言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

境界性パーソナリティ構造

 図書館で借りた『境界性パーソナリティ障害のことがよくわかる本』(講談社)に「境界性パーソナリティ構造」というチャートが載っていて大変興味深かった。(同書、P24~25)

 チャートはここに書けないので関係が分かるように書き出してみる。チャートの出典は、『精神分析研究』第40巻第2号(岩崎学術出版社)。

 

・境界性パーソナリティ構造:境界性|→自己愛性→悪性自己愛性→反社会性 外交的↑

                 |→演技性―→依存性

                 |    |→ヒステリー性格

                 |→軽躁病―→気分循環性――→うつ病被虐性格

 

             シゾイド|→妄想性→サド・マゾ的性格→うつ病被虐性格

                 |→心気症性→妄想性→強迫性

                 |→失調性              内向的↓

 

 ちょっと分かりにくいのだが、境界性とシゾイドをベースのパーソナリティ構造とし、境界性が自己愛性を経て悪性自己愛性に至り、反社会性パーソナリティ障害に進む。境界性は自己愛性にならず演技性になる場合があり、その場合は依存性かヒステリー性格へと進む。または軽躁病を経て、気分循環性に進み、うつ病的被虐性格に至る。

 シゾイドは妄想性を経てサド・マゾ的性格に進み、うつ病的被虐性格に至る。または心気症を経て妄想性に進み、強迫性に至る。またはシゾイドから失調性に進む。ここで言う失調性は、統合失調症型パーソナリティ障害ではないかと思う。妄想性の妄想の内容は多く被害妄想で、統合失調症の妄想型とは内容が違うようだ。

 上の書き方では、外交的なほど上に、内向的なほど下に並べた。境界性は中間から少し外交的、シゾイドは内向的な性格とされる。自己愛性や演技性はかなり外交的な性格だ。境界性全体では「回避型境界性」がいるので「かなり外交的」とまでは言えないが、「かなり外交的な境界性」ももちろんいる。

 

◎パーソナリティ構造とは

 

 これらの性格分類を「構造」でさらに分類している。

・低レベル境界性パーソナリティ構造:境界性、軽躁病、シゾイド、妄想性、心気症性、失調性

・高レベル境界性パーソナリティ構造:自己愛性、悪性自己愛性、反社会性、演技牲、依存性、気分循環性、サド・マゾ的性格

神経症性パーソナリティ構造:ヒステリー性格、うつ病被虐性格、強迫性

・精神症性パーソナリティ構造:非定型精神病

 低レベル・高レベルというのはベース型の境界性、シゾイドからの離れ具合なのだろうと思う。

 

 これを見て、得心がいった事がいくつかある。以前から境界性をこじらせると自己愛性に進むのではないかと考えていたのだが、ここでは関係がそのように図式化されている。自己愛性と反社会性も同じだ。境界性、自己愛性、反社会性には共通した特徴もあり、構造の近さをかんじさせる。また、演技性や依存性も似た点がある。しかし、演技性と自己愛性には共通点が少ない。

 もう1点は、自己愛性にはかなり邪悪な性格が見られる場合があり、反社会性との共通点を以前から指摘しているが、「悪性自己愛性」という定義を用いれば、スッキリいくと気づいた。僕がソシオパスとして「良心の欠如」や「共感の欠如」を特徴として上げるパーソナリティだ。

 

 さらに同書には、

・境界性パーソナリティ構造は、神経症レベルと精神病レベルの中間的な存在として位置づけられいます。現実との関わりを失うほどではありませんが、さまざまな問題をかかえやすい状態です。

カーンバーグの唱えたBPO(境界性パーソナリティ構造)は、さまざまなタイプのパーソナリティ障害を含む概念です。現在、診断名として用いられている境界性パーソナリティ障害は、BPOのなかの一部の状態を指しています。

・成人の発達障害にみられる衝動性や、うつ病にみられる気分の浮き沈み―これらは境界性パーソナリティ障害の症状とよく似ており、関連が疑われています。複数の障害をあわせもつ状態と診断されることもあります。

と解説がついている。

 本来、境界例は「精神病と神経症の境界」として定義され、そこから境界性の定義が出来ていった。典型的な境界例は幻聴・妄想を伴う場合もある。それが境界性となると「問題のあるパーソナリティ」につける診断名みたいになってしまい、現実との関わりが希薄なシゾイド(統合失調質)と対比的に、他者に積極的に関わっていこうとするタイプ(能動性が高い人格)が境界性とされた。この時には「精神病と神経症の境界」という意味は失われ、「さまざまな問題ある人格の境界」という意味に変わっている。何の「境界」かの意味づけが変わっているのだ。

 

◎必ず悪化するとは限らない

 

 上のチャートで注意して欲しいのは、すべての人がチャートの右のほうへ進むのではなく、停滞する人も多い。境界性のままで自己愛性に進まない人のほうが数は多いだろうし、自己愛性の人がかならず反社会性に進むわけではない。むしろ進んでいくほうが少数派だろう。

 通常、境界性や演技性は年齢を重ねると軽減すると言われている。軽減せず「こじらせた人」が自己愛性に進んだり、反社会性に進んだりする。個人的にはこのタイミングは30代ではないか、と考えている。良性の自己愛性なんてパーソナリティはあまりないとは思うが、悪性自己愛性にまで至らず、自己愛性で止まる人もいるだろう。それは一定の成功を手にし、ある程度の満足を自分の人生に感じられた人達だ。そうでないと悪性に進むのではないかと考えている。悪性に進まない人は「自己中な人」という評価程度で済むんじゃないだろうか。

 同じように、シゾイドも心気症や妄想性に進まず、シゾイドのまま生涯を終える人もいるだろう。サド・マゾ的性格とは、性的嗜好で言うサドマゾの事ではなく、サディスティック・パーソナリティ障害やマゾヒスティック・パーソナリティ障害の事だ。このパーソナリティについては矢幡洋先生の『パーソナリティ障害』(講談社選書メチエ)に詳しい。

 

◎境界性は邪悪な性格、でも改善は可能

 

 個人的には境界性は邪悪だと思っている。僕自身が診断されているのだから、これは悪口ではない。愛着障害だけなら邪悪さはない。しかし境界性は人を相当意地悪く試そうとしたり、操作しようとしたり、裏切られたと感じた時には猛烈な復讐心を燃やす。総じて害意が強い。そして自己愛性と並んで「フェアネス」の感覚が欠如している。一方的に要求を叩きつけ、それが叶えられる事を期待する。

 しかし、この邪悪さは子供のような無知さや想像力の弱さによって起きている場合もある。自分のやってる事を相手の目線で見る習慣をつけ、フェアネスの感性を磨くと、短期間でも見違えるほど改善する。下位承認を求めるのをやめて(これが一方的な要求の根拠になりがちだからだ)、対等な関係を築く。どっちが上だ下だとか言い立てるのをやめ、被害者に回り込むのをやめる。被害者根性を捨てること。公明正大な人間であろうと努力すること。これだけでも相当に改善する。自己愛性に比べたら、境界性は改善が容易だ。

 間違えてはいけないのは、「他人に良く思われよう」ではなく「良い人間に自らなろう」と考えること。他人に良く思われようとすると依存性が悪化したり、ズルさを身につけてしまい自己愛性に進みやすくなる。自己評価が一定しないとか自分の価値観が一定しないのが境界性という説もあるので(僕はこれがまったくないけど)、そう感じたらまず「自己確立」を目指すのが良い。「自分をしっかり持つ」。そうすれば他人の評価や判断に振り回されにくくなる。

森田療法について

 森田療法というのがある。慈恵医大の森田正馬博士が創始した精神療法だ。知ったのは随分昔だが、自分に合っているので今でも調子が悪くなると行う。若い頃から仏教の影響が強かったので、馴染みやすい考え方でもある。ただし見よう見まねで、ちゃんとした治療は受けたことはない。

 

◎「あるがまま」を受け入れる

 

 森田療法は禅からアイディアを採っている。「あるがまま」を肯定し、「とらわれ」から離れることを目標とする精神修養だ。

 ウィキペディアから森田の言葉を引用する。

 

・治療の主眼については、言語では、いろいろと言い現わし方もあるけれども、詮じつめれば「あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がない、あるがままでなければならない」とかいうことになる。

・ことさらに、そのままになろうとか、心頭滅却しようとかすれば、それはすでにそのままでもなく、心頭滅却でもない。

当然とも、不当然とも、また思い捨てるとも、捨てぬとも、何とも思わないからである。そのままである。あるがままである。

暑さでも対人恐怖でも、皆受け入れるとか任せるとかあるがままとかいったら、その一言で苦しくなる。

強迫観念の本を読んで、「あるがまま」とか、「なりきる」とかいう事を、なるほどと理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、既に「あるがまま」ではない。

 

 といった具合に、禅問答めいている。

 禅宗の影響が強い僕には森田の考え方は合うのだが、森田神経質でない人にはまったく効果がないどころか悪化する場合もあり、また「治らないのは自分が悪い」と思い込む心配もあり、誰にでも勧められる方法ではない。

 

◎治せるのは森田式神経質のみ
 
 森田療法に向いているのは、以下のような気質の人とされる。

 

・内省的な性格(自分が悪いのじゃないかと発想できる精神)

・細かいこと、些細なことを気にする(繊細である)

・完全主義(から来る心配性、および心気症)

・プライド・自尊心が高く、負けず嫌い(闘争心がある)

・治りたいという強い意志、生きようとする意志、向上心が強い(意志的である)

・論理的、理屈で物を考える(論理的である)

 

 といった性質から神経質な気質を持っていて、それが原因で神経症を発症したものを「森田式神経質」と呼んでいる。

 項目を見て頂くと分かる通り、森田式神経質の人は素質が高い。しかし適応力が低いため、舵取りが難しい。その舵取りを習得するのが森田療法ということだろう。

 

◎療法の方法と過程

 

 森田療法禅宗生活様式を取り入れている。禅宗では坐禅をするのと同じくらい重視されるのが「作務」と呼ばれる作業だ。掃除と調理が中心。森田療法は精神修養と言われるのはこのためだ。

