言いたいことは山ほどある。

性別や障害、属性で気になること。

もう少しでブログ開設1ヶ月と四方山話

  このブログを初めて1ヶ月弱だが、もうちょっとでPV500らしい。思ったよりアクセスがあって、さすがHatenaだけど、長文+くどいので読みにくいかなと気にしてはいる。もうちょっとカジュアルな感じが良いのかも知れないが、改行が少なくびっちり書くのは世代のせいというか(リソースを無駄にしたくない貧乏根性)、何とも申し訳ない。

 ブログをやるのはこれが最初ではないし、SNSも歴代色々使っている。だからもうちょっと読みやすい文体も書けないことはないのだが、思うところあって「翻訳」を少なめにして書いている。こんな長くて読みにくいブログを読んでくれてる方には感謝しかない。でも、もうちょっと読みやすい+短い内容にしていこうとは思っている。

 コメントがいまだにないところからして、きっととっつきにくい印象を与えていると思う。冗談も書かない。時事ネタも絡めない。今の時代、こういうストイックなスタイルは受けないとは思う。知識的なことばかり並べているのは決して知ったかぶりをしたいからではなくて、そういう内容じゃないと何を書いて良いのか分からなくなるからだ。つまりこういう文章。テーマもなく、思いつくままを書き綴る感じが結構苦手。ほら、もう何を書いて良いか思いつかなくなっている(笑)

 

  何か話題があるだろうか。好きなものとか?

 何が好きかな。煙草とコーヒーとコーラ。全部、アルカロイド

 ADHDの人はカフェインなどで脳の覚醒レベルが上がるらしい。コーヒーとコーラを大量に採ると言ったら、ADHDの疑いがあるかもと言われた。おそらく自分のスペクトラムにはADHDの傾向は少ない。衝動性は多少あるが集中力は自在に出せる。アスペルガーとカフェインにはあまり関連性がないらしい。(ニコチンはちょっと見かけた。)

 サプリや市販薬品を使って自前で体調を管理することをセルフメディケーションと呼ぶが、ADHDの人はそれが盛んだし情報を良く知っているらしい。自分も以前はサプリに結構金を使っていたのだが、最近はビタミンCとB、気が向くとカルシウム/マグと亜鉛くらいしか飲んでいない。それとアンドリオールというアナボリックステロイド。1日2錠飲むので(そうじゃないと飲んだ気がしない)、30日で60錠消費する。安いところで買っても月4000円以上になるからたまにしか飲めない。

 

 ニコチンは神経伝達物質アセチルコリンの代用品なのだそうだ。アセチルコリンが不足すると認知症になると言われている。アセチルコリンと言うと抗コリン作用を思い出す。昔飲んでいた薬の影響で抗コリン作用が出ていたことがある。口の渇きと振戦が出た。動悸・めまいも関係あったかも知れない。振戦が出たのは複数の要因が重なったからだが、元から本態性振戦を持っているせいだろう。その時期、喫煙量が多かったのは事実だが、アセチルコリンを補おうとしてかは分からない。喫煙が習慣化したのは高校だから、薬の影響とは関係ない。

 カフェインの効果は神経伝達物質ドーパミンの増加や自律神経の調整らしい。当然ニコチンにもカフェインにも興奮作用がある。交感神経を刺激する。ニコチンは副交感神経も刺激する。覚醒レベルが常時高い自分は興奮作用をあまり自覚しないのだが、考えをまとめようとする時にコーヒーと煙草が欲しくなるので、脳の活性化はあるのだろうと思う。

 実は煙草とコーヒーについてブログを書きかけたのだが、健康志向の方の目に入ると怖いなと思って公開しないことにした。特に煙草は今や殺人兵器くらい憎まれている。通常の体質の人には要らない成分なのかも知れないが、たぶん自分は死ぬまでどちらもやめないと思う。(マリファナが合法化されたら別だが。)これもまたセルフメディケーションの一種なのだろう。

 

 他にも好きなものは色々ある。冗談が通じないとよく言われるが、実は冗談はちゃんと通じる。自分では面白い冗談は滅多に考えつかないが、笑えるものは大好きだ。が、ネタが危なすぎるというか、PTA的にNGなものが多い。ポリティカルコレクトネス的にも際どい。これだからサブカル人はどうしようもない、と自分で思う。

 そう言えば高機能自閉症アスペルガーの違いだけど、アスペルガーでは言語・認知の遅れがないらしい。知能の影響もあるのかも知れないが、言葉が出るのが遅いとかは見られず、むしろ年に似合わぬ難しい言葉をやたら使う。これは身に覚えがある。ただ言葉を覚えたての小さい子供がずっとしゃべり続けるような、ああいう行動は見られない場合が多いようだ。積極奇異が出るのはもうちょっと年齢が上がってからなのだろう。

 発達障害の診断を受けたいと思って病院を探してみたが、やはりどこも予約がいっぱいで、簡単には診察は受けられないようだ。段々、そこまでして診断を受ける必要があるのかという気がしてきた。金もそんなにない。診断が出ればスッキリする部分も大いにあるのだろうが、ADHDならともかく、アスペルガーの治療薬があるわけでもない。

 

 アスペルガーで処方される薬は色々あるらしいが、一覧を見て自分が飲んだほうが楽だと感じるのは気分安定剤デパケンくらい。同じ目的で処方されるテグレトール中途覚醒を起こすし、体重も増加するから飲みたくない。リーマスは殆ど役に立たなかった。統合失調症によく使われる抗精神病薬リスパダールやジブレキサも、あまり良い話を聞かない。エビリファイは比較的悪い話を聞かないが、飲まないと困るのでなければ飲まないほうが良いだろうと思っている。

 SSRIは体質で飲めない。吐き気が止まらなくなる。元々、中枢神経系の慢性的な吐き気があるので、副作用が強く出る。唯一飲めたのがジェイゾロフトだが、飲んで何か改善したという気もしないし、抜いても変化がなかった。SNRIトレドミンは飲んだことがないが、そもそも抑うつがないのだから抗うつ剤を飲む必要はない気がする。

 体質だと思うが、メジャートランキライザーに類するフェノチアジン系の抗精神病薬は殆ど効果がない。あの有名なベゲタミンAですら、まったく眠くならなかった。一方でマイナートランキライザーの反応は良い。睡眠導入剤となると弱いものではどうにもならないが、抗不安薬はそれなりに役に立った。が、頭の回転が悪くなり思考がまとまらなくなるから、今更飲みたいと思わない。

 結果、今は死にそうに落ち込むとドグマチールを頓服にする他は(内科で胃腸障害で処方して貰える)、吐き気止め(プリンペラン)と胃薬(ガスター)、首の痛みに筋弛緩剤(テルネリン)と痛み止め(モービック)。過敏性腸症候群と胃の痙攣でブスコパンを頓服にするだけの、いたって薬少なめの生活をしている。たまには睡眠導入剤で寝落ちしてみたいという気分になるが、後が大変なので(抜けの良い薬では寝付けない)やめておく。

 

 話は逸れたが、発達障害の診断を受けてもアスペルガーと言われない可能性が高い。外面的にはそれらしいところはあまりないだろうと思う。人と目を合わせないと言っても、嫌ってると思わせたら失礼だからチラっとは合わせるし、目を合わせなくても不自然じゃないように工夫してしまう。その気になれば朗らかに会話が出来るし、キャッチボールも成り立っていると自分では思う。時々、主語が分からなくて混乱したり、思いもかけないことを言われて反応が遅れるが、そんなのは誰にでもある話だ。

 自分では感覚過敏から来る苦痛は結構大きいが、他人から見たら落ち着いていて変な行動はあまりしないだろう。理性を強めないと生きてこれなかったから、社会性を保つ程度の理性はある。意外とコミュ障でもなく、KYな発言もたまにしかしない。(と自分では思ってる。)

 

 どこかで見かけた話なのだが、WAISを受けて多少のバラつきは認められたものの、全体に能力が高いということで発達障害の診断が降りなかった人がいるらしい。しかも「これだけの能力があって、仕事や人間関係ができないというのは怠け・甘えではないか」とまで言われたそうだ。いくらなんでもそれはない。WAISは知能テストみたいなものだから、あんなものはできる人にはできる。

 知能テストは、自分は小6のときに受けたが、コツみたいのがあった気がする。つまり、その部分(状況判断や判断スピード)が凹んでる人はスコアが落ちてしまう。能力的に低くなくても、慎重な人や集中ができない人はスコアが低く出るだろう。それだけのものだと思っている。まあ、それだけのものと言っったところで、あれで人生を左右されてしまう人もいるのだが。

 それに、思考スピードはストレスが強いと落ちる。受ける時期によっても大きく結果が違うのではないか。自分の場合、小4で受けたらスコアは相当酷かったんじゃないかと思う。担任のせいでストレス過多だったからだ。小6の担任は、自分には小学校歴代担任中一番ストレスのない人だったし、学校生活で何か問題を抱えていたかも思い出せない。小1~4があまりにも酷すぎたせいで、児童を気軽にひっぱたく暴力教師が担任だった小5ですら快適に感じていたほど。それさえなくなった小6は天国だった。

 そこに加えて、テスト内容は自分の得意なところが色々あった。年齢の割に本を沢山読んでいたから言語系は高かったろうし、パターン認識は大の得意。開始後すぐに、これは全部埋めないといけないと気づいた。残り時間コールがあったから、そこからは勘で全部埋めた。人に聞くと、全部埋めるものだと気づかなくて空白が結構あったと言っていた。こういう偶然のような運でもスコアは変わってしまう。

 今更やってもそれほど高いスコアは出ないだろうから心配には及ばないかも知れないが、「能力が高いのに、その現状はうんたら」なんて説教を医者にされたくはない。自己評価としては色々足りてないし、色々駄目だなと思ってる。何がどうしてこうなったのか、自分は全部知っている。努力が足りなかった部分は間違いなくあるが、気力が続かなかったのも本当だ。膨大なストレスを抱えているのだから、ちょうど両足に20kgの重りをつけて長距離走をしているようなものだ。疲労が強い。

 それより何より、障害者枠で就職しようというのでもないから診断を受けて何になるのかと思ってしまう。勿論、「知りたい」という気持ちは強い。違うにしても、結果が出るのは中途半端な状態よりマシに違いない。でも、面倒だなという気持ちも強くてダラダラしてしまう。しかも自分は医者とはめちゃめちゃ相性が悪い。高圧的な医者には反発しか感じない。権威に対する言い知れない反感がある。あらゆる科目で医者と喧嘩しては決裂してきた。泣いちゃった女医さんもいた。本当に「先生」と呼ばれる人種とは折り合いが悪い。それが一番の心配事かも知れない。

 あ、やっぱり自分の社会性は結構問題がある。書いていて気づいた。医者を高確率で怒らせるとか、女医を泣かせる患者はあまりいないかも知れない。

パーソナリティ障害と発達障害

 この記事は前記事『 パーソナリティ障害とは - 日常が非日常 』の続きです。前記事を読んでいる前提で、語彙の説明は繰り返しません。

 

 10種類もあるパーソナリティ障害だが、実際に診断を受ける可能性があるものは多くはない。A群では統合失調型、B群では境界性と演技性と自己愛性、C群では回避性と依存性。可能性があるのは他に強迫性か。

 スキゾイド(統合失調質)パーソナリティ障害の事例がないであろう理由は、よほどでないと受診しないからだ。もし他の不調が出て受診した場合、うつ病などの診断がつくだけで、こんな分かりにくいパーソナリティ障害の診断をわざわざつける医者はいないだろう。強迫性パーソナリティ障害は強迫性障害強迫神経症)の診断がつきそうだし、妄想性パーソナリティ障害もその特徴から受診しそうにない。よしんば家族が無理矢理引っ張って行ったとしても、妄想が強いと統合失調症か被害妄想型のパラノイアになりそうな気がする。

 依存性と回避性の診断が実際についたという人には会ったことがないが、依存心が病的に強くて、どんな些細なことも指示を仰ぐという事例は、指示を仰がれる配偶者から直接聞いたことがある。随分と大変な生活だと思ったのを覚えている。回避性も比較的判断しやすいように思う。

 

 前編で「精神医療の流行」について書いたが、精神科の誤診は結構多い。自分もまともな診断名がつかない状態で長年来たし、統合失調や躁鬱病双極性障害)のような結構大変な診断が後で変更になった事例も複数聞いたことがある。今なら自己愛性と診断されるであろう特徴も境界性のブームの時は境界性と診断された。当時、自己愛性の診断例が日本で殆どなかったため、診断しにくかったからだろう。

 また統合失調症のように安易につけたら大変なことになる診断をなかなか出さない病院(学閥的な系統)もあれば、かなり簡単につける病院(系統)もある。最初の数年間はPD(パニック障害)で後に統合失調症に変更になったケースは複数聞いたが、それはまだ分かる。統合失調症ですと言っておいて、後に別の診断名に変わるというのは納得がいかない。しかし、そういう事例もないではない。

