵られながら働かなければいけなくなる。人の能力は白黒の2つに分けられるものではない、という考えには賛同できる。

 

◎3つの学習障害

 

 一方で、学習障害についてはスペクトラムの考えを採らないらしい。理由は、上と逆で「できるかできないか」の白黒の話で済むから。ただ、算数障害についてはジャンルの問題があるので単純に「計算ができない障害」とは言い切れない気はする。

 学習障害は読字障害・書字障害・算数障害の3つがある。読字と書字が同時にあれば識字障害になる。読むことはできても書くことができない人、書くことはできても読むことができない人を含め識字障害とすれば、それと算数障害の2つが学習障害という事になる。

 実際には僕のように漢字名が覚えられない人や、発達の人によくいる、空間認識能力が低い人もいる。空間認識能力が低いと図形が苦手とか、立体が分からないとかが起きる。日本語は問題がないが、アルファベットがどうしても覚えられない人もいる。しかし、これらは学習障害には入れないらしい。

 読字障害はディスレクシア、書字障害はディスグラフィア、算数障害はディスカリキュアと呼ぶ。

 

ディスレクシア(読字障害)
 似た文字が区別できない。文章を読んでいるとどこを読んでいるのか分からなくなる。字を読むと頭痛がする。文章を逆さに読む。読んでも内容を理解することができない、など。

・ディスグラフィア(書字障害)

 黒板の文字を書き写すことが難しい。鏡字を書く。作文が書けない。句読点が理解できない、など。

ディスカリキュア(算数障害)
 数字や記号を理解したり認識したりできない。簡単な計算が出来ない。(指を使うとできる場合がある。)繰り上がりや繰り下がりが分からない。数の大小の理解ができない、など。

 

自閉症スペクトラムの問題点

 

 興味深かったのは、以前にもチラチラと触れている自閉症(カナー型)とアスペルガー型の違いを無視し、一括りにして自閉症スペクトラムとしたという話。アスペルガーハンス・アスペルガーというオーストリアの小児科医が提唱したものを、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが発掘し解釈したもの。カナー型はレオ・カナーという児童精神科医が定義したもの。カナーは自閉症を病気と認識し、アスペルガーは発達の1つの形と捉えていた。

 つまり、切り口のまるで違う定義を1つに結合させてしまった。ローナ・ウィングは高機能自閉症アスペルガー症候群を区別しない立場だと以前にも書いた通りだ。一方でアスペルガー自身はアスペルガー症候群を人格の面から見ていた、という話も他で読んだ。言うまでもなく、自閉症は人格の問題ではない。

 

 僕自身もこの用語の統合には思うところがある。例えば知的障害発達障害の1つだから、知的障害の人が発達障害と名乗ったとしても何ら問題はないのだが、発達障害とあえて言う場合は「知的障害がない」を補填して解釈してしまう。何故なら知的障害の人は通常、知的障害と名乗るからだ。それを、知的障害はイメージが悪いからだろう、発達障害ですと名乗る人が出てきた。

 自閉症と名乗れば通常は「知的障害を伴った」を補填して解釈する。しかし「発達障害自閉症」と名乗れば、高機能自閉症のほうだと理解してしまう。他人においそれとは知的障害があるかは聞けない。医者相手でない限り、自己申告なのだ。もちろん、知的障害の人だから概念が分からず間違って使っている可能性もある。しかし、知的障害がないと前提されて言動を見ると、明らかに本人にとって不利な判断をされてしまうのだ。上で書いたように「知的障害に入れて貰えなかったばかりに支援を受けられない人」と同じになる。

 また高機能自閉症アスペルガー症候群もかなり違う「状態」の場合が多い。まず、アスペルガー症候群の人には「言語の遅れ」がない。独特のアスペルガー言葉をしゃべろうとも、一般的な言葉が理解できない、という事は起きない。が、高機能自閉症の人には「言語の遅れ」がある。言語でコミュニケーションを取る以上、この違いは大きいのだ。

 

 自閉症スペクトラムとは、「臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心・やり方・ペースの維持を最優先させたいという本能的志向が強いこと」を特徴とする発達障害の一種、と説明される。全然ピンと来ない。これでは「ただの性格」と思われても仕方がない言い方だ。「融通が利かない」と言えばイメージできるものがあるが、実際には一般的に言う「融通の利かない人」とはちょっと違っている。

 LGBTという言葉があるが、今では+QAだけではなく12種類あるとも言われるSOGI(性的思考と性自認)。パンセクシャルやデミセクシャル、フルィドなど多彩だ。煩雑に感じるかも知れないが、本人が自分の状態を説明するのに便利なように細分化され、それを表す言葉がどんどん作られている。一方で、発達障害の用語は統合されていく。おかしなものだ。

 元アスペルガーの人は「言語の遅れと知的障害のない自閉症スペクトラムの広汎性発達障害」と自己紹介しなければいけないのだろうか。アスペルガーにはこれらの意味がすべて含まれていた。アスペルガーアスペルガーなのだと言いたい。

【本】発達障害という希望(1) ― アスピーの特徴

 『発達障害という希望』(石川憲彦・高岡健著、雲母書房)のP78に以下のような一覧がある。アスペルガー症候群のポジティブな特徴という感じで、大変勇気づけられた。少々、長いが全文を転載する。

 自分はかなり当てはまる(自惚れかも知れないけど)と思う。

 ちなみに、Aspie(アスピー)とは、英語でアスペルガー症候群を差別的でなく好意的に呼ぶ場合の愛称らしい。(アーバン・ディクショナリーより) 

 

「AttwoodとGrayによるAspieの発見基準」
A.ほぼ以下の形をとる対人的な交流における質的な強み
 1.絶対の忠実性と完璧な信頼性を特徴とする友人関係
 2.性差別的、年齢差別的、文化差別的な偏見がない/「額面価値」で他者を評価できる
 3.人間関係に左右されず、あるいは個人的な信念に忠実に、自分の考えを述べる
 4.相矛盾するエビデンスがあっても自説を追求することができる
 5.次のような聞き手や友人を探し求める。
  ユニークな興味関心事や話題に熱中できる人/微に入り細を穿った考察ができる人/たいした利益はもたらさないかもしれないような話題を話しあうことに時間を費やすことができる人
 6.常に意見や思い込みを挟むことなく話が聞ける
 7.主要な関心は、会話に意味ある貢献をすることにある/社交儀礼的雑談や瑣末な世間話や中身のない浅薄な会話は避けたがる
 8.控えめなユーモアのセンスがあり、誠実で、ポジティブな、真の友人を求める
 
B.以下のうち少なくとも3つによって特徴付けられる社会的言語であるアスペルガー言葉を流暢に話す
 1.真理を探究しようとする決意
 2.暗黙の了解事項のない会話
 3.ハイレベルの語彙と言葉への興味
 4.駄洒落のような、語に基づくユーモアを愛好
 5.たとえの絵による表現が高度
 
C.以下の少なくとも4つによって特徴付けられる認知スキル
 1.全体より細部をとても好む
 2.問題解決の際に独創的で、しばしばユニークな考え方をする
 3.並はずれて優れた記憶力や、しばしば他人は忘れたり無視することを詳細に想起する力。たとえば、名前、日付、予定、ルーチンなど
 4.興味のテーマに関する情報を集めたりカタログ化することに熱中する
 5.粘り強く考える
 6.1つあるいはいくつかのテーマに関して、百科事典的あるいは「CD-ROM」的に博識である
 7.ルーチンを理解し、秩序と正確さの維持を重点的に望む
 8.価値判断・意志決定が明晰で、政治的な、または金銭的な条件ではゆるがない
 
D.付加的特徴としてあり得るもの
 1.特定の感覚経験や感覚刺激に対する鋭い感性:たとえば、聴覚や触覚、視覚、嗅覚に関して
 2.1人でするスポーツやゲームが得意。特に次の項目が関係するもの
 3.持久力や視覚的正確さ。たとえば、ボート漕ぎ、水泳、ボウリング、チェスなど
 4.人を疑わない楽天主義者で、「集団の中では縁の下の力持ち」だが、対人関係が下手なためによく被害者になる
 5.一方では、真の友情の可能性を固く信じている
 6.高校卒業後、大学に進学する可能性が一般人口のそれよりも高い
 7.障害が明瞭な人に対してはとてもよく世話をすることがよくある

(出典:『精神科臨床サービス』第11巻02号(星和書店)) 

 

 当てはまるのはA-6を除くA全部、B全部、C全部、Dー1,5,7。
 A-6を除外したのは、思い込みは除外できるが意見(特に批判的なもの)は差し挟む事が多いのと、話題に興味がないと飽きっぽいから。人の話を聞くのは得意なほうではないが、興味のある話なら長時間聞けるといった具合にムラがある。(これは積極奇異型と受動型が混じっている自分の特徴かも知れない。)
 D-2,3はスポーツがあまり得意ではないから。ただしチェスやオセロ、花札などは結構好きだった。(強いかは別問題として。)ただし勝負にこだわり過ぎるので、ゲームを楽しめないのであまりやらない。
 D-4を除外したのは「よく被害者になる」が当てはまらないから。それ以外はだいたい当てはまる。目立つ位置にいるより参謀的に裏方に回るのが好きだ。(目立つのが嫌いだから。)
 D-6は以前にも書いた通り、受験には失敗したので。(受験、舐めすぎてました。)