 まず布団に横になったまま、何もしない期間がある。動きたくなるまで、いや動かずには我慢できなくなるまで、食事とトイレ(と洗面)以外はただひたすら横になっている。他人と会うことも避ける。こうすると内面に眠っている生命力が目を覚ます、という考え方だ。

 動きたくて我慢できなくなったら、布団から出る。身の回りの片付けなどの軽作業をする。人と顔を合わせても話したりしないようにする。

 体が慣れたら、作業期に入る。起きてる間は常に体を動かし続け、余計なことを考えない。目の前の作業に集中する。人とは事務的な要件のみを話す。作業は義務化してはいけないので、毎日同じことをする必要はない。やりたいことをすると良い。

 最後に社会に戻る準備期間を置いて完了。

 

 この方法の良くできている点は、最初に横になったまま一定期間を過ごすことで、疲れた体と神経を休める点。何もしないで寝ているというのは結構つらい。うつ期なら眠れるが、そうじゃないならそんなに無闇には眠れないが、本人の疲れ(ダメージ)が酷いほど長期間寝ていることになる。

 入院ではこの期間が決まっている(5日~1週間)が、ジッとしていられなくなるまで半年でも寝ていると良い。その間、焦りなどもすべて放置してしまう。禅宗の言葉で「放下著(ほうげじゃく)」という奴だ。意味は「(すべて)捨て去れ」。何も抱え込まず、すべて手放してしまえという意味。

 人と会わないのは重要なポイント。人と話すと刺激を受け、反応が出てしまう。反応は自分の本来の考えと違う場合もあり、外部からの影響を受けたことになる。外部からの影響を遮断することが「自分本来」を再発見するために重要なのだ。

 入院だと軽作業期が3日~1週間だが、作業期への移行は「もっと動きたい」「もっと動ける」という内面の声に合わせると良い。寝ていた期間が長ければ長めに体を慣らす。体力と気力があるなら早めに作業期に移行する。軽作業期は長すぎてはいけないので、1週間以内。

 軽作業期でも作業期でも、何かをする時は目の前のことに集中する。全身全霊で取り組む。作業が完了したら、十分に達成感を味わう。これは自信を取り戻すことにもつながる。作業は何でも良いが、できるだけ単純なものが向いている。掃除、調理、土いじりなど。

 作業期は早寝・早起きで規則正しい生活をする。遅くとも朝5時には起き、夜9時には寝る。早寝・早起きをしていると夜には頭が働かなくなり、余計な考えを巡らさなくなる。

 

◎適用症状

 
 森田療法の適用は以下のような症状とされる。

・不安障害

パニック障害

対人恐怖(社会不安障害

強迫性障害

心気症(自分はどこか悪いのではないかと常に心配する不安障害)

自律神経失調症

森田式うつ(抑うつ神経症

不眠症

 

 今はうつ病抑うつ神経症を同じものとすることが多いが、森田式では分けて考える。若年性抑うつ神経症などとも呼ぶが、思春期から壮年期に発症する原因のあるうつ状態適応障害で、器質的なうつ病とは分けて考える。

 以前はうつ病にはこの2つがあるとされたが、今は医者も区別しない。抑うつ神経症は比較的短期間で完治すると言われる。器質的なうつ病は数年かかるとされる。更年期や高齢期に出るうつ病は器質的なものと考えられている。(器質的とは、セロトニン量の低下、セロトニン受容体の不足、その他の脳内の不調などで、治療には投薬を必要とする。)

 

welq.jp

 

森田療法の問題点

 

 「あるがまま」という考え方は分かりにくく誤解を与えやすいという指摘もある。あるがままを肯定するという事ではない。どうしたって肯定できない部分はある。有り様を「そのままにしておく」という意味に近い。肯定も否定もしない。評価を下さない。ただ、そのようにあるのだからどうするか、を考える。このあたりは仏教の「無分別智」に通じるので、少々理解しにくいと思う。

 また、森田療法は精神修養に近いので、治癒した者に独特の「くさみ」があるとも言われる。まるで悟りでも開いたように(実際、完治することを「悟る」と呼ぶ)他人に意見する人が出てくる。これは他の療法でもよく見かける光景だが、迷惑極まりない。

 向き・不向きの大きい森田療法は誰彼構わず勧めるものではないし、「やりたい」という本人の意志が何より重要だ。しかし、「これで絶対治ってやる」という力みはしないほうが良い。先入観なしに、ただ自分の内部で起きることを観察する。「一か八か」といった気持ちのほうが良い気がする。

 「治る」と言っても気質が変わったり、神経質でなくなったりはしない。薬も使わないことが多いらしい。自分の神経質な気質を上手くハンドリングする方法を学ぶ、という感じだ。

【本】発達障害という希望(2) ― 多動スペクトラムと自閉症スペクトラム

 『発達障害という希望』(石川憲彦・高岡健著、雲母書房)の中で、「多動スペクラム」という言葉が出て来る。高岡健医師の造語らしい。ADHDの特徴とされるものを自閉症スペクトラムと同じような「連続帯」での濃淡として捉える、という考えだ。(同書P47)

 

◎多動スペクトラムはMOAT

 

 ADHDの特徴とは「MOAT」という4文字の頭文字で表される

 ・Movement(動作)

 ・Organization(段取り)

 ・Attention(注意)

 ・Talkative(しゃべること)

で、「動きが多い」「段取りが悪い」「注意集中の持続時間が短い」「おしゃべり」の4つがどれくらい強いかでスペクトラムをはかるという考えのようだ。通常の指標とされる「不注意・多動性・衝動性」から衝動性を外している。片岡医師によると、MOATの傾向が強い人が全員、衝動的とは限らないから、だそうだ。

 

 僕の二番目の姉は多動スペクトラムの人だと思う。僕と長女は自閉症スペクトラムなのだが、二番目の姉だけは子供の頃からタイプが違う。活発で、動きが多く、友達が多く、段取りが悪く、注意力が散漫だった。話にまとまりがなく、何の話をしているか分からない。だから部屋は散らかっていて、何をするにも手際が悪い。

 僕も段取りはそんなに良くないし、部屋も散らかっているが、下の姉のそれは度を超している。ちなみに長女は神経質なくらいきれい好きで、部屋を散らかしていた事はない。しかし、もちろん下の姉にしても「障害」というレベルではない。調理はできるし、生活に支障はない。

 「動きの多さ」で特徴的だと感じるのは、スーパーに行った時だ。僕はスーパーに行くと、(買う物が特定されていなければ)端から回る。彼女は真っ先に、買いたい物の場所に移動する。買う物を思い出しては、その場所に移動する。つまり動線が滅茶苦茶なのだ。だから同じ物を買うのでも歩く距離が多い、となる。見ていてなかなか飽きない。

 

◎「障害」の文字は要らない

 

 片岡医師の考えによると、スペクトラムは1つの線上にすべての人が収まるから、障害とつける必要がないのだそうだ。だから、多動スペクトラム障害ではなく「多動スペクトラム」だけ、自閉症スペクトラム障害ではなく「自閉症スペクトラム」とだけ呼ぶのだそうだ。

 この2つの基準、つまり二次元のグラフのどこかにすべての人が収まる、という考えだろう。多動も自閉症も強い人もいれば、多動も自閉症も弱い人もいる。どちらの軸も、どこかの点から先が実質的に「障害」と呼ばれる領域になる。それは注意力不全であったり、コミュニケーション不全であったり。多動がなくて注意力不全だけならADD(注意欠陥)となる。

 「障害の文字は要らない」と言っても、配慮が不必要という意味ではない。本人の状況に応じた配慮を必要とする。これを高岡医師は「骨折によって全く歩けなくなれば、身体障害者ではなくても車いすを利用することがある」と説明する。状況に応じて支援するのであって、それが障害かどうかを問う必要はない、との主張だ。

 この考えには賛否があるだろうと思う。障害と呼ばれたい人もいれば、呼ばれたくない人もいる。障害とされる事で安心する人もいれば、自尊心を傷つけられる人もいる。しかし、知的障害の例を見れば分かるように、障害か障害じゃないかを白黒の2つに分けて障害だから支援しましょうとすると、障害に入れて貰えなかったグレーゾーン人達は健常として何の支援も受けられず、能力が低い事を罵られながら働かなければいけなくなる。人の能力は白黒の2つに分けられるものではない、という考えには賛同できる。

 

◎3つの学習障害

 

 一方で、学習障害についてはスペクトラムの考えを採らないらしい。理由は、上と逆で「できるかできないか」の白黒の話で済むから。ただ、算数障害についてはジャンルの問題があるので単純に「計算ができない障害」とは言い切れない気はする。

 学習障害は読字障害・書字障害・算数障害の3つがある。読字と書字が同時にあれば識字障害になる。読むことはできても書くことができない人、書くことはできても読むことができない人を含め識字障害とすれば、それと算数障害の2つが学習障害という事になる。

 実際には僕のように漢字名が覚えられない人や、発達の人によくいる、空間認識能力が低い人もいる。空間認識能力が低いと図形が苦手とか、立体が分からないとかが起きる。日本語は問題がないが、アルファベットがどうしても覚えられない人もいる。しかし、これらは学習障害には入れないらしい。

 読字障害はディスレクシア、書字障害はディスグラフィア、算数障害はディスカリキュアと呼ぶ。

 

ディスレクシア(読字障害)
 似た文字が区別できない。文章を読んでいるとどこを読んでいるのか分からなくなる。字を読むと頭痛がする。文章を逆さに読む。読んでも内容を理解することができない、など。

・ディスグラフィア(書字障害)

 黒板の文字を書き写すことが難しい。鏡字を書く。作文が書けない。句読点が理解できない、など。

ディスカリキュア(算数障害)
 数字や記号を理解したり認識したりできない。簡単な計算が出来ない。(指を使うとできる場合がある。)繰り上がりや繰り下がりが分からない。数の大小の理解ができない、など。

 

自閉症スペクトラムの問題点

 