 PD→統合失調症の診断は理解できる。統合失調症は妄想・幻聴・幻覚が特徴だが、原因はドーパミンの増加と言われている。統合失調ではその他の脳内物質の増加も起こるから、恐怖のホルモンと言われるアドレナリンが増えてしまうとPDのような症状を示すだろう。統合失調症の妄想でも理由の分からない過剰な恐怖心はあるらしい。

 誤診ではなく病態の変化と捉えられるのは、うつ病(単極性うつ)から双極性障害に変わる場合だ。単極性か双極性かは躁転してみないと分からない。逆に一度でも躁転したら双極性に変更になる。双極性障害は二大精神病と言われる躁鬱病のことで、これも完治しないと言われているのだが、こんなに双極性の診断が増えて大丈夫なのだろうか?、という気はしている。単極性では抗うつ剤を使用するが、双極性なら抗うつ剤は使用しないから、この変更は様子を見ずスムーズに行われる。

 

発達障害に似ている(?)パーソナリティ障害や病名

 自分が知ってる限りでは統合失調症躁鬱病双極性障害)、身体表現性障害、境界性や自己愛性などのパーソナリティ障害など多岐に渡る。併発もないとは言えないので必ずしも誤診でもないかも知れないが、この症状でその診断名になるのか、と驚くケースも中にはある。

 統合失調症に間違われる原因は、強いこだわりと見立てや紐付け(関連性の設定)が妄想と判断された場合だ。躁鬱病双極性障害)と間違えられるのは、気分変調が激しく、切れやすいせいだろう。これはいずれもアスペルガーの事例。ADHDではディスチミア親和型うつ病があるが、これは誤診とまでは言えない。二次障害で出ている場合がある。しかし発達障害が根本原因であると気づかないままに治療をしても芳しい結果は得られないかも知れない。

 

 自分の場合は境界性パーソナリティ障害の正式診断が1回、正式診断ではないが医者がそう判断したことが1回ある。これも誤診とまでは言えない。パーソナリティ障害は行動様式を見るだけだから、原因が何かは特定しない。以前はアスペルガー境界性パーソナリティ障害は併発しない(特徴が相反するから)と言われていたが、今ではその考えは支持されていない。

 何故、境界性とアスペルガーが相反するのかと言うと、アスペルガーは他人にあまり興味がないと言われているが(自閉症だから)、境界性は特定の他人に強い執着があり、場合によっては不特定の人に構われようとする。しかし積極奇異型のアスペルガーだったら他人への働きかけは強いし、特定の相手に強い愛着もある。境界性に見える行動をしないとも限らない。

 また境界性もステレオタイプな「見捨てられ恐怖」だけではなく、回避性の強いタイプがいる。最近では回避性愛着障害などと呼ばれることもあるが、愛着障害が定義される前は境界性パーソナリティ障害とされていた。境界性と愛着障害はかなり違うものなのだが、時として類似した行動を取る場合がある。行動の原因は他人からは分からないから、行為だけを見て評価するとそういう診断になってしまう。

 アスペルガーは劇場型のパーソナリティ障害にはならないとする考えは、アスペルガーの行動様式をあまりにステレオタイプに捉えすぎている。淡々とした感情表現と他人に対する希薄な関心(特に感情面において)はアスペルガーの特徴ではあるが、他人に強い愛着を持つ場合がある。それが異性なら(異性愛者という前提で)恋愛と誤解されるほどだ。「見捨てられ恐怖」はないのだが、自分のこだわりに応じた自己中心的な言動や、相手の迷惑を考えない(想像できないだけだが)行為が境界性人格に見える可能性はある。

 

 上では反社会性パーソナリティ障害は滅多に診断されないだろうと書いたが、先日、某所で反社会性パーソナリティ障害と診断された発達障害の人を見かけた。反社会性なんてよほどじゃないと診断されないと思っていたが、そうでもないらしい。しかし社会性が低いから反社会的な行為をしてしまう発達障害者を反社会性人格とまでするのは随分酷い話に思える。反社会性をサイコパスとすると、強い犯罪傾向のある人物という印象になる。しかし現在ではソシオパスという言葉があり、社会性に問題のある行動をする人という軽いニュアンスになっているのかも知れない。が、それにしたって、とやっぱり思う。 もしかして流行が反社会性人格に移ってる?

 

◎パーソナリティ障害の診断は慎重に

 ネットでパーソナリティ障害の診断基準を検索すると、出てくるのはDSMの基準が多い。あるいはICDの場合もあるが、注意しなければいけないのは素人がそれを見て「当てはまる」と即断してしまうことだ。DSMの場合など、誰でもありそうなことを7~9項目並べて「5つ以上当てはまれば」としている。

 たとえば自己愛性だと、

 

 1.自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないのにも

  かかわらず優れていると認められる ことを期待する)。

 2.限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空 想にとらわれている。

 3.自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または団体で)

  しか理解されない、または関係がある べきだと、と信じている。

 4.過剰な賞賛を求める。

 5.特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを

  理由なく期待する。

 6.対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を

  利用する。

 7.共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、 またはそれに気づこうと

  しない。

 8.しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。

 9.尊大で傲慢な行動、または態度。

 

といった調子で、必要数を「5つ以上」としている。「誇大な」や「過剰な」がどの程度を指すのかは曖昧だし、「尊大」「傲慢」「特権意識」は誰にでも多少はあるだろう。昔、この診断基準を見たとき、自分も「自己愛性では?」と心配になった。1、3、5、6、9が当てはまる。しかし自己愛性に多少詳しい人から「違う」と言われた。

 パーソナリティの診断基準は「人格」なので、心理テストとは違う。自己評価はあまり意味がない。内心「自分は重要な人間だ」「自分は特別だ」と思っていても、他人から見てそれが感じられないのなら人格ではない。自分では尊大で傲慢だと思っていても、単に自己評価が厳しいだけかも知れない。幼稚さから来る中二病的な感覚も上記に当てはまってしまう。

 自己愛性で重要なのは「自分の業績や才能を誇張する(大袈裟に言うだけではなく一部嘘が混じる)」「過剰な賞賛を求める(執拗に繰り返し賞賛を得られるまで食い下がる、得られないと怒り出す)」「他人を不当に利用する(他人の人格や人間性を無視して道具のように扱う、しばしば恫喝・脅迫を行う)」「共感の欠如(まったく共感が存在しない、共感が何かさえ分かっていない)」あたりで、それも些細なレベルではなく「ド外れて」その傾向が強いのが自己愛性人格だ。結果、しばしば嘘をつき、その嘘を本人も事実と信じ込むため嘘をついている自覚がない。支配的で操作的な対人様式を取る。(操作的とは、自分の思い通りに相手を動かすため、脅迫・恫喝・丸め込みを駆使する。自覚的に相手を操ろうとし、しばしば恫喝・脅迫を行うが罪悪感は皆無。)

 こういった言動は時として誰でも取る。特定の場面や特定の相手に対して、特に密室での言い争い(家庭内での口論)では社会性が失われるから異常な言動が目立つのだが、それをもってパーソナリティ障害としてはいけない。人格は社会性の問題なので、複数の相手に家の内外に関わらず継続して行う、という点がポイントだ。そして、おそらくは彼らは自己診断は無理だ。自分がそれをしていると無自覚だからこそのパーソナリティ障害なのだから。

 

発達障害者はパーソナリティ障害なのか?

 社会性が低いとされる発達障害者は、それ故にパーソナリティ障害なのだろうか。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。確かに年齢に応じず社会性が未熟な人は多い。しかしそれは非社会的なのであって(社会との関わり合いが薄い)反社会的なわけではない。非社会的な傾向からルールを破ることもあるが、ルールを破ることに快感を覚える反社会性ではない。単に「よく分かっていない」状態だ。

 また他人の気持ちを想像する能力が低いため人を踏みにじるかのように見えるかも知れないが、人を踏みにじろうとしてやっているわけではない。自分のこだわりのほうが強かったり、相手が何を望んでいるかまったく想像がついていなかったりが原因だ。「悪気はない」というところか。「悪気はない」は定型者の決まり文句だが。

 アスペルガーの人ではルールを遵守しすぎる人がいる。杓子定規に文字通りルールを守ろうろうとし、融通が利かない。融通が利かないことを社会性が壊れていると言われたら困る。臨機応変な応用力がないだけだ。自分のようなチャランポランな人間は逆に、融通が利くかのように見えてしまうが、ルールにこだわりがなさすぎるだけ。しばしば逸脱する。しかし逸脱があるからといって反社会的なわけではない。

 つまり、社会性の低さや想像力の弱さという前提障害がある発達障害者にパーソナリティ障害の診断を下すためには、定型者よりも多くの配慮が必要だろう。凹んでいる能力の部分は凹んだ能力を基準にして考えるべきで、定型者を基準にしてはいけない。慎重に検討してもパーソナリティ障害とするしかない人はいるだろうが、安易にそう断定すべきではないと思う。

 

◎パーソナリティ障害の治療

 昔と違ってパーソナリティ障害も治療可能と言われている。認知行動療法やカウンセリングによる分析的精神療法が有効。未熟な社会性を伸ばしたり、認知の歪みを取ったり、原因となっている過去の出来事を探ったり。この点は発達障害と同じだ。気長な訓練とも呼べるような繰り返し作業ではあるが、間違いなく結果は出る。

 発達障害者の場合、社会性が低いことで問題を起こすのならその点はカバーしないといけないのだが、それは「定型者と同じになる」という意味ではない。他人に興味がないなりに当たり障りなくやり過ごすという意味で、非社会的な人格は変えようがないだろう。非社会的(社会に深く積極的に関わり合いたいと望まない)なことが問題なのではなく、反社会的(社会の規範を意図的に逸脱しようとする、暴力傾向・犯罪傾向など)が問題なのだ。特に大人であれば、社会性というのは知識と見識による行動の抑制や推奨される行動であって、「それさえ守っていればとやかく言われる筋合いはない」と割り切るのが良いように思う。

 たとえば暴力や犯罪(過失は犯罪には含まれない)をしない、他人を無闇に(言葉で)攻撃しない、差別しない、物事の原因・理由・根拠を確認してから判断するなどができていたら、おおよそ「高い社会性」と言われて良い。空気が読めないとか察しが悪いなどを非難される筋合いはない。社会性の評価は加算法ではなく減点法だと思う。

ギフテッドという表現に思う

 ガーンディーは何故、一部のインド人に尊敬されないのか。日本人の多くは彼を偉人と教えられて育つ。自分も子供の頃はそう信じていた。しかし、彼の批判者はそうは言わない。

 ガーンディーはヒンディー(ヒンドゥー教徒)で、カースト制度を肯定していた。肯定までしていたかは議論もあるのだが、少なくともカースト制度を廃止しようと努力はしなかった。ただ平等思想は本人にもあり、不可触民(アウトカーストアンタッチャブル)を「ハリジャン(神の子)」と呼んだ。アンタッチャブルとは日本で言えばエタ非人のようなもので、4つのカーストの更に下に置かれる。日本語の呼び名の通り、「触れることも穢らわしい人々」とされた。

 そのことに対し、アンベードカルらアンタッチャブル出身の仏教徒は強く非難した。仏教は平等思想なので、生まれによって人の身分が決定するという考え方を否定する。人は行いによってのみ評価されると考える。アンタッチャブルを穢らわしい人間と言おうが神の子ハリジャンと言おうが、排除であることに違いはないのだ。「聖痕」思想というのか、最も穢れた存在を神聖視する文化は、つまり排除のための言い訳に過ぎない。

 インドにはヒジュラーと呼ばれる人々がいる。元々は半陰陽のことだったが、実際には性同一性障害MTFが殆どだ。半陰陽は奇形で、その故に彼らは神聖な存在とされ日常から排除された。排除する側の罪悪感を消すために神聖視が起きるのだ。

 ハリジャンは正にそのような作用を起こす概念で、神の子とされたからといってアンタッチャブルが受け入れられるわけでもなく(ガーンディー自身は受け入れていたが)、排除という差別は消えないと批判された。実際、ガーンディー以後も長きに渡ってアンタッチャブルへの差別(排除と暴力、不平等)は現在も続いている。

 

 同じことは色々なマイノリティに対しても起きているように思う。そのすべてが駄目だと言うつもりはない。知的障害のある人を出家させ、「清僧」と呼ぶ寺もある。彼らを囲い込み、神聖視することで日常から切り離すのだが、本人達にとってそれが不快なことなのかは分からない。清僧さん達が組んだバンドがあって、ライブで一般客を集める。そういった非日常での接点を楽しんでいる。彼らは安全に暮らせる場所を確保する必要があり、それを排除とまで感じるかは分からない。

 発達障害に対しギフテッドという呼び方がある。自分はこの言い回しがあまり好きではない。ハリジャンと同じ排除を感じる時もあるし、才能を要求されている感じも不快だ。特別な能力なんてない人のほうが多いし、才能がなければ受け入れないというなら差別だと思う。定型や健常の人はいちいち才能を要求されるだろうか。もし発達障害者にだけ才能を要求するのだとしたら、それは差別ではないのか。そういったひねくれたことを考えてしまう。

 自分は神聖視も尊敬も求めていない。差別されず排除されないことを望んでいる。特別視も求めていない。ただ適切な対処を求めている。装飾をつけられて飾り棚に収納され、日常から排除されることを望んではいない。

