言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

ギフテッドという表現に思う

 ガーンディーは何故、一部のインド人に尊敬されないのか。日本人の多くは彼を偉人と教えられて育つ。自分も子供の頃はそう信じていた。しかし、彼の批判者はそうは言わない。

 ガーンディーはヒンディー(ヒンドゥー教徒)で、カースト制度を肯定していた。肯定までしていたかは議論もあるのだが、少なくともカースト制度を廃止しようと努力はしなかった。ただ平等思想は本人にもあり、不可触民(アウトカーストアンタッチャブル)を「ハリジャン(神の子)」と呼んだ。アンタッチャブルとは日本で言えばエタ非人のようなもので、4つのカーストの更に下に置かれる。日本語の呼び名の通り、「触れることも穢らわしい人々」とされた。

 そのことに対し、アンベードカルらアンタッチャブル出身の仏教徒は強く非難した。仏教は平等思想なので、生まれによって人の身分が決定するという考え方を否定する。人は行いによってのみ評価されると考える。アンタッチャブルを穢らわしい人間と言おうが神の子ハリジャンと言おうが、排除であることに違いはないのだ。「聖痕」思想というのか、最も穢れた存在を神聖視する文化は、つまり排除のための言い訳に過ぎない。

 インドにはヒジュラーと呼ばれる人々がいる。元々は半陰陽のことだったが、実際には性同一性障害MTFが殆どだ。半陰陽は奇形で、その故に彼らは神聖な存在とされ日常から排除された。排除する側の罪悪感を消すために神聖視が起きるのだ。

 ハリジャンは正にそのような作用を起こす概念で、神の子とされたからといってアンタッチャブルが受け入れられるわけでもなく(ガーンディー自身は受け入れていたが)、排除という差別は消えないと批判された。実際、ガーンディー以後も長きに渡ってアンタッチャブルへの差別(排除と暴力、不平等)は現在も続いている。

 

 同じことは色々なマイノリティに対しても起きているように思う。そのすべてが駄目だと言うつもりはない。知的障害のある人を出家させ、「清僧」と呼ぶ寺もある。彼らを囲い込み、神聖視することで日常から切り離すのだが、本人達にとってそれが不快なことなのかは分からない。清僧さん達が組んだバンドがあって、ライブで一般客を集める。そういった非日常での接点を楽しんでいる。彼らは安全に暮らせる場所を確保する必要があり、それを排除とまで感じるかは分からない。

 発達障害に対しギフテッドという呼び方がある。自分はこの言い回しがあまり好きではない。ハリジャンと同じ排除を感じる時もあるし、才能を要求されている感じも不快だ。特別な能力なんてない人のほうが多いし、才能がなければ受け入れないというなら差別だと思う。定型や健常の人はいちいち才能を要求されるだろうか。もし発達障害者にだけ才能を要求するのだとしたら、それは差別ではないのか。そういったひねくれたことを考えてしまう。

 自分は神聖視も尊敬も求めていない。差別されず排除されないことを望んでいる。特別視も求めていない。ただ適切な対処を求めている。装飾をつけられて飾り棚に収納され、日常から排除されることを望んではいない。

 ギフテッドという言い回しは、もしかしたら"Save the pride"から来ているのかも知れない。英語圏での多様性を認めようという社会運動だ。自尊心を非常に重視する欧米人の感覚なのだが、性的マイノリティの自尊意識を高めようという当事者内部からの運動が起きた。それが発達障害に置き換えられているのかも知れない。だから当事者が自分をギフテッドと言う分には(中二病くさくて笑ってしまうが)まだ分かる。非当事者が「君はギフテッドだね」と言ってくるから不快なのだ。「お前に何が分かる?」と思ってしまう。

 

 自分には数多くのマイノリティ属性がある。一番最初に表面化したのは左利きだった。昔のことだし、たいていの左利きは小学校に入る前に矯正されていたので、周囲に左利きはほぼいなかった。そのためとても奇異に見えたらしく、左利きだというだけで変わっているとか変だとか言われ続けた。そう言われることが自分は嬉しくなかった。「あなた達が右手でやっていることと同じことを左手でやっているだけだ。右手ではできない。あなた達が左手を使えないのとどう違うのか?」と、よく食ってかかった。徐々に面倒臭くなって言わなくなったが、見たら分かる「左利きなんですね」を言ってくる人がうるさくて不快だ。「言われなくても知っている」「見れば分かるだろう」と思ってしまう。

 他にも色々と奇妙な行動があったのだろう。「変わってる」と言われるのは日常茶飯事だった。言ってる人は貶してるつもりはないのかも知れないが(明らかに貶す意図で言ってる人も結構いたが)、言われ続けるほうとしては排除を感じた。「お前は俺達とは違う。あっちに行け」と言われている気がして不快だった。差異を捉えて言及する行為には、常にこういう問題がある。

 だからギフテッドが持つ差別性には警戒が必要だ。耳障りが良い、褒められてる気がするといって放置したら、いつの間にか排除されているかも知れない。

 

 「我々は少し変わっているように見えるかも知れませんが普通の人です。あなた達とたいして変わりません。特別でもなければ異常でもありません。ただ特別な配慮を必要とします。それは存在が特別だという意味ではありません。ただ、やり方が少しあなた達とは違う、というだけです」

といった言わずもがなのことを言い続けなければならないのだとしたら、疲れる話だ。

 それは子供の頃、「左利きは右利きが右手でやることを左手でやるだけの話で、それ以上の意味は何もない。脳が特殊なのでも人間性が特殊なのでもないし、天才でも馬鹿でもない」と言い続けたのに似ている。