 興味深かったのは、以前にもチラチラと触れている自閉症(カナー型)とアスペルガー型の違いを無視し、一括りにして自閉症スペクトラムとしたという話。アスペルガーハンス・アスペルガーというオーストリアの小児科医が提唱したものを、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが発掘し解釈したもの。カナー型はレオ・カナーという児童精神科医が定義したもの。カナーは自閉症を病気と認識し、アスペルガーは発達の1つの形と捉えていた。

 つまり、切り口のまるで違う定義を1つに結合させてしまった。ローナ・ウィングは高機能自閉症アスペルガー症候群を区別しない立場だと以前にも書いた通りだ。一方でアスペルガー自身はアスペルガー症候群を人格の面から見ていた、という話も他で読んだ。言うまでもなく、自閉症は人格の問題ではない。

 

 僕自身もこの用語の統合には思うところがある。例えば知的障害発達障害の1つだから、知的障害の人が発達障害と名乗ったとしても何ら問題はないのだが、発達障害とあえて言う場合は「知的障害がない」を補填して解釈してしまう。何故なら知的障害の人は通常、知的障害と名乗るからだ。それを、知的障害はイメージが悪いからだろう、発達障害ですと名乗る人が出てきた。

 自閉症と名乗れば通常は「知的障害を伴った」を補填して解釈する。しかし「発達障害自閉症」と名乗れば、高機能自閉症のほうだと理解してしまう。他人においそれとは知的障害があるかは聞けない。医者相手でない限り、自己申告なのだ。もちろん、知的障害の人だから概念が分からず間違って使っている可能性もある。しかし、知的障害がないと前提されて言動を見ると、明らかに本人にとって不利な判断をされてしまうのだ。上で書いたように「知的障害に入れて貰えなかったばかりに支援を受けられない人」と同じになる。

 また高機能自閉症アスペルガー症候群もかなり違う「状態」の場合が多い。まず、アスペルガー症候群の人には「言語の遅れ」がない。独特のアスペルガー言葉をしゃべろうとも、一般的な言葉が理解できない、という事は起きない。が、高機能自閉症の人には「言語の遅れ」がある。言語でコミュニケーションを取る以上、この違いは大きいのだ。

 

 自閉症スペクトラムとは、「臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心・やり方・ペースの維持を最優先させたいという本能的志向が強いこと」を特徴とする発達障害の一種、と説明される。全然ピンと来ない。これでは「ただの性格」と思われても仕方がない言い方だ。「融通が利かない」と言えばイメージできるものがあるが、実際には一般的に言う「融通の利かない人」とはちょっと違っている。

 LGBTという言葉があるが、今では+QAだけではなく12種類あるとも言われるSOGI(性的思考と性自認)。パンセクシャルやデミセクシャル、フルィドなど多彩だ。煩雑に感じるかも知れないが、本人が自分の状態を説明するのに便利なように細分化され、それを表す言葉がどんどん作られている。一方で、発達障害の用語は統合されていく。おかしなものだ。

 元アスペルガーの人は「言語の遅れと知的障害のない自閉症スペクトラムの広汎性発達障害」と自己紹介しなければいけないのだろうか。アスペルガーにはこれらの意味がすべて含まれていた。アスペルガーアスペルガーなのだと言いたい。

【本】発達障害という希望(1) ― アスピーの特徴

 『発達障害という希望』(石川憲彦・高岡健著、雲母書房)のP78に以下のような一覧がある。アスペルガー症候群のポジティブな特徴という感じで、大変勇気づけられた。少々、長いが全文を転載する。

 自分はかなり当てはまる(自惚れかも知れないけど)と思う。

 ちなみに、Aspie(アスピー)とは、英語でアスペルガー症候群を差別的でなく好意的に呼ぶ場合の愛称らしい。(アーバン・ディクショナリーより) 

 

「AttwoodとGrayによるAspieの発見基準」
A.ほぼ以下の形をとる対人的な交流における質的な強み
 1.絶対の忠実性と完璧な信頼性を特徴とする友人関係
 2.性差別的、年齢差別的、文化差別的な偏見がない/「額面価値」で他者を評価できる
 3.人間関係に左右されず、あるいは個人的な信念に忠実に、自分の考えを述べる
 4.相矛盾するエビデンスがあっても自説を追求することができる
 5.次のような聞き手や友人を探し求める。
  ユニークな興味関心事や話題に熱中できる人/微に入り細を穿った考察ができる人/たいした利益はもたらさないかもしれないような話題を話しあうことに時間を費やすことができる人
 6.常に意見や思い込みを挟むことなく話が聞ける
 7.主要な関心は、会話に意味ある貢献をすることにある/社交儀礼的雑談や瑣末な世間話や中身のない浅薄な会話は避けたがる
 8.控えめなユーモアのセンスがあり、誠実で、ポジティブな、真の友人を求める
 
B.以下のうち少なくとも3つによって特徴付けられる社会的言語であるアスペルガー言葉を流暢に話す
 1.真理を探究しようとする決意
 2.暗黙の了解事項のない会話
 3.ハイレベルの語彙と言葉への興味
 4.駄洒落のような、語に基づくユーモアを愛好
 5.たとえの絵による表現が高度
 
C.以下の少なくとも4つによって特徴付けられる認知スキル
 1.全体より細部をとても好む
 2.問題解決の際に独創的で、しばしばユニークな考え方をする
 3.並はずれて優れた記憶力や、しばしば他人は忘れたり無視することを詳細に想起する力。たとえば、名前、日付、予定、ルーチンなど
 4.興味のテーマに関する情報を集めたりカタログ化することに熱中する
 5.粘り強く考える
 6.1つあるいはいくつかのテーマに関して、百科事典的あるいは「CD-ROM」的に博識である
 7.ルーチンを理解し、秩序と正確さの維持を重点的に望む
 8.価値判断・意志決定が明晰で、政治的な、または金銭的な条件ではゆるがない
 
D.付加的特徴としてあり得るもの
 1.特定の感覚経験や感覚刺激に対する鋭い感性:たとえば、聴覚や触覚、視覚、嗅覚に関して
 2.1人でするスポーツやゲームが得意。特に次の項目が関係するもの
 3.持久力や視覚的正確さ。たとえば、ボート漕ぎ、水泳、ボウリング、チェスなど
 4.人を疑わない楽天主義者で、「集団の中では縁の下の力持ち」だが、対人関係が下手なためによく被害者になる
 5.一方では、真の友情の可能性を固く信じている
 6.高校卒業後、大学に進学する可能性が一般人口のそれよりも高い
 7.障害が明瞭な人に対してはとてもよく世話をすることがよくある

(出典:『精神科臨床サービス』第11巻02号(星和書店)) 

 

 当てはまるのはA-6を除くA全部、B全部、C全部、Dー1,5,7。
 A-6を除外したのは、思い込みは除外できるが意見(特に批判的なもの)は差し挟む事が多いのと、話題に興味がないと飽きっぽいから。人の話を聞くのは得意なほうではないが、興味のある話なら長時間聞けるといった具合にムラがある。(これは積極奇異型と受動型が混じっている自分の特徴かも知れない。)
 D-2,3はスポーツがあまり得意ではないから。ただしチェスやオセロ、花札などは結構好きだった。(強いかは別問題として。)ただし勝負にこだわり過ぎるので、ゲームを楽しめないのであまりやらない。
 D-4を除外したのは「よく被害者になる」が当てはまらないから。それ以外はだいたい当てはまる。目立つ位置にいるより参謀的に裏方に回るのが好きだ。(目立つのが嫌いだから。)
 D-6は以前にも書いた通り、受験には失敗したので。(受験、舐めすぎてました。)

 

 それ以外はどれも納得できる内容だが、特に「アスペルガー言葉」というのが興味深かった。感情表現をあまり差し挟まず、理屈っぽく、文語体でくどく、たとえ話が好きだ。語彙へのこだわりは相当強く、相手がしゃべってると語彙で引っかかる事も多い。
 A-2の「差別的な偏見がない」は、おそらく「区別が弱い」特性、つまり概念の獲得のしにくさに原因がある。「これこれだからこう」という決めつけが入りにくく、人がそれを言った時に懐疑的になる。理由が分からない事は飲み込めないのだ。一方、自分が観察して確信した事には頑固で、考えを修正するのに時間がかかる。(というかエビデンスを要する。)
 D-1の感覚特性は、前にも書いたように五感の視覚・聴覚・味覚・触覚が過敏で苦労する。嗅覚が弱いのも困る時はあるけど、鋭敏なよりはマシだろう。聴覚が過敏と言っても言葉の聞き取りは悪く、アナウンサーのようなしゃべり方ならほぼすべて聞き取れるけど、ちょっとでも滑舌の悪い人のしゃべってる事は聞き取れない事も多い。
 聴覚で最近気づいたのは、音がどこから聞こえてくるのか、方角がよく分からない。この原因は、壁などに反響している音まで拾ってしまうためじゃないか、と思う。近距離だと時差がないから、同時にあちこちから音が聞こえている状態になり、音源がどこか分からないのだ。これが小さな音でも起こるのでちょっと厄介。

 

 何にしても、こういう表現をして貰うと「障害」という意識はなくなり、自尊感情さえ持てる。というか、これらの特徴を僕はそんなに嫌いではない。漢字名を驚くほど覚えないとか、化学記号を殆ど覚えられなかったとか、英単語を覚えても覚えてもどんどん忘れるとか、少々記憶力に問題はあるものの全般的に記憶力は良く、集中力も持続する。上手く使えば学校の勉強もできたはずなのだが、いかんせん興味のない事には意識が向かない。
 かと言って、「障害じゃない、特徴だ」と言い切ってしまうのも困る人が出てくる。この本ではそのあたりの事にも触れていて、色々と興味深い。以後、気になった点を覚書的に何点かまとめておきたい。

雑記:このブログについて

 こんなブログでも、有り難い事に思ったよりアクセスが多い。さすがHatenaといったところか。半分以上がグーグル検索で飛んでくるらしい。ヤフー検索と合わせると、検索で飛んで来る人がアクセスの8割を越える。

 どんなワードで来るのかと言えば、一番アクセスが多いのは「ミソジニー」(15%)だった。次が「パーソナリティ障害」(10%)。この2つはだいたい不動で、後は見るタイミングで順位が入れ替わる。