 

 それ以外はどれも納得できる内容だが、特に「アスペルガー言葉」というのが興味深かった。感情表現をあまり差し挟まず、理屈っぽく、文語体でくどく、たとえ話が好きだ。語彙へのこだわりは相当強く、相手がしゃべってると語彙で引っかかる事も多い。
 A-2の「差別的な偏見がない」は、おそらく「区別が弱い」特性、つまり概念の獲得のしにくさに原因がある。「これこれだからこう」という決めつけが入りにくく、人がそれを言った時に懐疑的になる。理由が分からない事は飲み込めないのだ。一方、自分が観察して確信した事には頑固で、考えを修正するのに時間がかかる。(というかエビデンスを要する。)
 D-1の感覚特性は、前にも書いたように五感の視覚・聴覚・味覚・触覚が過敏で苦労する。嗅覚が弱いのも困る時はあるけど、鋭敏なよりはマシだろう。聴覚が過敏と言っても言葉の聞き取りは悪く、アナウンサーのようなしゃべり方ならほぼすべて聞き取れるけど、ちょっとでも滑舌の悪い人のしゃべってる事は聞き取れない事も多い。
 聴覚で最近気づいたのは、音がどこから聞こえてくるのか、方角がよく分からない。この原因は、壁などに反響している音まで拾ってしまうためじゃないか、と思う。近距離だと時差がないから、同時にあちこちから音が聞こえている状態になり、音源がどこか分からないのだ。これが小さな音でも起こるのでちょっと厄介。

 

 何にしても、こういう表現をして貰うと「障害」という意識はなくなり、自尊感情さえ持てる。というか、これらの特徴を僕はそんなに嫌いではない。漢字名を驚くほど覚えないとか、化学記号を殆ど覚えられなかったとか、英単語を覚えても覚えてもどんどん忘れるとか、少々記憶力に問題はあるものの全般的に記憶力は良く、集中力も持続する。上手く使えば学校の勉強もできたはずなのだが、いかんせん興味のない事には意識が向かない。
 かと言って、「障害じゃない、特徴だ」と言い切ってしまうのも困る人が出てくる。この本ではそのあたりの事にも触れていて、色々と興味深い。以後、気になった点を覚書的に何点かまとめておきたい。

ミラーニューロンが弱くても社会性は獲得できる

 僕はひねくれた子供だった。この性質はかなり初期に形成されていたらしい。幼稚園は寺だったのだが、悪い事をすると本堂に正座させられ、「お釈迦様に謝れ」と言われた。「木偶人形なんかに謝っても無意味だ」と考えたのを覚えている。小学校の高学年の時、教師が「私達が生きていられるのは戦争をおやめになった天皇陛下のおかげです」と言った。「戦争をとめる事ができたなら始める事もできたはずだ。だったら戦争になったのはそいつのせいじゃないのか」と腹の中で反論したのを覚えている。こんな風にとてもひねくれていて、大人の言う事を素直に聞く事は殆どなかった。

 僕は人間から倫理を学ぶ機会がなかった。人間は信用も尊敬もできない相手だったからだ。僕が基本的な社会性を学んだのは猫をはじめとする動物達であり、だから子供の頃は動物的な価値観しか理解できなかった。しかし小動物や虫は俯瞰して観察する事ができる。それが僕にわずかながらメタな視点を与えた。俯瞰して見ると宜しからぬ行動は色々とある。しかし自分を俯瞰する事はとても難しい。

 僕には道徳心というものがない。ただ自分の美学があり、それに従って行動していただけだ。自分を取り囲む様々な文化から摂取したその美学はそれなりに良いものだったが(弱い者イジメをしない、ズルをしない、卑怯な真似はしない、格好悪い事はしない、おべんちゃらは言わない等)、いかんせん法律を守るという概念は持ち合わせていなかった。だからいくつになっても飲食店から灰皿やスプーンをくすねた。「ズルはしない」と小物をくすねるという行動の矛盾に気づいていなかった。

 

 人間社会への信頼というものが決定的に欠如していた。いつでも人を疑っていたし、他人はズルく立ち回ると思っていた。僕が盗むのをやめるのには、あるきっかけがあった。山手線の窓からホームを何気なく見ていたら、会社員の男性が、店員が留守のキヨスクから新聞を取って代金を置いて去って行った。その瞬間、何故か分からないが涙が出るほど感動し、「より良い世界の側に荷担したい」という欲望が起こった。

 何故そんなに感動したのかは分からない。でも、その衝撃は僕に理想を与えた。おそらく「自分が格好良く振る舞うための美学」以外の、初めての社会に対する理想だった。世の中がどうあるべきか、その時から考え始めた。僕には尊敬する人間というのはいない。ガリレオダ・ヴィンチは子供の頃から天才で凄いと思っていたが尊敬とは違う。その能力を評価しているだけで人間性は問わない。その会社員男性の行動に敬意を感じ、初めて人を尊敬したかも知れない。

 

 子供の頃に感じた「おかしな事への懐疑」は間違っていないと確信している。他にもある。僕の親は店を経営していたのだけど、僕には過剰に客の機嫌を取る接客が理解できなかった。それが理解できたのは大人になってからだ。「付加価値」という事なのだ。客に敬意を払い、丁寧に接する事は店の価値を高め、客の質を良くするのだとやっと分かった。こうして、概念を獲得する事に時間がかかる僕も、少しずつ社会の枠組みを理解した。

 本堂に飾られた木偶人形に謝罪する事は、自分の心と向き合う事だ。人にではなく、メタな存在に対する敬意と忠誠心を育てようという試みだ。僕は南天の葉をむしって叱られたから、南天の木に謝るべきだと思った。でも、南天の木と本堂の木偶人形は「繋がっている」のだ。僕が宗教心を理解するのも、大人になってからだった。

 単に集団に追従するのではなく、理由を具体的にはっきりと理解しながら社会とは何か、望ましい人間とは何かを考え続けた。これは僕の執念だ。その結果、多くの間違った考えを退け、あるべき様、つまり理想を僕はやっと獲得したのだ。それはすべてが合理性と功利主義で論理化された世界観だ。

 子供の頃、僕には将来への希望は何もなかった。あまりに生きる事がつらく大変で、それで精一杯だった。それはつまり理想がなかったのだと分かった。今、僕には遅ればせながら理想がある。それによってこの世界への希望を繋いでいける。やっと希死念慮が消えた。

定型発達の奇妙な世界

 定型発達症候群という面白い言葉を見かけた。思考パターン・行動パターン・世界観が違うアスペルガーから見たら定型発達の人は奇妙に見えるのは事実。必ずしもアスペルガーのほうが劣っているわけではないので、「闇雲に定型発達の価値観に合わせる訓練をすべきでない」と主張する人達もいる。

 

susumu-akashi.com

 

 上の記事中で上げられている5項目は以下。

■社会の問題への没頭

 周囲に馴染むことを最優先事項とみなす
 そして集団になると、社会性および行動において硬直する

■優越性への幻想
 自分の経験する世界が唯一のもの、正しいものであるとみなす

■ひとりでいることが困難

 人と一緒にいるが、仲間に入らないということを苦手とする
 人といるときには必ず何か話さないではいられない

■率直なコミュニケーションが苦手

 本音を言わず、建前を優先する

■論理を欠いても平気

 一貫性がなく、状況によって対応を変える 

 

 どれも言い得て妙だが、特に奇妙だと自分が感じるのは「論理を欠いても平気」という点。どうやって思考しているのか不思議になるほど、言ってる事が支離滅裂だったりする。表現は曖昧で、多義的で、指示代名詞や目的語をしばしば欠くから、酷い時には何を言ってるのかまるで理解できない。

 見ていて難儀だなと感じるのは「寂しい」を連呼する点。僕は「寂しい」という感覚が分からない。「暇」「退屈」「やる事が思いつかない」「時間を潰しきれない」という感覚はよくあるので、できるだけ本を持ち歩いている。本がない時はメモ帳とシャーペンを持っていて、今後やる事とかアイディアとか、何でも良いから書き込んで時間を潰す。

 今は時間より前に行く事が多いが、以前は待ち合わせや約束の時間ピッタリに行こうとしてよく遅刻をした。電車を1本逃すだけで数分の遅刻になってしまう。それも「時間より前に行って待つのが苦手だから」だった。さすがに年齢と共に工夫も進むし、携帯電話が普及してからは場所を固定しなくても会えるようになったから、本屋などで待ち合わせすれば待つのは苦痛ではない。そういう融通が利かない待ち合わせは今でも苦手で、できるだけ現地集合にして欲しいと思ってる。

 

 上の記事のネタを真似して、自分から見た定型発達の人達の奇妙な行動を考えてみたい。上の項目と被るものもあるかも知れないが、自分なりの意見として書いてみる。

 

・理由を聞いても説明がちゃんとできない

 理由が良く分からない時、「どうしてですか?」と質問するのは自然な行動だろう。しかし、しばしば「どうして」を説明して貰えない。僕にとって、物事はすべて理由がある。根拠が弱くても「どうしてそう思ったか」や「どうしてその選択をするのか」は説明可能だ。「何となくフィーリングで」「勘で」という理由の場合もちゃんとあるが、それを説明するのは取り立てて億劫ではない。