 ギフテッドという言い回しは、もしかしたら"Save the pride"から来ているのかも知れない。英語圏での多様性を認めようという社会運動だ。自尊心を非常に重視する欧米人の感覚なのだが、性的マイノリティの自尊意識を高めようという当事者内部からの運動が起きた。それが発達障害に置き換えられているのかも知れない。だから当事者が自分をギフテッドと言う分には(中二病くさくて笑ってしまうが)まだ分かる。非当事者が「君はギフテッドだね」と言ってくるから不快なのだ。「お前に何が分かる?」と思ってしまう。

 

 自分には数多くのマイノリティ属性がある。一番最初に表面化したのは左利きだった。昔のことだし、たいていの左利きは小学校に入る前に矯正されていたので、周囲に左利きはほぼいなかった。そのためとても奇異に見えたらしく、左利きだというだけで変わっているとか変だとか言われ続けた。そう言われることが自分は嬉しくなかった。「あなた達が右手でやっていることと同じことを左手でやっているだけだ。右手ではできない。あなた達が左手を使えないのとどう違うのか?」と、よく食ってかかった。徐々に面倒臭くなって言わなくなったが、見たら分かる「左利きなんですね」を言ってくる人がうるさくて不快だ。「言われなくても知っている」「見れば分かるだろう」と思ってしまう。

 他にも色々と奇妙な行動があったのだろう。「変わってる」と言われるのは日常茶飯事だった。言ってる人は貶してるつもりはないのかも知れないが(明らかに貶す意図で言ってる人も結構いたが)、言われ続けるほうとしては排除を感じた。「お前は俺達とは違う。あっちに行け」と言われている気がして不快だった。差異を捉えて言及する行為には、常にこういう問題がある。

 だからギフテッドが持つ差別性には警戒が必要だ。耳障りが良い、褒められてる気がするといって放置したら、いつの間にか排除されているかも知れない。

 

 「我々は少し変わっているように見えるかも知れませんが普通の人です。あなた達とたいして変わりません。特別でもなければ異常でもありません。ただ特別な配慮を必要とします。それは存在が特別だという意味ではありません。ただ、やり方が少しあなた達とは違う、というだけです」

といった言わずもがなのことを言い続けなければならないのだとしたら、疲れる話だ。

 それは子供の頃、「左利きは右利きが右手でやることを左手でやるだけの話で、それ以上の意味は何もない。脳が特殊なのでも人間性が特殊なのでもないし、天才でも馬鹿でもない」と言い続けたのに似ている。

パーソナリティ障害とは

 パーソナリティ障害は精神疾患ではないが、境界性パーソナリティ障害精神疾患の1つとして扱われ、精神障害認定の診断名として有効だ。元は人格障害という呼び方だったが、「人格が障害している」というと誤解や偏見を生みそうとのことから改称されたらしい。しかし英語にしてみたところで意味は同じだ。

 60年代に「精神病と神経症のどちらかと言えない」状態を指す意味で「境界例」という言葉が使われ始めた。(言葉自体は1928年から存在する。)続いて1980年に改訂された『精神障害の診断と統計マニュアル第三版』(DSM-Ⅲ)で、境界型人格障害がクローズアップされた。日本では、80年代にはマスコミが使う程度だったが、90年代に「ボーダー」という疾患名で定義がなされ、困った性格の人達をそう認定するブームが起きた。自称ボーダーが巷に溢れかえった。後に、日本における「ボーダー」の提唱者が「インチキだった」と発表すると、潮が引くように自称ボーダーは消えたが、94年にDSM-Ⅳが改訂され、中で境界型を含む多様な人格障害が詳細に定義されたことから新たなボーダーブームが到来する。

 ブームというのは精神医療界の流行のことで、流行すると医師がその診断名をやたら付けたがるため患者数が急増する。90年代には一般に人格障害の知識は知られておらず、「人格は治療不可能なため不治の病」という誤解が蔓延し、診断名を付けられた患者が絶望したり、境界型の定義にある行動を模倣するといった現象が見られた。こういう流行はその後もあって、近年では自己愛性パーソナリティ障害と新型うつ(ディスチミア親和型うつ)だったらしい。

 境界例やボーダーと境界性パーソナリティ障害は少し違うのだが、境界型人格障害境界性パーソナリティ障害だ。自己愛性パーソナリティ障害が注目される前はやたらに境界性の診断を付ける医者が沢山いた。今で言えば自己愛性の人も当時は境界性と診断されていたほどだ。

 

◎パーソナリティとは何か

 パーソナリティ障害とは何かを考えるには、精神医学や心理学で言う人格の意味を知らないといけない。その前に性格と人格は別、という話をしよう。性格とは、持って生まれた気質をベースに形成される(内的な)もので、環境(経験)が影響を与えはするが、環境が同じでも個性が出るのは気質(先天的要因)の違いだと考えられる。勿論、年齢や経験で変化しないわけではないが、その変化の仕方も気質に大きく影響される。

 一方で人格とは、社会と関わる上で形成・発露される行い・振る舞いのことで、性格をベースに発達するが、内的なものではなく外部に露出する部分を指す。性格は個人的なもの(社会と無関係に存在するもの)、人格は社会的なもの(社会との関わりで存在するもの)と捉えると分かりやすい。つまり、人格とは常に他者から観察された結果でしかなく、誰とも接触しなければ人格は顕現しないのである。

 

 そのため人格は社会参加によって形成される。乳児には性格はあっても人格はない。幼児になり、保育園に通ったり近所の友達と遊ぶ時、人格は表面に出てくる。それは他者を前にした時の振る舞いである。この時期には、多く気質がそのまま出ている。人と関わることによって人格は形成され、成長する。母親をはじめとする家族との接触では社会性があまり求められないため、家族以外と接することで形成が進む。

 勿論、家庭は「小さな社会」でもあるので、幼児が自分と一体の存在と認識する母親や主たる養育者以外の家族と接することでも形成は進む。兄弟姉妹や接点が少ない父親との接触だが、最近では子育てに積極的な父親も増えたので、やはり兄弟姉妹との共同生活で学習することは多いと思う。欲しい物を我慢したり、泣いていたら慰めたり、喧嘩したりといった些細な日常で、子供は多くのことを学習するのだ。

 ただ、この「小さな社会」は他者がいるという点では社会の一部なのだが、そこにいるのは赤の他人ではないから、厳しさはあまりない。ワガママも聞いて貰えるし甘えることもできる。最近は独りっ子も増えたのでなおさらだろう。それ故、保育園や幼稚園で同じ年頃の「訓練されていない人格」と向き合うことで人格形成は大きく進むのだ。大人は既に「よく訓練された人格」だから子供の言うことを聞いてしまったり、野放図な感情放出をしない。未熟な人格と接触することで、その未熟さに対処する方法を学ぶ。だから保育園や同じ年頃の子供と遊ぶ機会は非常に大切だ。

 

 こういった性格と人格の明確な区別を精神医療はしないのだが(性格と人格は一連のものと捉える)、性格障害ではなく人格障害と呼ぶのは人格が社会に与える影響、社会と適応する上で問題を生じる故だ。あくまでも社会に対する人格を問題にしている。ちなみに、英語では人格も性格もパーソナリティとなるから、実は性格障害でも間違いではない。性格はキャラクターという単語もある。気質はテンパー。テンパーには性格や機嫌という意味もある。(カタカナ英語ではカンシャクの意味で使われることが多い。)

 「人格障害は治らない」と誤解されたのは、性格と人格の意味を同一と考えたためだ。確かに性格は直す直さないという問題ではない。性格が変な人はいつまで経っても変なままかも知れない。しかし、変な性格と受け止められる要素を表に出さなければ、少々変わった人と思われても「性格が変」とまでは言われないだろう。つまり、それが人格なのだ。今のように認知療法行動療法が知られていなかった時代でもあり、「性格は変えられない」と同じ意味で「人格障害は治らない」と一般に言われていた。

 

◎パーソナリティ障害の定義

 以下、ウィキペディアから「パーソナリティ障害」の一部を引用。

 

世界保健機関(WHO)による全般的診断ガイドライン
 粗大な大脳の損傷や疾病、あるいは他の精神科的障害に直接起因しない状態で、以下の基準を満たす。
(a) きわめて調和を欠いた態度と行動を示し、通常いくつかの機能領域、たとえば感情、興奮、衝動統制、知覚と思考の様式、および他人との関係の仕方などにわたる。
(b) 異常行動パターンは持続し、長く存続するもので、精神疾患のエピソード中だけに限って起こるものではない。
(c) 異常行動パターンは広汎にわたり、個人的および社会的状況の広い範囲で適応不全が明らかである。
(d) 上記の症状発現は、常に小児期あるいは青年期に始まり、成人期に入っても持続する。

 (世界保健機関、ICD‐10 精神および行動の障害—臨床記述と診断ガイドライン 新訂版)

 

 脳の外傷や疾患が原因とされない、調和を欠いた行動(激高・興奮・感情制御の欠如、衝動制御の欠如、対人様式の異様さ)が観察される場合にパーソナリティ障害と診断される。ここで言う「異常」とは精神病的なものではなく、あくまでも異常行動だ。といっても片足で立ち続けるとか地面を転げ回るといった異常行動ではない点に注意。

 (e)以下は省いたが(d)を残した理由は問題提起したいからだ。同じくウィキペディアの同項目から引用。

 

<アメリカ精神医学会による全般的診断基準>
A. その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った、 内的体験および行動の持続的様式。この様式は以下の領域の2つ(またはそれ以上)の領域に表れる。
 1.認知(すなわち、自己、他者、および出来事を知覚し解釈する仕方)
 2.感情性(すなわち、情動反応の範囲、強さ、不安定性、および適切さ)
 3.対人関係機能
 4.衝動の制御
B. その持続的様式は柔軟性がなく、個人的および社会的状況の幅広い範囲に広がっている。
C. その持続的様式が、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
D. その様式は安定し、長期間続いており、その始まりは少なくとも青年期または成人期早期にまでさかのぼることができる。
E. その持続的様式は、他の精神疾患の現れ、またはその結果ではうまく説明されない。
F. その持続的様式は、物質(例:薬物乱用、投薬)または一般身体疾患(例:頭部外傷)の直接的な生理学的作用によるものではない
( アメリカ精神医学会、精神疾患の診断・統計マニュアル、IV-TR)

 

 こちらのほうが分かりやすい。Dにあるように、パーソナリティ障害は青年期または成人期早期から発生する。WHOの(d)には「小児期あるいは青年期にはじまり」とあるが、小児期には人格は形成途中だ。人格が固まっていないのに障害とは言えないし、子供は一時的におかしな行動を取るのが普通だ。特に顕著な異常性は小児期から兆候が見られると言いたいのかも知れないが、たとえば小動物を殺すといった極めて異常な行動を小学生は平気でする。それは反社会性パーソナリティ障害の兆候かも知れないし、そうじゃないかも知れない。少なくとも高校生くらいにならないと人格への評価はできないのではないか。というわけで自分は「青年期から兆候が見られ、かつ継続している」を主張しておく。

 

 やっと本題。具体的にパーソナリティ障害にはどのようなものがあるかをウィキの同項目から引用。

 

A群:奇異型
 風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
・妄想性パーソナリティ障害
  世の中は危険で信用できないとして、陰謀などを警戒しており、自己開示しない。
スキゾイドパーソナリティ障害
  とにかく1人で行動し、友人を持たず1人で暮らすことを望む。
・統合失調型パーソナリティ障害
  幻覚や妄想といった統合失調症と診断されるような症状はなく、病的ではない程度の風変わりな行動や思考を伴っており、人生の早期に表れそして通常一生持続する。しかし、現在ではより受け入れられやすいアスペルガー障害とすることも多い。

 

B群:劇場型
 感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込むことが多い。
・反社会性パーソナリティ障害
  少年期の素行症による非行の段階を経て、利己的で操作的な成人となり、人を欺くが周囲には気づかれにくい。中年になると落ち着くことも多い。
境界性パーソナリティ障害
  他者に大きな期待を抱き、非現実的な要求によって人を遠ざけてしまったり、喪失体験をしたときに、自傷行為に至ることがあり、不安定な自己の感覚や人間関係があり、衝動的な側面を持つとされる。中年になると落ち着くことも多い。
・演技性パーソナリティ障害
  自己顕示性が強く、その時に演じている役柄に影響され、大胆に振る舞う。
・自己愛性パーソナリティ障害
  他者に賞賛を求め、自分が特別であろうとし、有名人との関係を吹聴したり、伝説の人物のつもりでいて、他者の都合などは度外視している。

 

C群:不安型
 不安や恐怖心が強い性質を持つ。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
・回避性パーソナリティ障害 Avoidant personality disorder
  人付き合いが苦手であり、批判や拒絶に敏感であり、新たな関係を避けがちであるが、スキゾイドパーソナリティ障害とは異なり、人間関係は希求しており、親しい人を何人か持っている。青年期前後にさらに回避的になってくることがあるが、加齢と共に寛解してくる傾向がある。
・依存性パーソナリティ障害
  何かを決めることも、身の回りのことも手助けが必要であると感じている。
・強迫性パーソナリティ障害
  完璧主義であり、他者に仕事を任せられず、くつろぐことも、気のままに行動することもできない。