 ミソジニーのアクセスが多い一方、ミサンドリーのアクセスは5%。世相を反映していて面白い。

 

 他に多いのは「アスペルガー」をキーワードにして飛んで来る人。今では自閉症スペクトラムに変更になって、アスペルガーという言葉は正式名称としては使われなくなった。しかしアスペルガーはやはりアスペルガーとしか言いようがない。自閉症とは違う、何か独特の人達だ。

 そう言えば「東大生の4人に1人はアスペルガー」なんて言う人もいるらしい。そんなわけないと思うが、一般人がそう感じるのも故無き事ではないだろう。淡々とした平坦な口調とか、妙に理屈っぽい言い回しとか、情緒的な物言いが出来ない点とか。実際、僕はこういう話し方のおかげか、人から頭が悪いと思われた事がない。利口ぶってるつもりは毛頭ないが、勝手に「頭が良い」と思って貰えるらしい。そう思われるのは仕事の場では有利なので有り難い。(営業トークが苦手なので営業には向かないが。)

 

 次いで多いと思われるのが「Xジェンダー」。日本語独特の和製英語でもあるし、分かりにくい概念なのだろう。十分に説明できているか分からないが、参考になっていれば嬉しい。

 Xジェンダーは、英語ではジェンダークィアと言う。クィアには変態という意味があるから、僕は抵抗がある。自分を変態と思う事はないし、どちらかというと性的には大人しいというか、あまり変化を好まない。人とちょっと違うかなと思うのは異様に尻が好き(男女ともに)な点くらいだ。いわゆる尻フェチに入るかも知れない。

 前にも書いたけど、クィア性というのは個人の自覚としてあると思う。変態に限らず、通常とは違うとか、極端な個性とかがそれに当たるかも知れない。が、それはあくまで本人の自覚や自己定義として語られるべきもので、他人から変態呼ばわりされる筋合いはない。だから僕がFTMだとかXジェンダーだとか言った時に、人から「クィアですね」と言われたら、きっとムッとすると思う。

 

 あと、ビックリしたのは某所で「性別違和です」と言ったら、「LGBTなんですね」と言われた事。僕はTでGかも知れないが、LでもBでもないから、ちょっと面食らった。またXジェンダーはLGBTには含まれていない。(だからLGBTQAなどと付加される場合もある。)

 日本では「LGBTです」という自己紹介があって奇妙だと誰かが書いていたけど、「ゲイです」「レズビアンです」「バイセクです」「トランスです」「Xジェンダーです」「アセクシャルです」という自己紹介はあっても「LGBTです」という自己紹介はあり得ない。

 厳密に言えばXジェンダーはエクストラ(extra)のXだから、LGBTには含まれていない。T=Xと解釈されるのだろうけど、Xの人達が必ずしも自分をTと認識しているかは分からない。僕も特にトランスな事をしている訳ではないから、Tと名乗る事はない。FTMとは名乗る。もっとシンプルに「男です」と言いたいのだけど、それだと唐突過ぎて相手が理解できないだろうと思うのでFTMと言うことにしている。

 

 閑話休題。グーグル検索は記事中のワードも反映するのだろうけど、タイトルは重要だなと思った。もうちょっと気をつけて具体的なタイトルをつけるよう心がけようと思う。

 それと個人体験をもっと書いていったほうが良いのかな、と思う時もある。やはりブログの面白さは誰かの人生の断片を垣間見る事じゃなかろうか。僕の人生なんて退屈で派手な出来事は全然ないけど、何かの参考になる人もいるかも知れない。

 あと、もっと読みやすくできないものかとは思っている。文字数が多いのも読むのが大変だと思うし、表現の硬さは個性と諦めてもらうとしても、小見出しをつけるとか工夫の余地はあるかも知れない。

ミラーニューロンが弱くても社会性は獲得できる

 僕はひねくれた子供だった。この性質はかなり初期に形成されていたらしい。幼稚園は寺だったのだが、悪い事をすると本堂に正座させられ、「お釈迦様に謝れ」と言われた。「木偶人形なんかに謝っても無意味だ」と考えたのを覚えている。小学校の高学年の時、教師が「私達が生きていられるのは戦争をおやめになった天皇陛下のおかげです」と言った。「戦争をとめる事ができたなら始める事もできたはずだ。だったら戦争になったのはそいつのせいじゃないのか」と腹の中で反論したのを覚えている。こんな風にとてもひねくれていて、大人の言う事を素直に聞く事は殆どなかった。

 僕は人間から倫理を学ぶ機会がなかった。人間は信用も尊敬もできない相手だったからだ。僕が基本的な社会性を学んだのは猫をはじめとする動物達であり、だから子供の頃は動物的な価値観しか理解できなかった。しかし小動物や虫は俯瞰して観察する事ができる。それが僕にわずかながらメタな視点を与えた。俯瞰して見ると宜しからぬ行動は色々とある。しかし自分を俯瞰する事はとても難しい。

 僕には道徳心というものがない。ただ自分の美学があり、それに従って行動していただけだ。自分を取り囲む様々な文化から摂取したその美学はそれなりに良いものだったが(弱い者イジメをしない、ズルをしない、卑怯な真似はしない、格好悪い事はしない、おべんちゃらは言わない等)、いかんせん法律を守るという概念は持ち合わせていなかった。だからいくつになっても飲食店から灰皿やスプーンをくすねた。「ズルはしない」と小物をくすねるという行動の矛盾に気づいていなかった。

 

 人間社会への信頼というものが決定的に欠如していた。いつでも人を疑っていたし、他人はズルく立ち回ると思っていた。僕が盗むのをやめるのには、あるきっかけがあった。山手線の窓からホームを何気なく見ていたら、会社員の男性が、店員が留守のキヨスクから新聞を取って代金を置いて去って行った。その瞬間、何故か分からないが涙が出るほど感動し、「より良い世界の側に荷担したい」という欲望が起こった。

 何故そんなに感動したのかは分からない。でも、その衝撃は僕に理想を与えた。おそらく「自分が格好良く振る舞うための美学」以外の、初めての社会に対する理想だった。世の中がどうあるべきか、その時から考え始めた。僕には尊敬する人間というのはいない。ガリレオダ・ヴィンチは子供の頃から天才で凄いと思っていたが尊敬とは違う。その能力を評価しているだけで人間性は問わない。その会社員男性の行動に敬意を感じ、初めて人を尊敬したかも知れない。

 

 子供の頃に感じた「おかしな事への懐疑」は間違っていないと確信している。他にもある。僕の親は店を経営していたのだけど、僕には過剰に客の機嫌を取る接客が理解できなかった。それが理解できたのは大人になってからだ。「付加価値」という事なのだ。客に敬意を払い、丁寧に接する事は店の価値を高め、客の質を良くするのだとやっと分かった。こうして、概念を獲得する事に時間がかかる僕も、少しずつ社会の枠組みを理解した。

 本堂に飾られた木偶人形に謝罪する事は、自分の心と向き合う事だ。人にではなく、メタな存在に対する敬意と忠誠心を育てようという試みだ。僕は南天の葉をむしって叱られたから、南天の木に謝るべきだと思った。でも、南天の木と本堂の木偶人形は「繋がっている」のだ。僕が宗教心を理解するのも、大人になってからだった。

 単に集団に追従するのではなく、理由を具体的にはっきりと理解しながら社会とは何か、望ましい人間とは何かを考え続けた。これは僕の執念だ。その結果、多くの間違った考えを退け、あるべき様、つまり理想を僕はやっと獲得したのだ。それはすべてが合理性と功利主義で論理化された世界観だ。

 子供の頃、僕には将来への希望は何もなかった。あまりに生きる事がつらく大変で、それで精一杯だった。それはつまり理想がなかったのだと分かった。今、僕には遅ればせながら理想がある。それによってこの世界への希望を繋いでいける。やっと希死念慮が消えた。

【本】パーソナリティ障害(矢幡洋)

 臨床心理士矢幡洋先生の『パーソナリティ障害』を図書館で借りて読んだ。矢幡先生は『ドクターキリコからの贈り物』の著者で、その他にも著作が多い。テレビにも出て人気らしい。文系の矢幡先生の説は医師のものとは全然違い、とても興味深い。医師はどうしても解剖学的に考えがちだ。世間では理系のほうが論理性に優れていると思われがちだが、俯瞰的な視点は文系のほうが優れているように個人的には感じる。

 

『パーソナリティ障害』(矢幡洋):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

 

 特徴としてはDSMに定義されているパーソナリティ障害以外も取り上げており、14のタイプについて実例を1つずつ提示しての説明は大変分かりやすい。もちろんその実例通りでないケースのほうが多いし、ステレオタイプを生み出すという危険性もなきにしもあらずだが、把握するには実例があるほうが良い。今回、この本ではじめてシゾイド型(スキゾイド型・統合失調質)の具体的な行動パターンと問題点が把握できた。驚いたことに、それは身近にいるタイプだった。

 また、ポラリティバランスという「喜び・苦痛」「受動・能動」「自己・他者」という3つの視点での相互の関わりとバランスを示しての説明も興味深かった。境界性パーソナリティ障害ではすべてが標準にあり(つまり対になる要素でどちらか一方に強弱があったりせず、かつ3つの軸でも強弱がない)、かつ3つの組み合わせすべてで「葛藤」が生じているらしい。あらゆる事に葛藤が生じやすい、というのは当事者としても納得のいく説明だ。

 こういったDSMにもあるパーソナリティ障害のさらなる理解にも役立つが、特に興味深かったのは、DSMには掲載がない「サディスティック」「マゾヒスティック」「拒絶性」「抑うつ性」といったタイプの説明だった。サディスティックと反社会性の違いや、抑うつ性と境界性の違いなどはよく考えてみないと飲み込めないのだが、マゾヒスティックは「あー、いるいる」という感じ。(もちろんそれがパーソナリティ障害と呼べるほどなのかは別として。)

 