 しかし、定型発達の人に「何故そのように言うのか」を聞いても、ハッキリした理由(「何となく」や「勘」でも良いのに)を教えて貰えない事がよくある。それが主観的ではない問題だったりする場合(たとえばルールとか)には「根拠は?」「理由は?」という質問になるが、これも答えて貰えない事がよくある。理由が分からない事は理解できないし、理解できない事(意味の無い事)を覚えておくのは難しいのだが、むしろ理由を聞くと驚かれたり嫌な顔をされる。

・間違いを指摘すると怒る

 誰でも言い間違いや勘違い、間違った見解を述べることはある。が、親切に間違いを指摘すると切れられる事がある。「面子を潰された」「恥をかかされた」などと言われるが、間違った事を堂々と訳知り顔で吹聴するほうがよほど恥ずかしいのではないだろうか。昔から「聞くは一時の恥」と言うではないか。

・内容のない上っ滑りな会話をする

 これは僕から見ると相当に不思議な現象だ。聞いていると内容が無い会話で盛り上がっている。会話が噛み合ってないのに全然気にしない。まるで相手の話を聞いていないかのようなのに、しゃべった方もそれを指摘しない等。

 たとえば「うん、わかる、わかる」と相づちを打ったりしているが、その前に話された事は個人体験や主観だったりして、分かるわけがないものだったり。しかも具体性がまるでないから、いったい何を分かったのか聞いてるこちらはまるで分からない、という事態になる。それらの経験の結果、「わかる」はただの相づちの一種で、実際には何も分かっていないのだな、と思うようになった。

 また、「お元気ですか?」「調子はどうですか?」などの質問が非常に苦手だ。元気かどうかについて説明を始めると嫌な顔をされるし、調子と聞かれても何の調子を指しているのか分からなくて「何のですか?」と質問し返すと驚かれる。曖昧な質問をするほうが悪いと思うのに、何故こちらが非難がましい顔をされねばならないのだろうか。

・人真似をする

 僕も他人の持ち物を参考にしたりする。若い頃からファッション誌を殆ど買った事がなく、ファッションで参考にするのは街の人達の格好やテレビで見かけた服、店で実際に売ってる物などだ。若い頃、最初は何を着たら良いのか全然分からなくて、服屋を回ってリサーチした。昔の店員は物凄く話しかけてくるので結構困ったが、場数を踏むとやり過ごす方法も分かるので服屋巡りは結構した。ファッション誌も立ち読みでグラビアくらいは見る事もあったし、どこかの店に入った時、置いてあれば目を通した。

 東京に出てきて、最初の頃は本当に酷い格好をしていた。目も当てられない。まさに黒歴史。田舎ではとにかくどうでも良い格好をしていたので(ジーンズにカッターシャツかTシャツ、ジャンパーやコートといった具合で枚数も持ってなかった)、都会ではこれじゃ駄目だと思い、闇雲に服を選んだせいだ。そこで「自分は何を着るべきか」をリサーチするため原宿をよく歩き回った。

 ここで「人真似」と言ってるのはそういう話ではなく、何でもかんでも人と同じにしようとする事だ。服装、髪型、バッグや小物に至るまで似たような物を持ち、同じものを見て、団体行動しようとする。これは実に不思議で、本当にそれを良いと思っているのかと聞くとハッキリ答えない。「みんながそうしているから」とか言ってくる。

 僕にとっては物は良い(興味がある・面白いも含む)か悪い(興味がない・つまらないも含む)かしかない。音楽でも映画でもマンガでも本でも、自分が面白いと思うものに夢中になり、どうでも良いものはどうでも良かった。興味関心が狭いから、知らない事は驚くほど知らない。今ではだいぶマシになったが、若い頃はそれが極端だった。

 だから「どっちでも良い」は「興味がない・つまらない」と同義だったし、そんなものには金を出したくもなかった。自分がそれほど良いと思ってるわけでもない物を買い、それほど見たいわけでもない映画を見、それほど好きでもない音楽を聴く、というのは僕には考えられない行動だ。

・はみ出す事を極端に畏れる

 上の項目のような行動を取る理由がコレらしい。子供の頃から、他人と自分は違うと思っていたから、この感覚にはかなり驚いた。同じ物を着て同じ物を食べても同じ人間になれるわけがないのに。僕は他人と過ごすのは結構好きだ。僕の狭い考え方や感覚と違うものを見せてくれるからだ。それは刺激でもあり、退屈がしのげる。とにかく僕は退屈する事に耐えられない。

 また、校則やルールなどでも「はみ出す」事を畏れる。僕の行った高校には服装検査があった。体育館に並ばされて教師のチェックを受けるのだ。実に馬鹿馬鹿しい儀式。たいてい僕は駄目駄目な格好で行って注意を受ける。注意されたから直す、という態度だった。ウザいから注意を受けないように、その場だけは服装や髪型を正して臨むという生徒もいた。しかし、あくまでそれは「その場限り」。

 ところが、そうじゃない人達も結構いたのだ。校則なんてたいていは意味がない。ただ「そう決まっているから、そう決まっている」というだけの、根拠の無いルールだ。それを守る事には何の意味もなければメリットもない。1つだけ意味があるとすれば「ルールを守った」という事実だけだ。それが僕には理解できなかった。

 僕は高校時代、いわゆる不良でもなく、態度はあまり良くないが成績はまあまあの「放っておいても問題ない生徒」だったと思う。服装や髪型の事ではしょっちゅう注意を受けるが、ツッパリとかではなく「だらしがない」のほうでだ。夏、プールの後には靴下をはかず素足に上履きをつっかけて歩いたり、衣替え前のジャンパースカートがクソ暑いからと下にシャツを着ないで素肌にジャンパースカートを着ていたり、スカートの裾は落ちてるわ、上履きはずっと洗わないから真っ黒だわ、髪はいつもボサボサだった。制服なんてくそダサいものに時間や手間をかける気はさらさら無かったのだ。

 格好もこんななら態度も酷くて、「はみ出さない」努力というのはまったくしなかった。というか、発想すらなかった。目立ちたがりでもないから地味にコソコソしていたいほうだったが、意図せず悪目立ちはした。教師に食ってかかるのも定番だった。その一方で、薬物はやらないし、窃盗もしないし、制服で煙草を吸う事もない。(自宅では喫煙していた。)適当にサボりながらも授業にはちゃんと出て、成績もまあ普通だったが、とにかく見た目と態度がそんな調子だったので、当時の担任には結構面倒をかけたかも知れない。(と、今になると思う。当時は思い上がっていたので、「それがお前の仕事だ」と思っていた。)

 

◎果たしてどちらが幸せか

 30歳になるまで人生は苦痛に満ちていてつらかったが、僕は自分のやってきた事がそこそこ好きだし、自分をかなり好きだ。自分の好きなものが凄く好きだし、趣味もまあまあ良いと思ってる。もちろん、間違った事も色々したし、黒歴史なんて山のようにあるが、それでも「結果オーライ」だと思っている。

 リア充な一部の人はさて置いて、いつも「寂しい」「孤独だ」と愚痴ってる定型発達の人と、寂しさを感じないアスペルガーの人とではどちらが実質、幸せなのだろうか。理由の分からないルールを信じ込み、根拠希薄な行動に固執する人々と。人と違う事を畏れ、はみ出さないように必死に他人に合わせて、やりたいように行動できない人々と。

 僕から見ると「困った世の中」であって僕自身が問題だとは思わない場面も多い。不便は多いし困り事も多い。しかし「世の中が悪い」とは言わない。世の中はろくでもないのが前提なので、どう対処するかを工夫しようという話であって、世の中に期待してもろくな事にはならないと経験で知っている。

 工夫できるのだったら、アスペルガーはそう悪い特性でもないだろう。発想力が貧困だと工夫ができないから、困り事が改善されない。それは大変だろうと思う。僕だって中一の時、通学靴の内側に出ている釘が「もしかしたら抜けるのじゃないか」と発想するまで半年間、足の横の皮に穴が空いたままだった。

 そういう「抜けたところ」が我ながら可愛らしくもあり、それを改善した「成功体験」は強烈だった。「工夫すればたいていの事は何とかなるんじゃないか」と思うようになった。まあ、たまに危ない事もあるんだけど。(小4か小5の頃、ヒューズが飛んだコタツを銅線で自力修理して、家全体のヒューズを吹っ飛ばした事がある。今思えば、よく火事にならなかったなと感心する。)

アスペルガーはオキシトシン欠乏症?