 

 以上10種に加え「その他」として複合型があるとされる。

 A群のスキゾイドとは統合失調症のことで、統合失調質とかシゾイド型とも呼ばれるのだが、このネーミングは随分と失礼な気がする。破瓜型の統合失調症が未治療で進行し、人格崩壊を起こすと他者にまったく興味を向けなくなり、自分の世界に引きこもってしまう。それをイメージしてのネーミングだろうと思うが、他人に興味を一切向けないくらいでそこまで言われる筋合いはない気もする。また、統合失調型パーソナリティ障害と名前が似ていて紛らわしい。

 統合失調型じゃないかと思う例に会ったことがあるのだが、統合失調症とはまた違う妄想(統合失調症の妄想ではなく思い込みやこだわり、時に見立て)を持ち、しかもそれが長期間継続し、結構つじつまもしっかり合っている。このタイプの妄想は妄想型統合失調症に似ていて、思考力の低下などは見られない。ただ対人様式の異様さは際立っていて、結果として孤立型である。

 妄想型は陰謀論者などによく見られるが、世に溢れる陰謀論者がすべてこれというわけではない。また、統合失調症の妄想型とも違う。実例を見たことがないのでいまいち分からない。

 

 境界性や自己愛性は劇場型と呼ばれるグループだ。何故そう呼ばれるのかと言うと、対人様式に特徴があるからだ。人に積極的に働きかける点(気を引く、執着するなど)、他人の評価を過剰に気にする点、他人への働きかけの手法に一定の様式がある点など。演技性も含め3者には連続性(スペクトラム)があるとされる。私見では、境界性や演技性が悪化すると自己愛性に発展し、自己愛性がさらに酷くなると反社会性に近くなる。境界性や演技性は人格がある程度固まった16~29歳で目立ち、30歳を過ぎると徐々に穏健になっていく場合もあり、人格の未熟さとも深い関係があるように感じる。一方で自己愛性が悪化するのは30歳以降で、年をおう毎に行動様式の異様さは度を増す。

 A群は他人に対して興味関心が薄く、他人と関わりたいという欲求も希薄だ。B群は逆に、他人がいないと自分の存在を確認できないような心情が強く、他人を通して自分を確認するような振る舞いを繰り返す。劇場型といっても演技っぽいという意味ではない。演技性パーソナリティ障害も大袈裟な言動が目立ちはするが、他人の人格を演じているのではなく、自分が期待されていることを察知して大袈裟に過剰にやって見せたり、場や相手によって人格が入れ替わるほど態度が違ったりするため、人格に一貫性がないように見える。そのため多面的な人格を見た人は、どれが本来のその人の人格かを判断できなくなり不気味な感じを受ける。

 

 自己愛性は他人を道具のように扱い、決して人間扱いしない。利用するためには同情や共感も演じるが、表面的なもので内心は非常に冷淡。思い通りにならないと手のひらを返したように冷たくなったりする。自己愛性という名前とは逆に、このタイプの人は自己愛が低い。自尊心も低く自分に自信がないため、自分を尊大に見せるため頻繁に嘘をつく。嘘をつくことに良心の呵責はない。こう言うとソシオパスのように見えるが、実際ソシオパスの一部は自己愛性ではないかと考えている。

 自己愛が低いと言う理由は、他のパーソナリティ障害からここに進む人はたいてい社会的成功を収められていない。実績もなく自分は偉大だと言い張るから異様なのであって、実績がある人がそれを誇ってもそれほど異様ではない。また過剰な自慢も特徴だ。人から羨望されようとするため、とんでもない嘘をつく。嘘をつかなければいけないのは、自分の実像では誰も自分を尊敬しないと知っているからだ。つまり自分に自信がない。その一方で自慢にもならないことを必死にしつこく自慢し続けたりもする。そのため他人の評価には鈍いところもあって、お世辞でも満足する。

 反社会性パーソナリティ障害はサイコパスとも呼ばれ、犯罪傾向で知られている。というか、犯罪をするから反社会性と呼ばれる。この人達も嘘をつくことに躊躇はなく、他人を傷つけることにも良心の呵責はない。人を操って目的を達成しようとする。極端に冷淡で、他人と共感する能力はない。他人が苦しむのを見て快感を覚えたりもする。こう書くと自己愛性と類似しているが、自己愛性の人は犯罪傾向はない。一応、社会規範や法律は守る。だが、それ以外の点では振る舞いに共通点が多く、二者を分けるポイントは犯罪性だけだろう。

 劇場型の人が他人に働きかける様式を「操作」と呼ぶ。他人を操作するように思い通りに動かしたがる。劇場型と呼ばれる理由はそれもあるかも知れない。演出家が役者に指図して動かすように、他人が自分の指示や期待に従うことを要求する。そのため関わると非常に消耗が激しいタイプだ。境界性と演技性がそうする動機は、好かれたいからなのだが、自己愛性と反社会性の動機は目的を達成するためだ。目的とは自分の利益だ。利益の中には賞賛はあっても愛情はない。そういった情緒的なものは理解ができないのだ。だから「人に嫌われる」ことに鈍感でもある。境界性と演技性は嫌われることに極端に敏感で、過剰に反応する。

 

 C群は不安型と呼ばれ、回避性の人はとにかく他人に恐怖心が強く、ネガティブな評価を恐れるあまり他人と関わり合うことさえ避けるようになる。非常に繊細で、拒絶されると立ち直れないくらいショックを受ける。そうなる前に自分から遠ざかったりもする。失敗を過剰に恐れるのは、精神の脆弱さの故だろう。極端に打たれ弱い。

 依存性はアルコールやギャンブル、薬物の依存ではなく、人間関係に依存する人だ。ただし依存できる人間関係が得られない時には、アルコールやギャンブルに逃避する場合もないではない。常に他者に依存することを求め、何でも指図を受けようとする。依存関係を作りやすいのは境界性もだが、境界性が不安定で激しい感情を持つのに対し、依存性は不安が強い。性格は一般に大人しいが、依存対象に固執する時は驚くほどの頑固さを見せ、引きはがそうとすると暴れることもある。

 強迫性は強迫性障害精神疾患)との区別が難しそうだが、いわゆる強迫神経症とは違う。実例を知らないので詳しいことは分からない。

 

 長くなったので次の記事に分けるが、何故、パーソナリティ障害について詳細を書こうと思ったのかと言うと、発達障害を持つ人が診断されるケースもあり、また誤診もされやすいからだ。自分は境界性の診断を2度受けているし、回避性も非常に強い。アスペルガーの行動様式が必ずしもパーソナリティ障害と一致するわけではないが、一致してしまうと誤診が起こりやすい。その他、統合失調症躁鬱病双極性障害)との誤診も目立つし、ADHDはディスチミア親和型うつ病と間違えられやすい。

【本】発達障害は諸々のズレという見解

 東洋経済の『発達障害の素顔』というブルーバックスの紹介記事。未読なので書評ではなく、記事タイトル及び内容に色々と思ったことを書く。

 

toyokeizai.net

 

 自分のような軽度の自閉症だと、障害と言われてもピンと来ないのが正直なところだ。ズレという表現は自分もよく使う。体感のズレ、情緒のズレ、視野のズレ、興味のズレを感じている。ズレを認識するには定型発達者との比較が必要で、複数の定型発達者や発達障害者から話を聞いて比較検討しないとなかなか認識できない。幸い、自分は人と話すのが好きなので、親しい人達を長時間インタビューした。

 結果、どうも自分は色々とズレていると分かった。目立った学習障害がなかったこともあり、障害というより症候群と言ったほうが個人的にはしっくり来るのだが、しかし生活上の不便や困り事は結構多くて(主に感覚過敏と特異な体長変動による)、ストレスも強いことから一般的な形での社会参加には困難が伴う。

 また、仕事や学習で困難を経験している人に多いのだが、障害として認めて欲しがる人は結構いて、障害じゃないという言い方に強い不快感を示す人もいる。自分も「個性」だの「特徴」だの定型者に言われると良い気持ちはしないし、「才能」と言われたらイラっとする。一方で、「障害はすべからく悲惨である」と言い切られると、あまり悲惨でない自分のような者は障害を名乗ってはいけない気がしてくる。

 

 上記の本のアマゾンでの紹介文を引用する。(改行位置は変更)

 

 「多かれ少なかれみんながもっている、だから「スペクトラム」とよばれているのです。

 ・コミュニケーションが苦手

 ・人の顔や目を見て話ができない
 ・読み書きが苦手

 

 だれにだってある、ちょっとした性格のひとつ。じつは、脳が発達する過程で、うまく視覚が形成されなかったりすると、そのほかの感覚器の形成に影響が現れるというのです。
 人より視力や聴力が極端によすぎるために同じものを見たり、聞いたりしていても
 まったく違う世界として受け止めているかもしれない、それが発達障害の素顔なのです。
 自閉症ADHDディスレクシアウィリアムズ症候群アスペルガー症候群など、感覚の特性としてとらえることで新しい治療と対応の可能性が見えてくる!」

 

 ディスレクシア難読症や識字障害のことで、文字が読めない学習障害だ。ウィリアムズ症候群は7番染色体の遺伝子が欠損していることで生じる、軽度~中度の知的障害を伴う発達障害だが、自閉症とは反対に高いコミュニケーション能力と社会性を持つ友好的な性格で知られている。

 アスペルガーでは「読み書きが苦手」という人をあまり見かけない。(読解力を問う国語の成績は悪い人もいる。)学習障害は比較的出にくいらしく、自分の場合も目立った学習の遅れはなかった。ただ、驚くばかりに漢字人名を覚えない。これは今でもそうで、片仮名や英字表記の人名もあまり覚えないのだが、漢字の人名は記憶に穴でも空いているように見事に忘れる。覚えていても言い間違いが多い。書く場合はまだ良いのだが、口で言うときは不思議なくらい言い間違える。

 

 「誰だってある」と言い切るのはどうなのかとは思うが、定型発達者(ということになっている人々)をよく観察していると、発達障害に類似した行動を取ることがある。コンテキストの無視、相手の気持ちを考えない態度、思い込みによる価値観の押しつけ、他人に対する興味の薄さ、社会性の低い行動といったものは誰にでも見られる。そういう行動を見るにつけ、定型発達と発達障害が連続していると感じるし、どこからが障害なのか線引きが難しいとも感じる。

 しかし「性格の1つ」と言ってしまうのは障害を否定される気がして、怒る人もいると思う。世の中では「大人の発達障害はインチキ。ただの性格に過ぎない」と主張する人もいて、かなりの反発を買っている。感覚過敏や体感のズレが「性格」と言われたら自分だって怒る。「特徴」と言われたらまだしも、「性格」なんて言い方はない。

 

 視覚過敏は発達障害が原因だと思うが、視力が良いのまで関係あるとは知らなかった。自分の視力は結構良い。子供の頃は両目とも1.5という平凡な検査結果だったので視力が良いとは思わなかった。20代前半までは乱視でもあるのかと思ったくらい、良く見ようとジッと見るとブレてしまい見えにくかった。そのうち遠くの物が良く見えるということに気づいた。30歳を過ぎると老眼が入って、本を読むのに百均の老眼鏡をかけるようになった。老眼というより単に遠視だったらしい。

 視力検査の結果が良くなかった理由は、見ようとするとブレてしまうせいで、これも後になってから分かった。視野の中心あたりはブレやすい。目の端で見ると動いている物も小さい物も良く見える。とはいえ、最近はさすがに視力が落ちたようで遠視が治った。本も老眼鏡なしで読める。代わりに遠くの看板が見えなくなって不便だ。

 視覚過敏は視力の問題ではないと思う。学生時代は「明暗順応が追いつかない」と認識していて、サングラスをかけていることが多かった。眩しさは暗い場所から明るい場所に出たとき、明暗順応が追いつかない感じによく似ている。夜だと対向車の遠目ライトがかなりきつくて、視野が白飛びするので運転は危険。

 

 記事中、唐突に性的虐待の言及がある。虐待によるストレスが脳の発達に影響を与えるのは分かるのだが、発達障害は現在、育て方の問題ではないことになっているので関連性が分からない。本の中でストレスと脳の発達についての言及があるのだろうが、自閉症の本の紹介で虐待児、それも性的虐待を取り上げるのは奇妙な感じではある。しかし自閉症発達障害の子供に限らず、障害児が虐待の被害者になりやすい事実はあるようだ。

 何にせよ、「感覚の特性」に言及が多そうな本書はちょっと興味深いので、そのうち読んでみたい。ブルーバックスなら公共の図書館に置いてあるし、なければ取り寄せても時間はかからないだろう。買うかどうかは読んでから決める。

 

〔追記〕

 アマゾンのレビューを見ると、7レビューで☆3.5。あまり高評価ではない。認知科学寄りの本だとか、具体的な対策に言及していないというのが理由らしい。具体的な対策は色々な本で指摘されているし、発達障害には解決法も答えもない。そういうものを期待して読むとガッカリするのかも知れない。