 精神疾患者のグループと接したり、変わった知り合い都合上なのか、いくつかのタイプで具体的に「それに近い」と思える人物を知っている。面白がってこういう本を読み漁っているわけではなく(知的好奇心は否定できないが)、こういった知識は必要だと思っている。

 もちろん僕は素人で専門の勉強をしていないから、「誰々はこれこれのパーソナリティ障害だ」と言う事はできない。言わないように注意もしている。ただ「~のように見える」は言う事が可能だし、その見方は役に立つ。「彼はこういう傾向があるから、こういう対処を必要とする」といった活用ができるからだ。障害かどうかはその人が困っている程度によるし、周囲にどれほど迷惑をかけて社会生活で追い込まれるかにもよるのだが、性格つまり人格つまり行動パターンがそのタイプだと分かっていればトラブルを避けられるかも知れない。

 これは発達障害にも言える事だ。実際に障害と言えるレベルかは僕が判断する事ではないが、「彼にはこれこれの傾向があるから、このような配慮を必要とする」という知識があれば相互に不快な思いをする機会を減らせるかも知れないし、必要以上に腹を立てる事もなくなるかも知れない。

 

 名称として混乱を招きやすいのが「統合失調質パーソナリティ障害」と「統合失調症型パーソナリティ障害」だ。前者は上にも書いたシゾイドスキゾイド)型で、他人に無関心で自分の人生にも無頓着らしい。DSMでの説明を読んだ時には他人に無関心な事がそれほど問題があるとは思えなかったのだが、この本を読むと「人生の目的化」ができず情緒的体験が希薄。願望もなければ葛藤もない。統合失調質という名称はそこから来ているようだ。

 統合失調症というと幻聴・幻覚・妄想という陽性症状を思い浮かべるが、陰性症状と呼ばれる無気力・無関心・無感動という状態のほうが長く続くとされる。今では統合失調症を指しては使われなくなったがアルツハイマー症は「若年性認知症」とも呼ばれる。認知症の高齢者のようにボーっとして感情を表さない状態になるからだ。統合失調質(シゾイド型)はまさにこの陰性症状を指す。

 一方、陽性症状に似ているのが統合失調症型で、こちらはしばしば霊感や霊能力、テレパシーや千里眼と解釈される。ハッキリとした幻聴や幻覚とは言い難い場合でも、異常知覚やその意味づけとしての強い妄想がある。極端な迷信深さや神秘体験への固執、魔術的思考なども含まれる。これを本物の統合失調症とどう区別するのかは素人の僕には分からないが、あくまで人格のレベルとされるとこれになるらしい。

 

◎僕自身が出会ったパーソナリティ障害の人々(の一部)

  

 この2つのパーソナリティ障害は、僕にも顔の浮かぶ人がそれぞれ一人ずついる。シゾイド型のほうはひきこもり歴40年という大ベテランで、驚くほど何もしない。本人にはこれといった欲求がないから、何かしようとする動機がまったくないのだ。長年不思議に思っていたが、この本を読んでシゾイド型に近いのだな、と納得した。

 統合失調症型のほうは例に漏れず、自称霊能力者だ。その人をこのタイプじゃないかと思ったのはDSMの記述だ。以下はDSM-Ⅳでの診断基準。(ウィキペディアから引用。)

 

・関係念慮を持ち偶然の出来事に特別な意味づけをするが、確信を持っている関係妄想はではない。
・文化規範から離れた奇妙なあるいは魔術的な信念があり、テレパシーや予知などで、簡単な儀式を伴うこともある。
・無いものがあるように感じるというように、知覚の変容がある場合がある。
・過剰に具体的であったり抽象的であったり、普通とは違った形で言葉を用いたりするなどの奇異な話し方をする。
・妄想様観念を持ち、疑い深く、自分を陥れようとしているのではないかなどと考える。
・不適切または限定された感情は、良好な対人関係を保つのに必要なことをうまく扱えない。
・奇妙な癖や外観は、視線を合わせなかったり、だらしのないあるいは汚れた服装などの特徴を持つことがある。
・親族以外にほとんど友人がいない。
・過剰な社会不安は、慣れによって減じることはなく、妄想的な恐怖によってである。

 

 また、次のような説明もある。

 

非社交的でマイペースな点では,先述のシゾイドと共通点がありますが,シゾイドの人が内閉的でエネルギーに欠けた孤独で静かなライフスタイルを持つのに対して,スキゾタイパルの人は頭がいつも働きすぎて,考えが際限なく広がり過ぎています。
人との関係には必ずしも消極的ではないものの,ぎくしゃくしていたり,自然さに欠ける嫌いがあります。直感やインスピレーションに富み,創造性を発揮したり,予言者的な存在や救済者として社会に貢献することもあります。

定義
統合失調型パーソナリティ障害の患者の特徴は,行動,思考,感情,話し方,外観における際立った奇矯さ,風変わりさにあります。魔術的思考を営み,一風変わった観念,関係念虜,錯覚を呈し,現実感消失のエピソードを経験することが多いです。

   (統合失調型パーソナリティ障害(こころの病気のはなし/専門編)より引用。)

 

 極端に奇妙な対人様式を持ち(非常にギクシャクしていて自然な話し方や態度ができない)、妄想的な観念と知覚を持ち(遠隔治療と本人が信じる儀式をよく行う)、人と接する事が非常に苦手なように見えるのに人を信用しやすく(統合失調症で言う連合障害のような関連づけの弱さが見られる)、期待通りでないと激烈な怒りを燃やし恨む(被害妄想がある)。

 こちらのほうが一般人がイメージする統合失調症に近いだろうと思う。その人の認識は常に不自然で、奇妙で、それを自分の才能と信じている。その一方で妄想が悪化する事はなく、症状は進行型ではない。霊能力云々についても、社会性を欠いた突飛な行動に走るわけでもなし、ある程度の常識の範疇で行動している。だから妄想というより「思い込み」に見えるし、しかも本人が意図的にしているように見える。そこが本当の統合失調症との違いだろうと思う。

 加療を始めた当初はうつ病という診断だったが、今では統合失調症という診断になっているらしい。妥当と言えば妥当だ。第三者から見た時の困り事は、安定した人間関係を継続できない点。親しい関係の人ともよそよそしくしか接する事ができず(本人はまったくよそよそしいとは思っていない)、過敏な反応で人間関係を自分から断つ事が多い。継続的な人間関係は、かなり距離を取った人だけに可能だ。(近しい関係になると必ずと言って良いほど逆恨みが始まり、自分から関係を断つ。)

 

 シゾイド型の人のほうはそんな事はないかと言うと、都合の悪い事は何でも他人のせいにして相手を責めるので、近づく人はいなくなった。家族にすら責任転嫁が激しいので手を貸す事もできない(何かしてやればしてやるほど恨まれるので)。他者との良好な関係を望まない「動機のなさ」が無闇矢鱈な責任転嫁として出て来るのかも知れない。その人にとっては、何も起こらない事が最も望ましい事なのだ。この人は加療さえしていないので診断名はない。

 

 本書の自己愛性パーソナリティ障害については僕が考えているものとちょっと違う。(1つのパターンかも知れないが。)僕はソシオパスは自己愛性だと考えているので、自己評価が高く自信たっぷりなタイプというより、自己愛が欠損していて見栄だけ張る自己中な人という考え方をしている。しばしば社会ルールを逸脱するし、良心は希薄だ。僕の考える自己愛性については、過去記事「反社会性パーソナリティ障害という診断名に思う - 言いたいことは山ほどある。」を参照して下さい。

 

 演技性パーソナリティ障害についても一例だけではちょっと浅いというか、1つの典型なのだろうけど、すべての演技性がこういう感じではない気がする。というのも僕は2人ほど演技性の人を知っている。片方は診断があるが、もう片方は診断が双極性障害でパーソナリティ障害の診断はない。しかし、その行動パターンからそれっぽいと考えている。二人とも、この本の症例とは違い男性だ。(本書の症例は女性。)

 彼らの特徴は、場所・場面・相手による極端なまでの振る舞いの違いだ。まるで別人格かのように見える。しかし、どちらの場合も自分が期待されている(と本人が考える)振る舞いを過剰に演じる。それが社会通念上あまり宜しくない振る舞い(悪口や策略)だとしても、その事に罪悪感を抱く事はない。何故なら彼らはただ期待された事をしただけだからだ。内在的な欲求によって行っているのじゃないからだ。しかし、2人とも自分に好意的な相手にはいたって態度が良く、良識があるように振る舞う。そう感じるのは交流した僕が良識があるように見えたからかも知れない。2人の印象はとても近い。

 もう1人、これに近いと思う知り合いがいる。それも男性だ。彼は非常に空っぽな人間で、すべてを周囲から模倣する。人生の目的さえも模倣だ。大袈裟なリアクション、これ見よがしな態度など、まるで見せつけるように行うのだが、やはり反省のなさはずば抜けている。(口では反省めいた事は言う。)何かに興味を持っているように見えて、それも借り物なので、借りた相手と疎遠になると途端に関心を失う。だからいつもフワフワと宙を漂っているような不安定な感じに見えるのだ。彼はうつ病という事で長年加療しているが、実際のところは発達障害があるのではないかと思っている。定型うつ病メランコリー親和型)ではなく、いわゆる非定型うつ(ディスチミア親和型うつ)のように見える。

 

 本の感想として書き始めたのに、感想は殆ど書かずに持説ばかりになって申し訳ない。この本はとても参考になるので、興味を持たれた方は一読をお勧めする。最後に、僕に最も関連が深い境界性パーソナリティ障害の箇所について感想を書いておく。

 本書には発達心理として「幼児期における親の接し方」をパーソナリティ障害の一因として紹介している。確かに類型化できるケースも多いだろうと思うが、そしてその類型化に当てはまる人も多いのかも知れないが、人格形成は親の接し方だけで決まるものではない。幼稚園以来の社会参加の中で得る友人関係に大きく影響される。親が足りないものを友人は補ってくれる。おそらく人格が固定されるのは18歳以降だろうから(もっと言えば23歳以降かも知れない)、特に思春期の学校での体験は大きな影響を与える。