 「幸せホルモン」とか「恋愛ホルモン」とか言われるオキシトシンというホルモン。正確には「信頼ホルモン」らしい。ストレスが取れるとか、多幸感が出るとかで巷で人気らしいのだが、アスペルガーの治療薬になるのではないか、という話がある。

 自閉症スペクトラムオキシトシンの受容体が少ないのが原因ではないかという説があり、オキシトシンを補填することで協調性・信頼行動・愛着行動が改善するのではないかと期待される。現在、点鼻薬(花から吸い込むスプレー)が開発されている。ザッと見たところ、個人輸入などで1本(30mlボトル)5000円台くらい。

 

 僕は使ったことがないので何とも言えないが、知り合い(ADHD+ASD)が使った感想を以前聞いたところ、かなり良かったらしい。その時は「集中力が増す」「物事の整理がつく」「手順が組み立てられる」という感じだったからADHDの薬かと思ったのだが、むしろ自閉症スペクトラム向きらしい。

 ストレスが取れて多幸感が出るのは良いとは思うのだが、「愛着行動」というのが引っかかる。アスペルガーは他人に愛着をちゃんと持つ。特定の人に愛着を持ちすぎて、色々マズい事になるくらいだ。アスペルガーのタイプにもよるのかも知れないが、自閉症アスペルガーは別物だ。(高機能自閉症アスペルガーとするウィング派では一緒らしいが。)

 

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 愛着行動で思い出したのだが、最近では愛着障害と区別されるようになった境界性パーソナリティ障害アスペルガーと合併しないとされていた時期がある。理由は「アスペルガーは他人に愛着を持たないが、境界性パーソナリティ障害は強烈な愛着を持つから」だろう。今では「合併しない」とする説のほうが否定されているようだが、こう考えたのもオキシトシンを念頭に置くと納得できる。(正しい説だという意味ではない。)

 

 境界性パーソナリティ障害に至る原因は様々だろうが、よく言われるのが親からの愛情不足や、身近な者からの手ひどい裏切りの経験だ。単なる愛情不足ならそんなに屈折する事にはならないから、それは愛着障害として見たほうがスッキリする。自分を含め、境界性パーソナリティ障害の人達が持つ屈折した心理は、もっと複雑な経緯があるように思う。

 1つには、人間関係での大きな挫折の経験だ。親から否定されて育つとか、友人に手ひどく裏切られるとか、酷いイジメに遭うとか。もちろんそういった経験をした人でも境界性パーソナリティ障害にならない人のほうが多いだろう。性格(気質)やプラスαの要素があって、そこに至るのではないかと思う。

 

 しかし、原因はどうあれ境界性の人は単純に他人の愛情を得ようと努力したりはしない。むしろ嫌がらせとしか言えないような行動を繰り返す。そこにあるのは人への不信、得られないものへの憧憬と怒り、得る事への不安と恐怖だろう。適度に必要な分だけとは考えないから、”All Or Nothing” になる。「すべてか無か」で中間がない。

 そういった屈折した心理を抱えながらも、境界性の人は他者に関わって行こうとする。憎悪であれ愛着であれ濃密に、執拗に、積極的に関わろうとする。それは特定の誰かの場合もあるし、特定の数人だったり、場合によっては不特定多数だったりする。相手(他者)の注意を引くためなら手段を選ばない。そのやり方はしばしば不快で、破壊的で、自滅的だ。プライドが高いくせに下位承認を執拗に求め、上位承認を得ようとしない。ここが自己愛性パーソナリティ障害との決定的な違いだと僕は考えている。

 一方で、自閉症スペクトラムの人々は他人への興味関心が希薄とされる。自閉症だから当然だろう。だが、アスペルガーは「コミュニケーションの問題」が自閉症とは違うかも知れない。他者に関心がないわけではなく、愛着の対象を見つけ出すと人懐こくすらある。もちろん「想像力の問題」で相手の都合は一切考えないから一方的で、しばしば度を超す。他人との距離感がつかめないから、極端に疎遠か極端に馴れ馴れしいかのどちらかだ。その「やり方」に馴染めば少々手はかかるが、いたって可愛らしい存在ではなかろうか。(と自分では思うのだが。)何と言っても嘘をつかない(嘘がつけない)。

 

 さて、こんな行動を取るアスペルガーの積極奇異型の一部は、本当にオキシトシン欠乏症なのだろうか。もちろんオキシトシンの効果は愛着行動だけではない。上のリンク先では協調性・社会性が改善すると期待されているようだ。

 協調性にせよ社会性にせよ、確かに信頼は重要なカギだろう。まずもって僕は他人に何かを任せる事ができない。仕事でも家の中の事でも、他人がやる事は納得がいかない。だから何でも自分でやろうとする。もちろん「専門家」を信頼はする。しかし肩書きで信頼する事はないから、医者としょっちゅうモメる。自分が「なるほど、さすが専門家だ」と思う面がなければ相手を信頼する事はない。ありとあらゆる「専門家」に対し、そういう態度だ。もちろん、その能力を評価する相手には全幅の信頼を置く。こういった極端な他者評価も特徴だろう。

 「他人に任せられない」のが相手を信頼できないからなのは明らかなのだが、それは「他人のやり方は気に入らない」からであり、「結果、出て来たものが思い通りではない」からだ。単なる不信というのとはちょっと違う。

 

 社会性が低いのも協調性が低いのも信頼と関係あるかも知れないのだが、むしろこれはミラーニューロンの少なさが原因ではないか、とも言われる。ミラーニューロンは模倣を司る。発達障害の人達がよく口にする「模倣が下手」というのは、この関係かも知れない。

 僕自身、ごっこ遊びはした事がない。物まねが大の苦手だった。他人を見てアイディアは得るのだが、それを自分がする場合は真似をするのでは上手くいかない。絵は苦手ではなかったが模写が下手で、とにかく独自な感じにアレンジしないとどうしようもなかった。要するにかなり不器用なのだ。(自分で工夫した事に関しては不器用ではないので、他人から酷く不器用だと思われる事はあまりないのだが。)

 ただし社会ルールや規則に対しては「信頼ホルモン」が上手く働く可能性はある。通常、人の言う事を鵜呑みにする事はまずない。「こう決まっている」と言われても納得がいかないと規則への信頼は皆無だ。合理的な理由を見つけると初めて納得する。「何となくそう決まっている」事に関しては不信感が強い。この部分は「信頼ホルモン」で対応できるのかも知れないが、この性質が悪いものだとは到底思えない。

 それから、「想像力の問題」はオキシトシンではどうにもならない気がする。強烈なこだわり、興味関心の狭さも。色々不信感はあるにせよ(これまたアスペルガーの故かも知れないが)、機会があったら点鼻スプレーを使ってみたいとは思う。(正直、そんな金があったらテストステロンを飲みたいけど。)

 それと、信頼が足りないのは何も自閉症に限った事ではない。対人恐怖症(社会不安障害)にも効果があるらしいが、その他の神経症や不安障害にも効果が期待できるのではないだろうか。アスペルガーオキシトシン欠乏を単純に紐付けするのには納得はいかないが、新しいものが発見されるのは色々な可能性を感じさせて良い事に違いない。ただ、一元論的な盲信だけは警戒すべきだろう。

成人孤立型という可能性

アスペルガーの3つの型

 

 以前にも書いたが、アスペルガーには3つのタイプがあるとされる。積極奇異型、受動型、孤立型だ。発達心理学的には孤立型→受動型→積極奇異型と発展するらしいが、もちろん成人しても受動型のままの人もいる。

 孤立型は「外界に興味を持たない」状態だから、赤ん坊や幼児に見られる。発語をしないのも外界に興味がないせいかも知れない。知的障害を伴う自閉症では孤立型は一般的かも知れない。

 受動型は感情表現をどうして良いか分からず、また反応の遅れもあり、反応を返すタイミングがはかれない。そのため反応を思うように返せず、ストレスを溜めやすい。

 積極奇異型は最も典型的なアスペルガーに見えるかも知れない。一方的に話し続けたり、場の空気を読まず行動する。周囲を巻き込もうとする意図はなく、単独で勝手な動きをする。

 

アスペルガーとパーソナリティ障害

 

 最近、アスペルガー博士はアスペルガー症候群をパーソナリティ障害と捉えていたらしい、という話を知った。主張しているのは石川元医師だ。

 人格は行動によって決定するので、アスペルガー人格障害と見なすことは可能だろう。僕自身、境界性パーソナリティ障害と診断されたことがあるし、回避性パーソナリティ障害を疑ってもいる。積極奇異型は自己愛性パーソナリティ障害のように尊大に見えるという意見もあるし、孤立型はシゾイド型パーソナリティ障害に見えるかも知れない。パーソナリティ障害というのは「そう見える」ことが判断の基準で、原因が何かは限定されない。(本来、パーソナリティ障害はそういうものなのだが、今は原因まで限定してしまう説が強く、違和感を覚える。)

 幼児期の孤立型は外界に興味を持たず、また様々な対処をできないので介護者が必要だ。知的な遅れのないアスペルガーでは子供時代にここまで発達が遅れる人は稀なのではないかと思う。僕は物心ついた頃には受動型だったろうと思う。積極奇異型の特徴が目立ってきたのは小学校高学年くらいではないかと思う。

 

 僕は非常に大人しい子供だったそうだ。養母の話では泣かない、だだをこねない、育てやすい子供だったと聞いた。(実母はそれを「不気味な」「得体の知れない」と評した。)とはいえ幼稚園では悪さをして先生に叱られた記憶が数回ある。決して「良い子」ではなく、むしろ悪ガキに近かった。小学校に入ると晴れて問題児となる。しかし暴れたり騒いだりしない、落ち着きのある(落ち着きすぎて不気味な)子供だったようだ。(大人しいとはベクトルがちょっと違ったらしい。非常に頑固で言う事を聞かない面もあった。)