 本文中に「蛍光灯の点滅が見える」という記述があるようだが、今の蛍光灯は高性能になったのか気になりにくい気がする。今の子供達は蛍光灯の点滅と言っても通じないのかも知れないが、昔の蛍光灯は点滅が酷く、室内(仕事場など)でもサングラスをかけていた。自室や読書スタンドは白熱灯を使っていた。蛍光灯による色の偏向もかなり気になった。(部屋全体が青っぽく見える。)白熱灯の色に近い蛍光灯が出てからは楽になったことなどを思い出した。

 一般の人には点滅は見えないと学生時代に定型の友達と話して知った。自分が「ほら、点滅した」と言っても、周囲の友人は「全然」と言って否定する。当時は自閉症と言えば知的障害のことだったし、こういった細かい特徴は知られていなかったから自分も「ただの癖」と思っていたが、神経が疲れるし苛々も多かった。。楽な時代になったなと思う。

アスペルガーと恋愛

 (記事から引用)

 「恋愛は多くの人が体験するもので、アスペルガー症候群だからといって恋愛にまったく興味がないというわけではありません。

 アスペルガー症候群ではない人と同じように恋愛に興味のある人もいれば恋愛に興味のない人もいます。」

 

karadanote.jp

 

 改めてこんな風に書かれると、「あれ?俺達って恋愛できなんだっけ?」という気分になる。あらゆる属性内に恋愛に興味のある人とない人が混在している気がするのだが。自分個人は確かに恋愛脳ではないし、恋愛が何か分かっていないのだが、それがアスペルガーの特徴かと聞かれると甚だ疑問ではある。

 

 自分が感じている発達障害者の特徴として、「概念が入りにくい」がある。気持ちが想像できないや情緒がズレているのとも関係があるのだが、通念や常識が獲得しにくい。これは模倣の下手さに関係があるのだろうと思う。模倣が下手といっても、人によって何の模倣が苦手かは差があるのだが、自分の場合は「人の真似」全体が苦手だ。だから大抵のことを「自分で工夫する」羽目になった。アイディアは他人を見て得る。しかし、それを自分がやる場合は自分のやり方でしかできない。

 人間という動物は生活や行動様式が非常に複雑で、大抵のことは後天的に学習しないとできない。放っておくと生存さえ危ない脆弱な生き物だ。教えなくても周囲を見て真似をして獲得することも多いのだが、アスペルガーの子供はこれが苦手な場合がある。集団に入った時、一人だけズレた行動を取ることが多いのはそのせいだろう。「どうしてそれをやるのか」が理解できないと行動もできない。狐にでもつままれたようにキョトンとしてしまうのだ。

 恋愛に対しても同じじゃないかと思う。自分が恋愛が分からないと感じるのも、世間並のステレオタイプな行動様式を自分が取りたいと思わないし、できないからだろう。概念には定義が必要で、定義はつじつまが合ってないと意味をなさない。周囲の人に聞いてみても答えがバラバラでは、自分で考えて定義するしかなくなる。

 

 「概念が入りにくい」と言う理由は、考え方を真似することができないからだ。まず、意味が分からないと記憶に留めることも難しい。引っかかって強い反発を感じたりすれば、そっちの方向で記憶に残ることはある。しかし反発があるから、その通りにはしない。「納得がいかない」ことにはアスペルガーは非常に頑固だ。そう思ってもいないのに振る舞うことは拷問のようにつらい作業だ。我慢しているとストレス障害で体調までおかしくなる。

 だから長いこと考える。なるほどと思えるまで考える。その間、怒られたくないから表面的には指示に従ってはいる。しかし、それは非常にストレスが強い状態だ。そのストレスから解放されたいがために、納得できるまで考える。考えることが多いから時間がかかる。一度納得すると、思い込みが強いからそれに執着し、変更がきかない。

 子供は誰でも頭の中が「?」でいっぱいだろうが、自分の場合はあらゆることに引っかかっていた。「そういうものだ」と思うことが出来ないから、「なぜ夜、寝なければいけないのか」「なぜ風呂に入らないといけないのか」「なぜご飯を食べないといけないのか」といった具合に、何にでも疑問を感じていた。納得しないと進んで行動できない。嫌々やっている状態だとストレスが強い。

 「ご飯を食べるのは腹が空くから」と、すぐ理解できた。が、空腹感をあまり感じることがなかった自分は、その結論だと「じゃあ、腹が減らない限り食べなくて良い」と考えた。だから子供の頃から一日三食は食べない。今でも規則正しい食事習慣はなくて、「腹が減ったら食べる」。

 「夜寝るのは眠くなるから」が普通なのだが、自分は幼少時から入眠障害があって寝付けない。眠くなることがあまりない。ここでもまた「眠くないなら寝なくて良い」と開き直り、布団に潜っても延々と本を読んでいた。結果、朝は起きられない。これらは概念の話ではないのだが、体感が人と違うから(おそらく体内時計のサイクルが人より12時間長い)「そういうものだ」と言われても納得がいかない。結果、非常にひねくれた子供に見えただろう。ひねくれているでも良いのだが、ピンと来ないものは徹底してピンと来ないし、無理にそう信じ込むこともできない。

 

 恋愛というのが何か、自分はまったく分かっていない。昔から性欲の言い替えだろう、くらいに思っていた。しかし、他人に執着することがないわけではない。それを自分は執着と呼んでいたが、愛着のほうが聞こえは良いかも知れない。この愛着は相当に強くて、ベタに言えば「相手のことがものすごく好き」な状態だが、好きさ加減が半端ないので相手には迷惑がられる。しかも性欲ベースではないので、相手の性別は関係ない。おそらく一般の人なら「恋人にしかしないような態度」を友達に取る。

 一方で性欲ベースとなると相手の性別でまずふるい分けをするから、愛着の対象にはなり得ない。「条件付きの執着」となる。ちょうど仲間みたいな感じで、一緒に虫取りをする仲間や、サッカー好きな仲間と同じで、「セックスをする仲間」と思っている気がする。だからあまり執着もしない。いなくなるならいなくなるでまあいいや、代わりを探そう、みたいなノリだ。

 だったらセックスをする相手と愛着を感じる友達が同一人物なら恋愛じゃないか、と言われたらその通り。実際、そういう関係も経験している。が、やっぱりちょっと違う。独占欲が全然湧かなかったり、相手の私生活に全然興味がなかったりする。目の前にいない友達が今、何をしているかをいちいち気にする人はあまりいない。目の前にいるとき楽しく過ごせるかが問題で、それ以外の時間はどこで何をやっていようが干渉しないだろう。それと同じなのだ。友達感覚だから自由であり、相手を拘束はしない。ただ自分にどれだけ時間を使ってくれるかは気にする。その要求も高くはないから、せいぜい週に1~2回会うとか、1~2度電話で話すとかになる。四六時中一緒にいたいとは思わない。やっぱりどこか「フィクション中に描かれているステレオタイプな恋愛」とは違う気がする。

 じゃあ「ステレオタイプな恋愛行動」ができるのかと言われれば、そんなことをしたいと思わないから全然できない。つまり「納得しないと行動できない」頑固さがここでも発揮される。相手がそれを望んでいる、というのには合わせられない。自分がしたいかしたくないかでしか行動できない。多少は我慢して合わせることができるが、ストレスが強いから我慢の限界が早い。

 

 どうも自分は「恋愛に興味のないアスペルガー」のようだ。しかし、濃密な人間関係を望んでいないわけでもない。自分は友人・友達・友情・友愛の意味を把握している。アリストテレスの定義に従うからだ。結構信頼してる。恋愛に関してもアリストテレスに登場願おう。

 

 「いないときに相手を慕い、その人が自分のそばにいることを欲してやまぬ場合にのみ恋愛しているのである。」byアリストテレス

 

 これは分かりやすい。しかし、これはいわゆる「思慕」の感情だ。これでは友人に対しても恋愛していることになりかねない。そこはアリストテレス的には問題ない。何故ならピリアー(友愛)も恋愛の内に入れてるだろうから。

 「いないとき」とは四六時中だろうか。「いつも一緒にいたいと望む」のが恋愛と言うなら、自分はそれを望んだことはない。一日に何時間かは一人でいたいし、丸二日一緒にいたら三日目には離れたい。依存が起きて、いると邪魔だけどいないと空虚さを感じるといった経験はあるが、あまり芳しくない精神状態に思える。

 目の前に相手がいない時にも相手のことを考えるとか、会いたいと思う程度なら、自分は愛着の対象に「恋愛していた」ことになる。馬鹿みたいに長い手紙を書いたりもした。結局、アリストテレス先生の定義では恋愛と友愛の区別はつかない。そのサンプルがこちら。

 

 「愛とは、二つの肉体に宿る一つの魂で形作られる。」byアリストテレス

 

 魂とは何なのかが問題だが、「精神」だとするとなかなかハードルが高い。魂を共有する相手しか恋人じゃないと言われたら、殆どすべての人がここから除外されるだろう。が、アリストテレス先生がこう言い切ってしまう理由は自分には理解できる。完全な相互理解と対等な価値。アリストテレス先生がここで言ってるのは友愛だ。というわけで定義の追求は頓挫。

 (長くなるので詳しくは書かないが、2つ目の言葉はプラトンの提唱した、二人の人間がくっついて一体だった神話に基づいていると思われるので、そんな太古の人間はいなかったと知っている現代人にはあまり意味を持たないことを申し添えておく。)

 

 上の記事で「アスペルガーとの恋愛」のアドバイスがあるが、ピンと来ない。アスペルガーとの恋愛や夫婦生活でよく問題になるのがカサンドラ症候群だ。カッサンドラーとはトロイヤ戦争時のトロイヤの王女で、アポローンから予言の力を授かると同時に「誰もその予言を信じない」呪いを受けた。カサンドラ症候群とは「情緒的な相互関係を形成できないため生じる数々の身体・精神の不調」の総称で、正式な病名ではない。ウィキペディアには、

 「アスペルガー症候群の伴侶を持った配偶者は、コミュニケーションがうまくいかず、わかってもらえないことから自信を失ってしまう。また、世間的には問題なく見えるアスペルガーの伴侶への不満を口にしても、人々から信じてもらえない。その葛藤から精神的、身体的苦痛が生じる。」

と説明されている。こう書かれるとアスペルガーが随分と邪悪なもののように感じるが、カサンドラ症候群に陥る人は他人への期待値が高く、過剰に承認欲求が高いのだろう。すべてのアスペルガーを伴侶に持つ人が陥るわけではなく、組み合わせが悪い場合に陥るのだから相手を変えたら良いと思う。

 

 アスペルガーの人はそれなりに理詰めできちんと説明しないと理解ができない。行間を読むだの察するなどいう機能は持ち合わせていない。理解できないことを納得することはない。こだわりが強く頑固な側面もあるが、理屈が通ってしまうと情緒に固執しないから素直に納得することも多い。もちろん「言い負けて悔しい」という感情が沸かないわけではないのだが、それは不満にはならない。

 自分の場合、自分の様式(方法論や手順)に固執する。1つ1つのことに理由があるし、そこに辿り着くまで試行錯誤もしている。自分が知っている「最も合理的なやり方」だから正しいと思っている。だから相手もそう行動することを期待はする。しかし、「そのやり方は自分には合わない」と言われればそういうものかと思う。何故なら、他人のやり方に自分は決して合わせられないからだ。こういう風に相互理解というか相互不干渉が成り立っていけば、衝突する場面は少なくなる。それには説得と納得のための長い時間が必要になるし、それなりの根気が必要ではあるのだが、納得して折り合いがついてしまうと、その問題では2度ともめないくらい完全なものになる。

 しかし、これだとアスペルガーが女性で伴侶が男性の場合はまだしも、その逆だと不満が大きい気がする。過剰な共感や同調、情緒的なふれあい、予想外なサプライズとか、言葉にしなくても察してもらえる気持ちだとか、そういうものを期待する人はアスペルガーとつき合わないほうが良い。決まり切ったサイクル、変化の少ない安定した生活、適度な距離を取った各々の時間といったものを求める人には、これほどピッタリな相手はいない。

 

 そして何でも決め事を作っていくと良い。誰にでも得手不得手があるから、得意なほうが担当する。合理的判断というのがアスペルガーは好きだ。やり方が気に入らないと言われたら「自分でやれ」と言って良い。自分でやったら納得する。そうしたらそこで担当が決まる。「それにこだわる人がそれをやる」のが合理的だ。

 たとえばゴミ出し。分別にこだわる人がいる。自分がそれだ。分別にこだわりがあるから、いい加減なのは我慢できない。だからゴミをまとめるのは自分の担当になった。でも、やりたくない時もある。そういう場合は相手がやるのだが、そのやり方はとても気に入らない。「気に入らないなら自分でやれ」と言われるとグウの音も出ない。だから、こだわりが強いことには手を出されないように、先回りして自分がやる。やりたくない時はガン無視して、まとめたゴミを絶対見ない。見ると気分が悪くなるからだ。という具合に「折り合いをつける」。