 僕に関して言えば、アイデンティティは一貫していると思っている。他人から指摘を受けた事もない。むしろ頑固だとさえ言われる。自己言及が多く、自分はどんな人間かをいつも考えている。自分にしか興味がないかの如くだ。もちろん、上に書いたように他人にも興味はそれなりにあって、あれこれ分析的に観察するのが好きだ。でもそれは、自分が何であるかをつきとめる手がかりとしての興味関心であり、本当の意味では他人にはあまり興味がないのかも知れない。他人が何を考えているのかに興味がないし、他人の考えには興味が湧かない。

 一方で、幼児期の体験で言えば「不安定な環境」に置かれ溺愛から虐待までを経験というのが当てはまる。2つの家庭を行き来し、片方では穏やかで静かな生活、もう片方では刺激だらけの生活を送った。激しい気性の両親のもと、父親には溺愛され母親には憎悪された。しかし僕が人類への憎悪を爆発させるのは、中学での友人の裏切りが契機と考えている。もちろん小学校でも過剰な指導を食らったり、友達の裏切りで人間不信になったりしたが、僕自身が攻撃的で邪悪な人格を露わにするのは中学以降だ。

 あの体験がなければ境界性にならなかったのかは分からない。それ以外にも人間不信が積み上がる経験はたくさんある。どこかでそれらが堰を切って爆発したかも知れない。そうだとしても、あの経験がなければ20年近く夢に見続ける事もなかったろうし、だいぶ対人様式は違ったんじゃないか。それでも結果的には、幼児期の不安定な環境と子供時代の不信から今のような人格に成長した可能性は高い。

女性恐怖症かも知れない

 僕は女性恐怖症かも知れない。社会不安障害(SAD)に似たパニック発作があるのだけど、それを過去起こした2回とも、相手が女性だったからだ。

 SADだと言い切らないのは、他の人のSADとちょっと違うような気がするから。SADは対人恐怖症とも言われる。他人が怖いという恐怖症だ。僕は普段、他人を怖がる事はない。恐怖心はむしろ薄くて、考え無しで無謀なところもある。非常に勝ち気で好戦的でもある。そんな性格で対人恐怖と言うのも不思議な感じがする。

 緊張は(普段から)強いが、あがり症なのかも分からない。知らない人に会うのが緊張するという事もない。ある意味、図太い。ただ昔から視線恐怖と先端恐怖がある。視線恐怖は他人に会うのを億劫がらせる。おそらく軽度の醜形恐怖もある。それでも結構あちこち出かけて行くし、人混みが苦手という事もない。

 

pax.moo.jp

 

 社会不安障害(SAD)は上記のような、言わば「あがり症」のようなもの、とされている。僕はあがり症ではない。人前でしゃべるのは好きではないが(注目を浴びるのが苦手なので)必要ならするし、できる。黒板に字を書くのは本態性振戦があるので苦手だけど、普通の体調なら下手なりに書く事ができる。赤面する事は滅多にないし、手に汗をかいたりもしない。

 子供の頃は緊張が今より強く、朗読も黒板に書くのも嫌だった。自分は無駄に体に力を入れてると気づいたのが20歳前後で、それからは意識して力を抜くようにしている。だらしなく、姿勢悪く立ったり座ったりするよう心がけている。できるだけキチッと立ったり座ったりしない。それは、体に力が入ると緊張状態になりやすいからだ。力を意識して抜いて、姿勢を悪くする事で自分はリラックスしていると脳に思わせる。

 子供の頃の振戦も徐々に出なくなった。あまりハッキリ覚えていないが、発作のような「頭が真っ白になり、息がしにくい」状態は経験があったと思うが、鮮烈に覚えていないのは強い恐怖を伴わなかったからだろう。

 

 それが30歳を過ぎて、ある日突然、激烈な症状に見舞われた。心療内科の薬を飲んでいて拒食気味になり激痩せし、振戦がぶり返したのがキッカケだった。振戦を人に見られる事に恐怖心がある。小学5~6年生の時、クラスでイジメられていた子が振戦持ちで(イジメの原因はそれではなかったが)、からかわれた事があったからだ。人に馬鹿にされる事が小さい頃から非常に嫌いだった僕は、振戦がバレたら自分もからかわれるのじゃないかと恐怖した。バレる事はなかったが、恐怖心は刷り込まれた。トラウマだ。

 ある日、一人で街に出かけ、誰もいないと思った場所で突然、営業の女性に話しかけられた。頭が真っ白になり、喉が詰まって発声ができない。膝がガクガク震え、立っているのがやっと。相手のしゃべっている声がワンワン響き、聞き取れない。視野が物凄く狭くなり、周りが見えない。それでも必死に「おかしな様子」を覚られないように頑張って、その場を立ち去った。それが最初の発作だった。

 この状況は、「大勢の人の注目を浴びている」のでもなければ、「(大勢の)人前で何かする」状況でもない。一対一で、周囲に人もいなかった。相手は若くきれいな女性で、恐怖を与えるような要素はない。社名を明らかにしての営業なので、無謀な事をされる心配もない。

 2度目は、仕事中だった。こちらは大勢の人が集まる場所で、やはり相手は小柄な女性で、向こうも仕事だから所属を明らかにしてのやり取りで、何の不安も覚える余地はなかった。周囲に人はいたが、僕が特に注目される状況ではなかったから、やはり一対一に近い場面だ。症状は前とまったく同じ。

 

 2度目となると、さすがに予期不安が起きた。手が震えるため人前で文字が書けない。外出時は常に友人か連れに付き添って貰うようにした。自分で字を書かなくて良いようにだ。仕事はやる気がせず、徐々に減った。相変わらず人混みがつらいとか、知らない人が怖いという事はなかった。友人と一緒であれば遊びで外出もできた。ただ不安は強かった。特に視線恐怖は悪化した。

 苦痛を伴う外出は通院だった。というのも待合室が苦手だった。父がアルコール依存症だったため、酔っ払いが怖い。あの独特の割れ鐘のような声が苦手だ。アルコール依存の患者の中には、飲んでいない時も酒で焼けた声で大声で話す人もいる。この影響で声の大きな男性も苦手だ。酔っ払いなら女性でも苦手だ。不幸にも、通っていたクリニックはアルコール依存の外来が多かった。待合室にいる事が苦痛で、通路の喫煙所で待つようになった。これがいよいよ通院するのが嫌になった。

 

 断薬は以前にも経験があったから、あまり問題ではなかった。切って離脱が強く出る薬の処方も受けていなかった。最初の発作から数年後、とうとう通院をやめてしまった。外に出る事は以前にも増して苦痛だった。そのまま半年間、ベッドに寝たまま過ごした。24時間、横になったままなので腰が痛くなるほどだった。

 うつではないと思っていた。というのも、真っ暗な状態で脳内では延々と長編のストーリーを作り続けていたからだ。目が覚めてもベッドから起きず、電気もつけず、ひたすら話を考える。新しいアイディアが出ない時は既に作ったプロットをなぞって手を入れた。それをすべて脳内でやった。とにかく腕一本動かすのも嫌だった。ただひたすら、現実逃避し続けた。

 半年ほど経って、さすがにネタ切れを起し、疲れてやめた。しかし部屋からは一歩も出たくない。この完全ひきこもり状態は更に2年ほど続き、徐々に連れと一緒に近所に出歩くようになった。他人が怖いという感情は強くはなかった。ただ他人を避けようとはした。回避性の絶頂期だ。

 

 ひきこもっている間、暇なのでネットをした。SNSには女性が多い。僕はネット歴だけは長いので、場に応じた対応もそれなりにできる。ゲームをよくやっていたせいもあるが、ネット友達が増えていった。

 見ず知らずの人とネットで接するようになって、最初のうちは男性に警戒心を持った。性別を男にしていたので、異性愛者の男性は邪険だった。それはむしろ快適。セクハラを受ける事もなく、性別でマウントされる事もない。が、男性は同じ男に対しては態度が丁寧でない人も多くて、隙さえあればマウントしてくる。その生態も、彼らの見栄の張り方も可笑しかった。

 社会的に女性として長く暮らし、女子ホモソーシャルの独特の気配りを知っている僕は、男性の中では非常に人あたりが良く、女性を怒らせる事が少ない。まずセクハラを絶対にしない。つまらない自慢をして女性の神経を逆撫でする事もない。女性はおおむね平和的で、マウントをしかけられる事もないし、話しやすいと思っていた。しかし、その油断がまずかった。

 こちらが男だと思っているから、女性達はどんどん甘えてくる。理不尽な攻撃(逆恨み)を受ける事もあった。性別による差別や中傷も受けた。話が通じない場面も度々あった。どんどん女性が嫌いになった。なるほど、世の男達はずっとこんな目に遭っているのか、と分かった。

 

 男でも女でも頭の悪い人はいるし、性格の悪い人もいる。性別ではなく個体差や人格の問題だ。それは十分分かっているはずなのに、強烈に失望していった。何度か場を変えて、信頼できる女性を探そうと必死になった。

 その間も男達とのやりとりは相変わらず。何かにつけて人を馬鹿にしようとしたり、自分を大きく見せようと必死そうに見えた。そういう事には免疫がある。子供の頃から常にライバルは男だった。別に何を競うというわけでもないのだが、男にマウントを取らせない事がプライドだった。口論で負けた事は一度もない。腕力と体格しか取り柄のない馬鹿ども、というのが僕の男性評価だった。

 性的な誘いと取れるような事も何度か経験した。僕はそういう事にはあまり否定的ではない。女性もどんどんナンパして遊ぶべきと思っている。しかし自分がされてみると、その手口に呆れかえった。しつこさもハンパない。ゲイの男性からもアプローチとおぼしきものはあったのだが、彼らは気が無いと分かるとスッと引く。無駄な時間を使うのが勿体ないと言わんばかりだ。その現金さも僕には快適だった。異性愛者の女性の場合、気が無いと言おうがパートナーがいると言おうが、甘えるのをやめない。自分はどんな場合でも大切に扱われるべきとでも信じているようだった。その図々しさと陳腐な気の引き方にげんなりした。そのげんなりは、かつて異性愛者の男達に感じたのと寸分違わなかった。

 