 あまりしゃべらなかった(発語の遅れはなかったが自分から話し出すことはあまりなかったらしい)のが、ある時突然、驚くほどしゃべるようになった、とは姉の話だ。それが小学校中学年~高学年のどこかではないかと思う。中学入学時点で「知らない子供に一方的にしゃべりたいことをしゃべっていた」記憶がある。

 小学校時代に、通学路で飼われていた犬に咬まれ(といってもガウっとやられて牙が当たった程度だが)、それを駄菓子屋のおばさんに物凄く愚痴った記憶がある。おばさんは黙って聞いてくれたが、きっと驚いたろう。近所の子供で顔は良く知っているとはいえ、そんなよく分からない話(犬の悪口)を一方的にまくしたてる子供。絶対変だ。これが何年生時点か記憶が曖昧だが、4年か5年じゃなかったかと思う。

 よくしゃべるようになったきっかけがそれかは分からないが、堰を切ったように弾丸トークを始めた時が積極奇異型への移行時期だろう。とはいえ受動型の行動パターンも残っているから、スイッチが入らない限りは受動型だ。スイッチが入ると積極奇異型になる。相手によっても行動が変わる。自分から話したくない相手だと完全に受動型になり、話したい相手だと積極奇異型になって一方的にしゃべり続ける。今でも受動型と積極奇異型の混合タイプだ。

 

◎大人になってから再び現れる孤立型

 

 タイトルの「成人孤立型」とは、乳幼児期の孤立型とは違い、受動型もしくは積極奇異型を経て至るタイプで、もちろん自分の創作なのだが、成人でも孤立型と言う場合もあるようだから完全な創作とも言えないかも知れない。乳幼児期の孤立型が(生命維持・生活の点で)自立していないのに比べ、成人孤立型(成人とは限らない)は自立している。他者への依存がなく、自足してしまう。

 最初からこのタイプに成長する子供もいるだろうし、他のタイプを経てここに至る場合もあるだろう。受動型と違いストレスが少なく、積極奇異型のように他者に働きかけもしない。それでいて自足して寂しくもない。本来、自閉症の人間は寂しいという感情が希薄で、滅多に孤独を感じたりはしない。ただ退屈するだけだ。

 

 積極奇異型が自制されるようになると他者への過度の働きかけはしなくなる。アスペルガーの人間は特定の誰かに強い愛着を持つことがあるが、その愛着の優先順位が自分の興味関心の中で低ければ、つきまとうこともしない。この「つきまとい」は結構凄いので、されたほうは辟易するらしい。加減を知らないからだ。孤立が自制によって起きるのか、はたまた興味関心の順位が入れ替わることで起きるのかは分からない。

 受動型の人間は他人に振り回されることが多いが、感情表現の方法を覚え、拒絶の手法を獲得するとそれが減らせる。ストレスが強いタイプでもあり、ガス抜きがしにくい。自分は元々はこのタイプで、何か嫌なことがあっても即座に反応することができずにストレスが溜まった。ショックを受けると泣いたり怒ったりすることができず、ただフリーズしてボーっとしていた。その時の情景は焼きついて長年フラッシュバックを起こした。要するにトラウマだ。

 

 孤立型から話が逸れるが、受動型と積極奇異型は行動様式が結構違う。

 僕は受動型から積極奇異型に移行したが、元々積極奇異な行動がないわけではない。完全に受動型の人とは違うらしい。自立して勝手な行動を取ることが多かった。しかし対人様式は受動的だったから、フリーズも起こすしストレスも溜まる。今でも「断れない」という悪い癖があるし、自分から頼み事をするのが苦手だ。自分の欲求を口にするのも苦手。強引な人に振り回されやすく、意志決定が苦痛だ。でも他人の決定に従うのはもっと苦痛なので、何とか頑張って意志決定するようにしているが時間がかかる。

 受動型の特徴は、この「決定できない」ではないかと思う。だから断るのも苦手だし、自分の欲求を相手に伝えるのも苦手だ。それらはすべて決定を伴う。決定するのは苦手でも、相手の要求を聞き入れるのは簡単だ。それは決定ではないからだ。だから受動型の人は「振り回されている」と感じやすい。

 僕の場合は発想力はあるから「提案をする」ことはできる。むしろ決定を下したくないから提案をする。そして相手の「了承」によって決定とする、という抜け道を編み出した。これだと決定のストレスが少ない。しかも受動型の人と相性が良い。受動型は仕切られることが好きだからだ。人の話を聞かない積極奇異型や強引な人と違って、意志決定は自分に任されるから振り回されているストレスも少ないだろうと思う。そういう相手との関係は長期間継続した。

 混合型だから僕の積極奇異はあまり典型的ではないかも知れない。でも、あまり深く考えもせずポンポン行動したり物を言ったりする。怖いという感情が希薄なように思う。場の空気はあまり読まないが、まったく読まないわけでもない。受動型と相性が良いと書いたが、積極的なタイプでも相性が良い場合もある。基本的に、自分がしゃべりたいことを勝手にしゃべる人が好きだ。こちらが話題をあれこれ探さなくて済むし、しゃべらせておけば機嫌が良い。もちろん話の内容によっては不快だから、そういう話をしない相手を選ぶ。手が合いさえすれば積極奇異はいたって扱いやすい。(もちろん、最低限の社会性があるのが前提。)

 

アスペルガー的人格の完成形としての孤立型

 

 成人孤立型に話を戻そう。「他者を求めない」「孤独を感じない」「自立している」「自足している」が条件だろうか。自分の関心事を他人にしゃべるという発散方法を取らなければ他者を求めることはなくなる。自身の内部で、愛着へのこだわりの優先順位を下げられれば、愛着障害と間違えられるような行動は減るだろう。

 アスペルガーは凝り性で、興味関心が狭い。狭く深くが基本だ。興味の対象がリスクなく際限なく掘り下げられるようなもので、かつ知的だったらこれほど良い趣味はない。たとえば僕の好きなテーマは宗教・思想・哲学・歴史で、これらをテーマにした本を読んでいると飽きないし、いくらやってもネタがなくなることもない。一生かかってもすべてを知ることができないようなジャンルだ。掘り下げようとしたらどこまででもディープになれる。中学くらいから調べ物が好きになったが、とにかく気になると調べ初めて、気が済むまで止めない。1つのことを十年二十年考え続けたりする。ものの役には立たないかも知れないが、これほど飽きない趣味はない。実際には結構役に立ったりもする。

 ただ困ったことに僕の場合、人への愛着が非常に強い。それで境界性パーソナリティ障害と診断されたりしたのだろう。愛着障害のように見える側面もあるが、見捨てられ恐怖はない。ただ強烈に愛着がある。愛着のない相手にはかなり冷淡でもある。愛着の故に友人が作れたし、特定少数の人と深く関わってこられた。愛着は恋愛感情みたいに強いものだから、一方的に嫌われると失恋したくらいのショックを受ける。僕から嫌いになった場合は、手厳しい批判と、嫌悪にも似た脱価値化が起きる。友人関係なのにまるで恋愛沙汰のような騒ぎだった。

 趣味的なこだわりと愛着へのこだわり――どちらも愛着と言えるから、人への愛着と趣味への愛着と言ったほうが正確か――のどちらが優位かは言えない。僕は精神エネルギー量が多いから、あれにもこれにもと執着することができる。他人との関係で理想的なのは週一ペースの接触だ。それ以上接触すると疲れるし苛々する。残りの時間は一人で何かしてるくらいがちょうど良い。

 もし、この愛着の対象が0だったら? 僕はだいたい2人の愛着対象を持ってきた。2人いるとバランスが良い。だから、いなくなるとまた探す。まるで恋人を探すみたいなものだ。性別は何でも良いし、条件が合えばセフレになっても良い。ただ、自分の愛着欲求を満たせれば良い。もちろん、これは恋愛ではない。友人関係だから、要求も期待もそれほどない。ある意味、希薄な関係ではあるが、精神的距離感は非常に近く、使う時間も友人としては異常に多い。だから、ある時期から愛着の対象がお互いを性的対象とする性別になった。必然だろう。

(ただし、2人の相手と同時並行に性的関係は維持できない。それができるのは一時に一人だ。でも、自分をモノアモリーだとは思っていない。何故なら相手にそれを要求しないからだ。そんなわけで性的対象を愛着対象とした結果、一人しかキープできなくなってしまっている。)

 

 タイトルの「成人孤立型という可能性」とは、僕自身がそれかも知れないという意味ではない。確かに今現在の精神状態はそれに近い。が、退屈しやすいのとしゃべるのが好きなせいで、なかなかちゃんと孤立しきれてない。

 「可能性」とは、アスペルガーの理想という意味だ。何か特技があると、アスペルガーは凝り性と几帳面さから仕事では有能だ。営業的な才能はないからフリーランスは大変な場合もあるが、もし有能さを評価して仕事を貰えるなら、こんな楽なことはない。好きなことしかできないから、趣味を仕事にするのは理想だろう。

 対人関係で、他者に必要以上に関わろうとしないならトラブルもないし、本人もストレスがない。孤独を感じないという特徴が最大限に利用できる。どうしても退屈したときは自分の特徴を理解してくれる仲間と時間を過ごす。おそらくそれは、どんなに多くても週に1度で十分だ。人と接触すると凄く疲れるから、連日会いたいとは思わない。他人に興味がないから、過剰な期待もないし要求もしない。