 だから「決め事」と言っても、分担を決めたら絶対守るというわけではない。誰だってそうだろうが、自分が調子が悪くてできないのに「お前の仕事だろ」と言われたら腹が立つ。這ってでもやれと言うのかよ、とムカムカする。相手がやらない事は責めてはいけない。「やらない事を責めない・できない事を責めない・やってる事を邪魔しない」を守ると共同生活は上手く行く。

 「絶対に手を出さない」領域は決めたほうが良い。相手が強いこだわりを持っていて、触られたくないと思っている物とか作業だ。そこは徹底して手を出さない。アスペルガーがストレスを感じるのは、他人に合わせることだ。放っておかれる分には不満はない。(不満を言うアスペルガーは叱りつけて良い。)お互いの部屋を決めて立ち入らないとか、相手に干渉しない「協定」のような関係が作れれば、双方が快適に過ごせるのではないか。とはいえ、これじゃ友達同士の共同生活みたいで、夫婦の有り様とは思えないかも知れない。だから、そういうのを望む人はアスペルガーを避けたほうが良い。

 

 自分の場合、共感や情緒的な交わりがまったくできないわけではない。人にもよるのだろうが、共感をまったく必要としないわけではないし、共感がまったくないわけでもない。ただし、それは「言語によって明確に示される」必要がある。そうじゃないと共感を得たとは認識しない。それも「うんうん、わかる」という表面的な言葉では信用できないから、どのように相手が感じているのかをインタビューした上で評価する。そうでない限り「言ってるだけ」と見なす。相手が言った内容がズレていれば共感は成り立っていないと見なす。だから、相手の言ってることに自分が共感する場面は多少あるのだが、相手が自分に共感していると感じることは少ない。

 逆に、アスペルガーから共感を引き出そうとする場合、いくらしつこく言っても無駄である。適当に口先だけ合わせることはほぼないし、そう思わないのにそう思うと言うこともできない。情緒は決して説明できない。自分の述べた「意見」に対し、「同意できる部分はあるか?反対する部分はあるか?」を確認し、同意を得られた部分で納得するしかない。「誰々さん、酷いと思わない?」といった情緒的共感を求めたい場合、「どの行為が酷いと思うのか」を相手に伝える必要がある。自分の価値観はそぎ落として、事実のみを伝える。相手が「その行為は酷いとは言えない」と答えたら、それ以上は言っても無駄だ。次にできることは「自分の立場はこうである」を感情論ではなく状況で説明すること。そこで同意してくれる場合もあるが、あまり期待はできない。共感的理解能力は人によって差が大きい。「だったらつき合わなきゃ良いだろう」とサラっと言われて終わる。それに言い返すのも無駄だ。

 そもそもこういう共感を求めることが間違いなのだ。その機能はついていない。アンドロイドみたいなものと思って扱うと腹も立たないかも知れない。自分はアンドロイドみたいなものだな、と感じる時は多々ある。共感も同調もなく、ただ機械的に物事を処理している気分になる。その間、自分の情緒はまったく動いていない。ただ、データベースから「この場合はどう対処するか」を探し出し、そう行動しているに過ぎない。

 

 アスペルガーとのコミュニケーションでは、「指示は具体的に」「表現は的確に(曖昧な表現は理解できないか誤解を与える)」「論理的に順を追って説明する」と上手く行く。積極奇異型なら相手は受動的な人が相性が良いし、受動型なら働きかけが好きな人が良い。孤立型なら孤立型が良い。できるだけ興味関心が重なると良い。(一緒に話せる話題が増える。)過干渉な人、相手を自分の思い通りに動かさないと気が済まない人、依頼心が強い人は向いていない。過剰な感情表現を期待すると不満が強くなる。

 だからアスペルガーの男性と定型の女性の組み合わせはなかなか難しく、カサンドラ症候群に陥ることもある。逆に定型の男性とアスペルガーの女性の組み合わせだと、男性側が恋愛脳でなければ問題が生じにくいかも知れない。男性のタイプにもよるのだが、過剰な共感を求めたりしないし、過剰な期待もしないだろう。この組み合わせでは、生活上の能力の凹みが問題となることはあるだろうが、逆の組み合わせより上手くいく率は高い気がする。

XジェンダーとFTMの違い

 質問のほうは今回スルーだが、ベストアンサーがなかなか考えさせられるので考察してみたい。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

FTMとFTXはまったくの別物

 自分は性別違和で性自認は男性。そのため自分ではXジェンダーという自覚はない。とはいえ未治療の身体の性別は生まれた時の状態だから、周囲から見るとそう見えるのだろうと考えていた。しかし、そうではなかったようだ。FTMとFTXには明確な違いがある。

 今まで、FTMMTFとXジェンダーの違いを性規範の受容という視点で考えたことがなかったが、性規範へのこだわりは(肯定・否定両方あるが)かなり強い。既存の規範への強い反発がある一方で、自分が持つ規範への強い執着がある。自分と関係ない性別である女性には「こういう傾向がありがち」程度の認識と、自分が押しつけられてきた規範の知識があるだけで、規範は持っていない。どういう女性でも本人が女性と認識する限り(それがMTFでも)、女性と見なすし、女性として扱う。一方で、男性への規範はこだわりが炸裂する。自分がそうありたい姿と、自分の好みのタイプの両方が混じり合い、その評価はいつでも激辛だった。

 既存の性規範に対する反発(それを容認すると自分が生きにくいから)から、自分の立場はジェンダーフリーに近い。そこだけ見ればXジェンダーの主張と重なる点は多い。しかし、自分の性別に強いこだわりを持っていて、自分の中での規範を捨てようとは思わない。性別にこだわらない人からしたら偏執的だと思う。社会規範の性別とはだいぶ違うが、自分の性別イメージはかなり強く、明確なのだ。

 自分は自己流に再解釈した性規範に従っていて、性規範自体を完全に消滅させようとは望んでいないのかも知れない。つまり性規範を受け入れている部分があるのだ。Xジェンダーが性規範に自分を適合しようとしないのだとしたら、自分とは明かに違う。自分は内面的性別と社会的性別が不一致なだけなのだ。

 

◎身体への嫌悪が強い

 上の記事で感心したのは、性自認と社会的性別を重視する一方、生物学的性別を軽視する傾向への指摘だ。自分の場合はまさにそうで、自分が性別を語る時に主に問題とするのは自分の内面的性差文化と社会規範となっている性差文化だけだ。肉体的性別の事はあまり話題にしない。言っても仕方がないからもあるが、身体への嫌悪は多分にある。だから身体の性別を極端に軽んじる。

 前に「身体違和は少ない」と書いたのだが、是が非でも性別適合手術を望む人に比べたら少ないという話で、実際には醜形恐怖に似た嫌悪感が結構ある。子供の頃から写真を撮られるのが大嫌いで、人間と似た姿をした人形やサルのオモチャが苦手だ。この醜形恐怖は自分の身体への嫌悪が原因かも知れない。もちろん人間の姿が「不格好」と感じるのも理由の1つなのだが、自分の性別を自覚しなければいけなかった中学以降は、性別への嫌悪も強く混じっているように思う。

 

◎願望と自認は別問題

 しかしこの回答がすべて正しいわけではないだろう。性規範にどれだけ自分を合わせるかはFTMMTFでも個人差がある。必ずしもSRSを希望するとも限らない。Xジェンダーが身体的違和を全員、まったく持ってないわけでもないだろう。そこも人によって差が出る。

 特に、無性化願望とXジェンダーの絡め方には引っかかりを感じる。Xジェンダーにも無性・両性・中間性とタイプ別のセルフイメージがあるだろうし、それらがどれも「身体への執着」なのかは自分には分からない。しかし、個々人のイメージに従っているなら性別二元論の埒外にいるとは言える。

 

 「願望」で言えば、自分は両性具有というイメージが好きだ。それを知ったのはギリシア神話あたりで、中学の頃だった。ギリシア神話の場合は「ふたなり」のイメージそのままだ。半身ずつ性別が違うアシュラ男爵やインド神話のシヴァとパールヴァティの合体神(アルダーナリシュヴァラと呼ぶ)とは別で、女性の乳房を持ち、男性の生殖器を持つ。おそらく女性の生殖器も持っている。ヘルマプロディートスもしくはアンドロギュノスと呼ばれるが、アンドロギュノスは男女がくっついた球体の体で表現されるので、現在の両性具有のイメージはヘルマプロディートスだろう。ヘルマプロディートスもアルダーナリシュヴァラも神話的イメージだ。

 こういったイメージの遊戯は誰でもあるだろうと思う。しかしそれをもって自らの性別とはしないし、現実に生活する上でそれを再現しようとはしない。しかし無性の人がアセクシャルだった場合、少々事情は違うかも知れない。アセクシャルの人は性行為をしない。アセクシャル・アロマンティックとなると恋愛もしないから、無性でいることが現実的に楽だ。ジェンダー性的志向は完全に別問題なのだが、生活上はそれぞれの影響を避けられない。たとえば自分のように男性を性的対象とする場合、表面的に女性に見せかけておくのは極めて有利となる。性行為は若い時には比重の大きい問題だから、有利になるようにファッションも妥協する。

 

◎Xジェンダーは第3の性か? 

  「第3の性」という言い方があるが定義は曖昧であり、ただの言い回しに過ぎない。インドのヒジュラーがそう呼ばれることが多い。ヒジュラーとは半陰陽・両性具有の意味だが、実際にはMTFや女装した男性同性愛者。男性器をかなり乱暴な方法で切除していたりもする。稀に自然に両性の特徴を持つ人も混じっているらしいが、当然、数は圧倒的に少ない。生業は舞踏・演奏、新生児の祝福や売春。この場合、「男性とも女性とも言えない人」というより、元は男性で現在は女性として暮らしている人達だ。似たような存在(元が男性で女性として暮らす)ではメキシコのムシェもある。

 性分化疾患インターセックスDSD)に言及すると、彼ら・彼女らは「第3の性」を自認しない場合が多い。ジェンダーは男性か女性のどちらかが殆どだ。ヒジュラーやムシェも女性として暮らしていて、身体的特徴から完全な女性ではないと見なされるだけだ。そういう意味ではどのケースも「第3の性」と呼ぶにはふさわしくない。

 

 ジェンダーにおいて「男でも女でもない」と「男であり女である」の意味はとても離れている。「男でも女でもない」人は男性・女性のどちらの規範も受け入れない。「男であり女である」人は両方の規範を受け入れ、自分の中でミックスしている。このミックス状態を自分はクィア性と認識している。両性を兼ね備えるという形で、この人達もまた性規範の一部に属している。

 一方で「どちらでもない」人達は既存の性規範を完全に無視するのだろう。アンドロギュノスは両性具有なのだから、語義的には「男でも女でもある」人達に冠されるべきだ。どちらでもない無性の人はそれとは違う。

 

FTMMTFは「第3の性」ではない

 Xジェンダーが明示的に男性・女性のどちらでもないとするのに対し、FTMMTFは明確な性自認を持つ。つまり男性か女性かどちらかだ。それ故、TG(トランスジェンダー)を「第3の性」と呼ぶのは間違いだ。「第3の性」と呼んで良いのは、本人が「第3の性」を自認している人のことだけで、つまり自分を男性でも女性でもないと認識していたり、両方もしくは中間だからどちらかで呼ばれたくないという人達だ。

 同じ問題は性分化疾患で顕著だ。肉体的に定型ではないとしても、ジェンダーは男性か女性どちらかなので、ジェンダーに応じて扱われる必要がある。FTMMTFも肉体的には非定型となるがジェンダーは明確だ。それを勝手に「第3の性」と呼ぶのは失礼極まりない。

 どういうことかと言うと、たとえば事故や病気で性器の一部を欠損した人がいるとする。男性なら睾丸や陰茎で、見た目でハッキリ分かってしまう。その人に向かって「あなたは陰茎がないから男ではない」と言えるだろうか? その人は生まれた時から男で、不幸にして事故か病気で体の一部を失った。それを「もはや、お前は男じゃない」と言うのは残酷ではないのか?