 僕は男性恐怖症はないと思う。怖いのは酔っ払いや切れてる相手だけで、そんなのは誰だって怖い。若い頃はたまに痴漢に遭ったが、恐怖を感じた事はない。苛立つだけだ。しつこい声かけおじさんにつきまとわれても怖いと思った事はない。腹が立つだけだ。男にもズケズケとものを言うから、若い頃はオッサンにたまに切れられた。いきなり大声で威嚇して来る。それも怖いというより、マヌケ過ぎて笑ってしまう。腕力で押さえ込まれると恐怖より腹が立つ。

 女性に対しては、普段は恐怖を感じない。彼女らはたいてい好戦的ではないし、腕力で負けるとしても武器を持てば相手を倒せる。能力的には下と思えば怖がる必要もない。理不尽な事をまくしたてられての感情爆発はもちろん怖いが、それは女性に限った事ではない。

 では、あのパニックの原因は何なのか。まず強烈な違和感。自分とは異質な者への違和感だ。さらに「同じ女性」としての同調圧力。自分が「振る舞わなければならない」、要請されているものへの拒否反応。しかし、その要請に応じなければいけないという社会的圧力。処理能力の低い僕は簡単にオーバーフローしてしまう。

 5年間のひきこもりの後、やっと外に出るようになった。僕が選択したのは、「できるだけ女に見せない」ことだった。見た目が変なら同類と思われなくて済むかも知れない。以前は悪目立ちしないように、ちゃんと女装(僕にとっては仮装の一種だ)もしていたのだが、やめる事にした。「女として振る舞え」というプレッシャーにはこれ以上、耐えられない。それは「できない」事だったのだ。それに気づくのが遅すぎて、二次障害を抱え込んでしまった。

 

定型発達の奇妙な世界

 定型発達症候群という面白い言葉を見かけた。思考パターン・行動パターン・世界観が違うアスペルガーから見たら定型発達の人は奇妙に見えるのは事実。必ずしもアスペルガーのほうが劣っているわけではないので、「闇雲に定型発達の価値観に合わせる訓練をすべきでない」と主張する人達もいる。

 

susumu-akashi.com

 

 上の記事中で上げられている5項目は以下。

■社会の問題への没頭

 周囲に馴染むことを最優先事項とみなす
 そして集団になると、社会性および行動において硬直する

■優越性への幻想
 自分の経験する世界が唯一のもの、正しいものであるとみなす

■ひとりでいることが困難

 人と一緒にいるが、仲間に入らないということを苦手とする
 人といるときには必ず何か話さないではいられない

■率直なコミュニケーションが苦手

 本音を言わず、建前を優先する

■論理を欠いても平気

 一貫性がなく、状況によって対応を変える 

 

 どれも言い得て妙だが、特に奇妙だと自分が感じるのは「論理を欠いても平気」という点。どうやって思考しているのか不思議になるほど、言ってる事が支離滅裂だったりする。表現は曖昧で、多義的で、指示代名詞や目的語をしばしば欠くから、酷い時には何を言ってるのかまるで理解できない。

 見ていて難儀だなと感じるのは「寂しい」を連呼する点。僕は「寂しい」という感覚が分からない。「暇」「退屈」「やる事が思いつかない」「時間を潰しきれない」という感覚はよくあるので、できるだけ本を持ち歩いている。本がない時はメモ帳とシャーペンを持っていて、今後やる事とかアイディアとか、何でも良いから書き込んで時間を潰す。

 今は時間より前に行く事が多いが、以前は待ち合わせや約束の時間ピッタリに行こうとしてよく遅刻をした。電車を1本逃すだけで数分の遅刻になってしまう。それも「時間より前に行って待つのが苦手だから」だった。さすがに年齢と共に工夫も進むし、携帯電話が普及してからは場所を固定しなくても会えるようになったから、本屋などで待ち合わせすれば待つのは苦痛ではない。そういう融通が利かない待ち合わせは今でも苦手で、できるだけ現地集合にして欲しいと思ってる。

 

 上の記事のネタを真似して、自分から見た定型発達の人達の奇妙な行動を考えてみたい。上の項目と被るものもあるかも知れないが、自分なりの意見として書いてみる。

 

・理由を聞いても説明がちゃんとできない

 理由が良く分からない時、「どうしてですか?」と質問するのは自然な行動だろう。しかし、しばしば「どうして」を説明して貰えない。僕にとって、物事はすべて理由がある。根拠が弱くても「どうしてそう思ったか」や「どうしてその選択をするのか」は説明可能だ。「何となくフィーリングで」「勘で」という理由の場合もちゃんとあるが、それを説明するのは取り立てて億劫ではない。

 しかし、定型発達の人に「何故そのように言うのか」を聞いても、ハッキリした理由(「何となく」や「勘」でも良いのに)を教えて貰えない事がよくある。それが主観的ではない問題だったりする場合(たとえばルールとか)には「根拠は?」「理由は?」という質問になるが、これも答えて貰えない事がよくある。理由が分からない事は理解できないし、理解できない事(意味の無い事)を覚えておくのは難しいのだが、むしろ理由を聞くと驚かれたり嫌な顔をされる。

・間違いを指摘すると怒る

 誰でも言い間違いや勘違い、間違った見解を述べることはある。が、親切に間違いを指摘すると切れられる事がある。「面子を潰された」「恥をかかされた」などと言われるが、間違った事を堂々と訳知り顔で吹聴するほうがよほど恥ずかしいのではないだろうか。昔から「聞くは一時の恥」と言うではないか。

・内容のない上っ滑りな会話をする

 これは僕から見ると相当に不思議な現象だ。聞いていると内容が無い会話で盛り上がっている。会話が噛み合ってないのに全然気にしない。まるで相手の話を聞いていないかのようなのに、しゃべった方もそれを指摘しない等。

 たとえば「うん、わかる、わかる」と相づちを打ったりしているが、その前に話された事は個人体験や主観だったりして、分かるわけがないものだったり。しかも具体性がまるでないから、いったい何を分かったのか聞いてるこちらはまるで分からない、という事態になる。それらの経験の結果、「わかる」はただの相づちの一種で、実際には何も分かっていないのだな、と思うようになった。

 また、「お元気ですか?」「調子はどうですか?」などの質問が非常に苦手だ。元気かどうかについて説明を始めると嫌な顔をされるし、調子と聞かれても何の調子を指しているのか分からなくて「何のですか?」と質問し返すと驚かれる。曖昧な質問をするほうが悪いと思うのに、何故こちらが非難がましい顔をされねばならないのだろうか。

・人真似をする

 僕も他人の持ち物を参考にしたりする。若い頃からファッション誌を殆ど買った事がなく、ファッションで参考にするのは街の人達の格好やテレビで見かけた服、店で実際に売ってる物などだ。若い頃、最初は何を着たら良いのか全然分からなくて、服屋を回ってリサーチした。昔の店員は物凄く話しかけてくるので結構困ったが、場数を踏むとやり過ごす方法も分かるので服屋巡りは結構した。ファッション誌も立ち読みでグラビアくらいは見る事もあったし、どこかの店に入った時、置いてあれば目を通した。

 東京に出てきて、最初の頃は本当に酷い格好をしていた。目も当てられない。まさに黒歴史。田舎ではとにかくどうでも良い格好をしていたので(ジーンズにカッターシャツかTシャツ、ジャンパーやコートといった具合で枚数も持ってなかった)、都会ではこれじゃ駄目だと思い、闇雲に服を選んだせいだ。そこで「自分は何を着るべきか」をリサーチするため原宿をよく歩き回った。

 ここで「人真似」と言ってるのはそういう話ではなく、何でもかんでも人と同じにしようとする事だ。服装、髪型、バッグや小物に至るまで似たような物を持ち、同じものを見て、団体行動しようとする。これは実に不思議で、本当にそれを良いと思っているのかと聞くとハッキリ答えない。「みんながそうしているから」とか言ってくる。

 僕にとっては物は良い(興味がある・面白いも含む)か悪い(興味がない・つまらないも含む)かしかない。音楽でも映画でもマンガでも本でも、自分が面白いと思うものに夢中になり、どうでも良いものはどうでも良かった。興味関心が狭いから、知らない事は驚くほど知らない。今ではだいぶマシになったが、若い頃はそれが極端だった。

 だから「どっちでも良い」は「興味がない・つまらない」と同義だったし、そんなものには金を出したくもなかった。自分がそれほど良いと思ってるわけでもない物を買い、それほど見たいわけでもない映画を見、それほど好きでもない音楽を聴く、というのは僕には考えられない行動だ。

・はみ出す事を極端に畏れる

 上の項目のような行動を取る理由がコレらしい。子供の頃から、他人と自分は違うと思っていたから、この感覚にはかなり驚いた。同じ物を着て同じ物を食べても同じ人間になれるわけがないのに。僕は他人と過ごすのは結構好きだ。僕の狭い考え方や感覚と違うものを見せてくれるからだ。それは刺激でもあり、退屈がしのげる。とにかく僕は退屈する事に耐えられない。

 また、校則やルールなどでも「はみ出す」事を畏れる。僕の行った高校には服装検査があった。体育館に並ばされて教師のチェックを受けるのだ。実に馬鹿馬鹿しい儀式。たいてい僕は駄目駄目な格好で行って注意を受ける。注意されたから直す、という態度だった。ウザいから注意を受けないように、その場だけは服装や髪型を正して臨むという生徒もいた。しかし、あくまでそれは「その場限り」。

 ところが、そうじゃない人達も結構いたのだ。校則なんてたいていは意味がない。ただ「そう決まっているから、そう決まっている」というだけの、根拠の無いルールだ。それを守る事には何の意味もなければメリットもない。1つだけ意味があるとすれば「ルールを守った」という事実だけだ。それが僕には理解できなかった。

 僕は高校時代、いわゆる不良でもなく、態度はあまり良くないが成績はまあまあの「放っておいても問題ない生徒」だったと思う。服装や髪型の事ではしょっちゅう注意を受けるが、ツッパリとかではなく「だらしがない」のほうでだ。夏、プールの後には靴下をはかず素足に上履きをつっかけて歩いたり、衣替え前のジャンパースカートがクソ暑いからと下にシャツを着ないで素肌にジャンパースカートを着ていたり、スカートの裾は落ちてるわ、上履きはずっと洗わないから真っ黒だわ、髪はいつもボサボサだった。制服なんてくそダサいものに時間や手間をかける気はさらさら無かったのだ。