 

 愛着という問題を取り除いて、完全に自立したらどうだろうか。他者を必要としない、と言っても良い。どんなに訓練しても、アスペルガーは他人と関わると疲れるし、ストレスも溜まる。それならいっそ関わらないほうが楽だ。数ある刺激の中で、人間関係から受ける刺激は最も厄介で強い。それをすべて取り除いたら、どれほど楽だろうか。アスペルガーの気分変調は刺激に対する反応だ。嫌な刺激がなければ変調もなく安定する。問題は、この状態を維持して経済的に自立できるかどうかだろう。その問題をクリアした後に残されているのは退屈だけだ。

 実際、こんなような生活をかつてしていた。そして退屈した。安定に飽きて、自分の人生に混乱を持ち込んだ。つまり、他人との深い関わりを求めた。二十代だった。若かったなと思う。それ自体に後悔はないが、孤立というあり方は僕にとって理想なのだと思う。一人で暮らして、たまに人に会う。メルトダウンも起きない。ストレスがないと持っている能力を十分に発揮できる。ストレスは刺激であり、適度な刺激は能力を伸ばすが、過度の刺激は能力を抑えてしまう。しかし刺激がなさすぎると精神は活性化しない。クオリティ・オブ・ライフが一番の問題だろう。

反社会性パーソナリティ障害という診断名に思う

 以前にパーソナリティ障害についてまとめた時、反社会性はあまり診断されないのではないか、と書いたのだが、実際にはそうでもないらしい。この2ヶ月ほどで、ネットで二名ほど診断を受けたという人を見かけた。どちらもADHDの人だった。

 反社会性パーソナリティ障害とは何か。名前の通り反社会的行動を繰り返す人という意味だが、反社会的行動とは通常、犯罪を指す。それ故、このパーソナリティ障害を犯罪者予備軍などと揶揄する人もいる。

 DSMによる診断基準は以下の通り。

 

www5f.biglobe.ne.jp

 

 必要条件は患者が18歳以上である事、15歳以降に以下の3つ以上が当てはまる事、行為障害(素行障害)が15歳以前からある事。

 

1.法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。

2.人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。

3.衝動性または将来の計画をたてられないこと。

4.易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。

5.自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。

6.一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。

7.良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。

 

 行為障害とは、社会規範やルールの逸脱、度を超した喧嘩、放火や窃盗、繰り返される虚言、ずる休み、所有物の破壊、反発的で挑発的な行動、持続的な激しい反抗など。いわゆる反抗期に見られるような行動。未成年者の場合飲酒・喫煙を含み、成人の場合は暴力傾向と犯罪傾向・性的逸脱を含む。

 ICD10では「非社会性パーソナリティ障害」と訳すが、反社会性と非社会性はかなり意味が違う。非社会的行動は犯罪傾向はないがモラルの低い行動を指し、反社会的行動はしばしば犯罪性を持つからだ。

 自分がこの診断名に注目するのは、「これほど重大かつ重篤な診断名を犯罪者以外に実際につけることがあるのか」という驚きからだ。反社会性は明らかに犯罪を意味する言葉である。

 

 英語ではソシオパス(社会病質者)とサイコパス(精神病質者)の2つが反社会性パーソナリティ障害に含まれるが、この2つはかなり違う。ソシオパスは社会性が著しく低い人で、サイコパスは異常心理の持ち主とされる。(通常の精神病や統合失調症の意味ではない。)

 サイコパスに見られる特徴は、情緒障害と言えるほどの共感性の欠如(そのため他者の苦しむ姿を愉快と感じる事が可能)、危険に対する鈍感さ(自らの危険に対しても極端に鈍い)、良心の欠如(違法行為をしても心が痛むことはない)といった点に顕れており、一説には先天的な脳の欠陥らしい。

 一方でソシオパスはこれらの程度が軽く、犯罪を悪いと思っていないが自己保身から避けて合法内での迷惑行為に終始する。先天的というより一定の素質によって顕れる人格で、多くは社会性の獲得に失敗した結果だ。

 両者にはハッキリした原因の違いは見られないが、結果は随分と違う。そしてソシオパスと非常に似ているのが自己愛性パーソナリティ障害だ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 これはソースがあまり学問的ではないが、ソシオパスは俗語であり学術上の定義が存在しない。どうでも良い項目を省いて特徴を挙げてみる。

 

・過大な自我の持ち主である。
・嘘をついて、人を操るような行動を示す
・共感の欠如
・自責の念や羞恥心の欠如
・恐ろしい状況、危険な状況でも、不気味なほど落ち着いている
・無責任な行動や、あまりにも衝動的な行動を取る
・友人がほとんどいない
・「楽しいかどうか」を人生の行動指針にする
・社会規範の無視 

 

 どうだろうか。自己愛性パーソナリティ障害と酷似していないだろうか。

 「友人がほとんどいない」については友人が作れないのではなく、他者と安定した関係を継続的に持てないためだ。人見知りやコミュ障と呼ばれる人とは逆で、積極的に他者に働きかけもするし、すぐ親しくなる。しかし、短期間で決裂するのだ。

 重要なのは「虚言癖」「共感の欠如」「不気味なほどの落ち着き(想像力の欠如)」「社会規範の無視」あたり。

 

 実際にはソシオパスという診断名はないから、反社会性パーソナリティ障害とつけられる。それは同時にサイコパスを意味してしまうため、犯罪傾向の強い者という誤解を招く。いや、誤解ではなく、本来そういう意味なのだ。これが社会性と想像力が低いとされるADHDにやたらつけられているとしたら問題ではないだろうか。

 以前にも「診断名ブーム」の話を書いたが、境界性パーソナリティ障害の大流行後、ブームが自己愛性パーソナリティ障害に移った。今は反社会性パーソナリティ障害がブームなのではないか。拡大解釈でブームに乗って乱発させた診断名が後で大変なことになるのはボーダーで体験済みだ。診断名は何度も付け直せるものでもない。精神医療関係者がムーブメントを起こすなんて馬鹿げていると思わないだろうか。まさに「病気は医者が作る」を地で行く話だ。

 推測するに、以前なら自己愛性パーソナリティ障害としていた患者を、ブームで反社会性パーソナリティ障害としてしまっているのではないだろうか。その中には自己愛性ですらない人――発達障害が原因で社会性や想像力の生長が遅い人まで含めてしまっているのではないか。発達障害者でも自己愛性を起こしている人も一部にはいるが、多くは自己愛性パーソナリティ障害ではない。

 そもそも発達障害の人を安易にパーソナリティ障害と診断する事には問題がある。精神年齢と実年齢も違うし、原因が生まれつきの能力の凹みなのだから定型発達者のパーソナリティ障害と同じ基準での診断には無理があり過ぎる。

それは発達障害ではなくパーソナリティ障害です

 ツイッターで複数回流れてきた人気のまとめ。

 発達当事者が考察した内容で、的確だと感じた。一方で、この方はパーソナリティ障害ではないのでそっちの知識はあまりなく、最初に挙げた4項目がパーソナリティ障害にありがちな認知の歪みだという点には気づいていない。そこは致し方がないのだが。

 

togetter.com

 

◎認知の歪みに気づく

 

 「親と良好な信頼関係を築けていない」は、AC(アダルト・チルドレン)になったり、愛着障害を引き起こすと言われている。人格成長期に承認欲求が十分満たされていないため成人後も過剰に承認を求めたり、生育期の愛情不足を埋め合わせようとして過剰に愛情を求める。

 「自分と他人を切り離すのに失敗している」は、境界性パーソナリティ障害で観察される。他人は他人と線引きできない感覚、行き過ぎた一体化だろう。これが他人の時間を無制限に奪う行動に結びつき、非常に嫌われる。

 「客観的、理論的思考より被害者意識が強い」は、認知の歪みで、境界性や自己愛性パーソナリティ障害でよく見られる。劇場型パーソナリティ障害と呼ばれる所以でもあろう。自分を過剰に悲劇の人に演出し、それを本人も信じ込んだり、客観性が低いから逆恨みが激しい。

 「自分を無条件に容認されることを強く望んでいる」は、境界性パーソナリティ障害でよく挙げられる特徴。満たされない承認欲求を満たそうと必死になる。境界性パーソナリティ障害では下位承認が強いが、自己愛性パーソナリティ障害では上位承認が強い。

 

 自分のことで言うと、「親と良好な信頼関係を築けなかった影響」はだいぶ減ったけど、これはかなり大きな影響があったことは事実。実際、20代いっぱいまではここからくる認知の歪みが非常に大きかった。

 「自分と他人を切り離すのに失敗している」はまだまだあって、どこまで切り離すべきかにも日々迷いを持っている。客観的・理論的思考が強く、被害者意識は低めだけど、「自分を(無条件に)容認されることを強く望んでいる」はある。今は無条件ではないけど、以前はこれがかなり無条件な要求であったので、人間関係のトラブルが多かった気がする。

 

◎人それぞれに苦労はあると考える


 発達当事者から被害者意識を強く感じるのは、定型発達者の悪口を言ってる場面だ。定型だって能力が低い人はいくらでもいて、苦労もするし、みじめな思いもしてる。なのに定型者全体を敵に回すような言説をしがち。承認欲求が満たされないから承認欲求が強いのも事実だけど、それは定型者にもしばしば見られる。