 それと同じことなのだ。理由は色々だが、何らかの事情で男性器が欠損している男性がこの世にはいる。その一部は事故や病気、一部はTGだ。TGの一部は男性器がないことに劣等感を抱いている。そこをえぐるような言葉を投げつけるとしたら、それはただの暴言に過ぎない。少なくとも自分は「第3の性」などと呼ばれたくはない。

自閉症スペクトラムの世界

 明日まで自閉症啓発週間らしい。4月2日にはイベントも色々行われた。その事に不平を言っている当事者も見かけたが(一日限りのイベントなど何の意味もない等)、それはあまりに弱すぎる愚痴だ。これが最初の一歩となって存在を知ってくれる人もいるだろうし、青いライトが何のことか今回知ることがなくても、いつか「ああ、あれか」と気づく人もいるかも知れない。啓発とはそういうことを指すのであって、日々の支援に直結する話ではない。


 この記事、感覚過敏をしっかり宣伝してくれていて嬉しい。自分のような軽度のアスペルガーだと感覚過敏からくる困り事の比重が大きい。

 

www.huffingtonpost.jp

 

◎聴覚過敏

 小学校時代、運動会のピストルの音が苦手で、両耳を手で押さえていた。しかし自分が走る番だと押さえられない。その瞬間、「色が見える」。目の前に稲光のような白い光が筋状に走り、しばらく視野がおかしくなる。かなりのショックだ。子供の頃、どうして皆がこれほどショックを受けるピストルで合図をするのだろうと不思議でならなかった。

 運動会と無縁になってからピストルの音は聞かずに済むようになったが、不意をつかれて咳をされても似たような現象が起きる。目の前に白っぽい光が炸裂するのだ。意外とクシャミは平気。クシャミのほうが音は大きいが、破裂音が咳のほうが多く含まれるせいだろう。これは他人と暮らしていると避けようがない。

 自分の場合、破裂音が最も苦手な音で、逆に多くの人が嫌う「黒板やガラスを爪で引っ掻く音」にはそれほど嫌悪感がない。嫌な音ではあるが、普通に嫌な音でしかない。ショックを受けるのは破裂音。だから犬の吠える声も苦手。犬は好きだが、飼うのは難しい。それに次いで苦手なのはモーター音。音質が似てるのか赤ん坊の泣き声も大の苦手だ。(幼児など年齢が上がると反比例して苦痛は下がる。)口を鳴らす音。(楊枝を使ってチッチッとやるあの音。)だから掃除機もかけられないし、ラーメンやソバをすすって食べる事も出来ず極度の猫舌。

 たかが聴覚が過敏なくらいなら音さえ避ければ大丈夫だろうと思われるかも知れないが、音から来るストレスがかかっている状態で他の作業をしていると、両方からのストレスでパニックを起こしやすくなる。判断力が落ち、ミスをしやすい。

 

◎触覚
 触られただけで痛いように感じる時があって、不意を突かれるた時が特にきつい。反射的に手でこすってしまうので大袈裟と言われて、そうならないように軽く払うようにしたが、まるで触られて汚いと思ってるみたいで、それはそれで不快だろうと思う。しかし、自分で触って感覚を消さないと結構長い時間、弱い痛みに似た感覚が残ってしまう。
 

◎味覚

 居残り給食という拷問を小学校時代に受けた。何故あんなことをするんだろう。無理に食べさせても吐くだけなのに。(実際吐いたことがある。)食べ物の好き嫌いをなくすことに何の意味があるのだろうか。自分は物凄い偏食だが、体は丈夫なほうだ。足りない栄養素は他の食べ物で補うから問題はない。
 自分は好き嫌いが激しく、普段の食生活はベジタリアンに近い。成人するちょっと前まで肉は殆ど食べられなかった。見た目が駄目で食わず嫌いなものも多かった。食わず嫌いと言うと軽く見られがちだが、無理して口に入れると吐く。気持ち悪いという思い込みが吐き気中枢を刺激してしまう。

 肉が食べられるようになったきっかけは、学生時代のまかないつきのバイトだった。あまりに腹が減った状態で、しかしおかずは肉系が多い。どうしようもなくて食べた。(おかずを食べずご飯だけだと足りなかった。)そうこうしてるうちに、美味しいとは思わないが反射で吐かなくはなった。が、こういう荒療治は他人から強いられたらトラウマになるし、食べられるようにもならない。自発的にやるから効果があるのだ。

 今では豚肉は食べられないが(匂いだけで駄目)、牛肉と鶏肉は食べられる。魚もだいたい食べられる。苦手な人が多い青魚も、調理法にはよるが食べられるし、子供の頃まったく駄目だった魚卵類もほぼ食べられるようになったが、こうなるまでには長い時間がかかった。子供に無理強いするのは逆効果だ。放っておいても本人が何とかする。偏食で体を壊すことは滅多にない。

 

 もう1つ挙げれば、自分は就職するまでコーヒーがまったく飲めなかった。小学校時代、大人びたことをしたくてインスタントコーヒーを作って飲んでみたのだが、苦くてとても飲めなかった。砂糖と粉末コーヒーミルクをいくら入れても駄目。まさに「大人の味」だ。自分は概して「大人の味」が苦手だ。辛いもの、苦いもの、酸っぱいもの。梅干しも食べられなかったし、レモンも食べられなかった。

 これは味覚が非常に敏感なせいだろうと思う。食べ物商売だった父親は結構食い道楽だった。(ちょっとゲテモノっぽいものも好きだった。ゲテモノまで言ってしまっては好きな方に失礼なのだが、自分からしたらゲテモノに思える。ホルモンや豚足が大好物。自分は今でも食べられないが。)父親の食い道楽で助けられたことは多い。美味しいものを食べられたからだ。作るものも(ゲテモノ以外は)、母親の酷い料理よりずっと食べるのが楽だった。母親の料理はいわゆる家庭料理というか田舎料理というか、苦手だった。はっきり言って不味い。

 世のお母様方は、子供が好き嫌いが激しいなら、自分の料理の味を疑ってみたら良いと思う。不味いものを食べさせられるのは苦痛でしかない。舌が肥えた子供ほど苦痛は大きい。発達の子供は「食えないほど不味い」の閾値が低いのだ。贅沢なのでもなんでもない。自分が給食が食えなかったのも「不味すぎるから」だ。「この食材は不味い」と学習してしまうと他の料理でも食べられなくなる。大人になって食べられるものが増えた理由は、美味しい調理法を知ったからだ。自分の作るものが美味しく感じるのは、味覚が自分の好みに合っているから。

 

 好き嫌いの原因となるのは味覚だけではなく、「口の中の感覚が敏感」でもある。自分はガリっとしたものが苦手で、感触を感じた途端に反射で吐く。卵の殻、エビやカニの殻、魚の小骨などだ。そのためサクラエビが食べられないし、沢ガニ・川エビも駄目。子供の頃はプチプチした感触も駄目で魚卵が食べられなかった。「たかがそれくらいで大袈裟だ」という言葉は禁物だ。どれほどの感触を感じていて、それがどれだけ苦痛かは人によってまったく違う。

 また、視覚から入る情報でも不快感は増大する。自分は「汚い古布」が視野に入っていると食事ができなかった。汚い古布とは汚れたふきんだったり、古い布の端切れだったり、他人が着ている古びて薄汚れた服だったり。他にも薄汚れたり曇った食器に入っているものは食べられない。この「汚い古布」はトラウマと化しているようで、古布を食べて気持ち悪くなる夢を繰り返し見る。

 

◎視覚
 視覚は光だけではない。色の好みも障害で左右される。自分が青と黒を最も好きな色としてるのは、好みの問題だけではない。どんな体調でも着れる、どんな時でも見て苦痛がない色だからだ。色の好みが障害に影響されていると気づいたのはごく最近だ。

 調子が悪い時に苦手な色が視界に入るのは相当に苦痛だ。自分の場合、それは暖色系で、特にオレンジ・ピンク・黄色が苦手。調子が悪いとき(過敏性が強く出ているとき)は視界に入らないように工夫する。調子が良いと赤は割と好きで、着ることもある。

 一方で寒色系はどんな時でも気にならない。白っぽいと駄目なのだが、濃い色・暗めな色なら大丈夫だ。寒色系と思われがちな緑や茶色は、実は意外と刺激がある。逆に紫は刺激がない。結果、自分のワードローブは黒・青・紫・濃いグレーで埋め尽くされている。

 

◎嗅覚

 すべての感覚が過敏なわけではない。自分の場合、嗅覚と「自分の体がどれくらいのサイズか分からない」で鈍磨がある。だからあちこちぶつけることが多く、動くときは細心の注意を払う。注意してないとすぐぶつけるのだ。他に気を取られたとき、うっかりぶつけるのは誰にでもあるだろうが、この「うっかり」が非常に多い。だから動作をするときは動作に集中しないと危ない。結果、やたら用心深い人間になった。

 嗅覚は以前も書いたが腐った匂いに鈍感で、ウンコ臭にも鈍い。猫がそのへんにウンコをしていても気づかず踏んづけたり、布団などにされても気づかず日にちが経ってから干からびた状態で発見したりする。臭覚全体が鈍いわけではないのだが(苦手な匂いには敏感)、特に腐敗臭とウンコ臭には鈍い。おそらくガス漏れにも気づきにくいだろう。自分が気づく異臭は相当強烈なものだけだ。

 だから衛生を保つのは結構大変で、自分が臭いということにも気づきにくい。電子レンジの中で置き忘れた鶏肉が腐っていたこともあるが、これもまったく気づかず開けてビックリだった。一方で、蒸れた匂いは苦手で、蒸れ臭いものは食べられない。酸っぱい系の匂いも苦手。(味も苦手。)上京したての頃は、電車の中で鼻にハンカチを当てていることが多かった。

 

 ここからは五感とは少し違うが、自閉症スペクトラムの人が苦手なことをまとめておく。サンプル=自分なので、これで網羅できているわけではないだろうし、同じ現象がない人もいるだろう。自閉症スペクトラムの人には一定の傾向はあるが、一人一人がかなり違うことも覚えて欲しい。

 

◎人と目を合わせられない

 感覚過敏のせいなのかは分からないが、視線を合わせるのは苦手だ。しかしそれは人から批判されやすい。「人の目を見て話せ」など怒られる。目を合わせると今度はいつ逸らして良いか分からない。ジッと目を見続けて苦痛を感じる。結果、視線恐怖症になった。

 自閉症の人の中には目をジッと見てきて視線を決して逸らさない人もいる。あれは一度見てしまうと視線を逸らせなくなるからだろう。本人に苦痛がないならそれでも良いのだが、自閉症スペクトラムの全員が視線を合わせられないわけではない。ただ、視線を合わせられない人のほうが多い。

 

◎髪や頭を触られるのが苦手

 子供の頃から頭を触られたり撫でられるのが苦痛。手を払い除けることが多かった。そのため小さい頃は「可愛げのない子供」と言われ続けた。可愛げがないのはそのせいだけではないのだが、子供が取ると非常に生意気な態度だろうと思う。しかし、他人様の頭を安易に触るのは失礼ではないのか。タイ国では子供の頭を触ると親に怒られるそうだ。(子供の頭は精霊が宿る神聖な場所とされるため。)

 髪を触られるのも苦手だから、中学から床屋に行かず自分で髪を切った。当然、恋人同士のイチャイチャで髪を触られることも苦痛。頭を押さえつけられるのも苦痛。理解ある恋人と付き合わないと危険だ。

 ついでに言うと、体をベタベタ触られるのも苦手なので、イチャイチャはかなりハードルが高かった。性行為で接触するのは良いのだが、それ以外は「触んじゃねーよ」になる。自分の中では接触=性行為という紐付けが出来ているので、相手が行為に及ばないと怒る結果にもなる。意味なく触ってはいけない。

 

◎予定変更が苦手

 臨機応変が出来ないから予定の変更はかなりきつい。仕方のない事も多いので対応はするが、ストレスは想像以上に強い。

 具体的な例を挙げると、食べようと思って出かけた店が定休日であるなど。仕方がない事ではあるのだが、じゃあ代わりに何をとなると何も思いつかない。結果、何も食べずに帰宅したりもする。人と一緒にいると、相手が「じゃあ××にしよう」と言ってくれるので良いのだが、独りだと決められない。こういう事がないように店の定休日をチェックしたり、第二候補を予め決めておくように心がけてはいるが、突発的に起きる時もある。食べようと思っていたメニューが終了なども同じカテゴリーだ。

 

 上の例などは凄く困るというほどではないのだが、凄く困るのは電話をかけて来た人が、「後でかける」と言って切る場合。急に電話をかけられるのも予定が狂うから対応が大変なのに、そこを頑張って対応していると切られる。そして、何分後かも分からない。他のことに切り替えるわけにも行かず待っている。また電話がかかってくる。続きを話す。ここまでは出来る。もう一度「あ、やっぱりまた後でかける」と切られると、こちらも本気で切れる。忙しいならかけてくるな、と言いたい。一度は対応できる。二度は無理。でも、怒ると自分のやった失礼な行為は棚に上げて「怒りっぽい」と言われる。

 この行為には2つの問題点が含まれる。1つには「何分後にかけ直す」という情報提供がない。いつまで待たされるのか分からない状態は自閉症スペクトラムの人にとってかなりの苦痛だ。何故なら、その状況・対応が「中断できない」からだ。これが2つ目の問題点だ。内部では継続していて、待ちの状態になっている。待つのは苦手なほうだが、ある程度は我慢もする。しかし「いつ再開されるのか」が分からないとストレスが強い。二重にストレスがかかっていることになる。

 「中断ができない」のは、中断すると再開することが困難だからだ。どうでも良くなってしまったり、興味を失ったりする。もう一度興味関心を向けるのが大変なのだ。しかし予定がはっきりしていると対応が可能な場合も多い。だから自閉症スペクトラムの人にはこまめに予定を伝えると良い。例えば、待たせる場合でも「ちょっと待っていて」ではなく、「5分待っていて」と言えば怒らない。5分以内に来ないとしても、多少は我慢できる。しかし、いつまで待てば良いのか分からない状態だとイライラが募りやすい。