 格好もこんななら態度も酷くて、「はみ出さない」努力というのはまったくしなかった。というか、発想すらなかった。目立ちたがりでもないから地味にコソコソしていたいほうだったが、意図せず悪目立ちはした。教師に食ってかかるのも定番だった。その一方で、薬物はやらないし、窃盗もしないし、制服で煙草を吸う事もない。(自宅では喫煙していた。)適当にサボりながらも授業にはちゃんと出て、成績もまあ普通だったが、とにかく見た目と態度がそんな調子だったので、当時の担任には結構面倒をかけたかも知れない。(と、今になると思う。当時は思い上がっていたので、「それがお前の仕事だ」と思っていた。)

 

◎果たしてどちらが幸せか

 30歳になるまで人生は苦痛に満ちていてつらかったが、僕は自分のやってきた事がそこそこ好きだし、自分をかなり好きだ。自分の好きなものが凄く好きだし、趣味もまあまあ良いと思ってる。もちろん、間違った事も色々したし、黒歴史なんて山のようにあるが、それでも「結果オーライ」だと思っている。

 リア充な一部の人はさて置いて、いつも「寂しい」「孤独だ」と愚痴ってる定型発達の人と、寂しさを感じないアスペルガーの人とではどちらが実質、幸せなのだろうか。理由の分からないルールを信じ込み、根拠希薄な行動に固執する人々と。人と違う事を畏れ、はみ出さないように必死に他人に合わせて、やりたいように行動できない人々と。

 僕から見ると「困った世の中」であって僕自身が問題だとは思わない場面も多い。不便は多いし困り事も多い。しかし「世の中が悪い」とは言わない。世の中はろくでもないのが前提なので、どう対処するかを工夫しようという話であって、世の中に期待してもろくな事にはならないと経験で知っている。

 工夫できるのだったら、アスペルガーはそう悪い特性でもないだろう。発想力が貧困だと工夫ができないから、困り事が改善されない。それは大変だろうと思う。僕だって中一の時、通学靴の内側に出ている釘が「もしかしたら抜けるのじゃないか」と発想するまで半年間、足の横の皮に穴が空いたままだった。

 そういう「抜けたところ」が我ながら可愛らしくもあり、それを改善した「成功体験」は強烈だった。「工夫すればたいていの事は何とかなるんじゃないか」と思うようになった。まあ、たまに危ない事もあるんだけど。(小4か小5の頃、ヒューズが飛んだコタツを銅線で自力修理して、家全体のヒューズを吹っ飛ばした事がある。今思えば、よく火事にならなかったなと感心する。)

アスペルガーはオキシトシン欠乏症?

 「幸せホルモン」とか「恋愛ホルモン」とか言われるオキシトシンというホルモン。正確には「信頼ホルモン」らしい。ストレスが取れるとか、多幸感が出るとかで巷で人気らしいのだが、アスペルガーの治療薬になるのではないか、という話がある。

 自閉症スペクトラムオキシトシンの受容体が少ないのが原因ではないかという説があり、オキシトシンを補填することで協調性・信頼行動・愛着行動が改善するのではないかと期待される。現在、点鼻薬(花から吸い込むスプレー)が開発されている。ザッと見たところ、個人輸入などで1本(30mlボトル)5000円台くらい。

 

 僕は使ったことがないので何とも言えないが、知り合い(ADHD+ASD)が使った感想を以前聞いたところ、かなり良かったらしい。その時は「集中力が増す」「物事の整理がつく」「手順が組み立てられる」という感じだったからADHDの薬かと思ったのだが、むしろ自閉症スペクトラム向きらしい。

 ストレスが取れて多幸感が出るのは良いとは思うのだが、「愛着行動」というのが引っかかる。アスペルガーは他人に愛着をちゃんと持つ。特定の人に愛着を持ちすぎて、色々マズい事になるくらいだ。アスペルガーのタイプにもよるのかも知れないが、自閉症アスペルガーは別物だ。(高機能自閉症アスペルガーとするウィング派では一緒らしいが。)

 

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 愛着行動で思い出したのだが、最近では愛着障害と区別されるようになった境界性パーソナリティ障害アスペルガーと合併しないとされていた時期がある。理由は「アスペルガーは他人に愛着を持たないが、境界性パーソナリティ障害は強烈な愛着を持つから」だろう。今では「合併しない」とする説のほうが否定されているようだが、こう考えたのもオキシトシンを念頭に置くと納得できる。(正しい説だという意味ではない。)

 

 境界性パーソナリティ障害に至る原因は様々だろうが、よく言われるのが親からの愛情不足や、身近な者からの手ひどい裏切りの経験だ。単なる愛情不足ならそんなに屈折する事にはならないから、それは愛着障害として見たほうがスッキリする。自分を含め、境界性パーソナリティ障害の人達が持つ屈折した心理は、もっと複雑な経緯があるように思う。

 1つには、人間関係での大きな挫折の経験だ。親から否定されて育つとか、友人に手ひどく裏切られるとか、酷いイジメに遭うとか。もちろんそういった経験をした人でも境界性パーソナリティ障害にならない人のほうが多いだろう。性格(気質)やプラスαの要素があって、そこに至るのではないかと思う。

 

 しかし、原因はどうあれ境界性の人は単純に他人の愛情を得ようと努力したりはしない。むしろ嫌がらせとしか言えないような行動を繰り返す。そこにあるのは人への不信、得られないものへの憧憬と怒り、得る事への不安と恐怖だろう。適度に必要な分だけとは考えないから、”All Or Nothing” になる。「すべてか無か」で中間がない。

 そういった屈折した心理を抱えながらも、境界性の人は他者に関わって行こうとする。憎悪であれ愛着であれ濃密に、執拗に、積極的に関わろうとする。それは特定の誰かの場合もあるし、特定の数人だったり、場合によっては不特定多数だったりする。相手(他者)の注意を引くためなら手段を選ばない。そのやり方はしばしば不快で、破壊的で、自滅的だ。プライドが高いくせに下位承認を執拗に求め、上位承認を得ようとしない。ここが自己愛性パーソナリティ障害との決定的な違いだと僕は考えている。

 一方で、自閉症スペクトラムの人々は他人への興味関心が希薄とされる。自閉症だから当然だろう。だが、アスペルガーは「コミュニケーションの問題」が自閉症とは違うかも知れない。他者に関心がないわけではなく、愛着の対象を見つけ出すと人懐こくすらある。もちろん「想像力の問題」で相手の都合は一切考えないから一方的で、しばしば度を超す。他人との距離感がつかめないから、極端に疎遠か極端に馴れ馴れしいかのどちらかだ。その「やり方」に馴染めば少々手はかかるが、いたって可愛らしい存在ではなかろうか。(と自分では思うのだが。)何と言っても嘘をつかない(嘘がつけない)。

 

 さて、こんな行動を取るアスペルガーの積極奇異型の一部は、本当にオキシトシン欠乏症なのだろうか。もちろんオキシトシンの効果は愛着行動だけではない。上のリンク先では協調性・社会性が改善すると期待されているようだ。

 協調性にせよ社会性にせよ、確かに信頼は重要なカギだろう。まずもって僕は他人に何かを任せる事ができない。仕事でも家の中の事でも、他人がやる事は納得がいかない。だから何でも自分でやろうとする。もちろん「専門家」を信頼はする。しかし肩書きで信頼する事はないから、医者としょっちゅうモメる。自分が「なるほど、さすが専門家だ」と思う面がなければ相手を信頼する事はない。ありとあらゆる「専門家」に対し、そういう態度だ。もちろん、その能力を評価する相手には全幅の信頼を置く。こういった極端な他者評価も特徴だろう。

 「他人に任せられない」のが相手を信頼できないからなのは明らかなのだが、それは「他人のやり方は気に入らない」からであり、「結果、出て来たものが思い通りではない」からだ。単なる不信というのとはちょっと違う。

 

 社会性が低いのも協調性が低いのも信頼と関係あるかも知れないのだが、むしろこれはミラーニューロンの少なさが原因ではないか、とも言われる。ミラーニューロンは模倣を司る。発達障害の人達がよく口にする「模倣が下手」というのは、この関係かも知れない。

 僕自身、ごっこ遊びはした事がない。物まねが大の苦手だった。他人を見てアイディアは得るのだが、それを自分がする場合は真似をするのでは上手くいかない。絵は苦手ではなかったが模写が下手で、とにかく独自な感じにアレンジしないとどうしようもなかった。要するにかなり不器用なのだ。(自分で工夫した事に関しては不器用ではないので、他人から酷く不器用だと思われる事はあまりないのだが。)

 ただし社会ルールや規則に対しては「信頼ホルモン」が上手く働く可能性はある。通常、人の言う事を鵜呑みにする事はまずない。「こう決まっている」と言われても納得がいかないと規則への信頼は皆無だ。合理的な理由を見つけると初めて納得する。「何となくそう決まっている」事に関しては不信感が強い。この部分は「信頼ホルモン」で対応できるのかも知れないが、この性質が悪いものだとは到底思えない。

 それから、「想像力の問題」はオキシトシンではどうにもならない気がする。強烈なこだわり、興味関心の狭さも。色々不信感はあるにせよ(これまたアスペルガーの故かも知れないが)、機会があったら点鼻スプレーを使ってみたいとは思う。(正直、そんな金があったらテストステロンを飲みたいけど。)

 それと、信頼が足りないのは何も自閉症に限った事ではない。対人恐怖症(社会不安障害)にも効果があるらしいが、その他の神経症や不安障害にも効果が期待できるのではないだろうか。アスペルガーオキシトシン欠乏を単純に紐付けするのには納得はいかないが、新しいものが発見されるのは色々な可能性を感じさせて良い事に違いない。ただ、一元論的な盲信だけは警戒すべきだろう。