 そこでひがんでしまったり被害者意識が強くなってしまうのが「認知の歪み」そのもので、この歪みを取っていければ発達障害だろうがパーソナリティ障害だろうが、社会性の問題は小さくなる。

 そうはいかないのが発達障害だと言いたいだろうけど、その程度の認知の歪みを持つ人は定型者にもゴロゴロいる。結果、パーソナリティ障害という話になる。発達障害でパーソナリティ障害を併発する例もあるだろうが(自分がそれ)、原因が発達障害という点が定型者とは違う。認知の歪みが必然であるが、自己モニタリング能力を鍛えると意外とすんなり行く。


 自分は学習障害もほぼなく、知能も問題なかったからかも知れないが、定型発達に入れられてる人でも(自分から見て)人生無理ゲーな人はゴロゴロいる。結局、個々人の能力に応じて「出来ることをやる」のは誰でも同じ。自分にも逆立ちしたって絶対出来ないことなんていくらでもある。

 他人から見たら楽に生きてるように見えるだろうが、同じことするにも倍の集中・手間暇・気力を使っていると思う。でも、そうしないと出来ないのだから仕方がない。集中力は無尽に近いから良いが、昔から睡眠時間が長めなのはおそらくそのせい。凄く疲れる。疲れるのが好きだから困らないけど、疲れるのは事実だ。

 

◎他人は他人と割り切る

 

 発達障害者は馬鹿ではないから客観性もそれなりにある。客観視を鍛えることができれば自己モニタリング能力も上げていける。どうやったらそれが出来るのか、が課題。

 無駄な通念(思い込み・偏見・決めつけ)を否定し、自分をニュートラルにしながら客観性を高めるのは知性の問題になってしまうので難しい。しかし、定型者も同じ作業をしているわけだから、スタートラインが不利で足が遅くても自分なりに出来る部分はあると思う。人に比較してどれほど出来が悪くたって、自分は他人じゃないので自己満足していけば良いのだ。

 普通であろうとは望まない。自分こそが普通だと言い切る。人は時に傲慢である必要がある。自尊意識のために。自己肯定のために。そこを否定してくる人は否定し返して良い。そういう人は他人の自尊感情を意に介さないからだ。そういう人と対決するには、意図的に傲慢な態度を取る必要がある。そういう相手に真摯に向き合うと、こちらが潰されてしまう。

 どれだけお節介に口出ししてこようが他人は自分じゃないので、自分の代わりに人生を背負ってくれるわけじゃない。そんな人の言うことに振り回されるのは馬鹿馬鹿しい、と割り切ってしまうと楽になる。

メルトダウンについて

メルトダウンとは感情崩壊・機能衰退

 

 メルトダウンとは発達障害が原因で起こるパニック状態のようなもの。もし発達障害に軽度・重度を決めるなら、メルトダウンの頻度が1つの目安になるかも知れない。しかしメルトダウンが起きるかどうかは環境に左右されがちなので、やはり簡単にはいかない。

 

yaplog.jp

 

 メルトダウンは感情崩壊みたいな意味合いで使うのだろうが、俗語で言うヒステリー状態に似ている。感情の制御が利かなくなり暴走する。制御不能はよく感じたことだった。

 機能衰退と説明しているサイトもある。判断力・発想力が著しく減退する。この減退はメルトダウンの最中だけではなく、終わってからもしばらく戻らないから、一度起こすと結構大変だ。人によって暴走の仕方が違うから、メルトダウンの経験者でも他人のメルトダウンは理解できない。

 自分のメルトダウンは「切れる」「わめく」「何かを叩く」。昔はガラスをよく割った。ここ数年はマウスをよく壊した。できるだけ布団などを叩いて実害がないようにしている。一通り暴れると疲れてやめる。切れ方が酷いとしばらく放心する。「泣きわめく」こともたまにあるが、だいたいは泣かない。ただ悪態をつき続ける。

 

 自分の場合、大きなショックとか予定変更では起きにくく(ショック状態はフリーズ→シャットダウン、予定変更はフリーズになる)、複合した条件(思うように行かないことが複数重なる)で起きる。たとえばPCの動作が異常に重いor通信が頻繁に切れる+猫が邪魔してキーが打てない(あっさりどかすという発想はない)+もう1つの不快刺激(ハエが頭の周りを飛んでうるさいとか周囲の騒音がうるさいとか)。3つ重なると高確率で切れる。これが日常的なメルトダウン

 メルトダウンすると、わめきながら布団を叩く。飼い猫は怯えるが、これが最も安全な切れ方だ。何故なら、何も壊さないから。拙いのは物に当たる時。これでマウスを4~5個、コーヒーメーカーを2台、食器をいくつか壊した。今のところノートPCは壊すまで至っていないが、他人が見たら壊そうとしているかのように見える時はある。子供の頃を除くと自傷癖はないが(痛みに弱いからあまりできない)、衝動的な自殺計画は自傷だった可能性はあるが、そのキッカケとなったメルトダウンは言い争いだ。

 言い争いで切れる場合、最低3時間の議論(押し問答)と、相手からの論理攻撃が必要。だから言い争いで切れた相手は少ない。一度切れた相手は接触を避けるから、複数回切れた相手は家族と、同居してるツレくらいだ。接触を避けるのは継続して腹を立ててるのではなくて、トラウマになるから。一度トラウマができた相手とは普通に接することは不可能になる。

 

 メルトダウンを「誰でもあること」と言う人がいるが、誰でもはないと思う。確かに感情的になって何を言ってるのかまるで分からない人はたまに見かける。自分の「わめき散らす」「悪態をつく」も感情的ではあるにせよ、言ってる内容に一抹の整合性や論理性があるため、相手は「正気を失っている」とは見なさないらしい。自分でも怒った理由は分かっている場合が多い。しかし「何故そこまで怒るのか」は、あまり説明できない。

 「誰でもあること」という人は、誰と比較しているのだろうか。単に「切れる」なら誰でもあるかも知れない。でもそれは一瞬の爆発で、すぐ我に返るのではないか。メルトダウンは結構長い時間続く。後遺症も合わせると半日~一日潰れる。感情を引きずっているというより、その時の情景・言葉が焼きついてフラッシュバックし続ける。こんなのが「誰でもある」は本当なのだろうか。そうだとしたら、どうぞ共感して下さい。お願いします。

 

メルトダウンに性差はあるか

 

 上で貼ったサイトには、メルトダウンの仕方に性別が影響するかの如く記載されている。もし記事の通りだとするなら、本人のつらさを度外視すれば、泣きわめくだけで物を壊さず、他人を攻撃しない女性のメルトダウンのほうが社会的には害が少ない。攻撃性・暴力性が高く、暴れたり怒鳴ったりする男性のメルトダウンのほうが遙かに害があることになる。

 自分の、おそらく発達だろうと思われた母親は泣きわめくようなことはなく、切れるとひたすら相手を口撃し続けた。何時間でも飽きもせず続けた。物にもそれなりに当たるのだが、根がケチだから壊さないように微妙に加減している。(自分も物を壊すのは嫌いなのでそうしているが、勢い余ってたまに壊す。)

 自分の母親はおよそ世間がステレオタイプに考える「女性性」は殆ど持ち合わせなかった人だ。自分が前に出たい人で、思いやりや優しさは欠如し、他者共感性はかなり低かった。だから子育ても下手だったし、細かいことが苦手だから家事もほぼ壊滅状態。しかし仕事は大好きで、金も大好きで、働き者だった。金の管理がろくにできない(する必要がなかったせいもある)父親だったが、母親のみみっちさケチくささが父の店の経営管理を健全に支えていた。(着服も多かったが。)

 しかし、そんな彼女の性自認はしっかりしていて、化粧大好き、着物大好き、オシャレ大好きだった。衛生を保つのはなかなか難しかったようだが、着飾ることには執念があった。表面的には女性らしさを過剰に追求するのだが、内面はからっきしだ。本人もそういう価値観(思いやりだの優しさだの共感だの)を持っていないから、何の迷いもない。見事なまでに容赦なく、濡れた犬を叩く人だった。こういうのを世間では「気丈な女性」と呼ぶのだろう。

 

 女性のメルトダウンでも切れてわめく人は結構いるし、ただひたすらに攻撃的になる人もいる。一方、男性では黙り込む人を複数見た。思慮や分別で我慢して黙るのではない。頭が真っ白になり、何も耳に入らなくなるらしい。反応を返すことすらまったくできなくなってしまうのだ。フリーズに近いがもっと酷い状態だ。これは受動型のメルトダウンの特徴ではないかと思う。積極奇異型は切れてわめく・暴れるのではないか。もちろん、女性のアスペルガーは男性に比べるとかなり少ないが、その全員が受動型なんてことはない。ADHDとなるとメルトダウンの仕方も違うかも知れない。

 本当にメルトダウンに性差があるのだろうか。単に個人の性格やタイプの違いじゃないのか。これもジェンダーバイアスじゃないのかと思う。こんなところにまでジェンダーバイアスを持ち込んで、何の益があるのか不思議でならない。

 