 「的確な指示」は自閉症スペクトラムの人には非常に重要だ。曖昧な言い方では理解できないことが多いから、正確に伝える必要がある。そうすると本人のストレスは格段に少なくなる。「ちょっと黙ってて」ではなく「30分間、黙ってて」と言えば大人しく30分待つ。小さい子供でもない限り、怒ったりはしない。そして30分経つと堰を切ったようにしゃべり出す。その時には「よく我慢したね。えらい」と声をかけてあげて欲しい。(大人相手なら「ありがとう」。)努力して出来たことを褒められるのは好きだ。「出来て当たり前」と言わないで欲しい。本人はかなり我慢しているのだから。

 

◎主語の省略・指示代名詞に弱い

 話し言葉だと日本語は主語を省略できる。これに弱い。自分に向けて言っているのだから主語を「あなたは」で補完してしまう。その後に続く内容が批判的だった場合、自分が批判されたと理解する。その前の話の流れで主語が特定できる場合もあるのだが、出来ない場合もある。だから主語はできるだけ省略しないで欲しい。

 指示代名詞にも弱い。「それは」とか「あれは」といった言い回しだ。文脈である程度までは何を指しているのか分かるのだが、分からなくなる時もある。そこが分からないと文章全体の意味がまったく取れない。頭が真っ白になる感じだ。自分がこういう状態になってる場合、たいてい相手の文脈がおかしい。文字に書き起こして読み返してみたら分かる。こちらの能力、理解力の問題ではない。話し手の失敗なのだ。

 何故これが起きるのかと言うと、短期記憶力が抜群に良いからだ。頭の中でメモを取ってるくらいに正確に覚えている。だから文脈がおかしなことを言われると混乱する。だから、「その言い回しはおかしい。何故ならば、さっきこれこれと言ったのだから繋がらなくなるはずだ」となる。非常に理屈っぽく見える。が、理屈っぽいのではなくて臨機応変な対応力が低いのだ。正確な文章でしゃべるのは疲れるとは思うが、理解できなくなるので出来る範囲で気をつけて欲しい。

 こういった現象が起きるのは記憶力のせいばかりではない。何となく雰囲気で把握することが苦手なのだ。思ってもいないことを言ったり、適当に相づちすることもできない。生真面目・融通が利かないと言われる所以だ。言葉の不正確な使い方でも引っかかる。自分がよくやることなのだが、全体の主旨を取るよりも言い間違いで引っかかって全体の意味が理解できなくなる。1つの単語の使い間違いで意味を見失いがちだ。こちらの能力が低いというより話者の能力が低いから起きることなのだが、そこを責めはしない。しかし理解は困難になる。相手に分からせたいと思うのなら、より正確に話して欲しい。無理なら要点を紙に書いて渡そう。レジュメを元に説明されると非常に分かりやすい。

 

◎並列処理が苦手

 以上、思いつくままに書いてみたが、読んで「何だ、普通じゃん」と思われた方も多いと思う。そう、我々は普通なのだ。誰にでもあることが、他人に理解不能な形で表に出ているだけで、宇宙人でも異性物でもない。しかも、そこから受けるストレスはメチャメチャに強い。些細な事が些細でなくなる。それが「過敏」という世界なのだ。

 また「重なるとパニックを起こしやすい」点も覚えておいて欲しい。1つ1つなら対応可能な範囲でも、2つ3つ重なると対応できなくなる。誰にでもあることだが、自閉症スペクトラムの人は並列処理が苦手なため(シングルタスクとよく言われる)、2つの刺激に対処するときストレスが強くなる。それぞれのストレスを足した数ではなく、かけ算になってしまう。

 自分の場合、不快な刺激が2つまでは何とか我慢できるのだが、3つは無理だ。癇癪を起こしそうになったり、実際に起こす。それは実に些細なこと、ハエが頭の周りを飛び回ってうるさい+猫が鳴き続けてうるさい+パソコンの動作が重くて作業が中断されがち程度で切れる。ハエがうるさいで受けるストレスも通常人より強いし、猫がうるさいも同じ。そこに「作業がしばしば中断される」が加わるから限界を超える。

 こういった「切れやすさ」を責める人は、自分がどれだけ変動する出来事に対応できているのかを客観視して欲しい。たいしてできてやしないから。違いがあるとすれば、我々はスルー力が極端に低い点だろう。感覚過敏にスルー力は期待できない。自分の周囲で起きる諸々のことをまともに受け取ってしまい、ストレスを溜める。ストレス耐性が低いと言うより、ストレスが多いのだ。だから適応障害を起こす人が多い。

不倫は非難されるべきか?

 同じ記事からもう一点。不倫は非難されるべきか?

 「Yes」と言う人もいれば「No」と言う人もいるだろう。人それぞれと言いたいところだが、それでは話が終わってしまう。この問いは「不倫を赤の他人に非難される筋合いはあるのか?」だ。これについて自分の考えをまとめておく。

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

 そもそも「不倫」という言葉が気持ち悪い。いつ頃から使われ出したのか記憶が定かではないが、倫理は下半身のことだけではない、というか下半身はあまり関係ない。倫理の中でも性規範というのは微妙な問題が多く、時代によって非常に変化が激しい。そういう一時的な風潮で他人の下半身事情をとやかく論じ断罪するのはゲスの極みと言う他ない。冒頭で是非は人によると書いたのは、規範になりにくい極めて個人的なことだからだ。

 では不倫・浮気は良いのか悪いのか。自分にはそもそもモノガミー信仰がないから人とズレた意見しか言えないが、「関係者一同の合意があれば問題なし」と考える。ただし合意がきちんと成り立っているかはよく確認する必要がある。できれば覚書に捺印や署名を頂くと事後にトラブルが少ない。いざとなると手のひらを返す人は結構いるからだ。

 そんな面倒な手続きをするくらいなら複数交際なんかしない、というのが自分のスタンスだが、それは不倫・浮気が倫理的によろしくないからではなく、後で面倒なことになるからでしかない。

 

 では、世間でこれほど不倫がバッシングされるようになった理由は何だろうか。80年代にはこんな空気はなかった。モテて腹が立つというひがみから悪口を言う人はいたように思うが、男女共に二股あるいはそれ以上の複数交際は日常的に見られたし、それを知っても「ああ、そう」程度の薄い反応で、説教を始める奴は滅多にいなかった。自分の周囲だけかも知れないが。

 90年代になってもたいして変わらないのだが、ロマンティックラブ・イデオロギーが猛威を振るい始めるのはちょうどこの頃だ。その裏には「男の浮気は許せ、という風潮」に対する女性からの反発が大きかったように感じる。その主張は当然で、典型的な逆差別だ。「男の浮気はOKで、女の浮気はNG」というダブルスタンダードを解消する方法は2つ。「どっちも駄目」な窮屈な世界か、「どっちもOK」な世界か。人々は前者を選んだ。そして、関係者の合意があろうとも「不倫は社会が許さない」という同調圧力を作り出した。

 

 不倫が良いか悪いかの話ではない。それは状況によるとしか言えない。しかし、他人の下半身事情をこれほど監視される日本は息苦しくはないだろうか。日本は相互監視社会だ。それは支配層にとって都合が良い。規範から外れる者を民衆が勝手にリンチにかけてくれる。権力はそれに無関心を装えば済む。社会規範を盲信する、という態度は、つまりそういうことなのだ。

 そうして皆が苦しいのを我慢しているから、これほど他罰的な社会になる。不満を爆発させて誰かを叩ける機会を虎視眈々と狙っている。「みんなが苦しい社会」で人々は、「みんな我慢しているんだから!」とさらなる圧力をかけてくる。みんなが我慢する社会。それはどこかおかしくないだろうか?

若者は保守化したのか?

 この記事はなかなか面白く、同意できる部分もいくつかあった。このテーマは面白そうなので自分でも考察してみたくなった。

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

 田中氏の主張していることは概ね理解できる。自分はロック・マンガ・アニメ・映画といったサブカルチャーの最盛期に、それらを目一杯吸収して育った世代だ。ロックはいかした音楽で、PTAが眉をしかめるような本を乱読し、家族と一緒に見ると気恥ずかしくなるような映画をたっぷり見て、マンガやアニメの登場人物を自分の規範として育った。具体的な作品名を出すと年がバレるので書かないが、中高を通して正統派の純文学を読む一方でサブカル的な本も随分読んだ。

 80年代になると宝島社がサブカルチャーという仕掛けをする。マンガ雑誌『ガロ』もあった。(ガロ系と呼ばれたマンガ群はアックスに引き継がれ、現在はアックス系と呼ばれている。)90年代になるとマンガやアニメに留まらない、いわゆるアンダーグラウンド・カルチャーを巻き込んだ盛大なサブカルブームが到来する。その担い手は別冊宝島とガロ、その他のアングラ雑誌だった。今のような「サブカル=オタク」ではなかった。むしろサブカルとオタクは相容れなかったし、根本的なセンスが違っていた。

 

 しかしサブカルにコミットしていたのは一部である。マンガは誰でも読むし、アニメは誰でも見るが、サブカル的な視点を持つとは限らない。サブカル的視点を持たない若者からは、ただの大衆文化として消費され、一定の年齢になると「卒業」されてしまうものだった。ロック(主に洋楽の)を聴くのは少数派だったし、単館系映画など見に行ったこともないという人が多数派だろう。我々は少数派であり、決して多数派ではなかった。

 では多数派は何をしていたのかと言えば、ネットこそなかったが「文化の相対化」など発想すらない、半径の狭い世界で充足し、無知でものを考えない人々だった。ただ、我々の世代は大人への不信感・反発心というのが何となくあった。そこが今の若者との違いだろう。もう1つの違いは、サブカルにコミットしている層はメインカルチャーの知識が一通りあったことだ。そこが今のオタクとは違う。

 サブカルとオタクが別だったとは今からでは理解して貰えないだろうが、相互に「何となく嫌い」だった。オタクからすればサブカルはオシャレでスノッブで鼻持ちならない嫌みな奴らだったし、サブカルからすればオタクは物をピンポイントでしか知らないどことなく気持ち悪いノロマな奴らだった。対立というほどではないが、何か相容れないものを感じていた。

 サブカルチャーブームは2000年初頭に終焉を迎える。変わって台頭して来たのがオタクカルチャーだ。サブカルはオタクカルチャーに吸収されていく。しかし本来、サブカルチャーとオタクカルチャーは別物なのだ。(サブカルはマニアックだが、オタクは消費が重要なタームだ。)

 サブカルチャーとオタクカルチャーは何が違うのか。サブカルの視野は広い。アニメだけではなく、実写映画(主に洋画)を沢山見る。マンガだけではなく活字小説も沢山読む。アンダーグラウンド・カルチャーの情報を集める。宗教、精神世界、ドラッグ、ロック、SF、カルト映画、オカルトと、その守備範囲は非常に広かった。まるで競うかのように知識を増やす。マニアックであればあるほど格好良い。ソレを知ってることをどこか自慢にし、気取っていて自信家で、それでいて不真面目で自由気まま。そんな連中がサブカル人だった。世の中を舐めてるかの如くハスに見て、面白いことにばかりうつつを抜かす。こう書けば非常に嫌な連中だと伝わるだろうか。

 さらにアングラ・カルチャーの影響で「悪趣味を好む」傾向も強かったから、「嫌われ者」という自覚はサブカル人にはあった。上の記事中の表現を使えば「規範からズレた人」。悪趣味を好む理由は、やはり規範への反発・価値観の相対化であろう。ピンと来ない人にはとことんピンと来ない。それがサブカルだった。

  

 多数派は何をしていたのかというと、そういった膨大な知識の海に飛び込むことはなく、狭い半径の世界で充足していた。価値観の相対化も起こさないし、掘り下げて何かを考えるということもしない。それが大多数だった。社会規範を疑うこともなく、それに従っていた。それに疑問を投げかけると、「変人」「理屈っぽい」と言って嫌がられた。

 80~90年代というのは日本が最も景気が良かった時代だ。景気が良いと人々には余裕がある。他人が何をしていようが興味を向けない。政治を変えようとか、日本のことを考えるとか、そういう発想は多くの若者は持っていなかった。それはサブカル人も多数派のドメスティックな若者も同じだった。

 では、今と何が違うのか。そういった多数派には広く発信するツールがなかった。ミニコミ誌を作っていたのはサブカル的な人が多かった。多数派は「発信する」というアイディアもなかったし、手段もなかったし、欲求もなかっただろう。それがインターネットの登場で可能になった。つまり今、目に見える「保守的な若者」は当時も多数派で、潜在していただけなのだ。彼らは疑うことを知らないし、無知故に差別的で、文化的なことに興味がない。それはいつの時代にも多数派なのだ。

 だからタイトルの問いに対する答えは「No」となる。日本は元々保守的な国だ。おそらく教育水準が上がったためだろう。今くらい多くの人が人権問題に興味を持った時代はない。特に若者は、当時の自分達とは比べものにならないほど知識がある。それが多数派でないとしても、それを自分は頼もしく感じている。

 むしろ問題は、「ショックを与えるような表現物を子供の目から隠す」今の大人の態度だと考えている。そういったものが価値観を揺るがし、深く考えさせ、社会規範を疑わせるきっかけとなるからだ。