認知の歪み

 「ニンゲンなら誰でも」などとお気楽に書かれているが、それがハンパないレベルで人格に陰を落とすのがパーソナリティ障害の問題点。アスペルガーでもこだわりや極端な物の見方から歪みが生じやすい。ダブルで来るから自分の認知の歪みはかなりひどかった。おそらく最初はアスペルガーの影響で、その結果、パーソナリティ障害を起こしたのだろうと思う。

 どの項目もいちいち心当たりがある。言い回しも自分が馴染んでいるもので解説してみると、以前よりはマシになったものの、まだまだやらかしてるなあと思う。

 

fernwelt.net

 

1.すべてか無か
 アスペルガーがやりがちと言われるのがコレ。中間がなく、極端から極端に振り切る。自分もすごくやりがち。ちょっとでもケチがつくと評価を極端に落として全否定してしまう。「ちょっとでもケチが」と言っても、本人にとっては世界の終わりくらいの衝撃なのだ。境界性パーソナリティ障害でも対人評価でこれをやるから、相手への評価が手のひらを返したように極端に変動する。「白か黒か」といった二分化思考にも顕れる。

 この傾向が強いと口癖のように、「常に~」「いつも~」「完全に~」「決して~」「絶対に~」を連発する。

 まず前提として「認知の歪み」があって、何か(誰か)を全肯定してしまう。そのため些細な欠点が大きな衝撃で捉えられてしまう。まず「完全なものなどこの世にはない」「完全な人などこの世にはいない」という、「当たり前な捉え方」を練習しよう。

 

2.一般化のしすぎ
 自分は「過度の一般化」と呼ぶが、1にも通じる極端な物の見方から出て来る極論癖。落ち着いて思い出してみればそうじゃないことも沢山あるのに、1~2の例を捉えて極端な論を組み立てる。または1~2度の出来事を「いつもそうなる」と過大に評価する。ある属性が犯罪者予備軍などと考えるのもこれの一種。(例:犯人がアスペルガーの事件が1つ起きると、アスペルガーは犯罪者予備軍と一般化する。自分がそうだから誰でもそうだと一般化する等。)

 これは論理性の弱さに関係している。少しの証拠を持って結論づけてしまう。その一方で、アスペルガーだとすぐ「70%の確立で」「85%はそうなる」など、サンプリングが明かに歪んだデータを元に思い込みを強めがちだ。まずは冷静になって「本当にそう言い切れるか」を考えてみよう。キーワードは「科学する心」。

 

3.心のフィルタリング
 自分は「視点の固定化」と呼ぶのだが、1つの悪い出来事で頭がいっぱいになり、別の視点を持つことができない。別の角度から考えることができない。自分に都合の良い判断材料だけを集めるのもこれの一種だし、逆に悪い材料ばかりを集めるのも同じ。客観的で妥当な判断に導くことができず、失敗を繰り返す。アスペルガーはこれが強く、違う角度から検証したりが苦手だ。応用力の弱さでもある。そうとなったらそれ以外は発想できなくなる。

 対処法としては他人に意見を仰ぎ、一旦は素直に耳を傾けるよう心がけよう。(検証した結果、納得がいかないと批判を加えるのは自由。その場合は十分な根拠を用意して反論するのが意見をくれた人への敬意となる。即座の反論・即日の反応は避けて、時間をかけて検証しよう。でないと意見を言ってもらえなくなる。)

 

4.マイナス思考
 悪い結果だけを予想する。良い兆候も悪い結果に結びつくと考える。ポジティブ思考の反対でネガティブ思考(否定的な思考)とも言える。うつなどになると明るい将来を想像できなくなるのもこれの一種だが、パーソナリティ障害の場合はそれが長期間継続する。

 悪いことを予想して準備するほうが万全だから必ずしも間違った手法ではないのだが、行き過ぎると物事の予想を正確につけることができない。「起こりやすさの確率」を考える習慣をつける。そして順番をつけてみる。そうすると最悪の事態の「起こりやすさの確率」はさして高くないことに気づく。

 

5.結論の飛躍
 論理的思考を放棄して、結論にジャンプする飛躍思考。悪いことが起きるほうが怖いから、そちらばかり考えてしまう。4のマイナス思考に近いが、こちらは予想というより結論を出してしまう。
 2つのパターンがあり、「心の読みすぎ」は相手の表情が一瞬でも曇ると自分に悪い感情を持っている・自分を嫌いだと結論づける。結論づける前に相手に確認してみよう。もう1つの「先読みの誤り」は、判断材料も揃っていないのに未来を悪くなると決めつける。4と対処方法は同じ。

 「悪いことが起きると怖い」と先回りして悪い可能性ばかり想定してしまう場合は、「そうなってもたいしたことではない。十分に対処できる」と自分に言い聞かせる。たいていの場合、何とかなることしか起きない。

 

6.拡大解釈と過小評価
 些細な出来事を拡大解釈し、自分に誇大に悪い評価を下す。自分の能力を過剰に高く見積もっていたり、自分への期待が高すぎると起きやすい。まず、そもそもが自分を過大評価しているのが原因。

 非常に大仰な考え方をするアスペルガーに見られる。表現もいちいち大仰だ。自分の重要性を軽く見たり、中二性を軽減することで対処する。自分は世界の重要人物ではないし、自分なんてたいしたことないと心がけて考えよう。(自己肯定感は下げないように注意。)

 

7.感情的決めつけ
 論理性や合理性、事実関係の確認による判断をせず、感情的に短絡した結論に飛躍する。5にも通じるが、判断の根拠が感情(情理的)であるところが特徴。本人は論理的なつもりでも、感情的になって極端なことを口走るときに起こりやすい。

 自分で感情的かを判断するのは難しいので、第三者に「感情的な意見か」を質問してみる。どこに論理の飛躍があるのかを指摘してもらえるとなお良い。相手が情理的な人だと質問しても意味はないので、相手を選ぼう。

 

8.すべき思考
 常に「~すべきである」「~すべきでない」と考えたり、言い回しを多用する。過去の出来事に対しても、起こったことを受け入れるのではなく「~すべきであったのに」「~すべきではなかったのに」と考えてしまうため、現状の受け入れができなくなる。「起きてしまったことは仕方がない」と考えるよう心がける。未来のことは「なるようにしかならない」と考えよう。

 また、他人の行いにも「~すべき」「~すべきでない」と考え、他罰的になったりパターナリズムを発揮したりする。結果、偏見が強くなり、簡単に差別的言動を行う。例:「まともな日本人なら~するはずだ。(~しないのは日本人ではない。)」2にも通じる。「他人のことはどうしようもない」と諦めるようにしよう。「関係ないし」と心になくても差し挟むようにする。


9.レッテル貼り
 2の「過度の一般化」にも通じる決めつけ。ラベリングは分類や把握のために必要だが、妥当でないラベルを貼ることにより認知を歪めてしまう。「そう判断するだけの十分な根拠があるか」を常に心がける。また、レッテルの意味を正確に把握する努力を怠らない。

 先読みの決めつけにも通じるから、「予想で怒る」ことをやめる努力をする。まだ起きていないことを「こうするに違いない」と予断を持って、先回りして腹を立てるのをやめよう。対処法は「怒る前に確認する」。

 

10.個人化
 「自己関連づけ」とも言い、出来事に対し過剰に自分の責任や関与を考えてしまう。夫の浮気に責任を感じる妻(自分が妻として駄目だから夫が浮気する)などが顕著。夫の浮気の原因が、単に「多数の女性と関係を持ちたい」本能的なものである場合でも、自分に関連づけて考えてしまう。一言で言うと自意識過剰。

 無関係な事象を自分に紐付けすることも多い。(鏡が割れたから悪いことが起きる等の迷信はたいていこのパターン。)本当に2つの事柄には関連性があるかを考える習慣をつける。自分に関しては、「自分はそれほど重要な人物ではない」と認識する。

 

◎合理的で根拠のある妥当な判断

 上の10項目を眺めると、認知の歪みと呼ばれるものには似たような傾向があることが分かる。無根拠な決めつけ・先読み・極端な判断・少ないデータでの言い切り・予想で断定などだ。データにこだわりすぎると、「データがあるのだから間違いない」と思い込む結果になる。「起こりやすさの確率」を意識するとその思考から抜けられるのだが、今度は確率に固執しはじめる。どこまで行っても極端なのだ。

 自分は本当に上の10パターンを絵に描いたように踏襲し続けていた。自分が固執したのは「合理性」「論理性」「妥当性」だったから他人からはあまり滅茶苦茶には思われない面もあったが、決定的に抜けていたのが「妥当な根拠」だった。口では「根拠、根拠」と繰り返すくせに、自分が提示する根拠が十分か、サンプリングが偏ってないか、妥当かはほとんど気にしなかった。非常に悪い癖で、今でも極論を言う傾向はある。

 認知の歪みは「悪い癖」でもある。習い性というやつだ。良い癖というものがあるかは知らないが、少なくともこれらは悪い癖だ。思考の癖を取る時に気をつけると良いのは、頭の中で使う言葉を含めた表現。口に出す場合は更に注意が必要。たとえば「べき」を使うのを一切やめてみるとか「絶対」を使わないとか、そういう些細なことでも効果はある。言葉の持つ力は非常に大きい。人間は言葉でしか思考できないからだ。